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進化するほどにその種が絶滅するリスクは高くなりますよね。
多少の変異をしたのち微生物のまま深海からエベレストの天辺まで生息範囲を広げていた方が絶滅のリスクは低くないでしょうか。
微生物が人間へと進化する必要があったでしょうか?

A 回答 (22件中1~10件)

返信ありがとうございました。


ようは現代科学の唯物的な考えと人生の意味や超越的存在の意志の有無などの哲学的な考えのすり合わせに苦労されている、というところでしょうか。

ご自身でもある程度結論は出されているようですが、自分なりの考察を書いてみます。


・進化心理学的には人生に意味はないのでしょうか。
あるないというより、扱っていません。あくまでも進化心理学は進化論の考え方から人間の心理が発生したメカニズムを解き明かそうという学問です。それに対して人生の意味とは個人個人が見出すものであり、感情的なものでもあります。全く別物なんです。それはそれ、これはこれ、というべきか。
仮に進化心理学が完全に正しいとして、私の感情は進化論的に機械的に生み出されたものだとします。好悪も優しさや怒りも全て生存のために生み出されたものだとして、それが私が見出す私の人生の意味に何か関係するでしょうか?私が「私の人生とはこのためにあったのだ!」と思うことにはどうでもいい話です。
科学というのは物差しみたいなものですから。私の身長が170cmであることと、私の生きる意味は直接的な繋がりはないですよね。まあ、もしかしたら好きな女性に「身長180cm未満の男なんて嫌い」と言われたら身長170cmの私に生きる意味はないんだ~、なんて思うかもしれませんけど(笑)。進化心理学もそんなもんですよ。


・なぜ進化論は進化に意味や目的がないと考えるのか
もともと自然科学は神の意志の否定から始まりましたから(ざっくりした言い方ですので完全に正しい言い方ではありませんが)、そういう考え方が強いのでしょう。
昔は全ての現象は神の意志による、という考えでした。例えば雷は神の怒りとか神の超能力である、と考えてそこで思考は止まっていたわけです。でもそれに対して、特定の何かの意志である、という観念を捨てて、客観的なメカニズムを分析し、観測してその原理原則を見出そうとするのが自然科学の基本です。雷であれば雷雲の中で上昇気流によって生じる静電気が~、といった感じで。
進化論についても、それまでは神様が生物をデザインして作りだしたのだ、という考えからの脱却の過程で、神に依存しない生き物の肉体の形成の原理原則を調べる過程で生み出された理論です。ですので、進化という現象そのものに関しては神の意志は想定しません。そして神の意志を想定せずとも進化は起きうると考えて良いだろうと現状のデータからは一般に考えられています。

とはいえ、進化に神(かなにか)の意志が働いていると仮定し、それについて研究することはけして非科学的なことではありません。もし神のような存在が実在し、その意志で世界に対して干渉しているのなら、その神や神の意志ですら自然現象の一部であり、研究対象となりえます。もしそうであるならば神の意志の実在を示す客観的な事実が存在し、それが発見されれば「進化にはなんらかの存在の意志が干渉している」という学説がでてくることでしょう。
ただ、現状の研究では「神の意志が実在し、進化に干渉している」ということを客観的に示すデータが見つかってはいないようです。ですので現状では「進化は神の意志なしで起きているのだろう」と言わざるをえません。
そこからさらに踏み込んで「進化に神の意志は絶対に関わっていない」と考えるかどうかは個々人のスタンスの問題ですね。


・矛盾なく説明はするけれども正しいと言えるか。
言えません。そもそも科学のやり方自体が「真実かどうかは分からないがデータと矛盾なく説明できるなら正しいと仮定する」というものです。人間の能力には限界がありますので完全無欠に真実を見出すことはできません。後々、新しい情報で古い考えが否定されることはよく起こっています。だからこそ、どんな理論も後年にどんどん修正されていくわけです。ここらへん、科学に直接関わってない人が陥りやすい落とし穴ですね。科学者は別に自分にも科学にも絶対の確信をもって研究しているわけではないんですよ。あくまでも現状のデータからするとこう言える、の繰り返しです。でもこれを繰り返すことで少しずつでも真実に近づいているのではないか、と考えるわけです。進化論が絶対的な真実はどうかはともかく、進化論が正しいかどうかの研究のなかで遺伝子やDNAのメカニズムが解き明かされ、様々な技術が生み出されていますし。



