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中世のローマ教会とコンスタンティノープ教会。。。

勉強しているとその2つの教会が出てきたあとにギリシア正教会、ローマ・カトリック教会という教会がでてきます。

この4つの教会の流れ、関係を教えてください。頭がこんがらがっています(T_T)‘‘

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A 回答 (5件)

まず、キリスト教の大まかな歴史の流れを理解しましょう。


キリスト教は紀元前後にユダヤ教から分離成立した宗教です。
この時代、ヨーロッパ地方全土を支配下に置いていたのはローマ帝国です。
ローマは多神教の国であり、一神教を信奉するユダヤ人を理解できませんでした。
なので、ユダヤ教は異教として弾圧されていました。
そのユダヤ教からキリスト教が派生していくことになります。
で、長い長い弾圧の時代を生き抜いたキリスト教は、徐々にユダヤ人以外にも受け入れられていきます。
その辺りから年表にすると下記のようになります。

313年、ミラノ勅令によってキリスト教はローマ帝国でも正式な宗教として認められます。

325年、ニカイア宗教会議によって教義や聖書の見解を巡って争っていたのを、皇帝コンスタンティヌスの呼びかけた会議で統一しようと会議が行われます(ニカイア宗教会議)

375年、ローマ総司教座のダマスス1世が新約聖書のペテロについての表記から、ローマ司教こそペテロの後継者であるという「思想」を表明(他の司教座は反発)。以後、ローマ教会が自他共に「ローマ・カトリック教会」と名乗る

381年、コンスタンティノポリス宗教会議によってアタナシウス派の正当性の再確認と若干の教義修正→ニカイア信条

391年、テオドシウス帝がキリスト教をローマの国教とする

395年、テオドシウス帝死去によりローマ帝国が東西に分裂する

5世紀頃、イェルサレム・ローマ・コンスタンティノポリス・アレキサンドリア・アンティオキアの五本山の司教座の成立

480年、西ローマ帝国滅亡(東ローマ帝国は存続、ビザンティン帝国と呼ばれるように。その庇護のもとコンスタンティノポリス教会(ギリシア正教会)が主流に)

800年、カール大帝の戴冠(フランク王国と、ローマ・カトリック教会の結びつき=西ヨーロッパのカトリック化)

962年、オットー1世の戴冠、神聖ローマ帝国成立(≒西ローマ帝国復活)

1054年、ローマ・カトリック教会と他の教会との分裂(ローマ教会とコンスタンティノポリス教会を中心とした他の教会が互いに破門)→これ以降、ローマ教会をローマ・カトリック教会と、他の4本山を含むカトリック(と後にカトリックから分派するプロテスタント)以外を纏めて「正教会」と呼称される

1517年、マルティン・ルター『95ヶ条の論題』を掲出、以後ローマ・カトリック教会からプロテスタント諸派が分離成立していく

1965年、エキュメニズム運動の高まりの中、カトリック教会と正教会の相互破門を解き和解への道が開かれる


というのが、大まかな歴史の流れとなります。
つまり、聖書の記述から「ペテロの後継者」と「だから一番えらいんだ」という論理を解くローマ・カトリック教会に対し、その意見に反対した教会を「正教会」と呼称されるようになっていきます。
そして、コンスタンティノポリスが東ローマ(ビザンティウム帝国)のお膝元であったために、発言権が強く正教会のリーダー的存在でした。
コンスタンティノポリスにはギリシア人が多く住んでいたため、コンスタンティノポリス司教座を初めとしたギリシア人中心の正教会という意味で「ギリシア正教会」と言われるようになっていきます。
その後の広がりの中で、ギリシア人以外の正教会も成立(例・ロシア正教会・グルジア正教会・日本正教会etc,,,)していきます。(それらをひっくるめて言う時は東方正教会という呼称が使われます。)

ではでは、参考になれば幸いです。

p.s. 
ややこしいので割愛しましたが、重要なので一応書いておきます。
カトリックという言葉は「普遍」という概念を示す言葉で、別にローマ教会だけの専売特許ではありません。
ただ、ローマ教会側が自他共に「ローマ・カトリック教会」あるいは略して単に「カトリック教会」と呼ぶので自然と「カトリック派=ローマ・カトリック教会」と思われるようになりました。
以上、蛇足でした。
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この回答へのお礼

理解しました!ありがとうございました!

