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 日本語を勉強中の中国人です。村上春樹の作品はいま世界中で人気があるようです。しかし、日本国内で、氏の作品の文体は日本語として不自然だという評価があるようです。お伺いしたいのですが、氏の書かれた日本語はどこが不自然なのでしょうか。それに大変興味を持っております。日本の方に不自然だと感じられたのはおそらく英語の影響を受けているだろうと思います。

 いま村上春樹の随筆(「走ることについて語るときに僕の語ること」と「やがて哀しき外国語」)を読んでおります。この日本語は自然かどうか外国人の私にはとても判断しがたいことだと思います。私はただ外来語が多いような気がしますが、ほかは何も感じられませんでした。氏の日本語がおかしいのは、単語の組み合わせといったところでしょうか。文法がおかしいのでしょうか。それとも内容や考え方そのものが日本人らしくない、おかしいのでしょうか。私が若いときに、「ノルウェイの森」を途中まで読んだことがあります。内容的には受けられないという理由でこの作家をあきらめました。村上春樹の作品をお読みになったことがある方のご意見をお待ちしております。

 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

 単語の組合せや文法がおかしいとは思いませんが、斬新な感じは受けます。

内容や考え方が日本人らしくないかについては、部分的に肯定できると思います。これが氏の個性かも知れません。従来の作家が多く国文学の古典に親しんだのに対して、氏の作家活動の原動力は主に外国から得ています。『作品シリーズ8 短篇集III』の別冊「自作を語る 新たなる胎動」で氏は次のように述べています。「僕の短編小説の師は三人いる。…フィッツジェラルドから学んだものは読者の心を震わせる情感であり、カポーティから学んだものは唖然とするほどの文章の緻密さと気品であり、カーヴァーから学んだものはストイックなまでの真摯さと、その独特のユーモアである」。確かに彼の作品は世界中で人気があるようです。それで、以下村上作品の特長を考えてみたいと思います。

 個性:村上作品には解説の類がない。『そうだ、村上さんに聞いてみよう』の中で氏は答えています。“文庫本解説というのはエール交換みたいなもので、誰かに解説を書いてもらうと、そのお返しに、頼まれたら書き返さなくてはなりません。それが業界の仁義です。僕はできることなら、そういうべたべたした人間関係に巻き込まれたくないのです。…作品というのはそれ自体で自立すべきものであって、解説なんか不要だと僕は思います。もちろん「資料」が必要な古典なんかの場合は別ですが”。確かに、作品はそれ自体で自立すべきだろう。ただし、それだけではない。氏の作品が独特で、これまでの日本人作家の小説類型からはみ出しているために、その解説のできる人があまりいない。いわば「前衛の孤独」という面があるのではないか。それで彼は時々、前書・後書・解説を自分自身で書いたり(『日出る国の工場』、『やがて哀しき外国語』)、別冊をつけて自作を語ったりする(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『村上春樹全作品シリーズ3,8』)。ということで、彼の作品は他者にとって解説しづらく、彼自身が自作自演せざるを得なくさせるような要素があるのかも知れない。それはまた、その作風が個性的で、従来の系列からはみ出していることの証左でもあると考えられる。

 作品構成:PCを駆使して読者心理を分析し、その好みの最大公約数を作品構成に組入れる作家がいる。早い話「この辺りに濡れ場を入れよう」とか「これを引っ張りの材料にしよう」といった具合だ。村上作品にもこの傾向が見られる。特に長編には顕著で、『ねじまき鳥クロニクル』はその典型だ。あちこちに性描写はあるし、強力な引っ張りがある。第一部の冒頭で主人公の「僕」に謎の女から電話がかかってきて不思議なことを言うのだが、この女が誰であるか分からない。読者は「僕」とともにその謎の女の正体を知りたいと思いながら、分からないまま引っ張られる。そして謎を抱えたまま第一部が終り、第二部に期待しながら読み進めることになる。ところが、第二部ではP.135とP.353で二回言及されるものの、依然謎は解けない。それで読者は第三部へと誘われるが、そこでも400頁以上に渡って謎を引きずる。そしてやっとP.435に至って初めて、それは「僕」の妻の、失踪したクミコらしいことが分かるのである。分かるといっても明確にではない。「僕」が想像するだけである。最後の最後にきて、「謎の女」は結局引っ張りの材料に過ぎなかったことを知る。作品構成の巧さに舌を巻く。