・>人間が作為的に選別しているのですからいわゆる自然淘汰とは違いますよね。
>しかし、進化論でその作為を見抜けますか?
>例えば一万年後にダックスフントの子孫が生き残っていて品種改良に関する情報がなかったらどうでしょう。自然淘汰と作為の違いを見分けることが出来るのでしょうか。

状況次第ですが原理的には恐らく可能かと思います。ダックスフントが発生した時期に短いスパンで急激に犬の骨格に変化が生じてるのは明らかですので、犬の化石なりなんなりが1万年後に十分発見できたのならば、そう結論付けることは可能かと思います。今でも家畜の育種改良は何千年前から起こっていた、というような研究はされていますし。無論、超能力を持った誰かが意図的に犬の育種改良の証拠を全て消してしまったとすれば難しいことですけど。その時は超能力を持った存在が実在したというデータを発見できるかどうかですね。



・先にご説明した通り結果は同じなわけですからそれを見抜けるかという事なんです。
見抜けるかは分かりません。状況次第です。もしも誰かの意図が生物の進化に干渉しているのならそこにはそれを示す事実が存在します。例えば1時期だけ不自然に生物の進化の速度が早い、遺伝のメカニズム的にありえない変化をしている、など。それを示す情報を見つけることができれば見抜くことは可能でしょう。見つけられなければ見抜けないでしょうね。
ただ、それを見抜く方法論としては現状の自然科学の考えがベストとは言えないかもですが、ベターではあると思います。
現実問題、人間は絶対的に正しい真実を見抜く超能力は持っていません。人間の今持っている能力を駆使して真実に近づいていくしかないんです。とにかくデータを集めて考察をする、そしていつか、より正しい理論が発見されることを祈る、それだけです。重要なのは進化論が絶対的に正しいかどうかではなく、そう議論し、研究をすることで新しい知見を得ることではないかなと思います。
実際、正しいかどうかは別として進化論を否定する学者や進化論とは別の理論を発表する学者、進化論に新しい理論を組み込む学者も多数いますから。
それに仮に本当は進化に意志が関わってるとしても、進化に意志が存在しないというスタンスから研究することも間違いではないんですよ。方法論としてはよくあります。答えがAかBか分からない時に、あえてAが絶対に正しいと考えて研究することで、本当にAならそれが正しいというデータがでるはずですし、正しいのはBならばAではない、というデータがでますから。


・進化論を含め科学では扱えないことを「無い」と言い切る根拠です。
これは言葉の解釈の問題かと思います。前述の内容である程度はご理解いただけるかな、と思います。



・>>必要もなにも、別に誰かが人間を必要として進化させたのではなく、細胞構造が変異していったら
>>人間になっただけですよ。

>どうやってそれを証明するのですか?
一応、されています。それが絶対的に正しいかどうかは分かりませんし、質問者様が納得するかどうかも分かりませんが。


・進化する目的は何かという事はすなわち生命が存在する意味は何かという問いなんですよね。
あくまでも進化論は進化のメカニズムに焦点を当ててるわけでして、私がどこかに歩いていく目的を調べることと、私の歩行のメカニズムを研究することは別な話でして。
自然科学とはHow(どうやって?)を追求する学問なのでWhy(なぜ?)を追求する学問ではないんです。このことを200年前から科学者が科学に携わってない人に説明するのに苦労している話が残っていますね。


ひとまずこんなところで。またこれに関して疑問などありましたらよろしくお願いします。

この回答への補足

いかん!!もう一つ、

現在人間はDNAを直接操作しています。
人間による進化に対しての意図・意思・目的・作為の介入はもう始まっています。
これからの世代の生物には進化論(自然淘汰主義?)は通用しませんか?

