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もし、19世紀のドイツ統一事業をオーストリアハプスブルグ帝国中心に進められたら世界史は大きく変わるのでしょうか?その場合、プロイセンの処遇は?プロイセン抜きでは大ドイツ主義にならないし、それでも中欧に超大国(大ゲルマン帝国)が出現しますね。露仏同盟は強化されるし、帝国内に抱えた民族問題やら、イタリヤとの領土問題などドイツの発展にとって足枷となる難題が多そうです。

A 回答 (4件)

どうでしょうか



個人的意見ですが
オーストリア主導の統一にはかなり無理があると思います

まず史実の統一されたドイツ帝国は帝政でありながら連邦制を堅持しました
これは中央集権体制を取るオーストリアの政体とはかなり違います
史実のドイツ帝国の国家歳入は間接税主体で直接税は各領邦の歳入となりました
産業自体が脆弱であるオーストリアでは連邦制は受け入れられないと思います

第二にドイツ統一以前の1834年にプロイセン中心のドイツ関税同盟締結により経済的ドイツ統一がなされており
それを基盤に1850~60年代の産業革命や鉄道輸送網の急速な発達、安定した市場、自由な商品移動を可能にしました
プロイセンにはルッツ蔵相等有能な経済官僚が存在しましたが
オーストリアのメッテルニヒには関税同盟に批判的で
三月革命で失脚後もシュヴァルツンベルクなど新絶対主義ともいうべき保守主義内閣が普墺戦争まで続きました
ドイツ関税同盟とオーストリアでは工業化レベルの格差が違いすぎます

またドイツ帝国では三階級に分けた議席制限があるとはいえ普通選挙制度が採用され(イギリスが普通選挙制になるのは20世紀初頭)
社会保険制度は当時の世界では最も先進的でした


このような事例を統合するとオーストリアによる統一にはかなり無理があり
仮に統一出来たとしても産業的には米英仏の主要工業国になれず
後進的な露・伊・日の二次的な周辺工業国の地位に甘んじたことでしょうし
プロイセンをはじめ先進的領邦、地域の中央集権下のウィーン政府への反発で
統一直後のイタリアの南北内戦のような紛争が頻発しそうな気がします
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この回答へのお礼

ご解答どうも有り難う御座います。
オーストリア帝国は中央集権国家だったんですか。ハンガリー人に大規模な自治を与えるとか、スロベニアなどスラブ人国家を認めての三重帝国案など緩やかな連邦国家かと思ってました。1+1(オーストリア+ドイツ)は2だと思っていたんですが、そううまくはいかないんですかねー。そう考えるとオーストリアはドイツにとっては異端児ですか?

お礼日時:2013/02/10 23:50

オーストリア・ハプスブルク帝国は、多民族多言語国家であり


近代国家に脱皮するためには、議会、選挙、軍隊、行政、義務教育に
致命的な欠陥がありました。以下の本に詳しく描かれています。

ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して 大津留厚
http://www.amazon.co.jp/dp/4121012232

なので、破竹の勢いで近代国家に脱皮しつつあるプロイセンドイツが
オーストリアハプスブルク帝国の一部分に甘んじるというのは
かなり考えにくい展開です。
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この回答へのお礼

ご解答どうも有難う御座います。早速指定の本読んでみたいと思います。

お礼日時:2013/02/11 23:40

No.1です


補則します


オーストリアがハンガリーと妥協してアウスグライヒ体制化して連合国家化(連邦制ではない)し、オーストリア・ハンガリー帝国となるのは
普墺戦争後の1867年です

それまでのハンガリーは
1848-49年の三月革命をきっかけとした独立戦争を鎮圧され、著しく自治を制限されたのです
1850年までは軍政が敷かれ、それ以後は5地区の県に分割され
県の下級役人までマジャール語でなく、ドイツ語を話す官吏が任命されました(時にはドイツ語を話すチェコ人官吏も)


一方、反ハンガリーを標榜しハンガリー鎮圧戦で皇帝に忠誠を尽くしたクロアチア軍を率いクロアチア人大佐のイェラチッチは
ハンガリーから分離されたクロアチア総督に任命されました


アウスグライヒ体制の連合国家と連邦制との違いは
双方の国家は皇帝も含め、相互内政不干渉
両国家は各々首相、蔵相、国防相がおり、各々国防軍を保有し法規も別個
例えばオーストリアがドイツを真似て普通選挙、社会保険制度を施行しても、ハンガリーは大戦まで制限選挙制を施行し続けました

オーストリア・ハンガリー帝国の最高執政機関は共通閣議です
両国の首相、蔵相、国防相に加え
共通外相、共通蔵相、共通陸軍相で構成されました

共通宰相は存在せず
会議のイニシアチブは共通外相が取りました

後のボスニア・ヘルツェゴビナ併合では
オーストリア、ハンガリー双方が領内スラブ人の割合増加を嫌い、編入を拒否
やむなく共通蔵相が直轄地となり総督として統治
同地に共通陸軍から輪番で駐留していた4個師団からなる第16軍団も共通陸軍から分離され
ボスニア・ヘルツェゴビナ総督下に編入されました


ボヘミアのチェコ人とも妥協し連合国家化しようと案もありましたが
ハンガリーの相対的地位低下を恐れたアンドラーシらマジャール人執政者に阻止されました

後に第三王国としてクロアチアなど南スラブ人を格上げしようとしていた皇位継承者フェルディナントの案も
ハンガリーに一蹴されてしまいます

(※フェルディナントは貴賤婚姻していた為、皇太子になれず、自分の子供に皇位を譲位できない皇位継承者との地位に甘んじてました)
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この回答へのお礼

度々有難う御座います。No.2の方共々、大変お詳しいので関心しておるところです。ドイツ統一がオーストリアでは失敗し、プロイセンでは成功した最大の理由はなんでしょうか?同じ啓蒙専制君主国家として近代化の道を模索してきたはずの両国が、まさか北(プロイセン)の人間が南(オーストリア)の人間より優れていたわけでは決してないと思うのですが・・・宗教やら地政学やら民族問題やら思想やら両国を隔てた理由は何なのか、宜しければお教え願えないでしょうか。

お礼日時:2013/02/11 23:37

度々すみません


再補則します


なぜドイツ関税同盟がオーストリアを除外したプロイセン中心の小ドイツ主義的統一がなされたかというと

前にも述べましたようにプロイセンをはじめとするドイツ関税同盟諸邦とオーストリアの経済格差があります
オーストリアの産業革命は19世紀後半です
ドイツ関税同盟が自由貿易を標榜するとは逆に産業革命前の一次産品中心のオーストリアは保護貿易指向です

第二にプロイセンの交通網整備です
鉄道敷設前のライン川、オーデル川の河川航路、道路建設は19世紀前半の時点でよく整備されました
当然、鉄道敷設にも力を入れました

第三にプロイセンの地理的優位さ
例えば内陸のザクセンはハンブルク、ブレーメンの海港から原材料、中間財を輸入せねばなりません
それにはプロイセン領内のオーデル川航路や道路を使用せねばなりません

また南西の同じく内陸にあったヴュルテンベルクにとっては国内の生産物を大量消費してくれるのは
プロイセン領のルール地方のあるヴェストファーレーンで
そこへ輸送するにはやはりプロイセン領のライン川航路を使用せねばなりませんでした


第四にプロイセン以外の諸邦の産業企業家や中産階級が
上記の事でわかるように小ドイツ主義的経済統一を望んでいたことです

普墺戦争で南西諸邦は政治的理由でオーストリアに味方しますが
戦争が終結するとすぐにドイツ関税同盟は復活するのです


長文失礼致しました
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