 幻想:「現実には決して起こらないことをいかにも起こりそうに描くのが芸術作品としては優れている」(R・バルト)という。その意味では、私の読んだほぼ全作品が、確かに「現実には決して起こらないであろうこと」を描いているように思われる。しかし問題は後半だ。即ち、あまり起こりそうに描いてはいないと感じられるのだ。身近な現代に取材しながら昔話の手法を多用するからかも知れない。それで、勢い夢想や幻想などが氾濫してくる。リアリズムに乏しく現実味がない。臨場感がもてない。ただこれは老年組の感想であって、若者世代にはむしろこのファンタジックな世界がうけている。その点で村上作品は、若者の好みを代弁し、潮流の先端を行くと言えるのかも知れない。

 芸術を遊びと見る:『村上春樹全作品』シリーズ(講談社)の3, 5, 8はいずれも短編集である。そのうちの8に「トニー滝谷」という作品があるのだが、これについて氏は上掲「自作を語る」で述べている。“僕がトニー滝谷という話を書こうと思い立ったのは、ずっと前にマウイ島でTONY TAKITANIと書かれた古着のTシャツを一ドルで買ったからである。…それを買った時から、僕はどうしてもトニー滝谷というタイトルの小説を書いてみたかったのだ。そのシャツを着るたびに、そのトニー滝谷という人物が僕に自分の話を書いてもらいたがっているように感じられたのである…”。「Tシャツに名前があったから小説を書く」=「僕が小説を書くのはこの程度の動機からです」と言っているようにも聞こえる。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』などのように、やむにやまれぬ気持ちで書くわけではないと。このような傾向は「新芸術の動き」と符合する。新芸術家は、“人類を救おうなどとは思わない。新芸術家自身が、冗談となり、茶番劇になろうとする。新芸術は芸術を劇画化する”(色摩力夫)のである。かくして新しい芸術は、作品から悲愴感を払拭し、生きている形態を排除し、間化する。芸術行動全般が、人格陶冶などとは無縁のものとなって遊戯化していく。

 大したことのない仕事と認める:村上作品のある短編を呼んでいたらどこか読んだことがあるような気がした。そうだ、これは長編『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭だ。そういえば短編の題も「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で、似ている。題はおろか中身もそっくりだ。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)の第一部第一章「火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について」と、短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は中身が同じである。比べてみたら一字一句同じである。この短編が収められているのは『村上春樹全作品』(講談社)8 短篇集IIIの中で、刊行は1991年。他方、長編『ねじまき鳥クロニクル』は1994年の刊行だから、短編の方が先に書かれたことになる。そしてその短編(約40頁)を丸々冒頭に置いて書き始め、1000頁以上の長編ができあがったわけで、それが『ねじまき鳥クロニクル』である。作者は後年、件の短篇集IIIの別冊の中で述べている。“僕の短編はだいたい比較的短い期間にごそっとまとめて書かれている。長編で力を使い切って、その後しばらく休憩してほっと一息ついた頃に集中的に短編が書きたくなってくる。それを書き終えた後にまたしばらく何もやりたくないという時期があって(そんな時期には主に翻訳の仕事をやっている。そういう意味では、翻訳というのは僕にとっては一種のリハビリテーションの役割を果たしている)、それからもう一度長編を書きたいという気持ちがふつふつと起こってくる。もちろんそのサイクルの回転に要する時間はその時その時によって違うけれど、そのパターンのありようはおおむね一定している。だから僕の短編には前に書いた長編の後産的な要素と、次の長編の胎動的な部分が含まれている。”つまり、長編『ねじまき鳥クロニクル』は短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の中にまず胎動を始めたのであり、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」はやがて生れる『ねじまき鳥クロニクル』の予告の役をも果たしている、ということである。このような制作態度そのものを批判するのが目的ではないが、彼の作品(特に短編)は、独立した作品として鑑賞するにはかなり分かりにくい、と言いたい。作者自身としては、「僕自身もよく分かっていない。しかし肩肘はらずに気楽に楽しみましょう」という気持ちがあるのかも知れない。しかしその楽しみはあまり一般的ではないと思われる。少なくとも老年組にはあまり馴染まない。このような流儀は新しい傾向なのである。そしてその新傾向を具現する作家は、「人格陶冶とか教養を振りかざすのはおこがましい。娯楽や笑い種の提供なのだ。僕自身を笑ってくれてもいい。自虐ではない。あるべき形に目覚めただけだ」とでも言いたげである。“新しい世代の人間にとっては、芸術は何ら重要性を持たぬものである。しかも、芸術家自身がその芸術を大したことのない仕事と見る。人生で、目くじら立てるようなしろものとは見ていない。…昔芸術は、科学や政治と同様に我々の生の中心に非常に近かった。今や芸術は周辺部分に移っている。”(色摩)