補足日時:2013/04/28 20:59
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私の疑問に一つ一つご回答いただいて感謝です。
ご回答いただいた内容はなるほどと納得しておりますが、二つばかりお聞きしたい事があります。

このQ&Aでもちょくちょく出てくる『偶然』というワードです。
一般的には予測不能という意味がありますが、予測できないことを偶然と呼ぶのはどうかなと思うのです。
予測できないからと言って偶然と呼ぶのはあまりにも乱暴だろうと思います。
かりにも科学者が偶然という言葉をしょっちゅう使うとは思えませんが、科学が偶然をどうとらえているのかが気になります。
以前にも「科学的に見て偶然とは何か」という質問を立てましたが明確な回答は得られませんでした。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7201959.html

それともう一つ、
もし、知的生命体が他の惑星で見つかってその形状が人型だったら、

>原始的な生命は必ず人間のような知的生命体まで進化するという必然がある

と言えるでしょうか?
これは先の質問にもリンクしており偶然にしちゃ出来すぎだろうという事になるかなと思います。
すると進化論の言う自然淘汰も怪しいなと思ったりするわけです。

お礼日時:2013/04/28 20:44

書き忘れていました。




>動物でもそれが出来るなら自らの意志による自らのの進化への介入

難しいでしょうね。獲得形質の遺伝は免疫などのごく限られた細胞レベルの反応だけみたいですし、少なくとも、マクロレベルでの変化を次の世代に与えられるようなものではなさそうです。
そんなことをするくらいなら普通に品種改良でもしたほうが遥かに早いかと思います。

それとも人間以外の動物が、ということでしょうか?
それこそ無理でしょう。彼らにそこまで思考するための脳がありませんし、進化のメカニズムを理解しているとは思えません。ほとんどの動物は条件反射で交尾や子育てをしてるくらいですから。
比較的知能が高いとされる犬ですら子育て中に子犬を何匹か隠しても気付かないくらいです。
仮に彼らにそれが可能な知能があったとして、進化に何千何万という世代交代が必要なのは確かかと思いますが、ある代の個体が「我々の種はもっと筋肉質になるべきだ!」と考えて筋肉トレーニングの効果を子供に受け継がせる体操か何かを開発したとします。果たしてその何千という世代全てが自分が生きてる間は目に見える効果がないであろうその体操を次世代に受け継がせてくれるでしょうか。
疑問です。
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この回答へのお礼

色々と質問にお答えいただき感謝です。
日頃疑問に思っていたことも質問出来て意義深かったです。
また機会がありましたらよろしくお願いいたします。

そのほかご回答いただいた皆様ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/30 18:17

>なるほど、でもDNA複製に関して言えばミスする場所は偶発的でもコピーという手法をとる限りミス自体が起きる可能性は限りなく高いのではないでしょうか?


>見方を変えればミスが起きることを期待していると見えないこともないかと。


先ほどの回答でも書きましたが、変異が起きやすすぎれば生存に不利、全く起きないならば環境への適応がし辛い。淘汰という観点で見れば、前者は遺伝子の異常により生存は難しく、後者は環境が変化した時に対応できなかったり、より適応力の高い種に駆逐され、結果的に適切に遺伝子を保持しつつも、コピーミスもたまに起こるというバランスの種が生き残った、そう考えられるかもしれません。
それは傍から見ればミスが適度な確率で起こることを期待しているシステムであるかのように見えるかもしれませんね。




>ここでちょっと疑問がわくのですが、初期の生命には『寿命による死』はあったんでしょうか?
>死と進化はセットと言っていいほどだと思うんですが、進化を否定して不死を選ぶという選択もあったんじゃないでしょうか。

死と進化はセットというわけではないですよ。細菌などの分裂で増える単細胞生物を見てみましょう。彼らは1つの個体が二つに分かれて増えます。さて、最初の個体は死にましたか?二つに増えたうちのどちらが最初の個体でしょうか?
この考えでいくと人間などの多細胞生物は個体としては死んでも、細胞という観点で見れば、子供を残すことに成功すれば、自分の生殖細胞を残しています。すなわち、細胞レベルでは死んでいないと言えます。
現状の学説から考えると初期の生命は単細胞生物の可能性は高いでしょう。当然、その増え方は分裂かそれに準ずるものだと思います。であれば彼らには寿命はないと考えられます。
この場合、進化とセットなのは死ではなく細胞の増殖、その際の遺伝子配列のコピーだと言えます。

ではでは、進化を否定するということはすなわち細胞のコピーを否定するということですが、それで生存していけるでしょうか?
まあ、無理でしょう。細胞って凄く死にやすいです。細菌を観察すれば分かりますが、やつらは凄い勢いで増えますが、ちょっとしたことで簡単に死にます。あらゆる環境に動じずにけして死なない細胞になる、というのは現実的ではないと思います。そもそもタンパク質と核酸、脂質と水分で構成された細胞は化学的にも物理的にもけして頑丈とは言えないんです。
抗生物質には耐性を持つ病原微生物だって熱湯やエタノールにはなすすべもないのです。細胞構造上、耐えようのない攻撃には耐性も持ちようが無いんです。

