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「願い譜代」は、wiki では、
外様大名の中で、幕閣において長年の功績のある大名を始めとして、主に血縁関係により譜代大名に準ずる家格の大名をいう、と説明されています。
書籍でも調べましたが、ほぼ同様の説明でした。 

幕閣とは幕府の最高首脳部と思うのですが、外様大名が外様大名の資格で就ける幕閣とはどんな役職ですか。
また、実際に幕閣において長年の功績があって、願い譜代になった外様大名はいますか。
wikiでは、多くの大名が「準譜代大名」として記載されていますが、全員を「願い譜代」と呼べるのですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

私が知っているのは



天保の改革で幕府が改革に失敗した裏で一部の藩が成功して雄藩が登場します。

ペリーの黒船が到来して、老中阿部の時代ぐらいから外様なども登用されていったような話を聞きます。

不確かですが。

少なくてすいません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですね。思い出しました。
幕末には外様も登用されていますね。

お礼日時:2014/03/29 17:27

kouki-koureisyaさん、こんにちわ。



幕閣とは幕府の最高首脳部と思うのですが、外様大名が外様大名の資格で就ける幕閣とはどんな役職ですか

ありません。幕府の家来である譜代でなければ、幕閣の要職はおろか、いかなる役職にも就けないのが原則です。最高首脳部ですから、大老、老中くらいでしょうか?



また、実際に幕閣において長年の功績があって、願い譜代になった外様大名はいますか。
たいていは譜代大名から養子か正室をもらって血縁から資格を得てから届け出を行ったようです。
wikiでは、多くの大名が「準譜代大名」として記載されていますが、全員を「願い譜代」と呼べるのですか。
そうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

wiki の説明は、おそらく吉川弘文館 大石学編『江戸幕府大事典』から引用(盗用?)したものと思います。
この本では、
「外様大名のなかで、幕閣において長年の功績のあった大名をはじめ、親藩や譜代大名との血縁関係により譜代大名に準ずる家格となった大名(願い譜代)もいる。」
と書いてあります。
こちらの方が分かり易い日本語です。

これを読めば、幕閣において長年の功績があれば、外様大名でも願い譜代になれるのかな、と思いました。
そのためには先ず、幕閣に入らなければなりませんから、なんだか分からなくなって質問しました。

お礼日時:2014/03/29 17:30

>外様大名が外様大名の資格で就ける幕閣とはどんな役職ですか。



 幕末なら

  松前崇広(蝦夷松前藩)  老中 兼 陸海軍総奉行(後に陸軍兼海軍総裁)
  立花種恭(陸奥下手渡藩) 老中格 兼 会計総裁

 がいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
幕末にはこんな例があるのですね。よく分かりました。

お礼日時:2014/03/29 17:34

外様大名などいなかった




極論です

幕府の公式記録
『寛政重修諸家譜』、『寛永諸家系図伝』
清和源氏・平氏・藤原氏・諸氏に4区分され各家を分類収録
これが基本であって、外様だの親藩だの譜代といった分類はない。

藩翰譜にはあるが藩翰譜は、綱豊と白石が甲府藩として作ったものです。

将軍家と各大名家は 1対1の主従関係であり、300諸侯は300の違いがあった。
けどそれじゃぁ大名家を分析できないというので、親藩・譜代・外様という歴史学上の便宜から区分けをしている。区分けに正確に当てはまらない大名家もあるので、準譜代とか願い譜代とかで説明している。

何を願いするかというと、江戸城における伺候席
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BA%E5%80%99% …

出自や官位を元に幕府により定められていた。

いわゆる外様大名の間でも、官位を巡って競争があった。津軽家と南部家が有名、官位が違うと伺候席での順番が変わります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>『寛政重修諸家譜』、『寛永諸家系図伝』
>清和源氏・平氏・藤原氏・諸氏に4区分され各家を分類収録
>これが基本であって、外様だの親藩だの譜代といった分類はない。

