アポロ13号が地球に戻る時に、地上のNASAで
「Take it easy!」
って言った人がいたと思うんですけど、
誰だったか教えて下さい。

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A 回答 (3件)

アポロ13号のフライトクルーが、ジム・ラベル、フレッド・ヘイズ、ジャック・スウェイガートの3人



ケン・マッティングリーは、本来13号に乗り込む予定だったパイロットで、直前にウイルスの発見により、スェイガートと交代しました。
13号のトラブル時は、地上のシミュレーターで緊急操作の手順の確認作業を担当しました。

偉そうな人となると、NASAのミッション・フライトディレクター(管制官)を努めるジーン・クランツかも知れません。
映画「アポロ13」では、白いベストを着用して各方面にテキパキと指示を与える姿が描かれていました。
"俺のフライトで、死人は出さない!"っていうような台詞があったと思います。
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この回答へのお礼

詳しい解説ありがとうございます。
たいへん参考になりました。

お礼日時:2004/03/17 18:21

また来ました。

m(__)m
ケン・マッティングリーはペーペーの宇宙飛行士ですから、えらそうな人なら、多分 No2 さんのジーン・クランツですね。
彼は早い話が 飛行計画の総大将です。

先の回答、お恥ずかしい。(^^ゞ ポリポリ
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この回答へのお礼

いえいえ、ありがとうございました。

お礼日時:2004/03/17 18:21

こんにちは。


NASA のスタッフなら全員言いそうな言葉ですけど、風疹疑惑で交代してバックアップで地上にいて、当時、司令室にいたケン・マッティングリーじゃないでしょうかね?
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この回答へのお礼

早い回答ありがとうございます。
たしか、かなり偉い階級の人だと思ったんですが、
ケン・マッティングリーという人はどうなんでしょう?

お礼日時:2004/03/17 12:54

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Aベストアンサー

>キャノンが世界初!ならありえますね。

キャノンが世界初でなければ、もっと可能性は高いですよね。
でも、NO10さんの言う通り、ピント固定方式であった可能性の方が高いでしょう。

日本でも固定焦点式のカメラが1986年頃から大衆向けに安価に売り出されています。
構想から大衆向けの商品になるまでに、10~15年位かかっても不思議はないと思いますよ。
NASAは国家威信をかけた事業であった筈ですから、費用は青天井だったと思います。

Q地球が丸いと思われていなかった時代に地球はなんと呼ばれていましたか?

地球って球って字が入ってるので多分丸いと分かってから付けられた名前だと思うのです。
その前日本ではなんと呼べられていたのかが気になります。

Aベストアンサー

>地球が丸いと思われていなかった時代に
地球はなんと呼ばれていましたか?

この疑問の前段階として

「地球儀」を日本ではなんと呼んでいたか?

地球儀の歴史
http://www.tanken.com/globe.html

こちらのサイトによると
「明治天皇の即位式で使用された地球儀、つまり
嘉永5年(1852)に水戸藩主・徳川斉昭が孝明天皇に贈った
際の献上文には《「大地国形(おおちのくにがた)」》
と地球儀の事を表記していたようです。

また、そもそも「地球儀」がいつ日本に伝来したのか?

日本に地球儀が伝来した正確な年代は不明ですが、
天正8年(1580)には、すでに織田信長が地球儀を
所有していたことがルイス・フロイスの『日本史』
に書かれています。

と書かれているように、
南蛮への関心が強かった信長に対し
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
の「南蛮への関心」の項に書かれているように

イエズス会の献上した地球儀、時計、地図などをよく
理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体である
ことを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の
誰もがその説明を理解出来なかったが、
信長は「理にかなっている」と言い理解した)。

つまり、1580年頃は
「この世界が丸い物体であること」を認識認容しておらず
貿易&宗教上のつながりの最も強かった中国からの
情報の影響が大きいと思われます。
中国の地図史
http://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm#CHUGOKUNO-CHIZUSHI

によると
西洋地理学の影響
中国の地理学は独自に発達していたのですが、
17世紀になるとイエズス会の宣教師によって、
ヨーロッパの近代的な全世界図が伝えられました。
大地を平面とみなしていた中国地理学は通用しないことがわかり、
マテオ・リッチ(1552~1610)の協力で、
西洋地理学が取り入れられるようになりました。

とあり、やはりイエズス会の宣教師によるヨーロッパの
情報伝達時期がほぼ一致。

それでは、それ以前の中国は「地図」をどのように
読んでいたのかかが、鍵となるようです。

(4).元代の地図(1260~1368)