では、多細胞生物では不死になれるか?これも難しいと言わざるを得ません。体細胞の分裂回数には制限がかかっていることは有名ですが、ならばと分裂回数のリミッターを解除すれば癌化することも分かっています。そして、仮に不老になれたとしてもどんな動物だって怪我や病気には耐えられません。

ならばSFっぽく、高分子プラスティックだとか金属だとかの頑丈な物質で無敵の細胞を作るとしましょうか。今度は流動性がありません。生物である以上、増殖はせずとも外部から物質とエネルギーを受け取り代謝しなければ何もできません。頑丈すぎる構成物質は代謝できません。頑丈とはすなわち変化をさせ辛いということなんですから。

もしかしたら、不死を選んだ種はいたかもしれません。でも、彼らは一度死ねばそこでゲームオーバー。一方、増殖と進化を選んだ種は種の99%が死に耐えようとも、わずかでも生き残りがいれば彼らが再び増殖するチャンスがあります。そう考えると、長いスパンで生きのびる可能性が高いのは増殖を選んだ種ではないでしょうか。

あるいは、実は不死の種はいるかもしれません。頑丈無敵の肉体を持ち、外部から栄養を取る必要もなにもない。動くことも考える必要もない。であるなら、もしかしたらそこらへんに落ちてる小石は不死身の生物なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

生物は面白いですね~

お礼日時:2013/04/30 18:07

>・進化したから絶滅しなかった



>という意見がたまにあるのですが(子供のころ学校でそう教わったような気もします)これは正しいのでしょうか。
>結果論でいえばそうとも言えるのかもしれませんが、じゃあ進化は絶滅回避の手段か?という疑問も出てきます。

これは状況次第、としか言えません。進化という機能はそれこそ神様が意図的に組み込んだ、とかでもない限り偶発的に発生したものだと考えられます。まさか原始の生物が「我々の子孫が絶滅しないために進化の機構を我々の細胞に組み込もう」と考えて肉体改造をしたとは考えにくい気がします。とすれば、『結果的に進化は絶滅回避の手段となった』と言えるかと思います。
実のところRNAやDNAの複製はミスがとても起こりやすく、特に細菌とかは凄い勢いでコピーミスを連発します。その結果、あまり極端な変異を起こしたものは死ぬでしょうが、マイナーな変化はしょっちゅう起こしてるんですよね。その結果、例えば抗生物質を噴霧したら、細菌の中には高確率でその抗生物質に耐性を持った個体がいたりするわけです。その耐性を持った個体は最初は少数でも、そいつらだけが生き残ったとすれば他にライバルがいないのでその細菌は凄い勢いで増えますから抗生物質耐性菌が広まるわけですね。それが医療現場でも問題になっています。
個人的な考えですが、こうした遺伝子の複製の不安定さが結果的に様々なバリエーションの生命を産み、進化の機構へと繋がっていったのかもしれません。
ちなみに人間もよく遺伝子の変異は起こしていますが、心臓とか脳とか、生命維持に重大な部分に関わる遺伝子は変異しにくく、生命維持にはあまり関係ない部分の遺伝子は変異しやすい、という特性があったりします。
変異が起きやすすぎると生命維持に重要な形質まで不安定になり生存に不利、全く変異しないと環境に適応した子孫が生まれ辛い、その適度な変異のしやすい遺伝の仕組みを持った種が『結果的に』多数の子孫を残し、反映したのではないでしょうか。それが進化と呼ばれる現象の原因かも、と考えたりしています。これはあくまでも私個人の考えですが。



>再度の確認ですが進化=進化論ではないですよね?
>進化に対する考え方の一つがダーウィンから始まる進化論という認識でよろしいですね?
>それと矛盾しない形であれば別の進化論もありですね?