お礼日時:2012/10/23 17:05

まず、知っておく必要があるのは、ギリシャ正教会とは、現在ギリシャのアテネに主教座をもち、ギリシャとキプロスを管轄する独立系正教会の一派です。


同様な正教会に、ブルガリア正教会、ルーキニア正教会、セルビア正教会、グルジア正教会、シリア正教会があります。
これらの独立系正教会は、名目上トルコのイスタンブールにあります、イスタンブール世界総主教座に属することになっていますが、実際は独立した教会組織となっています。
ロシア正教会は、ロシアやグルジア、モルドバを除く旧ソ連地区を管轄する正教会で、モスクワに総主教座を持つ正教会になります。

ローマ・カトリックは、カトリック内の大半を占める教派になります。(カトリックの90%以上がローマ・カトリック)
ローマカトリック以外にもいろいろなカトリックがあります。
マロン・カトリック(レバノン)、ロシア・カトリック(主にウクライナ・アメリカ)、コプト・カトリック(主にエジプト)、シリア・カトリック(シリア)、ギリシャ・カトリック(ギリシャなど)などがあります。

ギリシャ正教も、ローマカトリックも、それぞれ正教会、カトリックの一部分というわけです。

キリスト教が、カトリックと正教会に分裂するのは、ローマ教会が、キリスト教の基本理念とかけ離れていた教義にもとずき布教してしまったことによります。
そのため、キリスト教徒の定義を定めた、「ニケーア・コンスタンティノープル信条」をそのまま受け入れることができず、一部を意図的に誤訳して採用したことにあります。
そのため、ローマ教会と、それ以外の教会とでは、教義内容に差が生じてしまい、分裂することになります。
カトリックと正教会の最大の差は、キリストの立場の考え方の差でした。
キリストを神の子として、神と同等とするカトリックと、神の僕とみなす他の教会との差は、次第に深まり、聖像破壊問題を気に統合しがたい状況となり、分裂します。

ローマ帝国時代の5大教会(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレキサンドリア)のうち、カトリックとなったのはローマ教会、正教会(オーソドックス)になるのはコンスタンティノープル教会です。
アンティオキア教会は、正教会に属するシリア正教会と、ヤコブ派教会(シリア正統教会)とに分裂します。
エルサレム教会は、シリア正教会、ヤコブ派教会、マロン派教会(マロン・カトリック)に分裂します。
アレキサンドリア教会は、コプト教会へと移行してゆきます。

カトリック内のマロン・カトリックは(マロン派)は、カトリックとしては始めてのローマ・カトリックではないカトリックになります。
マロン派は、十字軍時代にできたエルサレム王国でのキリスト教信者が元になっており、その多くが、ヤコブ派やシリア製教会からカトリックに改宗した人達でした。
そのため、典礼様式などは、ヤコブ派やシリア正教会の方式を受け継いでいるため、外見上ヤコブ派やシリア正教とみわけがつきません。

ロシアカトリックには2つあり、ウクライナをポーランドが支配していたときカトリックとロシア正教が混じってしまったものと、ロシアやセルビアなどの東欧の人達がアメリカに移民してアメリカでカトリックと融合して生まれたものとがあります。

日本では、正教会は、ハリスト教会と呼ばれますが、モスクワ総主教座に属するロシア正教系と、アメリカからもたらされたロシア・カトリックの双方が、ハリスト教会を名乗っているため、外見で見分けがつかないため、混乱の元になっています。
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この回答へのお礼

わかりやすくありがとうございました!