 まとめ:かつて芸術家は、一種の使命感さえ帯びて芸術を「人間的営為の中枢」として真摯に取り組み、そういうものとして提供した。受け手はそれを「威厳ある崇高なもの」として受け入れた。一方現今の芸術家はそれを「単なる気晴らしの材料」として提供し、民衆は「娯楽や暇つぶしの商品」として受取る。この点に関して、村上作品は高得点が与えられる。どの作品、章、頁を切り出しても、「大したもの」や「崇高なもの」を提供しているというような意識はなさそうだし、読者としても、そのようなものには読み取れない。村上作品は、上に述べた全ての兆候を備えている、と言えるだろう。「芸術を遊びそのものと認めること」や「大したことのない仕事と認めること」、まとめれば「芸術作品を単なる娯楽作品のみとすること」といった新傾向が村上作品には含まれている。一言で評するなら、「村上文学は、現代文学の自己認識の変化を体現し、新しい文学的潮流の方向を示唆している」と言えるだろう。
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この回答へのお礼

 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。とても詳しいですね。興味深く拝見しました。村上春樹の作品の感覚は大体わかりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2013/02/14 13:02

 前回の回答で、字数の制約のために割愛したことがありますので、補足いたします。


1.> 質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。
⇒「日本語を勉強中の」外国の方が書いたとは思えないほど、自然な文章とお見受けしました。

2.> 若いときに「ノルウェイの森」を途中まで読んだことがあります。内容は受けられないという理由でこの作家をあきらめました。
⇒それでは、この作品のような長編でなく、もっと短いものをお読みになってみませんか。例えば、『神の子どもたちはみな踊る』などはいかがでしょう。本書は1999年8月から12月にかけて「新潮」に連載された5つの短編に、作者がもう一つ書き下ろしを加え、2002年文庫にまとめられたものです。薄い文庫本ですので、すぐに読めると思います。また、「内容を受けられない」ようなことにはならないと思います。ただし、その破天荒とも思える筋が、面白いと感じていただけるかどうかは保証の限りではありませんが。
 この文庫本全体の表題『神の子どもたちはみな踊る』は、収録されている6編のうちの1編からとったもので、またどの1編も(当の「神の子どもたちはみな踊る」を含めて!)、「神」とは関係ない話です。

