プロが教えるわが家の防犯対策術!

 《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。

           *

 三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

 それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。
 これを問います。

 つまり まづ
 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

 2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。

 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

 それぞれ当てはまるというタトエです。

 5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。

 6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

 7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。

 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。


 10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。

 11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。



 三位一体論は 役に立ちませんか?

A 回答 (15件中1~10件)

こんばんはです。




キリスト教の三位一体説の説明、ペルソナ説は、
どうも、わたしにはしっくりときません。
考えれば考えるほど、奇妙なものに思えてならない。
ペルソナは、仮面であり、性質や性格、役割でしょ。
ペルソナはあくまで属性であって、本質や実体ではないので、
これでは、
父なる神も神の属性ということになってしまう。

~~~~~~~~~~
   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。
~~~~~~~~~~
の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。
ですから、
これはペルソナと言えないのではないか?
となってしまいます。
ずっとここに引っかかりを覚えています。

もっとも、光源が真なる神の見せる《仮面・ペルソナ》や、人間が直覚、直観する神の現われ(?)であって、それは真なる神ではない、というのならば、話は違ってきますけれども。
bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。

ですから、
わたしは、
ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、
と考えています。
《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。
でないと、
《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、
と思うので。
───たぶん、こうした《聖霊》観は、真っ当なキリスト教(?)の聖霊観とは違うのかも知れませんが・・・。
ですが、
イザヤ書11:2には、
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
とありやす。───


~~~~~~~~~
  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に
~~~~~~~~~
とあり、
bragelonneさんも《ハタラキ》や《機能》、
《機能》はちょっとまずいのかもしれないので、
《ハタラキ》としてとらえているわけですから、
《ハタラキ》としてとらえた方がいいのでは?

で、わたしは、さらに進んで、
《聖霊》だけでいいのであろう、
《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、
《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、
と考えます。
三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、
と考えています。

《記憶》や《知解》ですと、オシエに関わるものになってしまいますし、
bragelonneさんの神論や信仰論とは相容れないものになってしまうじゃないですか?
もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、
それであったとしても、
それは《聖霊》に含めればいいのではないか、と考えます。

罰当たりなわたしには、
三位一体説のイエスという存在は、どうも中途半端な存在に思えてしょうがない。
ロゴス・言葉なる神・イエスとすると、イエスは福音などの神の言葉そのものになってしまう。
宇宙を統べる何かをロゴスとするならば、イエス=神となってしまうので、
父なる神と子なる神という区別が曖昧になってしまう。
イエスを受肉した神と考えれば、イエスは神の愛そのもの、もしくは神の愛の現われになるのでしょう。であるならば、「言葉・ロゴスによって伝えられる愛」や「父なる神と子なる神の永遠の愛」・聖霊との区別が曖昧になってしまう。
「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、
そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。
「不条理なるが故に、我、信ず」でいいんですよ。
イエスは永遠の《???》でいい(笑い)。


わたしは、キリスト教のオシエには結構、寛容なのですが、
キリスト教の難解な《三位一体説》には厳しい目を向けています。
《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。
この際ですから、
神・イエスには、哲学のために、もう一回、死んでもらいましょう(笑い)。
もう一度、《十字架》にかけちゃいましょう!!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 (省略)の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。
 ですから、
 これはペルソナと言えないのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっとですね。

 神は あくまで《非知》です。《その存在ないし非存在について人間がその能力によって知り得るか知り得ないか これが知り得ないというナゾ》です。

 概念的な説明としては 《絶対・無限・非経験》です。ナゾは 《霊》です。

 さらに内容を むしろ人間がのぞむほどに捉えるなら 《真理・愛・慈悲》です。

 擬人化して捉えるなら 一般に《絶対者》であり だいたいは《創造主》を言うものと思います。




  ○ 実体・本質 / ペルソナ

 これらは あくまで哲学上の概念として もともと あると思います。

 《絶対》なら いわゆる《実体》であるとは言えるはずです。でも 《非知》です。

 《本質》は 属性としてと言いますか 修飾語としての概念説明だと思います。うつろいゆく現象ではないでしょうから。

 ただし 《絶対なる霊》は けっきょく経験世界を越えているという想定ですから むしろこの経験世界における現象にさえ かかわっている。かも知れないとなります。いわゆる《遍在》です。


 《ペルソナ:位格》は 《神》が三つの部分に分かれると捉えるとき その部分の名を このペルソナとしたということです。それだけのことです。三つの《貌》でもよいはずです。



 あらためて まとめとしては:

 《非知》を想定する。(必然的に そういう領域が想定されてくる)。

 これが 一般に言葉として使われている《神》のことだと認定する。そうして これについての説明をおぎなう。これは 上に示しました。





 ・ 光のタトエにあっては 《光源;その発耀;その明るさ・あたたかさ》は あくまで比喩です。実際にそう有るという意味ではありません。つまり 三つの位格のたがいの関係を説明するのによいということからです。一体性が 光であることにおいて 分かりやすい。