お礼日時:2012/10/23 17:04

>中世のローマ教会とコンスタンティノープ教会。



神聖ローマ帝国時代は、ローマ教会が唯一のキリスト教本部でした。
が、領土が拡張するに伴い「ローマ、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレム、そしてコンスタンディヌーポリ」に本部を設けたのです。
ローマ帝国が、東西に分裂。その後、東ローマ帝国滅亡。アンティオキア・アレクサンドリア・エルサレムの各キリスト教本部は廃止の憂き目にあいます。
同時に、残ったコンスタンディヌーポリの権威は相対的に高くなりますよね。

>2つの教会が出てきたあとにギリシア正教会、ローマ・カトリック教会という教会がでてきます。

ローマ教会系は、カトリック教会(ローマ・カトリック教会)として現在に至ります。
本部は、ご存知バチカン市国にある教会ですよね。
ギリシア正教会は、原則的にコンスタンティノープ教会(コンスタンティノポリ総主教)を名目的なトップと仰ぐキリスト教の一派です。
ロシア正教会・ブルガリア正教会・ルーマニア正教会など、○○正教と名が付く教会も同様です。
こちらは、各国に一つの本部(正教会)を設置する事を認めています。
日本では、日本ハリストス正教会と言います。

おまけ。
宗教改革で、カトリックはプロテスタントと分裂します。
また、離婚を認めるか否かでカトリックからイギリス国教会が独立します。
たぶん、これで合っているかと?
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この回答へのお礼

分かりやすくありがとうございました!

お礼日時:2012/10/23 17:06

世界一馬鹿な日本人にはキリスト教を理解することは不可能です。

馬鹿は馬鹿なりに分をわきまえてつつましく暮らしてください。同じ質問が朝から晩まで繰り返されています。なんど回答しても、翌朝には同じ質問が繰り返される。もうきりがない。馬鹿に教えることは不可能。日本人は余りにも馬鹿すぎる。

とはいえひとつヒントを出しましょう。キリスト教の歴史はヨーロッパの歴史そのものです。キリスト教だけを取り出して理解しようという試みが無意味の極みだということなんです。ヨーロッパの歴史全体を捉える努力をしてください。ヨーロッパの歴史において教会がどういう役割を果たしてきたのか。そういう問題意識を持って勉強してください。そういう姿勢がないかぎりは絶対にこの問題は理解できません。

キリスト教は当初、ローマ帝国から弾圧されました。当初はキリスト教はローマ帝国の統一を乱すものと看做され敵視されたからです。ところがローマ帝国の斜陽化と共に、弾圧にもかかわらず、ローマ帝国全体に広まってしまった。キリスト教はローマ皇帝の権威を否定したわけではないが、ローマ皇帝の方から権威をなくしてしまったのです。そうして時代が進むと、ローマ皇帝は逆にキリスト教を利用した方がローマ皇帝の権威を取り戻せることに気づいたのです。解体が進行しつつあるローマ帝国をキリスト教を利用して再統一しようとしたのがコンスタンティヌス1世です。コンスタンチノープルはローマに代わる新しい帝国の首都として建設されました。新首都の名前は、コンスタンティヌス1世にちなんで命名されました。アレキサンダー大王にちなんでエジプトにアレキサンドリアが建設されたのと同じようなものです。コンスタンティヌス1世は最初のキリスト教徒となったローマ皇帝であり、第一回の公会議を主催したことでも有名です。キリスト教の教義の解釈が2つに分裂し、アリウス派とアタナシウス派の対立が生じた。この対立を話し合いで解決しようとしたのが公会議の意味です。皇帝の権威で対立を解消させた。コンスタンティヌス1世はアタナシウス派を正統として裁定しました。この時代はキリスト教会は分裂していません。キリスト教会はキリスト教会というまでのことです。