 以下に、全6編のあらすじをざっとご紹介します。(なお、カッコ内は私見です)。
 「UFOが釧路に降りる」:妻に逃げられた小村は気分転換のために休暇をとって旅に出ようと考える。同僚佐々木に釧路行きを勧められる、というより妹ケイコに荷物を運ぶように頼まれる。(荷物の中身は最後まで分からない。つまりこれは作品のための「道具立て」にすぎない、とも思える)。釧路に着くと、ケイコが迎えにきている。彼女の友人シマオさんが一緒だった。二人に宿まで案内され、三人で雑談をしている途中、なぜかケイコは中座する。そのあと、小村はシマオさんから、「UFOが釧路に降りるのを目撃したある人妻が蒸発した話」などを聞く。そんな中で、二人は急速に、親密に、いや「怪しい関係」になっていく…。(このタイトルのつけ方が不思議)。
 「アイロンのある風景」:神戸出身の中年男性三宅、事情は分からないが妻子を神戸に残したまま茨城の海辺に住んでいる。ある冬の深夜、流木を集め、知り合った順子・啓介夫妻を誘って焚き火をする。啓介は途中で腹痛を訴えて先に帰宅する。残った二人は対話の中で親密さを増していく。そして、火が消えたら二人一緒に死ぬ約束を(いとも簡単に!)する。とろ火の前で順子は三宅にもたれたまま眠りに落ちる…。なお、「アイロンのある風景」とは三宅の描いた絵の題である。(このタイトルのつけ方も不思議)。
 「神の子どもたちはみな踊る」:善也は、いわゆる私生児だが、母親や知人らからは「神の子」と聞かされて育った。しかし17歳の時、出生の秘密を聞き、父親は「犬にかじられて右耳たぶを失った産婦人科医」であることを確信する。その後25歳の時、帰宅途上の電車内で父親と思しき人を見かけ、後を追う。電車、タクシーと乗り継ぎ、郊外の夜道を歩いて追跡するが、行く手に現われた野球場の囲いの金網にあいた穴をくぐったところで見失ってしまう。仕方なく善也はマウンドのあたりで踊る、月の光を浴びて踊る。「神の子はみな踊るのだ」…。(全然面白くない。「父親と思しき人との対話」の場面へ続けてもらいたい)。
 「タイランド」:医師のさつきは学会でタイへ出向し、会議の後の自由な一週間を利用して息抜きの観光をする。ガイドのニミットが自前の高級車を運転しながら案内してくれるのだが、その温厚な人柄からくる暖かみのある会話にさつきは心休まる。帰国の直前に占い師の老女に引き合わされ、「あなたは体の中に石を持っている」―それは3年前に分かれた前夫に対する怨恨なのだろうか?―「夢の中に現れる大蛇にそれを飲み込んでもらうように」と言われる。さつきは帰路の機中で、帰ったら思い切り眠ろうと考える。
 「かえるくん、東京を救う」:金融会社に勤める片桐が帰宅してアパートに入ると、大きな蛙が待っている。「かえるくん」の言うには、近々東京に大地震が起こるはずだから、協力してそれを食い止めようというのだ。地震の震源である「みみずくん」と闘うのである。「かえるくん」は、片桐の「意識上の」支援を受けて勇敢に闘い、「みみずくん」に勝って地震を未然に防ぐことに成功する。がしかし、そのあと「かえるくん」は片桐の目の前でドロドロに融けて消えてしまう。(本書中最も楽しく読めた作品。ただ、最後は「現実との折り合い」をつけるために「かえるくん」を無理やり消したように感じる。ここはむしろ消さない方がよいと思う。はじめから「童話風」であることが分かるのだから)。
 「蜜蜂パイ」:「熊のとんきちとまさきちは親友だ。とんきちは鮭取りが、まさきちは蜂蜜取りが上手だったので、それを交換しあった。ところが鮭が取れなくなってとんきちは困り、二人の間にひびが入った」という物話を淳平おじさんは沙羅に語った。沙羅はとんきちが可哀そうだと思う。ところで、淳平、沙羅の母小夜子、父高槻の三人は大学の同級で親友だった。しかし、高槻は妻の小夜子と子の沙羅を捨てて別の女のもとに去ったのだった。<とんきちは、まさきちが集めた蜂蜜を使ってパイをつくることを思いついた。そして、とてもおいしい蜂蜜パイができて、二人の間に元の仲良しの関係が甦った>という続きを淳平は考える。そう沙羅に語ろうと思う。「沙羅は喜ぶだろう。小夜子も喜ぶだろう。」淳平は昔から小夜子が好きだった。「この二人の女をしっかり抱きしめよう。…」
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この回答へのお礼

 再びありがとうございます。短編のご紹介に感謝いたします。手元の二冊の随筆を読み終わったら、知人からもらった「風の歌を聴け」を読んでみたいと思います。何度もご親切に教えていただき本当にありがとうございました。大変助かりました。頭をちょっとリフレッシュしたいこのところです。

お礼日時:2013/02/14 23:39

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