 たとえば 神は愛なり。というとき 子の父も 父の子も それぞれすでに聖であり霊であり 聖霊であるからには 愛でもあるのですが とりわけ《明るさやあたたかさ》に譬えられる《父と子との両者から発出する聖霊》こそが 神なる愛であると呼ばれるのにふさわしい。



 これは 人間の時間的な差をともなう三一性にあっては 《意志》にあたります。

 ひとがいて 精神があり 精神が精神するといったとき これは 具体的には 記憶が記憶するという意味にとって それが 知解になります。記憶がいわば父です。知解が 子です。

 そうして 記憶と知解とにもとづき人格全体としての心を決めるのは 意志です。その意志行為や結果は あたかも《父と子とから発出する聖霊なる愛》にたとえられる。ただし 人間の意志行為における愛は 愛情と嫌悪との正負ふたつのの向きを持って分かれて現われる時間的な・移ろいゆかざるを得ない愛です。




 ◇ bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。
 ☆ この三位一体なる神という説は 神学の中でも特殊中の特殊です。哲学の問い求めに耐えうるかどうか こころもとないところです。

 なんで神が 三つの位格に分かれるのか? それは ひとえに イエスが――旧約聖書からのそれとしての伝統にのっとってでしょうが―― 《父なる神》という言葉を使ったし 《神の子》と自称もしたし あるいは《聖霊:パラクレート》を送るなどということをも言った。ゆえです。

 この謎解きを人びとは おこなって 三位一体なる神だぞという結論に到りました。根拠は ありません。イエスが 言ったことの内容を 整理し つじつまを合わせたとも言えるでしょうし じつは いわゆる《神の化身》といったような通念をめぐって 哲学ないし神学としてのケリをつけるために虚構を語ったのだとも考えられます。


 ここにおいて 哲学としての基礎は 《非知》です。非知として神を想定するという初めの約束事です。あとは 説明のためのガンバリです。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから、
 わたしは、
 ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、
 と考えています。
 《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。
 でないと、
 《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、
 と思うので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですけれど 趣旨説明欄の(3)に記したように 《父と子と聖霊との三つの位格のそれぞれは互いに そして各個は全体(三位一体)と 全体は各個と それぞれ まったくひとしい》のです。

 ひとつのペルソナが 《現われ ないし ハタラキ》であるならば ほかのペルソナも 同じくそうであるとなります。


 ▲ 主の霊
 ☆ とは 父なる神でもあり 子なる神でもあり 聖霊のことでもあり また それら三位一体なる全体のことでもあります。《無限》とは そういうものだと思います。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 で、わたしは、さらに進んで、
 《聖霊》だけでいいのであろう、
 《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、
 《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、
 と考えます。
 三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、
 と考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これまでのやり取りにおいて すでに《これからは――つまり イエス・キリストが去って行ったあとからは―― 聖霊の時代である》と書きました。

 神について もうおしえたりすることは 無くなる。神が 人びとの罪をおぼえていることも無くなる。というふうに神みづからがみづからを揚棄しましたから。

 《人間の時代である》と言ってもよいのですが その人間なる存在には《非思考の庭》が 感性や理性のほかに あると想定されるので なお神にかかわる言葉として《聖霊》を用います。


 三位一体説は 最小限必要だと思われることには カトリックおよびプロテスタントのクリスチャンらの説く神論が この三位一体説であるならば――あるのだから―― あたかもその説にこちらも合わせて議論し あとは いま触れたエレミヤの預言――あたらしい契約によるあたらしい世界――が成就したという世界認識を 共有することが出来るほうが みのりの多い議論になると考えるからです。




 ◇ もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、 
 ☆ 《記憶・知解・意志》は 《かみの似像》としての人間の存在要素です。自然本性においてそなわると見ます。つまり 経験事象としての行為能力です。

 これが 《非思考の庭――信仰――》をつうじて 神の霊つまり聖霊にあたかも連なるという見立てです。実際には ヒラメキという現象として そのつながりを捉えます。(文学的には その聖霊と非思考の庭との連絡は 天使の役目だというかたちです)。



 ◇ ロゴス・言葉なる神・イエスとすると
 ☆ いえ。《ロゴス》は あくまでタトエです。基礎は 《非知》です。あとは 分かりやすいように概念的な説明として 表現をひねくっています。



 ◇ 「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、 / そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。
 ☆ イエスがほのめかしたのですし アタナシウスとかいうおっちゃんが提唱し皆がみとめたからには それとして受け留め エレミヤ預言の実を取ったほうがよいと考えられます。ということは これは クリスチャン内部での議論におさまることなのかも分かりません。でも 哲学としての妥当性を 外部の者も見届ける必要があります。


