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お釈迦さまの生きた2500年前にはインドに限らず世界中どこを見渡しても「人間」という概念がなかった。
「人」という言葉と「我」という言葉だけがあった。
現代では「人間」という言葉一つで自己を定義できるが、昔はそれだけでも哲学的に苦心しただろう。
そこでお釈迦様は無の信仰に基づいて、定義のあいまいだった我の概念について無我説を打ち出しながら、一方で自らを仏陀と名乗った。
無我説の今日の研究では、当時のインドで主流だったバラモン僧の研究でアートマンと定義された我、すなわち自己について、反論として自己はバラモンの考える我ではないと言ったということになっている。そして仏陀として自らを名乗り、無我を主張した。これらは宗教家同士の権力闘争に過ぎず、実のところアートマン説に対案を示さず、無であるという完全否定のみを主張する暴力的論争の持ち掛け方であり、一方で当の本人は仏陀であった。
この無我説は階級制度が過酷だった当時において、階級制度の否定という政治的意図をもった事柄であり、現代には階級制度の否定はおおむね、当時なかった人間という言葉をかざすことによって行われている。
お釈迦様の生きた当時はこの人間という概念が確立していなかったので、自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。

それでは、仏陀が何者であったかというと、自己について人間という言葉に近い理想を持っていたのであろう。
仏という言葉を現代語訳すると、人間を意味する。


今回の質問は論理の主張と言うよりも、研究の成果をさらに先に薦めるための学問上の事柄で、何がしかのご意見やアイデアなりを募集しています。

A 回答 (4件)

大学教授の本を読むと、簡単に分かりますよ。

下田 正弘教授のとか、めちゃ良いですよ。
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この回答へのお礼

ありがとう。
それで判ると言うなら、君の判っていると言う事だね。
私は横着なんでな。
君の判っている事を直接指南してくれたまえ。

お礼日時:2013/03/16 22:53

>無我の境地とは自らが人間である事をかみしめる事だ



 まあ、ちゃいます。無我は無我と表現するしかなく、翻訳は不可能。

>お釈迦さまの生きた2500年前にはインドに限らず世界中どこを見渡しても「人間」という概念がなかった。

 それって、どんなファンタジーでしょう? 有史以来、人間は人間に興味津々だったことは明らかで、有史以前にもその形跡があります。たとえば、ネアンデルタールは死者に花を手向けて葬っていました。

>「人」という言葉と「我」という言葉だけがあった。

 言葉遊びは置いておきましょうか、次行きます。

>現代では「人間」という言葉一つで自己を定義できるが、昔はそれだけでも哲学的に苦心しただろう。

 できないので、誰しも悩むんですよ。たとえば、自己同一性の獲得って分かりますか?

>そこでお釈迦様は無の信仰に基づいて、定義のあいまいだった我の概念について無我説を打ち出しながら、一方で自らを仏陀と名乗った。

 彼は信仰に基づくことを止めて見て、悟ったわけです。アートマンなる永遠不変不滅の『我』はなかったとかですな。

>無我説の今日の研究では、当時のインドで主流だったバラモン僧の研究でアートマンと定義された我、すなわち自己について、反論として自己はバラモンの考える我ではないと言ったということになっている。

 そう思う人もいますね。

>そして仏陀として自らを名乗り、無我を主張した。

 ブッダとは、《(真理)悟った人》の意味で、「覚者」と意訳されることもあり、音訳で仏陀、さらに仏ともなっていますな。仏陀と呼ばれたのは、周囲がそれまでのバラモンの習慣に倣い、真理に触れた人として。新たな真理を作ったという認識はないのです。それも当然、有ると思われていたものを無いとしただけですから。

>これらは宗教家同士の権力闘争に過ぎず、実のところアートマン説に対案を示さず、無であるという完全否定のみを主張する暴力的論争の持ち掛け方であり、一方で当の本人は仏陀であった。

 歴史としては、そういう見方もできるでしょうな。

>この無我説は階級制度が過酷だった当時において、階級制度の否定という政治的意図をもった事柄であり、現代には階級制度の否定はおおむね、当時なかった人間という言葉をかざすことによって行われている。

 ブッダはノンポリだったようですがね。

>お釈迦様の生きた当時はこの人間という概念が確立していなかったので、自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。

 今でも人間という概念は確立してませんからな。人間が人間という概念を確立することは、永遠にないでしょう。その確立を行う自分を含むという事態に陥りますからな。

>それでは、仏陀が何者であったかというと、自己について人間という言葉に近い理想を持っていたのであろう。

 いや、余計なものを捨ててみただけですよ。もっとも生半可でできることではなかったですけどね。修破離を死ぬぎりぎりまでやって、そうまでして得たもの、得られそうなものをすっぱり断捨離したんですからな。

 それって精神的には完全に一度死んでいるということ。楽に死んだわけではない。自分で自分の体をのこぎりで、まず足、手、腕とじわじわ切り離すくらいの苦痛だったでしょうな。

 ブッダが修得した、深すぎる瞑想(無想、非想非非想とかとか)や、ど外れた苦行(脳内の自己麻薬物質が過剰放出される)って、『魔境』だったからなあ。そういうことがやれた自分は凄い、大聖者、とかいった勘違いを起こしてしまう。それを自分の意思で捨てるんですからね。

 普通は、ささやかな『自分らしさ』を少しだけ、しかも一時的に否定するのですら、絶対したくない程苦痛なのにね。

>仏という言葉を現代語訳すると、人間を意味する。

 ちゃいますよ。《(真理を)悟った人》ですがな。

 誰かを否定しても自分が正しいと分かるわけではない。ましてや自分で作った藁人形を叩いてちゃ、駄目ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとう。
レッツチチをもげダンスだ。
http://okwave.jp/qa/q7541665.html

質問の内容が行き届いていなかったみたいだね。
アートマンを否定しながらも、自己は真理を悟った人として、人であり仏陀という別の人格を立てた。
あくまでその仏陀も人なのだが、その内訳を現代風にすると仏と言うのは、人間に近い理想を言葉少なに示していたのだろうと言う、今回の質問だ。
普遍的人間性に関して人知の合意がない事は了解しているよ。
君達は旧人類で人間を名乗るのが早すぎたんだよ。

お礼日時:2013/03/17 20:12

先学は実にありがたい。

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この回答へのお礼

ありがとう。
A1さんの事を言っているのかな
そうだね。

お礼日時:2013/03/17 20:01

ちょっと横入り、失礼します。


>自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。
これは確かにそうでした。出典は忘れたけど。
バラモンの階級は、神が決めたものとされ、変え難いものであった。
それ以下の階級も、神が決めたとされていた。
(産まれる前から決められていた)
お釈迦様は、これに対抗して、神など無いと言ったのでしょうね。
そして、我こそは、神に依存することなく、実存するものなり。
これはまさしく、黄色レンジャーです。
笑点にたとえるなら、きくちゃんです。
しかし内心シビアだったかもしれない、というのは、
神について語らなかったから。それに自分の思想を定型化することを
禁じていたから。だから対機説法という、ケースバイケースの
説法しかできなかった。それは神を恐れたからではないですか?
しかしその禁は破られ、弟子によって定型化されてしまった。
だからこんにちの仏教は、神のばちがあたって、
坊主が焼肉屋で生ビールをあおるようになった。
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この回答へのお礼

ありがとう。
良い事を教えてやろう。

我こそは、神に依存することなく、実存するものなり。

コレは錯誤だよ。
神がいなければ我もない。
そう言う無我で釈迦の悟りは死の悟りだ。

お礼日時:2013/03/17 01:02

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