その通りです。ダーウィンの進化論も完璧ではありません。現代にいたるまで様々な修正や改良がくわえられておりますし、ウイルスによる進化の可能性とか、獲得形質のごく一部が次世代に受け継がれる機構が存在する可能性があるとか、ダーウィンの進化論では想定すらしていなかった理論も提唱されています。無論、それらがどこまで正しいかはまだまだ分からないところも多くて確信をもってこうとは言えない部分も多いですが。
宗教色が強くて個人的には眉唾ではありますが、神様によって全ての生物はデザインされ、進化なんて一切おきない、という考えの創造論というものもあります。まあ、その根拠は『聖書には進化について書かれてないから』だったりしますけど。
進化に関しては世界中に多数の研究者がいて様々な観点から常に研究を続けているので、それこそ今正しいだろうと考えられている現在の進化論を根本的にひっくり返す新しいデータや理論が出てくる可能性も否定できないでしょうね。
これからの研究に期待したいところです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>まさか原始の生物が「我々の子孫が絶滅しないために進化の機構を我々の細胞に組み込もう」
>と考えて肉体改造をしたとは考えにくい気がします。

なるほど、でもDNA複製に関して言えばミスする場所は偶発的でもコピーという手法をとる限りミス自体が起きる可能性は限りなく高いのではないでしょうか?
見方を変えればミスが起きることを期待していると見えないこともないかと。
ここでちょっと疑問がわくのですが、初期の生命には『寿命による死』はあったんでしょうか?
死と進化はセットと言っていいほどだと思うんですが、進化を否定して不死を選ぶという選択もあったんじゃないでしょうか。

>獲得形質のごく一部が次世代に受け継がれる機構が存在する可能性があるとか

植物ではそれが出来るとかいう話がネットに書いてありましたが、動物でもそれが出来るなら自らの意志による自らのの進化への介入なんて言うのもありますかね。
今の人間にとってはやろうと思えばいくらでもでしょうけど。

お礼日時:2013/04/29 21:19

・なるほど、すると似た環境の惑星があって人型知的生物がいたとしたならば、微生物から人間まで進化するのはそれほど奇跡的なことではないということになりませんか?



そうですね。微生物から人間なりなんなりの多細胞生物へと変化していくこと自体は進化論的考えが事実だとすればそうおかしいことではないでしょう。ただ、バタフライ効果という考え方があります。初期条件のごくわずかな違いで結果が極端に変化するという理論です。例えば地球と同じような惑星を多数用意し、生物の発生を観察した場合に初期条件のそれこそ分子レベルのちょっとした違いで地球とは全く違う結果になる可能性は非常に高いと言えます。
スタートは一緒でも、無数の枝分かれした通路を突き進めば、同じゴールに到達するかは分かりません。そう考えると今のような人間が生まれる可能性は何億何兆分の1を遥かに下回る極めて低い可能性かもしれません。でももしかしたら知能の発達と人型という形状になんらかの相関関係があるならばこの確率はもっと上がるかもしれません。こればかりはまだまだ現代の生物学ではなんとも言えないですね。
目をつぶり、人工衛星の上から適当に石を地面に投げつけたとします。その石が私の家の庭に落ちる可能性は天文学的に低いと言わざるを得ませんが、でも重力に引かれて地球のどこかに落ちることは当たり前のことです(燃え尽きなければ、ですが)。
人間が産まれる確率は低いかもしれない。ですが人間が発生した事実自体はそう変なことではないのだろうと思います。





・いえ、そういう直接的な意味ではなくて、方法はともかく営利目的のために作られた動植物が自然界で言ってみれば自然淘汰世代たちと色々な意味で交雑していくと考えられます。
遺伝子組み換えの作物と原種の雑種もありうるでしょう。
そういう自然の摂理と人間の作為が交雑した進化がこれから起きていく中で従来の進化論は有効なのだろうかと思うわけです。


進化論は環境による淘汰によって進化が起きるだろうという『考え』です。遺伝子組み換え生物がいようがどうしようが、淘汰によって進化が起きうるかどうか、というのとは別の話です。
遺伝子組み換え生物だって野生で生きていれば環境内で淘汰されて進化していくでしょうし。
むしろ遺伝子組み換えよりも、人類による動物保護のほうが影響は大きいかもしれませんね。今までなら淘汰されていたはずの種を保護していけば進化にも影響を与えることでしょう。人間を環境要因として見た場合ペットや家畜は人間にとって都合のいい形質を持っていたから今のように進化した、とも言えるかもしれません。人間だって科学の目で見ればただの物質の塊であり、現象の一部にすぎませんから。