 ◇ 《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。
 ☆ エレミヤ預言が 成就したことが 常識になったなら 不要になります。

お礼日時:2014/05/20 20:21

おはやうございます。

神学に素人の私は、NemurinekoNyaさん復活までのつなぎのつもりでしたが、私の回答へのコメントとみなされる記述がみられましたので、もう一度お邪魔します。

それにしても、No.14。三位一体推進派のbragelonneさんが、それを否定したがり、懐疑派のNemurinekoNyaさんが容認するための根拠を示さうとする。これが、このカテゴリの楽しいところです。

対格支配のprosは、方向性をあらはします。英語でも日本語でも、うまい訳し方がないのですが、私としては、

岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店

「の側(所・もと)で(に),近くで(に),共に」
がいちばん適切と考へます。用例として列挙されるマタイ13章56節、26章18節、マルコ14章54節を見ても、「ともに」存在する者は、完全に別人格です。

>>定冠詞の有る無しは、
>>実体と
>>その部分、属性などの区別を明確にするためのもの

そのとほりです。
「実体」とは神そのもの。
「部分、属性」とは、ロゴスが神の属性をそなへてゐる、
あたかもアダムが神のかたちにつくられたかのやうに。

ヨハネ1章2節は、1節と同じ文で、NemurinekoNyaさんのご指摘の意味が理解できませんでした。すみません。

>>キリスト教の三位一体説は、
>>新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、

私もそこが源だと考へてゐます。

>>キリスト教は、
>>プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。

まちがひありません。

*** *** *** *** ***

>>《とともに》と受け留めると 
>>むしろ《ペルソナは ふたつ》というふうにも受け取られます。

ヨハネ1章1節は二位一体ではないか、と三位一体を否定する根拠として使用する人たちもゐます。

*** *** *** *** ***

たぶんNemurinekoNyaさんは、私の「落書き」投稿には批判的立場だと思ひます。このスタイルのいちばん大きな理由は、サイト内で批判攻撃されて傷ついてゐる人たちが、plapotaのことを笑つてくれたらいいのに、と思つてゐるからです。私は悪口を言ふ人に対しては、どうすれば面白い返答ができるか、楽しんで考へます。でも人は、心の余裕を失つた状態にあるとき、みづからを笑ふことができなくなります。

サイト運営者による私の投稿文削除の件をときどき書きますが、すべてほんとうです。でも不仲といふわけではなく、裏方さんとも会話を楽しんでゐます。今の話題は、「批判的投稿文の削除」についてです。削除を受けると、反感を抱いて、ますます、他の人たちを批判するやうになります。せめて私への単独非難の場合には、削除しないでください、うまくまとめますから、といふものです。

夕鶴のページ、拝見しました。
この主題で、おふたりは、あんなに真面目に、そして深く論じることができるのですね。改めて感心しました。NemurinekoNyaさんが色事に強いこともわかりました。コンピューターがなくても、四色問題が解けさうです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ぷらぽたさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。そのようにわたしも受け留めます。

 あっ。そう言えば エレミヤ預言について あらためて 質問してみます。おぎなうことが出来るかと思います。





 夕鶴についてのコメント ありがとうございます。




 

 ★ せめて私への単独非難の場合には、削除しないでください、うまくまとめますから、といふものです。
 ☆ これは そういった意味合いのことをサポート係りとメールで掛け合ったことが わたしも あります。

 ダメでしたが がんばってみてください。

 《質問としては 成立していますが 回答者さんたちとの関係など全体を考慮して 質問じたいを削除することとしました》と言われて そうなったことがあります。

 そしてしかも さらにねばったときには 何と質問が復活したこともあります。
 念のために 証拠をかかげます。

 次のページで その次に挙げた質問が ふたつあるのがそれです。二例とも復活です。

 ・ 質問履歴のページ
  https://okauth.soudan1.biglobe.ne.jp/mypage.php3 …

 【Q:昭和天皇の戦争責任について】

 ・ https://okauth.soudan1.biglobe.ne.jp/mypage.php3 …
 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】






 このいまの質問について こまったことは クリスチャンからの回答がつかないことです。
 この傾向は もう前々からです。
 さらに過去には きちんと答えてくださった人も 事例も ありますが 問題は ひととおりの確認事項で合意したあと これこれはどうなりますか? といったツッコミについては もう敢えて言えばへっぴり腰になってやり取りが消える場合が多いようです。

 いづれにしましても エレミヤ預言についてなお問うてみます。

お礼日時:2014/05/21 07:26

1:1 ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος



ですわね~。

πρὸς = with
ならば、神とロゴスは不可分と解釈できるんじゃないですか。
これを「そば」や「ともに」と訳してはいけない。

定冠詞の有る無しは、実体とその部分、属性などの区別を明確にするためのものと考えれば、
三位一体を表わしていると解釈することもできるのではないか。
そんな気がしますけれども・・・。
ロゴスは神そのものではないので、矛盾はしない。

1:2 οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν
とありますしね~。

仮に「そば」や「ともに」であっても、冠詞の有る無しの問題はクリアーできるのではないか。
そんな気がしますけれども。
これでは、
ダメですか?


