プロが教えるわが家の防犯対策術!

人生において自分の能力が足りなかったこと、思ってもいなかったこと、興味がなくてやっていなかったこと色々あると思います。
しかし全てを「本人が悪い」「自業自得である」と考えるなら「平成7年に旅行に行かなければ阪神・淡路大震災に合わなかった」という論も成り立ち「何県に生まれていたら良かった」という話と同じレベルではないでしょうか。
どの範囲を後悔すべきなのでしょうか。


年末年始にこんなことを考えていました。

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは。



>どの範囲を後悔すべきなのか<
知らない方がいいことを 知ってしまったこと。

たとえば 人間は自分以外の人は誰も救えないが 世の中は 他人を救えるという偽善者が成功者であるということ。真実を求め語る者は愚か者であるということ。
この世界では 生きることは食物連鎖であり 弱肉強食からの離脱は死であるということ。良く言えば「生命の繋がり」かな?

私は 貴方がこの回答を批判して 人間は他人を救え 弱者にも希望があると言ってくれることを望みます。ある愚か者より。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:04

すべての範囲を一応範疇にいれます。


でも、その『後悔すべき』程度も、その範囲の場所(中身の質)によって違うわけです。
それを柔軟に決められることが大切だと思っています。
また、時間軸でも変化しますよね\(^_^ )。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:03

後悔することが判っていてその行為や選択をすることはありますまい。


後悔する為にその行為や選択をすることはありますまい。
そしてその行為や選択が必ずしも不可抗力であったということもありますまい。
エゴが強く、欲張ればもう限りなく後悔の事項は拡大しますね。
昔から後悔することを愚か者といっていますね。
しかし学ぶ事は大事でしょうね。後悔と学びは違いますね。
人は後悔したり、学んでもまた、同じ間違いをする。
災害に遭うか、どうかということはまぁ後悔なんてするものではないですね。
ただ人を傷つけたり、人の運命に影響するようなことは気をつけたいですね。
私も長く教育機関(大学の図書館に46年)いましたが、教育機関って、人の人生や出会いに大きな影響があり、責任が大きいですね。
そういう責任を自覚できない、人は教育機関には居るべきではないですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:03

若い頃、航海、をしましたが。

マラッカ海峡を抜け、インド洋に入ると。丘、が押し寄せてくるような、インド洋のうねりに驚きました。紅海、も見たことがありますが。波も干満も小さく、静かな海でした。
海、心、が静かなら、航海、後悔、も楽なものですよね。私も若い頃は何度も後悔した記憶があります。
殆どが、自分故に人を苦しめる、恋愛、故でした。
後悔し、刀でもあったら、腹でも切ろうか、みたいな気分になった事もありました。
ちと落ち込んでいたら、ある教授に、この野郎、女、強姦しそこねたと悩んでやがる。
あんな娘のどこが良いんだい。と笑われました。笑ってくれました。
青年が後悔するのは、犯罪、でもなければ、大抵はそんな事ではないんでしょうか。
自分が招く、困難、苦難は、若いうちは、むしろ、舌舐めずりをような対象でもあるでしょう。
まあしかし、高校、大学、の男女共学には問題がありますよね?
修行者たちは、一日一度の粗末な食事しか採らないのに、何故あんなに生き生きとしているのですか。
と問われ、釈迦は
彼らは、過去を悔いる事も、未来を憂う事もなく、今、だけに生きているから、生き生きとしているのだ。と答えた。というのがありますが。
既にない過去を悔やんでもしょうがないし。まだない未来で確実なのは死が訪れることだけでしょうから。今を静かに生きるなら、静けさを縁として知恵が想起し、知恵に浸るなら、考える事が見いだせるなら、寂しさとか、孤独感、などは消滅するのでは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:03

後悔すべきは、他人に危害や損害を与えた場合です。




例にあるような、自己責任の範疇は、極端な話し、後悔などしなくて良いです。お好きなようにということ。自己責任の場合、必要なのは、次に同じ様な状況に陥ったとき、その経験を踏まえて、どう行動するかだけ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:02

僕は登山とマラソンが趣味です。


どちらも仕事としてなら、いくら手当てもらってもやりたい
ものではありません。
実際は、余暇の全てを費やし、多額のお金を費やして、
死ぬような思いをしてやっているのです(誰からやれと
言われた訳でもなく、登ったからといって誰にも評価され
る訳でもなく)。

つまり、どのような困難もそれが自分の心底からの生きる
意志の発露としてならば、大きな喜びにのみ結果するの
です(つらいからといって低い山に登りたいとは思いません)。
自然や社会の在り方を、自己存在の必要として捉える深い
認識があれば、どんな困難も、より大きな満足感の元で
しかないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:01

”どの範囲を後悔すべきなのでしょうか”


    ↑
こういう問題は既に色々な人が考えています。

(1)予見可能性があったもの。
(2)予見すべきであったもの。
(3)その予見すべきであったものから、相当因果関係内
 にあるもの。

以上の三つを具備したものについては後悔の
対象になります。
(1)は(2)の前提となる条件です。

このような考え方は、後悔は何の為にするのか、
ということから導出されます。
そうです。
後悔というのは同じ失敗を繰り返さない為に
あるのです。
ここから、以上の条件が導出されてくるわけです。
例えば、予見不可能なことを後悔しても意味が
ないから、後悔の対象にはならない訳です。

こうなると、じゃあ、その予見可能性は誰を標準に
するのか、という問題が新たに出てきます。
その人の個人的な能力を標準にする、となると
もっと能力を高めておけばよかった、という後悔が
でてきます。
だから、これは人類最高の英知を持った人間を標準に
すればよいでしょう。
あの地震は、人類最高の英知を持った人でも予見
不可能でした。
だから後悔の対象にはならないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:01

補足



さらに言えば、小説ならばページを戻って読めば、選択時の小説の内容を確認できますが
現実世界では、確認はいい加減な記憶をもとにせざるえません。
昨日食べたおかずも鮮明に思い出せないのに・・・。
結局、一番印象に残った記憶=思い込みをもとに後悔するのが関の山なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:00

後悔というのは後付けの責任回避の為の物語にすぎません。



後悔というものが過去の出来事の評価であるならば
評価するには選択肢の過半数以上のデータが必要になります。
さらに、評価者が評価の結果に対して感情的に中立的であることも必要です。

昔あった選択肢形式で進む小説で言えば、1ルートしかやってないのに
「あそこがどうだこうだ」言うのもアホでしょう・・・
そして、友達と一緒にやれば見栄もはりたくなりますし、友達は自分の有能さを自慢する為に必要以上にくさすわけです。

ともかく、現実の選択というのは1ルートで進み、検証不可能なものですから
謙虚な人間は後悔しません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 14:00

>自分の能力が足りなかったこと、



後悔しません。

>思ってもいなかったこと、

後悔しません。

>興味がなくてやっていなかったこと

後悔しません。

>平成7年に阪神・淡路方面に旅行に行った

後悔しません。


後悔すると言う事は、興味があって、やりたいと思いながら、勇気が無くて、やらなかった時です。

自分の能力が足りないことを人生で後悔にしているなんて人、聞いたことありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2013/01/06 13:59

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