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「第二次大戦中、連合軍は大量の自動車を配備し、物資を豊富に輸送できた。いっぽう日本軍は自動車が不足し、人力に頼らざるを得なかったため物資が欠乏した。」
と太平洋戦争の本には良く書いてあります。
 しかし太平洋戦争で戦場になったのは、道路が殆ど整備されていない険しいジャングルや孤島だったはずです。こんな所に大量のトラックを持ってきても使いものにならないのではないでしょうか?実際大量の物資を連合軍はどうやって輸送していたのでしょうか?

P.S.・・・特に不思議なのがビルマ戦線です。ビルマからインドへの道は険しい密林山岳地帯であり、牛や人力による日本軍の補給は困難を極めインパール作戦は失敗しました。しかし翌年になると英軍の大部隊がインドからビルマへ進撃してきました。戦車も沢山居たそうです。どうやって持ってきたのでしょう?

A 回答 (5件)

補給、兵站部門に関心を持たれることは素晴らしいことだと思います。

どんな精鋭部隊もそれを支える兵站部門がおろそかならその力を発揮することができません。

さて、その兵站部門の質と量の差が出たのが太平洋戦争であったといえると思います。他の方も回答していますが、連合軍側は部隊が進出するとブルドーザーやら何やらを使って道路を整備したのです。
よく「日本軍はスコップやもっこで手作業で整備し、アメリカ軍はブルドーザーで整備した」といわれますが、それは厳密には正しくありません。日本軍ももちろんブルドーザーを持っていましたし、持っていればそれを使っていました。ただ、その数が少なく性能も低かったのです。
日本製のブルドーザーとアメリカ製のブルドーザーの性能を比較すると、比較しては可哀想というほど格差があったのです。理由は割と簡単で、エンジンの馬力が違いすぎるのです。当時の日本では馬力があるエンジンが作れなかったんですよ、単純に。
だから高性能のブルドーザーを数を用意してがんがん使えばそりゃ道もどんどんできます。その反省があるから戦後の日本は土木技術に心血を注いだのですよ。いやホント。

それでもビルマ戦線では連合軍は苦労しました。あるとき、将軍が飛行機から戦地を視察しました。窓から風景を見て、傍らのパイロットに「あの川は何川か」と尋ねたそうです。パイロットの返答は「あれは、ハイウェイですぜ」だったそうです。頑張って道路を整備しても、熱帯気候の激しい雨で損害を受けることが多かったようです。そのため、輸送機を使って空からパラシュートで補給を支えたのです。

また太平洋戦線の南の島でも、アメリカ軍は大量のトラックを投入しました。しかし暑さと潮風で故障率が高く、経験的に「規定の半分しか持たない」となっていたそうです。つまり10万キロで壊れる部品なら5万キロしか持たないってこと。太平洋諸島での戦いでアメリカ軍従軍記者が残した写真には、壊れて捨てられたトラックがよく写っていますよ。
それでもあの大量の物資が維持できたのは、それだけ大量のトラックが供給できたってことですよいわせんな恥ずかしい。既に当時アメリカでは運転免許を持っているのは常識だったので誰でも車は運転できたし、車社会だったので整備士も大量にいました。前の質問でも書いたけど、アメリカの自動車生産台数は200万台とドイツの27万台、イギリスの34万台を圧倒しています。これだって平時の生産台数で、戦時体制(しかもこれだってアメリカは本当の本気を出していない)になったらとんでもない生産能力を見せたのです。
その生産能力がどんなものだったか、私も手元に資料を持っていないのですが、とりあえずいえることは「イギリスとソ連があんまりトラックを生産しなくていいほど供与して、中国やらどこやらあちこちにも供与して、自軍の膨大な軍隊を維持した」ほどの数だということです。

なお、GHQから払い下げられた軍用トラックを土木現場で使ったことがあるという人から聞いた話なのですが、もう50年以上経っているのに軍用に作られたからとにかく頑丈で荒っぽく使っても壊れず、また壊れても昔の車なので構造が単純で工業高校レベルでも整備ができるからすぐ直せるし、直せば使える。馬力もあって現場で荒っぽく使うには文句なかったそうですよ。
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アムトラックが入れる場所ならアムトラックで輸送しました


入れない場合は自転車(荷車代わりであって乗るわけではない)か人力です

ビルマは3ルートあり、海岸ルートは戦車が通れましたが、有名な山岳ルートは今でも車両は真っ当には通れません

勘違いされているようですが、インパール作戦はその目的は達しております(インパールまで行ってます)。問題は占領維持が出来なかったのです。
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他の方の解答にもあるように 空から落としたり 戦車をブルにして道を作りベースキャンプを作って現代の登山のようにそこから運んだりしたみたいです



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

日本兵の手記に自分たちが何日もかかってスコップやローラーで作ってた飛行場を米軍はブルトーザーで あっという間に平らにし鉄板を敷き詰めてすぐに使い出したってあるくらいですから 工兵の装備も半端なかったみたいです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

古の戦いでも常識のように ゲリラ戦となった日本軍兵士は兵糧欲しさにキャンプを襲ったりしたみたいです
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おはようございます。



連合軍は、戦闘部隊が進撃し、拠点を作ると、そこまでの輸送用道路を、ブルドーザー、ロードローラーを使って急速に整備しました。
現在の峠の道路の様にジグザグ道を、作る技術を持っていました。
言い方を変えると、道路を作って、補給の見込みがある所にしか、進撃しませんでした。
勿論、空輸も行われました。
それも、連続空輸で、補給の見込みがある所にです。
つまり、連合軍は、補給が前提の戦闘部隊進撃でした。
戦車も、作られた道路で進撃しました。
言い換えると、戦車が進撃できる道路を作りました。
ビルマの援蒋ルートのジグザグ道路の写真が有名です。

これで答えになっているでしょうか?
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ビルマ戦線はインドからの連合軍は基本的な食糧等は空輸しました


連合軍の最前線に空輸されパラシュートで落ちる食糧等が風の関係で日本側にも入り
敵はこんな良い物を食べているのかと羨ましがりました

補給、兵站に対しては、日本側はジャングルから都市を攻撃したのに対し
連合軍は都市からの反撃なので、圧倒的な差がありましたし
戦車などは、もともと塹壕などの障害物を突破するために開発されたものですから
ある程度の道などが有れば進撃可能です

さらに言えば日本軍は初めから暫時の補給、兵站の事は考えていなかったのです
インパールを簡単に攻略して必要物資を手に入れるつもりだったのです
牟田口中将司令官の、この作戦会議には列席した兵団長、将校もあきれて反論できなかったと言われています
本気なのか?と思ったそうです インパール作戦については多くの本が出ていますから参考にしてください
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