キリスト教の三位一体説は、
新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、
と私は考えていますけれども。
キリスト教は、プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 πρὸς = with

 ならば、神とロゴスは不可分と解釈できるんじゃないですか。
 これを「そば」や「ともに」と訳してはいけない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが よく分からないんですけれど? 《とともに》ではいけないのですか?

 ▼ (ヨハネ福音1:1-11) ~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 1:2 このことばは はじめに かみとともにあった。
 すべてのものは これによってできた。・・・

 〔このことばは〕世に来た。
 かれは世にいた。
 ・・・かれは自分のところにきた・・・。


 ・・・父の独り子・・・。
 
 ▼ (ヨハネ福音14:6-7) ~~~~~~~~
 イエスは言われた。

   「わたしは道であり、真理であり、命である。
   わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くこと
  ができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父
  をも知ることになる。
   今から、あなたがたは父を知る。
   いや、既に父を見ている。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ◇ 定冠詞の有る無しは、実体とその部分、属性などの区別を明確にするためのものと考えれば、/ 三位一体を表わしていると解釈することもできるのではないか。
 ☆ これは わたしは 何とも言えないですね。決定的なことは 何とも分からないです。残念ながら。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1:2  οὗτος  ἦν  ἐν  ἀρχῇ πρὸς  τὸν  θεόν

 とありますしね~。

 仮に「そば」や「ともに」であっても、冠詞の有る無しの問題はクリアーできるのではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《とともに》と受け留めると むしろ《ペルソナは ふたつ》というふうにも受け取られます。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 キリスト教の三位一体説は、
 新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、
 と私は考えていますけれども。
 キリスト教は、プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ プラト二ズムとは 親和性が高いです。アウグスティヌスも それらしきことを言っていたと思います。


 《流出説》は 聖霊についての捉え方に影響をあたえたのかと思われます。





 だいたい 受け留めてもらえたのでしょうか? 前回のわたしの応答を。

お礼日時:2014/05/20 23:50

キリストは神


キリストの身体は教会

だから教会に所属することで
神と結ばれるのでしょう。

霊的な観点から聖霊の役割かな?


だから所属しないと関係ないということに。


Iコリント12:27

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 キリストは神
 キリストの身体は教会

 だから教会に所属することで
 神と結ばれるのでしょう。

 霊的な観点から聖霊の役割かな?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから キリストが十字架上に去って行ったあとは その子なる神および父なる神の両者から 聖霊が送られてくる。

 その意味で――あたらしい――聖霊の時代が始まる。

 よって 教会も 聖霊による《民会:エクレシア》または《主の〔家〕:キュリアコン>チャーチ》が・つまり 目に見得ない教会が 始まりました。




 キリストというぶどうの木につながっていれば キリストのからだを構成する器官に成り得ます。

お礼日時:2014/05/20 19:12

カトリックのカテキズムを読んで考えてもいいけれど、


片付けたらどこにいったのかわからなくなったので

自由に考えるために

イエスの啓示した神は旧約聖書の神なんだろうか?
こんなことを書いてみる。

ところで、イエスの啓示した神に肉体はあるのだろうか?

というのも、肉体から解放されたほうがいいと考える人々にとっては
神に肉体があるなどとは考えられないだろう。


それから

「わたしの仕えているイスラエルの神,主は生きておられる」(王上 17:1)。

神は生きているわけですよ。

民族神で戦争したり、災いをもたらしたり、救済したり、妬んだりする神

ところがそんな神が新約聖書になると、ほとんど話さなくなってしまう。


イエスは私はあるといったのだから
モーセの前に現れて、わたしはあると言った神と同一視しても
いいかもしれませんが

すると、イエスの啓示した神はモーセの神以外の神になるような?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 神は生きているわけですよ。
 ☆ 絵に描いた餅でも張子の虎でもなく 観念の神でもないという意味です。

 感性と理性とを超えている。その非思考の庭にあって 生きている。と言おうとしています。
 
 


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 民族神で戦争したり、災いをもたらしたり、救済したり、妬んだりする神

 ところがそんな神が新約聖書になると、ほとんど話さなくなってしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 民族の神であるところからそれが全世界のあらゆる民族へと開かれた。
 
