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小・中の9年間の義務教育課程には、国語・算数/数学・社会・理科・映画からなるいわゆる主要5教科と、美術・書道・音楽・体育・家庭科・技術等の科目よりなる副教科があります。

副教科全てを義務教育として画一的に課す意義についてふと疑問に感じました。
小学校の最初数年間(3~6年、この期間を以下仮にI期と呼称する)で副教科全てを網羅的に履修することは義務付け、その後の義務教育課程(この期間を仮にII期と呼称することにする)では2科目程度の履修を義務付け、それを満足する限りにおいて副教科履修は生徒・各家庭の裁量に任せてもよいのではと感じます。

柔軟的な副教科選択制は、各生徒にII期において自身の得意不得意や選好に応じて副教科を選択することを許可し、それによって生徒は主体的・積極的に授業に参加することができ、得意なこと・自分の好きなことを伸ばしたいことにより多くの時間を注ぐことで伸ばしたい能力を伸ばせるようになるのではと考えています。

例えば美術は好きではないが音楽が非常に好きな生徒に、あえて9年間図画工作と美術の履修を義務付ける意義があるのか?I~II期において大好きな音楽に熱心に取り組んだ生徒が、II期において美術を履修しなかったからと言って、心が貧しくなったりだとかまともな大人になれなかったりするのか?と考えると、そのような懸念は妄想的ではと疑問を抱き、ふと以上のような考えを抱きました。

保健体育については他の副教科と替えが聞かないので、9年間を通じて履修させるべきと思います。
運動は大事ですし、性教育とかもきちんとしなければならないので。しかし音楽や美術・書道などはある程度の代替的選択の余地は認められたほうがよいと考えます。

皆さんは義務教育課程の副教科履修についてどのようにお考えですか。

A 回答 (7件)

 もし上手下手を基準とするならば、同じ体育科目でも球技の得意な子もいれば、水泳の得意な子もいます。

そうした一切合切の競技種目を含めて学校体育としている以上、体育が好きな子や体育の得意な子と断ずるだけの合理的な根拠を欠くとも考えますが如何でしょう。
 この考え方で行ってしまうと行き着く先にあるものが、義務教育課程でありながら専門教育化を進めるとの獅子身中の虫にも似た少し歪んだ形になる危険性もあり、やがては不人気科目は廃すべしとの極論すらも俎上に上ることも容易に想像できます。
 必要ない学問分野があるとの誤解を児童生徒に与えかねないことから、僕は少し勇み足かなと考える次第です。
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40過ぎのおじさんです。


私も何となく、、、何となくそう思うのですが、
更に大きな趣旨目的に、、、「実社会への旅立ちに向けての
教育」と捉えた場合には、もろ手を挙げて賛成することに
躊躇いたします。
副教科のイメージからですが、おそらく子供だち同士でも
上手い下手や遅い早いが一目瞭然に分かる教科。
共同生活が見て取れる時間なのだと思います。 そこに
連帯責任や自分はどうすれば良いのか?が芽生えるのでは
ないでしょうか?
プロの養成所ならまた別ですよ。

私がある研修に行った時に、6人のグループ分け(班長1名)を
置き6つのグループになったと思います。(合計36名)
輪になって座り込んだ中央に何十枚ものパネルが置かれ・・・
各自がそのパネルを手にとって地べたに並べると6人とも
同じ図形が出来るというゲームです。 但し、一切会話は禁物です。
6グループとも同じ条件で時間制限があります。
数分のうちに、ある人が誇らしげにその課題を完成して見せました。
他の人はそれを見て自分の手元にあるパネルが正しいか
確認します。 要らないパネルを中央に戻し、必要なパネルを
寄せてくる、、、アイコンタクトを取りながら、、、そのうち班長
(私)も出来上がりました。
どうしても、出来ない2名を見ていて苛立ちを覚えました。
もう時間がありません。 ここまでは、主催者のシナリオ通り
なんでしょうね。 ここからです。
私の完成したパネルを壊さずに中央に出し、出来ていない方の
パネルを手元に引き寄せ時間内に完成させる。
これがもし、企業の威信を掛けた大プロジェクトチームだったら、、、
時間内に完成しなかったら、、、考えると恐ろしいゲームです。

つまり、その科目だけを勉強するなら優秀な学校、塾へ行けば
良いことですが、出来ない子の手助けをする、教える、と言った
行為はやがてプロジェクトの中心になった時に生きてきますし、
指導能力が身に付いていてこそ、最終学歴が生きてくると
いうもの。 (高校、大学では専門分野の勉強が中心となりますし
友達同士も損得勘定で測るようになるでしょ。)

結論ですが、上手い下手、遅い早いに大きな意味があるような
気がします。
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 少なくとも「書道」は国語の授業の一環として扱われます。