ところがコンスタンティヌス1世の努力にもかかわらずローマ帝国は東西に分裂してしまいます。それにはゲルマン民族の大移動が絡んでいます。ローマ帝国では西半分ではゲルマン民族の移住を認めたが、東半分では認めませんでした。なぜなら西半分ではローマ人だけでは軍事力を保てなくて帝国の領土を守れなかったからです。だから軍役を勤めればローマ人と認めてやる、ローマ市民権を与えてやるという条件でゲルマン民族を帝国領内に移住させて傭兵に雇った。それが西ローマ帝国です。逆に東ローマ帝国はゲルマン民族を雇わなくても軍事力を維持できたのでゲルマン民族を移住させなかった。そういう違いがローマ帝国の東西の分裂です。
西ローマ帝国の首都がローマで東ローマ帝国の首都がコンスタンチノープルです。ところが西ローマ帝国はゲルマン人傭兵に乗っ取られるような形で滅亡してしまいます。476年のことです。西ローマ皇帝って何なの?俺たちがいないと何もできない飾りじゃないの?とばれてしまったんです。ローマ帝国というぐらいだからローマが発祥の地であったわけだけど、ついにゲルマン民族にローマを奪われてしまったようなものなのです。ローマ帝国が東西に分裂したあと、西ローマ帝国はさっさと滅亡してしまいましたが、東ローマ帝国はイスラム勢力に領土を侵されながらも、西ローマ帝国滅亡後1000年も存続します。このローマ帝国の東西分裂と歴史の違いがキリスト教会の東西分裂につながるのです。

ローマ帝国西半分にあったキリスト教会を西方教会と呼び、東半分にあったキリスト教会を東方教会と呼びます。この時点では、単に地理的な違いだけでしたが、ゲルマン民族に対する方針の違いが教義の違いになり段々と東西の違いが鮮明になっていきます。というのは西方教会では蛮族のゲルマン民族にも受け入れやすいやり方で布教する必要が生じたのに対し、東方教会ではそうじゃなかったという違いがあったということです。東ローマ皇帝が統制を続けた東方教会に対し、西ローマ帝国が滅亡したあとの西方教会は西ローマ皇帝がいない分、自立して生き残る必要が生じたという違いもあります。東方教会と西方教会の路線対立が表面化したのが、東ローマ皇帝のレオン3世の726年、偶像禁止令です。東方教会はすんなり偶像禁止令に従いましたが、西方教会はいやいやこれは偶像ではなくて聖像だから問題ないと屁理屈をこねて反発しました。時のローマ教皇がグレゴリウス2世です。レオン3世に従った東方教会をコンスタンティノープル教会と呼び、グレゴリウス2世に従った西方教会をローマ教会と呼ぶのです。つまり東方教会=コンスタンティノープル教会、西方教会=ローマ教会なんです。

しかし東方教会がコンスタンティノープル教会に代わったわけではなくて、西方教会がローマ教会に代わったわけじゃないんです。これは現代人が歴史を勉強するために勝手に呼び分けているだけのことなんです。聖像を認めるのがローマ教会で認めないのがコンスタンティノープル教会だという違いです。

ともあれローマ教会は完全に東ローマ皇帝と決別する路線を歩みます。実はそれまでローマ教会は東ローマ皇帝に税金を納めて軍事的に保護してもらっていたのです。それが、もう税金は払わない。保護してくれなくても結構だとたんかを切って喧嘩別れしてしまった。しかしローマ教会は軍事力を持たないからやはり不安です。東ローマ帝国の保護が切れたと知ったゲルマン人がローマ教会の領地を奪おうと軍事侵攻してきました。ランゴバルド王国です。ランゴバルド王国はキリスト教じゃなかったので、ローマ教会?なんぼのもんじゃーてな話です。そこで時のローマ教皇は、ハドリアヌス1世はキリスト教国のフランク王国に泣きつきます。ローマ教会のピンチだ。ランゴバルド王国の侵略からローマ教会を守ってくれ。フランク王国のカール大帝は、ハドリアヌス1世の期待に応えてランゴバルド王国を滅ぼしてしまったのです。カール大帝にすれば善意でローマ教皇を助けたわけではなくてローマ教会を守るという大義名分があれば、フランク王国の領土拡大を正当化できることに気づいたということなんです。ここにフランク王国という世俗的権力とローマ教会という宗教的権威の悪の二人三脚、give&takeの業務提携が成立します。ローマ教皇は東ローマ皇帝に代わる新しい軍事的保護者を味方につけた。そのお礼がカールの戴冠です。フランク王が正統なローマ皇帝だというのです。東ローマ皇帝は、ローマ皇帝はこっちだ。そんなインチキは認めないと猛反発しましたが、イスラム勢力に侵され続けた東ローマ帝国は西にかまっている余裕などありませんでした。この後、フランク王国は分裂してローマ皇帝の地位は神聖ローマ帝国に継承され、悪の二人三脚もどろどろと実態がかわっていきますが、その話は省略します。