 しかも 人びとに対して 戒律をあたえそれにもとづき罪の有る無しを判定するような神ではなくなるということ。また しかも事実そのようなオシエを人びとが持つことすら なくなるということ。このように神がみづからによってみづからを揚棄した。

 これは エレミヤ書で預言され イエス・キリストの登場において成就した。

 神が止揚された。言ってみれば 聖霊の時代に成った。神を言わなくなる。名前を出す必要がなくなる。ほかの世界中の神という神が すべて同じひとつの神であると見なされるようになる。――です。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは私はあるといったのだから
 モーセの前に現れて、わたしはあると言った神と同一視しても
 いいかもしれませんが

 すると、イエスの啓示した神はモーセの神以外の神になるような?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《わたしはある》は――神の発言を 人間の次元に降ろして来て言えば―― 存在論です。言いかえると 《わたしはわたしである》という人間としての自覚であり その自覚的存在の実現のことです。


 この神の《本名》のような《わたしはある》は 神がモーセに現われて言った時点では ユダヤ民族の一人ひとりに対して 《わたしであれ!》とも《ヤハヱーの子である人間のわたしたることの自覚あれ!》とも言っていた。

 イエス・キリストによって この民族という枠が――後世に・つまりは初めにパウロに託されつつ――開かれた。そういう意味での《わたしはある》になった。

 人間たる《わたし》が どの民族の誰についても まったく同じだということになった。

 その意味では すでにどの民族のわたしにとっても その神は いかに名前が違っていても みなすでに互いに同じひとつの神であるということが 実質的に成ってしまった。


 これが イエス・キリストのおこなったハタラキです。

 モーセの神が 世界に開かれた。しかも その神というのは もういちいち人びとのあいだでおしえることもない。とまで宣言された。

 
 

お礼日時:2014/05/19 22:26

bragelonneさん、こんばんは。

No.8で退出しようと思つたのですが、外国語カテゴリに投稿してくださつてゐたので、そのお礼を申し上げます。質問者の女の子は素直ないい子で、みんなで大切にしてあげたいと思ひます。kazamidori365さんもどうぞ、お見えになつてください。

>>運営部からの削除の結果 
>>100いくつにしぼんでしまいました。・・・とさ。

大量抹殺ですね。
ちなみに私は本日も2件、回答文の削除をうけました。bragelonneさんのこの数に追ひつくやう、精進します。

>>けんか腰は・つまりその外見は 
>>卒業してもよいかとも思っています。

哲学カテゴリでの仲間内ならよろしいのではありませんか。サイトの一般の人たちは、傷つきやすい人もゐるので、気をつけたほうがいいでせうけれど。

>>三位一体については 
>>哲学では扱いにくいところがあるかに思われます。

続きはまたそのうち。

>>アウグスティヌスは 当初 ..........

教父に関しての見解は、まつたくの私見です。多くの人たちから尊敬を受けてゐますので、bragelonneさんの見方のほうが正しいのかもしれません。

>>ヤハヱーの語としての意味が知りたいですね。

これは大問題ですよね。そもそも発音すら、されなくなつてしまつたのですから。解決される日が訪れるのでせうか。私には無理です。

>>峯先生は ともだちではないの?

ギリシャ語とシュメール語の授業でいつしよでした。もちろん、峯先生のほうが優秀でした。卒業後は会つてゐません。

>>夕鶴つう

やつと見つけました。NemurinekoNyaさんがベストアンサーですね。たくさん回答があるので、これからゆつくりと拝見します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ねこさん こないなア。ごめんなさい。


 ぷらぽたさん――って何ぢゃいな?―― こんばんは。ご回答をありがとうございます。






  ○ 三位一体について

 どう扱うか ひとつの結論を得ました。
 つまり 欧米のと言いますか カトリックおよびプロテスタントのクリスチャンによる神学と同じ土俵に上がる いや リングに上がるでしょうか の場合には 《ロゴス》が 神としての神の子であるかどうかを必ずしもあらそうのではなく――少々政治的な姿勢に片向きますが―― 相手に合わせて 神であると仮説して対処する。こういう態度で行く。
 