それともこういうことですかね?仮に我々の現世人類が絶滅するか、今の科学技術が完全に断絶してしまった超未来、未来の科学者が過去の動物の化石などを調べて再び進化論を見いだせるかどうか、ということでしょうか?
それは分かりません。状況次第でしょう。十分な過去の生物のデータを手に入れられれば、現世人類が遺伝子改変生物を作る何千万年も前から進化が起きていることは分かるはずです。
もっとも、人類の作った遺伝子改変動物を発見して、「なんだこりゃ?ある時期から一部の生物だけ急激な変化が起きてるぞ?」と混乱する可能性はあるかもしれませんが。
それが過去の人類による遺伝子の直接的制御であると気付くかどうかは、彼ら次第でしょう。彼らの科学技術が進歩すればいつかは遺伝子の操作技術にも到達するでしょうし、我々の実験機器を発掘し、古代人(我々)には遺伝子操作技術があったのだな、と気が付くかもしれません。
それは彼らの努力次第でしょう。

SF小説なんかだと、我々人類は古代に宇宙人が遺伝子改造で作った家畜だったとか実験動物だった、なんて設定の話は多いですが、そんな証拠が本当に出てきたら面白いかもしれませんね。

この回答への補足

あぁいかんまたもや・・・
再度の確認ですが進化=進化論ではないですよね?
進化に対する考え方の一つがダーウィンから始まる進化論という認識でよろしいですね?
それと矛盾しない形であれば別の進化論もありですね?
私も含め門外漢にとっては進化のすべてを進化論が説明したと考えがちです。
くだんの質問者さんもそこら辺のお悩みだったのだろうと思います。

補足日時:2013/04/29 11:20
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

色々参考になり大変助かります。
バタフライ効果、人間を環境要因として見るかという点、よく分かりました。
もう少しお付き合いいただけないでしょうか。

以前から疑問に思っていたのですが、

・進化したから絶滅しなかった

という意見がたまにあるのですが(子供のころ学校でそう教わったような気もします)これは正しいのでしょうか。
結果論でいえばそうとも言えるのかもしれませんが、じゃあ進化は絶滅回避の手段か?という疑問も出てきます。

お礼日時:2013/04/29 10:31

・偶然について


ざっくり言うと、特定の誰かの恣意的な操作が行われていない、という程度の意味です。
予測できるかどうかは関係ありませんね。誰かの恣意的な操作がなくても初期条件のデータさえあればその後の推移を予測は可能ですから。予測できるかどうかは未来を予測するための十分なデータがあるかどうかにすぎません。
ある場所である時にあるベクトルの風が吹いたとして、それ以前の気圧だとか地形だとかのデータがあればその風を予測することは可能です。正確性がどの程度かはそのデータ次第でしょう。



・>もし、知的生命体が他の惑星で見つかってその形状が人型だったら、
>>原始的な生命は必ず人間のような知的生命体まで進化するという必然がある
>と言えるでしょうか?
>これは先の質問にもリンクしており偶然にしちゃ出来すぎだろうという事になるかなと思います。
>すると進化論の言う自然淘汰も怪しいなと思ったりするわけです。

言えません。その惑星の状況次第です。例えばその惑星が人型の形状の生命に有利な環境であれば進化論や自然淘汰で説明が付きます。人型には人型なりのメリットとデメリットがありますのでメリットがデメリットを上回る環境ならば人型の生命が生まれる可能性は高いでしょう。あるいは、もしも神様かなにかが人型の知的生命体をその惑星の環境に関係なく作っていたとすれば、「『神』という自然現象の影響で人型知的生命体は発生しやすい」と結論できるでしょうね。
ただ、哺乳類のような、脳が頭部にあるような形状の動物の場合、人型というのは大型化した脳を支えやすい、その他の様々な器官の形状などから知能を発達させやすいという特徴がありますので(詳しくお知りになりたい場合は「直立2足歩行」「脳の発達」などで検索すれば色々ヒットすると思います)、進化論的な意味で、人型は知的生命体になりやすい、と言えるかもしれません。となればそこには人型と知能に必然性(というよりは相関関係)があると言えるかもしれませんね。
前の回答者様とのやりとりで収斂についてお知りになったようですが、環境と初期条件が似ていれば別の由来の種が良く似た形になることは広く知られています。例えば哺乳類であるクジラと魚類である魚が良く似た形であるように。こういう生き物同士の形を比較研究する学問を比較形態学といいます。
これはむしろ自然淘汰が怪しいどころか、正しさを後押しする有力なデータですよ。環境に有効な形態を取った生物種が生き残りやすいということは、別種であっても同じような環境であれば同じような形に進化するってことですから。



>現在人間はDNAを直接操作しています。
>人間による進化に対しての意図・意思・目的・作為の介入はもう始まっています。
>これからの世代の生物には進化論(自然淘汰主義?)は通用しませんか?