時代はとんで宗教改革の時代になってローマ教会は、ローマ教皇の権威を認めるローマ・カトリック教会とローマ教皇の権威を認めないプロテスタント系の教会に分裂します。プロテスタント系といってもいろいろあるが、ここでは詳しくを説明しない。ローマ・カトリック教会以外の元ローマ教会をプロテスタント系の教会とだけ理解してください。宗教改革の後もローマ教皇に従った教会を、ローマ・カトリック教会と呼ぶのです。

ではコンスタンティノープル教会とは何か。コンスタンティノープル教会は初めから、ローマ教皇の権威など認めていません。宗教改革はコンスタンティノープル教会には全然関係ないのです。コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされて、新しい時代になっています。オスマン帝国はイスラム教国だったけど、宗教的には肝要で、税金さえきちんと納めてくれればいままでどおりキリスト教を信仰していてもかまいませんよという姿勢でコンスタンティノープル教会に対処しました。つまりコンスタンティノープル教会は税金の納め先が東ローマ皇帝からオスマン帝国に代わっただけで、特に変化があったわけでもないのです。

隆盛を誇ったオスマン帝国も19世紀にはすっかり斜陽で、民族主義の勃興の影響で帝国領内の異民族に自立・独立の動きが生じます。最初の動きがギリシャ独立戦争です。19世紀前半にギリシャはオスマン帝国からの独立を果たします。ここにギリシャ領内のコンスタンティノープル教会は、ギリシア正教会として教会組織としても独立することになったわけです。組織の人事には、もう口を出さないでくれってことです。教義が違うわけじゃないけど、組織としては別な組織になったということです。20世紀にかけてオスマン帝国の解体は進行して、ギリシアの後を追うように、コンスタンティノープル教会からも各国の教会が分離独立し、それぞれの国の教会が○○正教会と名乗るようになります。オスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国が成立したことで最後にトルコ正教会が発足したことで、もはやコンスタンティノープル教会は影も形もない。解体は完全に終了です。といってもトルコは99%がイスラム教徒で、トルコ正教会の信者は少数派です。

以上、駆け足で説明しましたが、こういうヨーロッパの歴史を俯瞰しようともせずに言葉のうわっつらだけを捉えて解釈しようという学習態度は全く無意味だということだけは私は何度でも強調しています。
歴史を言葉の解釈学だと思い込んでいる人に限って、頭がこんがらがってしまう
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2012/10/23 17:07

ローマ教会 = ローマ・カソリック教会


コンスタンティノープル主教座 ≒ ギリシャ正教会

中世の前、古代ローマ時代から言えば

各主教座は、同等。
その主教座の一つに、ローマの主教座があった。
コンスタンティノープルの主教座も、いくつかある主教座の一つ。
主教座には主教がいて、各主教は平等。現代の日本で言えば、各都道府県の知事は平等と似たようなもの。

