
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
簡単に言ってしまえば戦力差です。
長篠合戦時の両軍の戦力については諸説ありますが武田軍は1万5千、これに対し織田・徳川連合軍はその2倍を大きく越える3万8千人と言われています。
これだけの戦力差があれば個々の質の差は殆ど問題になりません。
それではこの戦力差でなぜ武田軍が戦ってしまったのかですが、これについて「信長の出方を見誤った」のと「信玄以来の宿老衆と勝頼および勝頼が抜擢した若手の将との意見対立」の二つの要因があると言われています。
信長は前年までは第二次織田包囲網の最中で戦力が不足しており、武田方との大規模な戦闘は避けていたのですが、長篠の合戦時にその包囲網はほぼ崩壊しており、武田軍との決戦を行うだけの戦力を整える事が出来たのです。
しかし武田方は前年までの経験則から、織田方がこれだけの戦力を投じてくる事を想定していなかったと思われます。
戦力差を知った時点で当然、武田方でも意見対立が発生した事は間違いありません。
資料によっては宿老衆が「撤退」を唱える中、勝頼が側近の意見を入れて決戦を挑んだとするものもありますが、むしろ宿老衆も勝頼側近もそんな単純な図式ではなく、いずれも意見がまとまらない中で勝頼がやむなく決戦の断を下したと考えた方が自然でしょう。
そして決戦の最中、長篠城の包囲が破られて背後を脅かされた事を知った勝頼は撤退を決断します。
この場合、ある程度の犠牲を覚悟で一度、総攻撃をかけて敵軍の一部を切り崩し、敵軍が体勢を立て直している間に撤退するのが常識的な戦法であり、勝頼もその指示を下したでしょう。
しかし宿老衆と勝頼が意思疎通を欠いていたとしたら、この指示の意図が正確に伝わらず、宿老達が自殺的といえるほどの無謀な突撃に転じてしまったことは十分にあり得ることです。
長篠の戦いにおける武田宿老衆の多大な犠牲はこのように生じてしまったと考えられます。
No.8
- 回答日時:
軍事の常識で申し上げると攻撃側1.5倍の鉄則というのがあります
攻撃を行う側は防御側の1.5倍の戦力が必要という物です
武田軍15000名(前線に向かったのが12000名)
織田・徳川軍38000名(武田本隊と対峙したのが34000名)
この段階で約3倍の戦力差があります
騎馬の数は武田軍は1割説と3割説があります
1割だと1200
3割で3600
です
設楽原では40発近い弾丸が発見されており、鉄砲が使われた事は既に証明されています
発掘調査でも馬防柵や馬防堀があった事も確認されています
武田が5万の戦力を持っていれば勝てるかもしれませんが、たかが12000ではねぇ…
馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、土屋直規など名だたる武将がいるのは確か
一方の織田は
河尻秀隆、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、水野信元、野々村正成、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠教、高木清秀、成瀬正一、日下部定好
これまた強者揃い
戦国BASARAだったら100人斬りとか出来ますが、武田の武将1に対して織田・徳川の武将が4人がかりで包囲してなぶり殺しにする構図しか目に浮かびません
当時の騎馬には従者が付いていて引っ張って動くものですし、日本の馬は去勢していないんで騎乗突撃には全く向きません。去勢の技術は明治時代に入ってきたもので、日露戦争の後に導入されました。
No.7
- 回答日時:
No.6です。
丁寧なお返事を感謝します。>鎧兜や装備品諸々を含めると鉄砲隊の重量は体重プラス20キロはあったと考えられます
鉄砲隊は「足軽」なので、鎧兜は身に着けていません。良くて鉄胴、兜はなくて陣笠、後は脛当てくらいですから、重くて6~7kgくらいですかね。鉄砲とあわせても10kg程度かなと思います。だって「足軽」ですもん。
これならぬかるみでもなんとかなりそうですね。
この回答へのお礼
お礼日時:2014/03/07 18:19
信長はちゃんと部隊分けしてますよね?
