牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

デカルトの名言とされている「コギト・エルゴ・スム」に関する質問です。

私の持っている本の解説で、
デカルトが、この名言の境地に到達するまでのことについて説明があったのですが、
この説明の意味が良く分からなかった(意味が上手くつながらなかった)ので、そのことについて
お聞きしたく質問致します。

以下のような解説文なのですが

デカルトはあらゆる物事を疑い抜いたあげく、それでもなお疑い得ないものとして実在する、
この「疑っている自分自身の存在」(=コギト的自己)を発見した。
「Cogito ergo sum」(思う、故に、我在り。)である。


まず、「疑い抜いたあげく」、「疑い得ないものとして実在する、この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)を発見した」とありますが、
「この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)」は本当に疑い得ないのかが疑問です。

確かに、例えば、自分が自分自身の疑っているかどうかを疑おうとしても、「自分は本当に今疑っているのか」と疑うことになり、結局は「疑っている」という意識作用が存在していると確実に言えることになります。

しかし、この『疑っている自分自身の存在』は確実な「実在」と言えても、「疑い得ない」ものではなく、
疑い得る対象になるとは思えるのですが、いかがでしょうか?

なぜなら、「疑っている自己を疑う」という意識作用を通じて『疑っている自分自身の存在』の確実性を確認できた以上、「疑っている自己」は「疑い得る」と言わざる得なくなると思えるのですが・・・。


また、今度は逆に「疑っている自己は疑い得ない」と言えても、そのような自己は確実に存在するとは言えないのではないかという疑問です。

「疑っている自己は疑い得ない」ということを確認するために、
「自分がいま本当に疑っているかどうか」を疑おうとすると、疑う対象にするべき「疑っている自己」は既に過去形の「疑っていた自己」になってしまい、
本当に捉えたかった「疑っている自己」は、先程の「疑っている自己」とは別に新しく出現し、「疑っている側」に回ってしまいます。

このような意味においては、
現在進行形の「疑っている自己」は「疑い得ない」(=疑うことが人間の認識能力的に不可能という意味で「できない」)と言えます。

しかし、「疑っている自己は疑い得ない(=疑えない)」と言えても、
このような自己が確実に存在するとは言えないのではないでしょうか?

なぜなら、今回の「疑い得ない」は、そもそも人間の能力的な制約から「疑えない」の意味であって、
「疑っている自己」自体が確実に存在することを積極的に支持するものではないと思えるからです。
(「疑う」という「ふるい」から逃げられ続けるために「疑えない」ので、「疑っている自己」自体がそもそも「実在」しているかどうかは別問題。)


以上の2点の疑問なのですが、まとめると、
「疑っている自己」の「実在」性に重点を置いて意味を解釈すると、それは「疑い得る」のではという疑問が湧き、
また、「疑っている自己」が「疑い得ない」という点に重点を置くと、それは「実在」しているのかが疑わしくなります。

この2点を意味上上手くまとめることができれば、解説文の意味もスッキリと理解できるようになりそうなんですが・・・。
それは可能でしょうか?
それとも、私の疑問自体がおかしいでしょうか?
(自分で打ち込んでいてなんですが、質問文の意味に違和感が湧きっぱなしでした(汗)。)


長々とまとまりのない質問で申し訳ございません。
お知恵をお貸しください。
宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

基本的な論旨に問題はないです。

とくに、思考をしっかりと現実上の時間的継起のなかで捉えているところ、つまり「疑っていた自分」といった観点を表しているところはこういう掲示板ではなかなか珍しい、かつ、よい疑問です。が、
「結局は「疑っている」という意識作用が存在していると確実に言えることになります。しかし、この『疑っている自分自身の存在』は確実な「実在」と言えても」
ここに飛躍があります。意識作用の実在の話が自分の実在の話になっています。まだちょっとデカルトに引きずられている感じがあります。

私からすれば、あなたは解説文を理解しているからこそ、適切な疑問を投げかけている。あなたの言う理解が、解説文やデカルトを正しいと是認することなら、そうした賛成は理解とは別だと言います。
あなたの疑問が的外れではないこと、それはニーチェやストローソンやライルなど、いわば現代に属する哲学者が、デカルトを完膚なきまでボコっていることからも明らかです。あなたの疑問はなにもおかしくないし、間違ってはいない。
デカルトは懐疑論への対抗意識から方法的懐を書いたのであり、いわばはじめから自己の実在を前提としているわけです。だから「発見した」という説明は誤解を招きますね。私は方法的懐疑を信用していない。それはデカルトが我の存在を魅力的に記述したものだ、ぐらいに見なしています。つまり論証と言うよりは演出だと。
ちなみに、デカルトはレス・コギスタンス(思惟する者)とレス・エクステンティア(拡がりをもつ物、延長、いわゆる物体)とをわける二元論に陥り、脳の松果体がこの二つの媒介となるとかほざきましたが、それは誤りであることはすでに明らかになっています。
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この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2013/04/18 15:24