そうなんですか! 参考になりました。

お礼日時:2014/03/30 12:59

確かにWikipediaの説明は分かり難いです。


一方で譜代と外様の差異では、外様は藩政に関与できないとしていますので、ご質問に及ばれたのかと思います。

幕閣という言葉の使い方が恐ろしく曖昧な為に生じてしまったのではないかと推察します。
ご指摘のように、幕府の役職に就いた上での業績で願い譜代に代えてもらったというケースは見当たらないようです。
願譜代と呼ばれるようにお願いして譜代に変えてもらいますので、手続き上はお願いが出せる権利を認めて貰うという前段階があります。
この権利を取得する為に、石垣の普請や勅使饗応役など矢鱈にお金のかかる仕事を積極的に請け負ったりしています。
形式上は幕府の事業の一環ですので、史料などの外見上は幕僚として行政に携わったように見えます。
この辺りの解釈といいますか記述が混乱のもとかと思います。

なんでこんなことをするのかと言いますと、平たく言えば殿様の見栄です。
譜代か外様かで、江戸城内での控えの間が変わります。
この控えの間の割り当ては、いわゆる家格で決められています。
何分にも形式第一主義の時代ですから家格が高いということは何よりの名誉でした。
ただし、家格が上がるということは、行列の様式から、お付き合い、などありとあらゆるところで膨大な経費がかかります。
殿様の見栄の為に藩がひっくりかえってはどうにもなりませんから、喧しい実務家の御家老が許さない藩「家」も沢山ありました。
殿様も簡単には江戸城内での出世競争に参加できませんでした。

江戸時代を通じていわゆる外様とされる大名家でも6家の殿様が老中に就任しています。
就任に当たってなんのかんのと理由を付けて願い譜代化し、形式上はあくまでも譜代大名が老中に着任したことにしています。
口火を切ったのは第92代老中脇坂安薫です。
ちなみに、脇坂の経歴は、
奏者番⇒寺社奉行⇒西の丸老中各⇒西ノ丸老中⇒老中
でした。

準譜代と呼ばれている大名には、大阪の陣などで積極的な働きを見せた旧豊臣家家臣の氏族が多いようです。
あるいは、家康に協力はしたけれども、あくまでも武家としては対等な関係を維持し続けた大名もいます。
戦闘で武勲を上げるチャンスが途絶えた以降は、願い譜代の形式をとるところが多いようです。
どちらにも共通しているのは、婚姻による姻戚関係の成立や養子縁組によるお殿様の交替などが大半だということです。

準大名や譜代大名の涙ぐましい事例を拾ってみました。ご参考までに
仙石秀久
藩祖越前守秀久(通称名「権兵衛」)は元来織田信長家臣、豊臣秀吉家臣であって、徳川家には従属していなかった。
一方で、仙石秀久は「豊臣恩顧の外様」でありながら「譜代格」として扱われ、江戸城では「帝鑑間」に詰めることが許されていた。

秋田 俊季(あきた としすえ) 秋田家3代
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では幕府軍の一員として出陣した。その後も幕府による普請手伝い、将軍徳川家光の上洛随行など、幕府に忠勤を尽くした。

秋田 輝季(あきた てるすえ )秋田家5代
藩政では馬産に力を注ぎ、それを競売にかけて藩財政のさらなる発展を遂げるなど、大いに成功を収めている。貞享元年(1684年)には譜代格に任じられた。

有馬 直純(ありま なおずみ)
慶長5年(1600年)、15歳から親元を離れ、駿府城で徳川家康に側近として仕える。慶長15年(1610年)、キリシタンであった妻・マルタ(小西行長の姪)を離縁し、家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として娶った。
後に幕府より許しを得て願譜代となった。

京極 忠高(きょうごく ただたか)
慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の常高院を仲介として忠高の陣において行われた。また、講和条件の大坂城の外堀を埋める作業の工事奉行となった。

相馬 利胤(そうま としたね)
慶長16年(1611年)、居城を小高城から相馬中村城へ移した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠軍の先鋒として奮戦した。

藤堂 高次(とうどう たかつぐ) 藤堂家10代
寛永9年(1632年)の江戸城二の丸、寛永16年(1639年)の江戸城本丸消失後の復興、慶安5年(1652年)の日光の大猷院霊廟(徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請を行った