DNA操作に関わらず家畜などの人間が意図的に操作した種に関しては通用しません。
ただしこれは進化論が間違いとか役に立たないという意味ではありません。もともと想定してないというだけの話です。
雷の研究データは電池の開発には直接役に立たないから間違いだ、というような言い方ですね。ちょっと的外れと言わざるを得ません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ざっくり言うと、特定の誰かの恣意的な操作が行われていない、という程度の意味です。

なるほど、普段の使い方とは違いますね。
どおりでこの質問の回答者さんたちが連呼するわけだ
違いが分かっていないのが質問者の私だけであることを祈るばかりです。

>言えません。その惑星の状況次第です。例えばその惑星が人型の形状の生命に有利な環境であれば
>進化論や自然淘汰で説明が付きます。

なるほど、すると似た環境の惑星があって人型知的生物がいたとしたならば、微生物から人間まで進化するのはそれほど奇跡的なことではないということになりませんか?

>環境と初期条件が似ていれば別の由来の種が良く似た形になることは広く知られています。
>例えば哺乳類であるクジラと魚類である魚が良く似た形であるように。

なるほど、収斂についてはよく分かりました。

>DNA操作に関わらず家畜などの人間が意図的に操作した種に関しては通用しません。

いえ、そういう直接的な意味ではなくて、方法はともかく営利目的のために作られた動植物が自然界で言ってみれば自然淘汰世代たちと色々な意味で交雑していくと考えられます。
遺伝子組み換えの作物と原種の雑種もありうるでしょう。
そういう自然の摂理と人間の作為が交雑した進化がこれから起きていく中で従来の進化論は有効なのだろうかと思うわけです。

お礼日時:2013/04/29 00:51

No.1,No.8です。

きちんと読まれていないようなので再度。
 科学とは、観察された現象を説明できる推論(理論)を、【誰でも】実験や観察によって、【その推論で説明できること】を証明していく手段でしかありません。それ以上でもそれ以下でもありません。言い換えれば厳格なルールに基づくゲーム/スポーツのようなものです。
 進化論は、この地球上の生物の多様性がなぜ表れたかを説明する[変異][分散・隔離][淘汰][変異の固定]を説明する理論に過ぎません。ダーウィン自体の進化論には欠陥もありその後修正が加えられていますが、少なくともそれ以前に想起されていた進化論よりは、はるかに優れたもので現在も修正を加えられつつも、基本的な考え方は正しいとされています。
 ダーウィンの時代、すでに多くの進化論が議論され受け入れる素地があった。教会も全面的に否定したわけじゃない。有名なウィルバーフォース主教との論争だって正しく伝わってない。ウィルバーフォースは進化論は認めるけど説明が納得できないと言っている。
 このように、とても多くの誤解があるのも進化論なのです。例えば家畜が例にあげられますが家畜は野に放てば元に戻っちゃいますし、原種と交配可能です。種と言えば交配もできないほど離れている。また、ミッシングリンクの問題とか。否定するほうも支持するほうも誤解を元に議論しているから埒があかない。

 しかし、shift-2007 さんの論点はそんなところにはないようですね。

・科学が、自身の人生の根拠となりうるかということのようです。
 いわゆる収斂と言われる現象などです。まったく異なる先祖を持つ生物が、ほとんど同じ構造・生活形態を持つように進化する現象を見ると、あたかもそこには目的があるように見えます。
 ⇒Amazon.co.jp: チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書): 松永 俊男: 本( http://www.amazon.co.jp/dp/402259957X/?tag=haten … )
 をぜひお読みください。