ところが、ローマは、保護してくれる皇帝がいなくなったので、自力で頑張った(カールとかオットーとか、古代ローマ皇帝と関係ない人を皇帝に任命したり)
一方、コンスタンティノープルは、1453年までローマ皇帝が居続けた(途中、ラテン帝国とかありましたが)ほかのエルサレムとかアレキサンドリアなどの主教座のある場所は、イスラムに取って代わられたので、信徒がいない状態になり、権威が落ちた。

結局 ローマ と コンスタンティノープルが中世を通じて権威を持ち続けた。

中世におけるありかたの違い
ローマ教皇は、キリスト教徒のすべての地上でのトップ < 自称
※ ペテロが天国への鍵を持っていて そのペテロの後継者がローマ教皇であると自称している

統治と結びついていた正教会
なので、今でも正教会では、コンスタンティノープルが コンスタンディヌーポリ総主教庁 で ギリシャに ギリシャ正教会 ロシアに ロシア正教会 があるように、国別に独立した正教会がある。
※ オスマン・トルコ帝国時代には、オスマン・トルコ帝国内におけるキリスト教信者を「ギリシャ人」と呼んだというような歴史もあります。
このように、ギリシャという言葉の定義するところも、時代によって変わります。

中世においては、おおまかに コンスタンティノープル総主教庁の元にあるキリスト教徒は 「ギリシャの連中」などと 言われていたようです。
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この回答へのお礼

分かりやすくありがとうございました!

お礼日時:2012/10/23 17:03

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つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
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例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
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例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
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しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
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一応これは一つの例ですけど。

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纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

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そのいきさつを簡単に述べればローマ帝国とともに広がった初期キリスト教には五本山と言って中心的な教会が5つありました。この中で3つの本山(アンティオキア・イェルサレム・アレキサンドリア)がイスラムの領域となったことから旧ローマ帝国内に残った西のローマ教会と東のコンスタンティノープル教会が有力となり互いに首座権を争いました。基本的にはローマ帝国では皇帝教皇主義であり、ローマ皇帝が教皇を兼ねています。つまりコンスタンティノープル教会はビザンツ(東ローマ)帝国の首都の教会であり、西ローマが滅んでからはローマ教会も政治的にビザンツ皇帝の保護下にありました。それが先の聖像禁止令により、ゲルマン人たちへの布教の手段として聖像を用いていたローマ教会はこれに服することをせず、独自の政治的保護者を求めることになります。そしてフランク国王のカールに戴冠してローマ皇帝とすることによってビザンツの政治的影響力からの独立を果たします。

このいきさつから判るように、両者の基本的な違いは、ローマ教会が世俗権力から比較的独立しているのに対して、東方教会は皇帝権(世俗権力)の支配下にあることです。東方教会は後にビザンツ帝国の崩壊とともに保護権がロシアに移ってロシア正教会となるなど分裂していき、一方ローマ教会は「カノッサの屈辱」事件などで示されるように一時は世俗権力の上に立ちますが、結局は地上の権利を世俗諸侯に譲り、次第に精神的な権威へと変わっていきます。

最後に、教義上の違いを簡単に述べると
1)東方教会は、ローマ教皇の首座権と無謬説を否定(分裂のいきさつから当然ですね)
2)聖霊は神のみから出るのが東方教会、神と子(キリストのこと)から出るのがカトリック。
3)煉獄を認めるのがカトリック、認めないのが東方教会
4)聖母マリアの無原罪での受胎という考えをとるのがカトリック、否定するのが東方教会です。
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まずローマカトリックと東方教会の分裂はローマ帝国分裂と軌を同じくしたものではありません。偶像崇拝をイスラム教から非難されたことから、726年東ローマ皇帝レオン三世が「聖像禁止令」を出したことが分裂のきっかけでありその後も関係は続いていたものの1054年にお互いに相手を破門しあって完全に分離したのです。

そのいきさつを簡単に述べればローマ帝国とともに広がった初期キリスト教には五本山と言って中心的な教会が5つありました。この中で3つの本山(アンティオキア・イェルサレム・アレ...続きを読む