藤堂 高久(とうどう たかひさ) 藤堂家11代
忠清の娘、亀姫との結婚にも見られるように保身のため幕閣に接近、綱吉の学問講義や柳沢吉保邸下向に陪席するなどした。特に吉保への接近ぶりは池田綱政、細川綱利、松平頼常などとともに「柳沢家の玄関番」とあだ名されるほどのこびへつらいようであったという

藤堂 高敏(とうどう たかとし) 藤堂家13代
1728年、疱瘡が原因で倒れる。8代将軍・徳川吉宗から薬を下賜された。

藤堂 高朗(とうどう たかほら) 藤堂家14代
藩政においては幕府の歓心を得るために、自ら指揮して日光東照宮の修補造営に努めたが、この出費により24万両もの借金を作った

戸田政盛
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城の守備、翌20年の大坂夏の陣では江戸城の留守居役を命じられる。
元和8年(1622年)、最上氏の改易を受けて、譜代大名鳥居氏の一党として、角館に比較的近い新庄へ加増転封される

堀季正
最初前田綱紀に仕え、のち近衛家に仕官変えし、徳川家宣の妻天英院(実家が近衛家)の用人となる。その縁で子孫は江戸で旗本になった

脇坂 安政
万治元年(1658年)、江戸城の本丸修営に携わっている。
また他にも、後に3度の大坂城加番や青蓮院法親王、勅使に対して馳走職を担当するなど、幕政に貢献している。
天和3年(1683年)、安政は実家が譜代大名の堀田家であることを理由として、脇坂家を外様から譜代へと扱いを変えてもらうよう幕府に申請し、許しを得た上で江戸城での伺候席が譜代の帝鑑間詰となり、外様から「願譜代」となった。

脇坂 安照
元禄10年(1697年)には伏見宮邦永親王を勅使饗応役として接待している。

そもそも譜代大名というのは、徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格とし、徳川氏を支える藩屏としたことに由来したものです。
時代とともに増減を繰り返し、その範疇も極めて曖昧なものとなっていきました。
そういう意味では譜代、外様とスッパリ割り切って議論すること自体に無理がでてきますのでお含みおき願います。
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この回答へのお礼

いつも詳しくご回答下さってありがとうございます。

>形式上は幕府の事業の一環ですので、史料などの外見上は幕僚として行政に携わったように見えます。
>この辺りの解釈といいますか記述が混乱のもとかと思います。

なるほど! よく解りました。


>殿様の見栄の為に藩がひっくりかえってはどうにもなりませんから、喧しい実務家の御家老が許さない藩「家」も沢山ありました。
>殿様も簡単には江戸城内での出世競争に参加できませんでした。

このあたりの事情もよく解りました。


>就任に当たってなんのかんのと理由を付けて願い譜代化し、形式上はあくまでも譜代大名が老中に着任したことにしています。

そうですよね。
先ず、「婚姻による姻戚関係の成立や養子縁組によるお殿様の交替など」で「願い譜代」となる条件を満たしておいてから、ということですね。
納得しました。
ただ、老中はそういう条件でしょうが、若年寄や3奉行等も幕閣とするならば、あるいはもう少し下位の役職ではどうなのでしょうか、という疑問は残ります。


wiki の説明はヘンだということになります。
wiki が少々間違っていてもかまいませんが、説明の元となっているのは、#2の方のお礼欄に書いていますが、おそらく『江戸幕府大事典』でしょう。
そうなると、私には、どうもよく分からないです。


>準大名や譜代大名の涙ぐましい事例を拾ってみました。ご参考までに

たいへん参考になりました。

脇坂 安政についてですが、天和3年(1683年)、伺候席が譜代の帝鑑間詰となったのですね。
安政は、養子に来て4年後の承応3年(1654年)家督を相続していますから、29年後に願い譜代になったことになります。
願い譜代になるのは大変だなと思います。
ご回答を疑う訳ではないですが、自分でも確認しておきたいので、天和3年の根拠を教えて下さいませんか。
「願い譜代」の制度がいつ頃始まったのか、どれだけの大名家がなれたのか、興味があるからです。

小川恭一翁「柳営談」には
「願御譜代」の名称は、吉宗以降、諸制度が安定してからについては『寛政重修諸家譜』『柳営秘鑑』『官中秘策』などがくわしく記述し、当時から諸説があって比較的知られたものですが、明暦以前のことはよくわかりません、と書いてあります。