その組織的な戦法こそまさに改革だったわけで
足軽は足軽 弓兵は弓兵 鉄砲隊は鉄砲隊ときっちり分けてます
足軽に鉄砲を持たせる事は当時の信長軍では無かったと思われます(もちろん進軍中に足軽が鉄砲を担いでたことはあるでしょうが)
もちろん最初のころの信長軍には鉄砲足軽は居ました
しかし長篠の頃は上記のように完全に分離組織化しています
No.6
- 回答日時:
単純に戦場である設楽ヶ原が騎馬戦に向いていなかったからではないですかね。
実際に現地を訪れていただければ実感できるかと思いますが、現地は「え?こんなところで数万人の軍勢が?」という感じの狭さ。起伏にも富んでおり、ちょっと騎馬武者が自在に走り回れるようなところとは思えません。特に起伏が大きい・多いってのは、そこここに銃隊を忍ばせておけるわけで、有効射程が50m程度であった当時の火縄銃でも有効な攻撃が可能と思われます。
*念のため、当時の火縄銃の重量は3~5kg程度。20kg(30匁でも18kg程度。これは小型砲に近い)なんてありません。
また、前日の雨でぬかるんでいたとすれば、鉄砲を構えて銃手がひそむことは可能ですが、それこそ機動力が身上の騎馬武者が自在に動けるわけはない。
これらの地形上の問題を考えると、狭く起伏に富んだ地形の上、前日の雨でぬかるんでいたために騎馬隊が自慢の突進力・機動力を生かせず、ところどころに配置された銃隊に各個撃破された、ってのがひとつの見方なんじゃないですかね。
No.5
- 回答日時:
単純に双方の兵力が移動しながら激突する野戦では、武田軍の機動力は強力でした。
しかし、長篠の戦いでは、いわゆる野戦とはなりませんでした。
織田・徳川軍が、短時間に大規模な「馬防柵」を作って、野戦陣地を構築し、陣地から出てこなかったのです。その結果、武田軍は戦略的に不利な立場に置かれました。
大兵力を用いながら、守りを固め、補給物資も十分な織田・徳川軍に対して、兵力が少なく補給力に劣る武田軍では、長期戦になればどんどん武田軍に不利になっていきます。
従って、速やかに撤退するか、一戦するかしかありませんが・・・
軍が対峙している状態で、「撤退作戦」を敢行するのは大変な困難を伴います。撤退時に追撃されると、膨大な損害を出しかねません。
従って、理想的な撤退作戦は、一戦して相手に追撃の出来ない程度のダメージを与えた上で撤退することです。
馬という機動兵力は、侵攻作戦には有利で、前を向いて戦う上では、歩兵の戦闘力を大いに上回ります。
しかし、谷合を機敏に撤退しながら、時々反転して殿軍を務めるには不向きです。
武田軍は騎馬隊を撤退させる作戦の難しさを知っていたと思います。
一戦して勝てばよし、自軍にある程度の損害が出ても、相手方にそれ相応のダメージを与えれば、撤退作戦は容易になるとの判断ではなかったでしょうか。
結局、リスクを承知で、織田・徳川軍をたたいた上での撤退作戦を選んだのでしょう。
反対に、長期戦になれば有利な織田・徳川軍は、『待ち』の作戦で、『馬防柵』を強化しつつ武田軍の撤退の始まりか、攻撃を待てばよいとの基本姿勢だったでしょう。
結果として、『馬防柵』で武田軍の機動力を制して、兵力勝負に持ち込みました。
兵力勝負になれば、物量差が物を言うし、特殊な戦略がなくても鉄砲の多さは有利に働きます。
織田・徳川軍の勝因は、自分側の陣地で「防衛戦」を行ったことによるものでしょう。一般に攻める側の方が損害が大きくなるとしたものです。
動かない防備の施された陣地を攻める攻城戦では、機動力は役に立ちません。
兵力の多い側が、防備を固めた陣地に、少ない兵力で突撃攻撃をするという消耗戦で自軍が疲弊した上に、織田・徳川方にダメージを与えないまま、撤退作戦を敢行することとなってしまいました。
No.2
- 回答日時:
>最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています
その通りですね。
鉄砲の3段撃ちとか、色々な通説がありますよね。
が、発掘調査などでは「数発の銃弾(玉)」しか、でてきません。
また、武田の名だたる武将は「長篠から離れた場所で戦死」していますよね。
※長篠で負傷して、離れた場所で息絶えた可能性は低い。
※長篠の戦い以降、同じ様な戦法・戦術が用いられていない。
まぁ、忠臣蔵と同じで「戦記物語」としたフィクションかもね?
※甲陽軍鑑も、物語として有名ですよね。
>武田軍は一体何故負けたのでしょうか?
武田勝頼と、武将の信頼関係・意思疎通のの欠如でしようね。
つまり、先代社長の息子が社長に就任しても、先代からの番頭は社長と認めてくれない。
信長軍は、社長以下一致団結しています。
武田勝頼は、物語にあるような無能な武将ではありません。
色々と時代にあった戦略でしたが、旧態依然の番頭には通じなかったようです。
これでは、戦う前から結果は明らかですよね。
余談ですが・・・。
武田勝頼は、土佐の国まで生き延びています。
詳しくは、下記URLで!
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
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