 と言いますか そういう対処の仕方を用意しておくということ。これで 準備万端になると思われるからです。
 (かなり 自信があります)。




 
  ○ 峯 正志 金沢大学教授
  http://ridb.kanazawa-u.ac.jp/public/detail.php?k …

 でいらっしゃるのですね。
 ぷらぽたさんも 非常勤講師からでも始めれば? コネを使うのがいいかどうかは あるにはありますが。





 
 あとは そのまま承知しましたという返答になるのですが。・・・




 質問者の《素直ないい子》は 応答を書かないですね まだ。



 夕鶴つうは なつかしいと言えばなつかしいですが。


 ねこ氏 来ないなア。

お礼日時:2014/05/19 21:22

時空の外の神は認識も出来ない



受肉することで時空の内に現れた神

このままでは断絶がある。

だから両者を仲介する聖霊

こんな風に考えてみました。
どうでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 だめ。

 この経験世界内と外といった区分が 神にかんしては マチガイです。

 ☆☆ (【Q:《神》は 補助線である。】No.15お礼欄) ~~~~~
  ★ 時間や空間の外の神という発想
  ☆ これは 明らかな認識上のマチガイです。

 《非経験の場――わが心なる非思考の庭》 これは 《非知》だと言っています。かんたんには 経験世界を超えていると言っています。

 《超えている》ということは 一つひとつの経験事象やその範囲にとっての内と外とを超えているという意味になります。

 言いかえると 《超えているナゾ》は その超えられた経験世界に 自在に出没することができる。なぜなら その経験世界における《有る無し》や《ものごとの因果関係》やからまったく影響を受けず 自由であるからです。

 つまり 《非経験の場(つまり 神)》は いちいち・わざわざ人間の住む経験世界に出没することもないのですが 気が向いたら やって来て しかも嫌がっている・のちに預言者となる人間に介入して 立て 立って行け 行っていまから言うことを人びとに伝えよ・・・というようなことをもさせ得る。ということになり得ます。

 《外》から来るのではなく もともと神自身の居場所であったかも知れない。そういうことは じゅうぶんあり得ます。

 

 投稿日時 - 2014-05-18 17:08:25
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






 聖霊がこの世にあって 人の内ではたらくという見方に 不都合はありませんが 《仲介・仲保》という意味では その聖霊に限るという見方は 必ずしもふさわしいとは思えません。


 ☆☆(趣旨説明欄) 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。
 ☆ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神とそれぞれひとしい。つまり 父も子もそれぞれ 聖であり霊であり 聖霊である。



 人と父なる神との《仲介》は 子なる神であるキリストが――ということは イエスがいたときには イエスが―― おこなっています。キリスト・イエスは ひとのために神に《執り成し》をおこなうというふうに表現されています。

 イエスが 去ったあとには 子なる神が父なる神とともに 聖霊をこの世に送ると言いました。
 すでに世の初めから・アブラハムのときから 聖霊は送られていましたが エレミヤ書の《あたらしい契約》をイエスが登場して成就したあとの世界にあっては 舞台があらためられた世界へと聖霊が送られることとなった。

 すなわち 人びとの罪をもう神はおぼえないようになることと 神を知れと言って人びとにおしえることは無くなるということ。そのための聖霊が送られて来ている。

 それが 実現するには 二日――神にとっては 千年が一日であるゆえ――かかっている。おおむねの話として。


 どうでしょう。

お礼日時:2014/05/19 18:35

bragelonneさん、おはやうございます。

他の人たちが投稿しづらくなるので、No.4あたりで終了を考へてゐたのですが、ともだちのゐないplapotaのために、各方面でお気遣ひいただいて、ほんとうにありがたうございます。

*** *** *** *** ***

>>ロゴスの受肉を 受け容れたのなら 
>>神が 父と子と聖霊との一体であるという前提に
>>立ったかなと思いました。
>>子が ロゴスだということですから。

キリストが肉のからだになつたことは、聖書に何度も記されてゐますから、私は当然受け入れます。神学の知識に乏しいものですから、bragelonneさんとは話が通じないところがでてきます。申し訳ございません。

アウグスティヌスとかクレメンスとか、かつては読まうとしたのですが、あまりに飛躍した議論、突飛な比喩、ここに真理はない、と判断して、基本的に聖書以外は信用しないことにしてゐます。このたびの「肉」につきましては、仮面ライダー様のアマテラス神学による「筋肉」といふ用語であれば、誤解がなかつたとおもひます。

*** *** *** *** ***

>>タガログ関係を書き込んだところです。

音韻変化、説得力をもちます。意味のうへからも充分かんがへられるだけに、有力です。ありがたうございました。

>>外国語カテを変えちゃってしまっちゃって。

NemurinekoNyaさんの真似です。翻訳依頼でほとんど埋め尽くされてゐたので、言語についての楽しい質問がほしかつただけです。翻訳依頼が激減してしまひました。ほんとうに困つてゐるなら、遠慮しなくもよいのですけれど。

>>経営学でした。

意外でした。

>>修士でもそうです。

私は学部生でおしまひです。bragelonneさんの時代の大学院でしたら、レベル高いですよね。

この回答への補足

 余計なことを思い出しました。


 とにかくわたしの質問に対して アラシが多かったのです。四五人 六七人 寄ってたかって おまえは病気だ 心療内科へ行きなさい 早く死ね・・・といったののしりとともに 批判を繰り返して来ます。