>そういう意味では譜代、外様とスッパリ割り切って議論すること自体に無理がでてきますのでお含みおき願います。

了解しました。

お礼日時:2014/03/30 13:55

ithiです。



譜代との血縁関係でなったのでないとすれば、おそらく、小堀遠州や藤堂高虎のように幕府に対して何らかの手助けをした人々に対する功績をもって願い譜代にしたのでしょう。
そうなると特に幕閣に入らなくても願い譜代にはなれるでしょう。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

たいへん参考になりました。
藤堂高虎、小堀遠州以外にも同様の大名家があると思います。
『江戸幕府大事典』の記述の理由が分かりました。
お陰さまで大きな疑問が一つ解消しました。

お礼日時:2014/03/30 20:23

外様のままでの参閣は、幕末まで見られません。



しかし薩長でさえも公式家格名は「松平」で譜代というか「親戚」です。(そう考えると「外様」は幕末期には「居ない」ことになります)

幕閣で出世するには、基本、「前例」「慣例」で、家格で決まります。

ですので老中等を輩出する家は限られていました。

面白いのが「水野忠邦」で、彼は幕政に関りたい余り、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て、老中「首座」の座にまで辿り着きます。(「大老」は井伊・酒井(雅楽頭流)・土井・堀田の四家に限られる)


現実的には所謂外様と言われている大名家も、皆、血縁を通じて、将軍家と何かしらの縁を持っていたのが現実です。(例外はあるかもしれませんが、私は知りません)

ただ、「大藩」を幕政に関らせる事はしなかったと言う事だけが言えます。

例外が「彦根」の井伊家と「会津」の保科家(松平)位でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

水野忠邦老中就任にこんないきさつがあるとは知りませんでした。
将に驚きの行動です。
天保の頃はこんなことがまかり通る時代だったのか、これも驚きです。

お礼日時:2014/03/30 20:43

他の回答者様の補足です。


外様の真田家の真田幸貫は老中として天保の改革に携わっています。
この方は徳川吉宗の曽孫で松平定信の実子、
外様に養嗣子に出されても血統的には親藩格。
また、願い譜代の脇坂家では脇坂 安董も家斉の代に老中になっています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

真田家は、外様か譜代かややこしいですね。
藩祖信之の時代から譜代格だったという見方もありますね。
譜代「格」というのもなんのことやら…。

お礼日時:2014/03/30 21:01

No.5です。


わざわざお礼を記入して頂き有難うございます。
お礼に追加のご質問がありおましたので、説明させていただきます。

>天和3年の根拠を教えて下さいませんか。
根拠といいますか、播磨龍野藩の藩史の中で
寛文12年(1672年)、信濃飯田藩より脇坂安政が5万3千石で入封した。
幕府より城の再建を許され、龍野城は修築された。
脇坂家は元々外様大名であったが、安政は老中堀田正盛の次男であったため、天和3年(1683年)に願譜代となった。
とされています。
龍野藩というのは、二度も三度も大名領から天領に変わった藩で、城も破却されていました。
龍野に来る前にいた信濃飯田藩も大名領から天領とされていた藩でした。
このような状況からしても、父親の堀田正盛の力によるものだと思われます。
正盛は、家光の寵愛を受けていた重臣でした。
しかしながら、家光崩御と同時に慶安4年(1651年)に殉死しています。
寛文3年(1663年)家綱によって殉死を禁じる旨の申し渡しがなされています。
天和3年(1683年)綱吉が家綱の定めた寛文令(武家諸法度の改定版)を改めて天和令を出しています。
安正の願譜代が認められのも同じ天和3年です。
家綱の時代は余り芳しくなかったのではないのでしょうか。
この辺の詳しい経緯は分かりません。
将軍の代替わり毎に家臣の栄枯盛衰は常にあったことでしょう。
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この回答へのお礼

早速お返事を下さいまして誠にありがとうございます。

龍野藩藩史によるのですね。
よく分かりました。
私が始めから、本の名前を教えて下さいと書いておけばよかったと反省しています。
お手数をおかけしました。

お礼日時:2014/03/30 20:17

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