元(1260~1368)の時代には、科学的地図作製法を確立した
地図学者の朱思本(1273~1335)が『輿地図(よちず)』
を作製しています。ヨーロッパからアラブにまでおよぶ
広大な領土を支配したため、イスラムの地図の影響も受けていて、
中近東やヨーロッパまで描かれています。
明の時代1555年には、羅洪先(1504~1564)によって
分割され『広輿図』と題された48図からなる地図帳に
まとめられています。

とあるように、世界?地図の事を『輿地図(よちず)』
と呼び

更に遡って(3).唐代の地図(618~907)

唐(618~907)の時代になると、賈耽(かたん:730~805)
が『海内華夷図(かいだいかいず)』を作製しています。
9×10メートルの大きさで縮尺は約1/150万、朝鮮半島から
ベトナム北部までがたいへん緻密に描かれています。
経緯度の考え方がなかったため、距離と方位だけで
地点の位置を確定しているにもかかわらずかなり正確です。
現存はしていませんが、これをもとにして石碑に刻まれた
『禹跡図(うせきず)』が残っています

とあるように、世界?地図の事を
『海内華夷図(かいだいかいず)』と呼び

(2).漢代の地理学(202B.C.~220A.D.)
(1).古代中国で

ではサイトの方をご覧頂けたらと思いますが、

日本の貿易史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2

の(古代中国~)中国との国交史において、地理学が
如何に日本に輸入されていたのか、それに伴う世界の呼び名に値する
漢字上の表記が如何に記載されていたかが鍵となる
ようです。

上記全体を眺めれば、当時、日本より先進国であった中国でさえ
(17世紀にイエズス会の宣教師によって、
ヨーロッパの近代的な全世界図が伝えられるまでは)
「大地を平面とみなしていた」わけであって
仮に中国流の世界概念が日本に古来より輸入されていた
としたら『輿(よ)』(元代)、
『海内華夷(かいだいかい)』(唐代)、
このあたりが表記上近いような気が個人的には致します。
あくまで素人的推論で、学者のその種の書物にもしかしたら
正確な記載があるかもしれません。

詳しくは
地図の歴史
http://atlas.cdx.jp/history/history.htm

をご参照ください。
大地が平らではなく球体であると最初に唱えた
(地球の球体説の誕生)のは、
かの有名な数学者、ピタゴラス(570?B.C.~497?B.C.)
だとされているそうですね^^;
太陽や月が球体であることと、
ギリシア的な対称性を重んじる価値観から、
球こそが完璧な形であると考えたらしいです。
世界最古の地球儀は、
ギリシア時代の紀元前160年ころのソクラテス^^;

もしかしたら、中国ルートではなく、マニアックなルートで
古代日本の一部の地域で古代ギリシアの天文学思想(球体説)
が輸入され禁書扱いにされていたのかもしれませんよ^^;

>地球が丸いと思われていなかった時代に
地球はなんと呼ばれていましたか?

この疑問の前段階として

「地球儀」を日本ではなんと呼んでいたか?

地球儀の歴史
http://www.tanken.com/globe.html

こちらのサイトによると
「明治天皇の即位式で使用された地球儀、つまり
嘉永5年(1852)に水戸藩主・徳川斉昭が孝明天皇に贈った
際の献上文には《「大地国形(おおちのくにがた)」》
と地球儀の事を表記していたようです。

また、そもそも「地球儀」がいつ日本に伝来したのか?

日本に地球儀が...続きを読む

Q徳川歴代将軍で名君だった将軍、いまひとつだった将軍を教えてください

家光や吉宗は比較的有名ですが他の将軍の評判や実績などを教えてください。

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徳川綱吉ですかね。名君、とはいきませんが、世間的な評判は実は誤りであるとする説の方が有力です。
犬公方というあだ名で有名ですが、少なくともそのように揶揄される程の暴君ではなかったと思われます。

詳しくはwikiでもなんでも調べた方が詳細です。
全角800字までしか、この回答は作れませんので。

Q張良が目標だった孔明の天下三分の計は失敗だった

と、コーエーの三国志をやりながら常々思っているのですが・・・

赤壁の大勝後は、襄陽を奪還して、漢中を落とし、ここで天水の馬超と結んで共同で洛陽を落としてから、馬超を恭順させて、龐統を軍師につけて蜀攻略~南蛮攻略で良かったんじゃないでしょうか?
劉備は洛陽。
趙雲に荊州を守備させて、関羽と張飛と孔明で呉軍と共同で魏を攻略し、徐州以南を呉に割譲案で、遼東方面に逃げる曹操を討ち取る算段が、いつもの手なんですが、孔明はあくまで地方自治を目指していたのでしょうか?