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

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・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qゲルマン民族の大移動となったフン族はなぜ・・

歴史の勉強していくと何故?何故?と疑問がわいてきます。またそれを知った時
すっきりします。ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
いろいろ調べてみましたが・・ゲルマン民族大移動の原因で出てくる程度、しかも
それまでおとなしくしていたのに、いきなり移動したようなニュアンスです・・
どなたか、ご存知のかた教えてください。

Aベストアンサー

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っていますから西進するしかなかったのです。  こうしてヴォルガ川にたっし、さらに西進しました。  これには気候の変化説、疫病説など諸説もありますが正確なところは不明です。  この時代の移動速度は緩やかなものでした。

そこには既に東ゴート族が居住していましたから彼らを略奪、抵抗する者を殺しました。
この情報はすぐに東、西ゴート族に伝わり、かれらフン族の残酷さ、騎馬戦術の脅威が過大に誇張されて伝わったため、パニックが起こりゴート族の西方への大移動が起こって次々とゲルマン民族などの大移動が伝播したのです。  この頃は草原の確保より略奪が目的に変化していてフン族の移動は迅速で警報が間に合わない事もよく起こりました。

アッチラというフン族の王が出現し部族をまとめてから、その攻撃力はすさまじいものとなり現在のフランス、イタリアまで侵略された位です。

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っ...続きを読む

Qイスラエル人ってユダヤ人なの?

タイトルのとおりです。中東問題の番組をみてて気が付いたんですが、イスラエル国民について教えて下さい。

1.イスラエル国民=全員ユダヤ人ですか。
2.人種的には白人ですか、アラブ系ですか、基本的に。
3.宗教的には全員ユダヤ教の信者ですか。 イスラム教や仏教を信仰するイスラエル人っているんでしょうか。
4.ユダヤ人のために建国した国がどうしてユダヤって言葉を国名に使用しなかったでしょうか。
5.パレスチナ人って全員イスラム信者でしょうか。
6.よくパレスチナ難民っていいますが、彼らのパスポート発行はどこが行なっているんでしょうか。
7.パレスチナ人は、例えば漢民族とかクルド族とか一緒で、民族性でいえば全員同じ民族なんでしょうか。

HPをみても難しいので、簡単にご回答願えれば幸いです。

Aベストアンサー

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒を自認する集団でも、その奉ずる教義によってはイスラエル当局からスンナリとイスラエル国籍を付与されない場合があることだけを指摘しておきます。イスラエル当局のいう「ユダヤ教」とは、端的にいえば、神殿時代(以降)のユダヤ教を指しています。

現在、イスラエルは、ユダヤ教徒およびユダヤ人の母親から生まれた子供をユダヤ人と認め、国籍を付与しています。後者がユダヤ人とされる理由は、ユダヤ人女性は自分が生んだ子供をユダヤ教徒として養育する宗教的義務を負っていることにあります。よって、日本人も、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になることができます(教義や歴史に関する難しい試験や、宗教指導者による面接などがありますが)。

イスラエルには、ユダヤ人=ユダヤ教徒以外にも、キリスト教徒やイスラム教徒である国民が存在します。なぜなら、現在イスラエルの領土となっている土地には、古くからユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していたからです。しかし、現在では、ユダヤ人=ユダヤ教徒が圧倒的多数を占めていることは確かです。

人種構成はさまざまです。ユダヤ人=白人というイメージとは裏腹に、アフリカ系(黒人)やアジア系(黄色人種)のユダヤ人も存在します。なお、言語についても、公用語であるヘブライ語を解さず、出身地の言語しか話せないユダヤ人も多数存在します(特に、旧ソ連崩壊後に入国したロシア系ユダヤ人)。

