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教会に行けば牧師も信者も賛美歌を歌う。
広布の広場に行けば坊主も信者もお題目を唱える。

賛美歌とお題目、
一方は歌い、一方は唱える。
洋の東西を問わず、やはり漬かった者の考えることは皆同じなのであろーか。

あ~。
 
 

A 回答 (8件)

お早うございます。


何時も深い思考に導かれる思いでお邪魔致しております。
八百万の神・仏を信仰するデモ無しに、もてあそぶ不心得者ですが。
教会での結婚式では讃美歌を葬式では般若心経を唱え、神道では
祝詞をあげ、で身の回りには漬物ダルがいっぱいでして、楽しませて
戴いております。
文末の”あ~”ですが阿弥陀?アッラ~?ア~メン?を奏してのモノなのでしょうか?
そして、同じなモノとしてお受けして宜しいモノなのでしょうか?
是非ともご高説を賜れたらと、心より思う者であります。
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この回答へのお礼

 
>文末の”あ~”ですが阿弥陀?アッラ~?ア~メン?を奏してのモノなのでしょうか?


「あ~」とは何か。
よく訊かれます。
哲学的に申しますとアウフヘーベンの奏でと申しておきます。


>そして、同じなモノとしてお受けして宜しいモノなのでしょうか?

全く違います。
阿弥陀も、アッラ~も、ア~メンも皆漬かった人が自ら発声する音であり、
これに対し「あ~」はアウフヘーベンの奏であり、真理の探求によって自然に生まれる一種のため息のよーなモノであり、全く次元が異なります。
 

 

お礼日時:2012/11/24 15:04

あ~ってなんのためいきかわかりませんが、


讃美歌は聖書の内容の総てに呼応して作られているのと、
それが作らられた時代その国の人々に不幸が襲った、
それを励ますため作られたとか、一つ一つ曰くがあるのです。
そんなに単純なものでは無い事だけご承知おきください
お題目については知りません。
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この回答へのお礼

 
>あ~ってなんのためいきかわかりませんが、


「あ~」とは何、

よく訊かれます。

「あ~」とは、真理を探求しある時それが完全に腑に落ちたと感じたとき誰もが自然に発する音であり、賛美歌やお題目のよーに作られたものではなく、全く自然発生的に出てくる音であります。
宇宙の法則に従う現象であり、アウフヘーベンの奏でと申しておきます。
だから「あ~」があれば、賛美歌もお題目も要らんのです。

あ~。
 

お礼日時:2012/11/26 04:07

毎度毎度、真実を考えて発言するんは、疲れるし、面倒くさいので、讃美歌やお題目などマンネリズムに逃げ込んだ方が楽なんやと思う。



神父も牧師も、出家坊主も、雲水も、大抵の者は楽して仕事した気になっておるんやないかな。

しかし、ホンマ者の坊主や修道士は違うと思いますよ。
マンネリズムを否定して、日夜、真剣に求道し、「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」、ってぐらいに真剣に生きておるよ。

そんなホンマ者に出会うのは難しいけどね。
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賛美歌にせよお題目にせよ本来は非常に深遠なものなのです。

アウフヘーヴェンなのです。多くの人は確かにそれが判らずただ気持ちが良くなるからそうしているだけですが、本来は宗教の本質を毎朝毎晩となえることでみずからの心にしみこませ、自分の血肉にしていく過程としてそういったお題目修行があるということです。それをしらないひとはただぬるま湯につかっているだけになるのはしごくとうぜんということでしょう。かくいう人の未知様もこのすれにどっぷりとつかっておられるのではありますまいか。どーじゃ、あ~
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この回答へのお礼

 
>賛美歌にせよお題目にせよ本来は非常に深遠なものなのです。

鰯の頭も深遠だと思えば、深遠になるんです。


>多くの人は確かにそれが判らずただ気持ちが良くなるからそうしているだけですが、

漬かると気持ちえーので。


>本来は宗教の本質を毎朝毎晩となえることでみずからの心にしみこませ、自分の血肉にしていく過程としてそういったお題目修行があるということです。

わしの場合は、賛美歌もお題目も必要ありません。

何せわしには宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神が何時も側に付いておるんです。

わしはアルケーと一緒に暮らしておるんでそれだけで十分です。
 
あ~、アルケー。
 

 

お礼日時:2012/11/25 10:04

ん。



「自由」だと言われましたか。


いつも、ありがとうございます。
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この回答へのお礼

 
>いつも、ありがとうございます。

ん。
 

お礼日時:2012/11/25 18:24

こんにちは。




信教の自由とその限界、なのでしょうか。
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この回答へのお礼

こんにちは。


>信教の自由とその限界、なのでしょうか。

何を思おーと、何を信じよーと本人の自由である。

当り前のこと、申すまでもないこと。

しかしその結果何が得られるかは本人の思想と理念と哲学の深さに拠るであろー。
 

 

お礼日時:2012/11/24 17:17

教会の牧師さんも、ラテン語の教典を唱えますよ。




私はキリスト教徒では無いですが、これは美しくて非常に好きです。
思わず吸い込まれるような気分になります。

危ない危ない。
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この回答へのお礼

 
歌を歌っているだけです。

中身はありません。


 

お礼日時:2012/11/24 15:10

日本の会社にも、朝に社訓を叫ぶとかラジオ体操とかありますからね。



あれも宗教みたいなものなんでしょうね。漬かった人間には分からないのでしょうね。
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この回答へのお礼

 
kanakyu-さん、
早速の御回答有難うございます。
kanakyu-さんは、心優しきお方なのでありましょー。


この質問を前にしての今の私の心境はとゆーと、
果たして漬かることは、善か悪かゆーこと。

あ~。
 
 
 

お礼日時:2012/11/24 11:17

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