 科学は生きる目標を与えてくれるか?
 に対しては、明確にNo!!といえます。なぜなら、科学とは厳密なルールに基づくスポーツでしかありませんからね。
 多くの哲学者や宗教家が科学と思想との狭間で悩んできたことも知られていますが、たぶん、我々の生きる目的は科学(的手法)は参考にはなっても、何の答えも与えてくれないでしょう。
 優れた科学者は、熱心な信仰家でもあるといわれるゆえんです。この宇宙の仕組みを知れば知るほど、神の存在を確信するようになるのかも。

この回答への補足

収斂についてはほかの回答者さんの説明で納得できました。
ありがとうございました。

補足日時:2013/04/29 00:51
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

収斂という言葉は初めて聞きました。
とすると・・・
進化は偶然の産物と言えるでしょうか。
神はサイコロを振らない、かも。

お礼日時:2013/04/28 20:53

>原始的な生命は必ず人間のような知的生命体まで進化するという必然がある


何とも言えないですね。
だって地球以外のサンプルが無いですから。
生命体の存在する惑星がいっぱい見つかれば、あるいは答えは出るかもしれません。
しかし、所詮宇宙自体が偶然の産物。
必然性を唱えるなら、神の存在に頼るほかないでしょう。
僕は支持しませんが。

>ダックスフントのかわいらしさも進化論的には云々
彼らの進化は偶然の産物ではなく、ヒトによる必然です。
ただし、ヒトの存在自体が偶然である
即ちヒトの存在を自然の一部として認めるのであれば、
それは今まで地球上で起こってきた進化となんら変わりないと言ってよいと思います。
ちなみに僕はそう思っているので、ヒトによる種の保存には反対です。
ヒトによる種の絶滅もまた自然の一部だと考えています。
保存するのも自然の一部かもしれませんがね。

この回答への補足

科学は悪魔の証明を逃げ口上に使ってないだろうか

補足日時:2013/04/28 08:32
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>しかし、所詮宇宙自体が偶然の産物

ははは、どうやって科学がそれを証明するのでしょう
「偶然」はそれこそ科学の手に余ると思いますよ
ここは素直に宗教や哲学に任せましょう

お礼日時:2013/04/27 23:03

まあ、科学としての扱いはこうだよ、と言うのはあるわけです。


とにかく変化しながら増えて、環境に合わないと死んで、っていうのが基本の流れで今のところおかしいところはない。ひょっとしたら未知の何かがコントロールしたかもしれないが、今のところ有力な情報はないです。

必要があったかどうかについては、科学で扱う問題ではない、でいいかもしれません。
必要と「思う」のは人間であって、物理法則は必要と言う思いで動きません。
なので、哲学したいならご自由にどうぞ、ただ、科学的にはどうでもいい話だってことでいいと思います。

科学は万人に共通に揺らぎなく扱える世界に「限定」することでその厳格な美しさを示します。
なので、その外は科学で扱うべきではないと思いますし、そういった話題なら私は深追いしません。

この回答への補足

でも進化には必然性があるようにしか思えないです。
偶然にしてはこの世界はよく出来ているなぁと感じます。

補足日時:2013/04/27 13:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そう、科学で扱うべきことは何かという所をはっきりさせたいのです。
逆に言えばそれ以外のところで哲学や宗教は存分に働いてもらいたいのです。

お礼日時:2013/04/27 10:13

ANo.7 / ANo.12 です。


読み返しているうちに矛盾点があったので、訂正と補足をいたします。それと「ANo.8に戻ります」の部分は「ANo.7に戻ります」の誤りです。

>「自然科学はそれら(必要性・目的性・超越した意思)を否定している」と…

は、必要性・目的性は否定することがありますね。特に今回の質問の場合、進化における必要性・目的性は自分で否定しておきながら、うかつなことを書いてしまいました。

その後の部分は大筋において訂正はしませんし、「自然科学は現象・理論の説明に、必要・目的・意思と言う用語を用いなくても論理的に成り立つように組み立てられているのです」ということもそのままにしておきたいと思います。

ただし、進化の説明において、目的性・必要性と用語を使わずに説明することは可能(単に省略すればよいだけなので)ですが、目的・必要があって進化が起きたかと問われるならば否定する立場は維持いたします。

以上、無用の混乱を起こすような説明で恐縮でしたが、お詫びして訂正いたします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

訂正ありがとうございます。

>目的・必要があって進化が起きたかと問われるならば否定する立場は維持いたします。

何も否定しなくてもいいのにと思うんですが・・・

お礼日時:2013/04/27 10:10

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