 こんにちは。



 ○ うたがう あるいは 考える

 だけでは《わたしのわたしたる由縁》にはたどり着かないかも分かりません。

 ○ あやまつ まちがう あるいは あざむかれる、これらのことに気づく

 と採るとよいと思います。その気づきのときに《考える》ということのようです。

 
 デカルトには種本があるようです。



   *


 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 我れに還った我れをもうたがうなら それは悪しき無限に落ち入ります。と我れは知っているようです。
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この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございました。
歴史的な背景に関するお話、興味深かったです。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/18 15:26

>このような自己が確実に存在するとは言えないのではないでしょうか?



 その通り。
 自己が確実に存在するとは言えないという視点は、第三者を想定しているのでそうなります。

 つまり、我 思う 我にとって我あり。で我は確実に存在してますね。

 我 思うんだから 誰からみても 我はあるはずでしょ。 とは言えないわけで、それを我が想定しているので確実性を失います。 


 「我」 と 「確実に存在する」 を深堀するによって明確になります。
 
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この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございました。
非常に参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/18 15:24

哲学については素人の大学生です。

デカルトは高校倫理とか大学の入試問題ぐらいの経験しかないので、私なりの考えを書いてみます。

> この『疑っている自分自身の存在』は確実な「実在」と言えても、「疑い得ない」ものではなく、
疑い得る対象になるとは思えるのですが、いかがでしょうか?
> なぜなら、「疑っている自己を疑う」という意識作用を通じて『疑っている自分自身の存在』の確実性を確認できた以上、「疑っている自己」は「疑い得る」と言わざる得なくなると思えるのですが・・・。

私は、「疑い得ない」は「いくら疑ってもそれは確実に正しい」という意味だと解釈していました。
質問者さんのような「疑う対象となりえない」という意味も一理あると思いました。

> 「疑っている自己は疑い得ない」ということを確認するために、「自分がいま本当に疑っているかどうか」を疑おうとすると、疑う対象にするべき「疑っている自己」は既に過去形の「疑っていた自己」になってしまい、本当に捉えたかった「疑っている自己」は、先程の「疑っている自己」とは別に新しく出現し、「疑っている側」に回ってしまいます。

この考えは正しいと思います。同じような考えを何かで読んだことがあります。(入試過去問かな?)
たとえば、脳卒中や認知症になってしまい考える能力がなくなったら、「私」の存在が証明できなくなるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございました。

戴いたご質問なんですが、すみません。
私にも分からないです。ごめんなさい。

ただ、自分の疑問に関しては、
皆さんからのご回答と自分なりの思索で一定の結論に到達できました。
以下の通りです。

(私も勉強中の身ですので余り偉そうなことは言えませんが…)


「疑い得ないものとして実在する、『疑っている自己』」のうち、

まず「疑い得ないもの」の箇所は、以前と殆ど変わらず、
現在進行形の「疑っている自己」は「疑い得ない」(=疑うことが人間の認識能力的に不可能という意味で「できない」)という「疑い得ない」ものであるとの認識ですが、

ただ以前との変更点は、(他の回答者の方からの指摘にもあったとおり)この場合の「疑っている自己」の「自己」とは、
正確には「疑っている」という「意識作用」のことであり、「自己」と即イコールの関係ではないと言えるという認識も得たという点です。

つまり、「疑っている」という「(自己の)意識作用」は、疑おうとしても疑えない。この意味で「疑い得ない」と言える。

とまとめました。


次に、「実在する」の箇所に関してなのですが、

「『疑っている自己』の実在性を確かめるために、そのことについて疑おうとしても疑うことが出来ない。(理由は先程の『疑い得ないもの』の箇所での説明のとおり)
しかし、この時『疑っている自己』は本当にいるのか?(=今、自分は本当に疑っているのか?)という『疑い』をたてていることになるので、
この『疑い』を立てた時点で既に『疑っている自己』は出現していることになる。
しかも、あらゆる『疑う』ケースで、この『疑っている自己』は出現する(せざるを得ない)。

したがって、
『疑っている自己』は確実に『実在する』といえる。」

とまとめてみました。


以上の2点を総まとめすると、

「『疑っている(自己の)意識作用』は疑おうとしても『疑い得ない』ものであり、
しかも、その『疑っている(自己の)意識作用』は『疑いを立てると必ず出現する』という意味で、確実に『実在する』といえる。

よって、

疑い得ないものとして実在する、『疑っている自己』

は『自己』を『(自己の)意識作用』に読みかえれば成立するといえる。」

以上のようにまとめてみました。
何かの参考になれば幸いです。

お互いに勉強に励み、思索を深めましょう!

ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/18 16:29

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