そして技術・家庭科も男女の生徒がそれぞれに学習もします。
 僕がまだ中学校の課程だった頃の扱いとしては、技術科は男子生徒、家庭科は女子生徒のみが履修する科目でしたが、男女それぞれの社会的役割が専門的に独立しているものではなく、男女が共に協力し合うことで依り豊かな社会を構築しうるとの考え方に基づき、現在では男女の別なく学習してもいます。
 小学校の時には、男子生徒も調理実習や裁縫実習を経験してもいます。簡単な献立でしたが、それでも包丁を持つための基本は今でも役に立っています。

 なぜ書道を国語科の授業対象にするかといえば、筆順や書体の変化といった基本的な部分を領域に含んでいることもあります。そして学校書道が芸術書道とは一線を画するものであることも理解しておく必要があり、芸術科目として位置付けるのはおかしな話です。てん・とめ・払いとの基本要素をしっかりと身に着けさせることでキチンとした文字を書くことが初めてできます。

 問題は音楽と美術ですね。音楽が扱う領域にも、歌唱や演奏もあればリズム感覚を身に着けることや知識としての音楽史理解もあります。歌唱・演奏でも音楽記号の基本的な読み方が求められ、それが表現様式の基本にも繋がっていて、トータルとして音楽を創っているとの部分に興味を持たせることで、全体と部分の関係などに目を向けることの大切さを理解させるとの側面もあるのでしょうね。
 美術でも恐らく同じ説明がされもするでしょう。二次元的な描写と造形との違いが何に基づくものかはレオナルド・ダ・ヴィンチのそれとも通じる部分があるとも考えられます。
 そんな「ものをどう観察するか」との実験的な側面を自身で検証しながら進めていくのは理科的発想ともいえます。
 あらゆる分野の要素が互いに関係し合って一つの事象を成り立たせてもいる、くらいの理解ではいけませんか?
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私は、40歳ですが、子供がいないので、現在の教育現場が分かりません。


その点を断ってから、回答させていただきます。

副教科の履修は、全児童・生徒が一律に必須であるべきだと思います。

例えば、図画工作・美術で、絵がうまくかける生徒が、「自分には絵がうまくかける能力がある」と気づく状況とは、「絵がうまくかけない子の作品」と「自分の作品」を”見比べた”時でしょう。児童・生徒間で、お互いの個性を尊重しあえる環境作りには、「比べる」という行為が避けられないと思います。ただし当然のことですが、「比べる」という行為が、児童の間でのヒエラルキーやカーストにつながって、「いじめ」へと発展してはいけないと思います。

「公立校義務教育でも、生徒の個性を伸ばすことに重点を置くべき」という理想論には、何か弱弱しい現状把握を感じます。個性はすでにあるものではなくて、様々な経験の中から育まれるものだと思います。その育む過程が、義務教育期間だと思います。育まれなくても存在している「立派な個性」とは、「天性の素質」や「才能」と呼ばれるものだと思います。しかし、優れた才能を生まれながらに持ち合わせている子供は、圧倒的少数派です。そして、話が戻りますが、優れた才能があっても、自分の得意分野以外にも、優れた子供がいることに気づく環境を作ることは、とても大事だと思います。

次に、副教科で培った知識や経験は、大学受験では問われていませんが、実社会を生きる社会人の日々では、どのような形で問われるか分かりません。
例えば、「広告チラシ」のデザインは、デザインや印刷の専門家以外にも、営業マン等が参加する会議で決められます。

そこでは、営業マンからも、こんな発言が出ます。

カップ麺の「赤いきつね」と「緑のたぬき」は、「うどん」と「そば」の違いがあるけど、別々に配置せずに、一緒に並べるレイアウトにしましょう。各々の商品の「赤」と「緑」は、補色の関係にあって、互いを目立たせるために、発売時にデザインしていますから。

という具合です。

もしも、補色という言葉が分からなければ、営業マンは、上記のエピソードを聴いても理解できず、すぐに忘れてしまっていたでしょう。そして、このような発言はしなかったでしょう。

「比較しあう場は、個性の発見の場になりやすい」と「副教科の知識は、社会人になった際に、様々な場面で求められることがある」との二つの理由から、副教科の履修は、全児童・生徒が一律に必須であるべきだと結論付けさせていただきます。
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いろいろとアイデアありますが、結局、教員の利権を論じない議論はすべて議論のための議論です。

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 何がその子に向いてるか分からないので、一通りやらせて、適正を探るというのが目的かと。


 高校から選択になりますね。

 途中で気が変わるかもしれないので、中学までやらせてるのではないかと。
 まぁ、中学で自由選択にしても良いとは思います。

 あと、中学の教員数の関係もあるかもです(年度毎に偏ったら、常勤で抱えるのが難しいので)。
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学校の先生でしょうか。



義務教育というのは、日本国民としての常識、
最低限度の教養を身につけるのが、目的です。

それを選択にしたのでは、義務教育の目的が
達せられないのではないですか。

大きな山を作るには、土台を広くしなければ
ならない、ということはありませんか?

ゆとり教育を彷彿させる提案のように感じました。

それにしても映画が主要5教科に入っていたとは
知りませんでした。

この回答への補足

失礼いたしました、映画→英語ですね。

お礼などは後でまとめてということで、よろしくお願いいたします。。

補足日時:2014/03/20 21:00
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