Aベストアンサー

光栄の三国志はゲームですから、弱小勢力でも頑張れば勝てるように作らなければなりません。だけど、他の方も指摘しているようにあの時点で劉備が天下を狙うってどうやったって無理なんですよ。もう国力の差が歴然としていますからね。

軍隊ってのは今も昔もお金がかかります。当時は貨幣経済が普及していたわけではないすが、要するにお米が足りているか的な意味でお金がかかるんですね。んで、劉備にはもう絶望的にお金がない。お金ってか、お米がない。軍隊を率いて漢中を落とすまで軍隊を維持するだけの食糧(とそれを買うだけのお金)がないのですよ。それは馬超も同じ。
一方の曹操は、その問題を解決するために屯田兵制度を作ったのです。これが食糧確保と軍隊の維持とコスト削減の一石三鳥の効果があったのですね。

じゃあ劉備も屯田兵制度を取り入れればよかったじゃないかと思うけど、これを維持、構築するためには学問のある役人が大勢必要です。中小企業がトヨタの真似事をそう簡単にできるものではありません。劉備の勢力ってのはいってみりゃ武闘派ヤクザみたいなもんでしたから、システムを作れるような学のある人がいなかったんですよ。唯一、それができる人が孔明先生だったというわけです。

ただ孔明先生は、頭がいい人にありがちな欠点がありました。それは「部下を育てられない」ことです。部下が育つには時間がかかるし、失敗も多い。勢い、「えーい変われ、俺がやる」となってしまうのです。カリスマ経営者の会社なんかにありがちでしょ、そのカリスマ経営者が死んじゃったら会社がダメになっちゃうってやつ。ダイエーとかマクドナルドなんかがそうですよね。トップダウンが企業風土になってしまっていて、ボトムアップができない。それについでに部下を見る目がない。馬謖みたいな奴に目をかけちゃうし。

あと孔明先生は無理に北伐を繰り返し、それが国家としての蜀を疲弊させたのは事実です。しかし、魏との国力の差は日々開く一方。こちらから攻め込んで相手を疲弊させないと、満を持した魏が大軍を率いて攻めてきたらひとたまりもなかったというのも事実です。司馬懿もそれを分かっていたから、無理に攻めるようなことはせず、内戦の利で蜀が自滅するのを待っていたのでしょう。
蜀の民からすれば、別に魏の支配下になったというところで殺されるわけでもないんだから為政者はどっちでもいいというところだったのではないでしょうか。劉禅が後に「蜀の生活より魏での生活のほうが楽しいよ」といって周囲を泣かせた話は有名ですが、北朝鮮で将軍様をやるより、アメリカでそこそこ豊かで自由な生活のほうが楽しいみたいなものだったと思いますよ。

つまるところ、孔明先生の戦略は置かれた状況ではベストだが、どのみちジリ貧。司馬懿はそれを見抜いていたから無理をしなかった。というところでしょう。荊州陥落で、手詰まりではあったと思いますよ。というか、荊州が陥落したら詰んでしまうポジションにいた時点で劉備は詰んでいたといえるかもしれません。

光栄の三国志はゲームですから、弱小勢力でも頑張れば勝てるように作らなければなりません。だけど、他の方も指摘しているようにあの時点で劉備が天下を狙うってどうやったって無理なんですよ。もう国力の差が歴然としていますからね。

軍隊ってのは今も昔もお金がかかります。当時は貨幣経済が普及していたわけではないすが、要するにお米が足りているか的な意味でお金がかかるんですね。んで、劉備にはもう絶望的にお金がない。お金ってか、お米がない。軍隊を率いて漢中を落とすまで軍隊を維持するだけの食糧...続きを読む

Q「火牛の計」を使ったのは中国の戦いですか?誰と誰の何時代でしょうか?

平家物語で、昔中国で戦法として行われたのを真似て、
木曽軍が「火牛の計」を使ったシーンがありましたが、
それは中国のいつの時代の戦いですか?
誰が牛の角にたいまつをつけて走らせる攻撃法を
思いついたんですか?
そして、結果成功したのですか?
教えてください。

Aベストアンサー

平家物語で「火牛の計」が使われたとされる「倶利伽羅峠の戦い」ですが、実際に牛の角に松明を括り付けて実験をしてみると牛は頭の上の炎におびえて動こうとせず、また当時の周辺地域で数百頭の牛を集めるのも困難で、実行不可能と結論されています。
後世の創作と見てほど間違いありません。


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