 いちど――この笑い話のような話をしたかったのですが―― とうとう300の大台にまで回答数が増えました。300ですよ。そして 運営部からの削除の結果 100いくつにしぼんでしまいました。・・・とさ。

補足日時:2014/05/19 10:04
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 お早うございます。今朝は寝起きが 何となくしっくりしないぶらじゅろんぬです。
 ご回答をありがとうございます。



 わたしは――わたしも?―― けんか好きですよ。
 ここでも どうでしょう 三年・四年前までは いつも挑戦者精神でした。

 いわゆるアラシ回答に対しては べらんめえ口調で片っ端から けんかを受けて言い返していました。(その結果 おしえてgoo! から追放されました。いま noname#80116 となっています。そのときは n のひとつ少ない bragelone で出ていました)。

 まだ ちらっちらっとアラシは来ているようですが――つまり 病院へ行けというたぐいの投稿です―― わたしに対しては お陰さまでほとんど ななにすクン一人になりました。

 チャレンヂャーでなければ お二階さんは一階市民社会に大政奉還せよといったことも言わないでしょう。
 そう言えば アラシがなくなりつつある所為で わたしも この市民スサノヲ・スピリットを薄めかけていたかも知れません。

 まぁ けんか腰は・つまりその外見は 卒業してもよいかとも思っています。

 ちなみに 【Q:けんかをしては なぜ いけないのでしょう】といった質問もしています。








 三位一体については 哲学では扱いにくいところがあるかに思われます。

 社会における三権分立といった形態をめぐって なかなか考えさせられた経験とその思いは まだ あります。

 気長にと言いますか 三位一体説じたいについては 前面に出さなくてもよく けっきょくみづからを揚棄する《キリスト史観》として問うて 民主制に道をゆづるのみ。こういったところでしょうか。ぼちぼちとまいりましょう。




 ★ このたびの「肉」につきましては、仮面ライダー様のアマテラス神学による「筋肉」といふ用語であれば、誤解がなかつたとおもひます。
 ☆ ここには 何だか《本質直観》とでも呼ぶべきさとりが 起きたかに思われる節があります。わたしには 分かるような分からないような。・・・

 たしかに仮面ライダー氏は 神秘をあつかっています。用語の適宜性よりも みづからの確信に立ってすすむという姿と受け取られます。

 《筋肉》は ヒット作品だったでしょうか。ポケモンの原案作成者だそうですよ。きちんと話をし合って来ましたが いつまでも ときわたりですとか ジェラーチでしたかの《理論》とおつき合いすることも どうかと(つまり 哲学カテとして進展があるかどうかと)思い いちど突き放したこともありました。

 これから どういう展開になりましょうか。・・・





 アウグスティヌスは 当初 全面的にわたしの議論はアウグスティヌスの請け売りだったのですが その後ときを経て すでに《水による洗礼は要らない》ですとか《ローマ教会は 自己解体すべし》ですとかと物言いをつけるまでに――つまり 背信をかさねるまでに――なっています。

 でも ヤハヱーの自己揚棄すらがあったということですから わたしもアウグスティヌス越えをせねばならなくっちゃと。・・・思います。






 外国語カテは おっしゃるとおりです。かつて nakano・・・という名前の凄腕を見受けましたが いまは どうでしょうか。ここ近年は 哲学カテのほかはほとんど見ていません。

 あっ。そう言えば ヤハヱーの語としての意味が知りたいですね。これも いちど質問しましたが 回答はつかなかったです。ハワーの使役ヒフイル形だと見ると 分かりやすいのですが これは 退けられているような。要するに 定説がないみたいですね。



 アメリカの大学生は それはそれは よく勉強するみたいですね。課題を出され参考文献を読み 参考資料にあたるという作業をこなして行くのだとか。

 わたしは 留学はおろか 二週間弱のヨーロッパ・パックツアに行っただけですから 外のことは知りません。生活感覚として 知りません。


 でも いづれにしましても これからは 日本人の出番であると見ていますし ここでも言って来ていますので その方向をもかためて行きたいと思っています。





 あさ お早いですね。わたしも 健康のためにそうしようかなとは思っています。



 峯先生は ともだちではないの?

お礼日時:2014/05/19 09:50

シュメール語のご回答への「お礼」がたいへん失礼な表現になつてゐました。

投稿ボタンをクリックしたあとで気付きました。

持つべきものは敵です。
  ↓
持つべきものは論敵です。

午後から疲れてきました。明日からは猫さんがお相手してくださることでせう。

*** *** *** *** ***

>>だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。

どうしてですか。??