イスラエルという国号についてはすでに回答されています。宗教的な意味のある国号です。

パレスチナ人とは、パレスチナ地方の住民を指す言葉です。すでに指摘したとおり、パレスチナ地方にはもともとユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していました。民族的には、アラブ人(アラビア語)、ユダヤ人(アラビア語・ヘブライ語)及びキリスト教系少数民族が存在しました。しかし、ユダヤ教徒であるパレスチナ人はイスラエルに迎え入れられたので、現在のパレスチナ人は多数のアラブ人とキリスト教系少数民族からなっています。

パレスチナ地方は、その大部分がイスラエルに、一部がヨルダンに併合させました。ヨルダンが併合したのは、ヨルダン川東岸といわれる地域です。この地域に住んでいたパレスチナ人は、幸か不幸か、ヨルダン人としてヨルダンの旅券を所持することができます。

参考URL:http://homepage.mac.com/ceramic_tsuka/rekisipage.html

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒...続きを読む

Q「王」と「皇帝」の違い

 「王」と「皇帝」の違いについて、疑問をもちました。
 取り敢えず、国語辞典で調べてみたのですが、

王 → 国王
国王 → 国の君主
王国 → 王が治める国

皇帝 → 帝国の君主
帝国 → 皇帝が治める国

 というふうに、たらい回しにされてしまいました。
 歴史的に見ると、ヨーロッパにおける封建時代には「王」が多かったと思います。でも、ローマ帝国は「帝国」ですから、代々「皇帝」です。中国では、今までいくつもの国が生まれては消えていきましたが、殆ど「皇帝」だったと思います。
 いったいどうゆう基準で王と皇帝、王国と帝国は分けられるのでしょうか?

Aベストアンサー

参考URLがわかりやすい説明をしていると思います。

参考URL:http://blog.goo.ne.jp/yappi27/e/c56dbc94a16040b9a40093bb96cf099f

Q普通自動車の運転免許の正式名称

を教えてください。
履歴書になんてかけばいいかわかりません。

普通自動車第一種免許や第一種普通運転免許とかいわれていますが。

警察などの公式な場所に問い合わせてみた人がいましたら教えてください。

Aベストアンサー

抜粋です.「普通自動車免許」ですね.
「第一種運転免許」はありますが,「普通自動車第一種免許」や「第一種普通運転免許」とは言わないようです.第二種の場合は名称に入り,「普通自動車第二種免許」のように言うようです.

--------------------
道路交通法
第六章 自動車及び原動機付自転車の運転免許
第八十四条  自動車及び原動機付自転車(以下「自動車等」という。)を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許(以下「免許」という。)を受けなければならない。
2  免許は、第一種運転免許(以下「第一種免許」という。)、第二種運転免許(以下「第二種免許」という。)及び仮運転免許(以下「仮免許」という。)に区分する。
3  第一種免許を分けて、大型自動車免許(以下「大型免許」という。)、普通自動車免許(以下「普通免許」という。)、大型特殊自動車免許(以下「大型特殊免許」という。)、大型自動二輪車免許(以下「大型二輪免許」という。)、普通自動二輪車免許(以下「普通二輪免許」という。)、小型特殊自動車免許(以下「小型特殊免許」という。)、原動機付自転車免許(以下「原付免許」という。)及び牽引免許の八種類とする。
4  第二種免許を分けて、大型自動車第二種免許(以下「大型第二種免許」という。)、普通自動車第二種免許(以下「普通第二種免許」という。)、大型特殊自動車第二種免許(以下「大型特殊第二種免許」という。)及び牽引第二種免許の四種類とする

参考URL:http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%c6&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_

抜粋です.「普通自動車免許」ですね.
「第一種運転免許」はありますが,「普通自動車第一種免許」や「第一種普通運転免許」とは言わないようです.第二種の場合は名称に入り,「普通自動車第二種免許」のように言うようです.

--------------------
道路交通法
第六章 自動車及び原動機付自転車の運転免許
第八十四条  自動車及び原動機付自転車(以下「自動車等」という。)を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許(以下「免許」という。)を受けなければならない。
2  免許は、第一種運...続きを読む


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