>>私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。
>>☆ ウケルお答えですよね。

すみません。ここは、苦しまぎれの答です。

*** *** *** *** ***

>>フランスの自動車・交通事情なんて 知らないもんね。

「仏国フランス」といふ表現を読んで、突つこみを入れてほしいのかと思ひました。違つたのですか。

>>夕鶴おつうの質問をしたことがありました。

さがして拝見いたします。

このたびは、新たな知識と刺激をあたへてくださり、ありがたうございました。今後とも御指導くださいませ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 No.6の補足欄に タガログ関係を書き込んだところです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  >>だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。

 どうしてですか。??
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ロゴスの受肉を 受け容れたのなら 神が 父と子と聖霊との一体であるという前提に立ったかなと思いました。子が ロゴスだということですから。

 むつかしいですね。




 夕鶴おつうは お口に合うかどうかは定かではありません。




 外国語カテを変えちゃってしまっちゃって。・・・ですね。


 哲学カテでも 言語類型論――《ぼくハ〔注文ガ〕うなぎだ》のハ格・ガ格の理論――とそして ソシュールの言語記号の恣意性に対する批判と この二点が わたしのおもにあつかっている主題です。





 言語類型論としての観点からは勉強しましたが 個々の言語を 決して読み慣れてはいません。
 辞書と活用表および参考書を脇に置いて 何とか読めるようになる段階まで やっておいたというのが 実情です。

 わたしの専攻は 言語学でも哲学でもなく 経営学でした。(外国語学部での専攻もそうですし(だから 学士は 文学士です) 修士でもそうです)。

お礼日時:2014/05/18 20:31

回答番号1,3,4,5、plapotaです。



>>どうもこの《死を死ぬ》ということも
>>何だか中途半端であるように感じます。

それは私も感じます。痛いところをついてくるものです。
私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。

>>もしロゴスが肉(人たる身と心)に成らなかったなら

もちろん私も「肉」になつたと、理解してゐます。

*** *** *** *** ***

>>イエスは ヘブライ語でしゃべっていた
>>という説を立てている次の本を借りて来ました。

信用に足る説でしたら、また御教授ください。

>>古代なら ワン湖周辺のウラルトゥ語もやりましたよ。
>>《能格言語》として これは 有益でした。

ウラルトゥ語、私はさつぱりわかりません。能格は言語の好きな人なら興味ある話題ですよね。シュメール語以外は手付かずですけれど。あちらへのご回答ありがたうございました。

>>音楽 バイオリンの音色がいいです

私は演奏はできません。ただ聞くだけです。バイオリンは、ナージャのメンデルスゾーンがピカイチです。

>>アリスの質問は「文学」カテゴリなら理解してくれる、
>>と信じてゐたのですが駄目でした。
>>突拍子もない話をよくも書いたもんだとは思っても
>>あまりよくは承知していません。

『不思議の国のアリス』は○○コンにとつては必読書です。モデルになつたアリス・リデルのお父さんは、Henry George Liddellで、ギリシャ語のいちばん有名な辞書を編纂した人です。

>>ねむりねこ氏は あす戻るとのことです。

深い仲なのですか。もしや、○○なのでは。kanto-iさんにつづいての告白ですね。私はくちが軽いので、すぐにサイトぢゆうにひろめてしまひます。

この回答への補足

 タガログ関係です。

 まづ南島語族で《ひと》を表わす語を ヰキぺから拾います。

 ▲ (ヰキぺ:Austronesian languages) ~~~~~~~~~~~
http://en.wikipedia.org/wiki/Austronesian_langua …

  《 person 》を表わす語

 Tagalog:   tao
 Bikol ほか:   tawo
 Tausug:   tau
 Ibanag:    tolay
 Malay:    orang
 Maori:    tangata

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これを 次のように語形の変化をこうむったと 手品のごとく分析しました。



 ○ 《ひと》: * ta-ga-lo-g ~~~~~~~

 Tagalog:   ta- o-φ-φ
 Bikol :     ta-wo-φ-φ
 Tausug:    ta- u-φ-φ
 Ibanag:    to-φ-la-y
 Malay:    φ- o-ra-ng
 Maori:    ta-nga-ta-φ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 母音の交替ないし出没は 自由と前提します。

 2. / ga / ∽ / wo / ∽ / nga / > / o, u, φ /

 3. / l / ∽ / r /
 
 4. / l, r / ∽ / s, t /

   cf. やはり>やっぱり>やっぱし
     あまり>あんまり>あんまし

   cf. Kallallit: カラーシュリット(グリンランド・エスキモー)

   cf. Tagalog ∽ Tausug : -l- ∽ -s-

   cf. tagalog ∽ ta-nga-ta-φ: -l- ∽ -t-




 どうでしょう?

補足日時:2014/05/18 20:17
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ もちろん私も「肉」になつたと、理解してゐます。
 ☆ ん? だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。・・・



 ★ バイオリンは、ナージャのメンデルスゾーンがピカイチです。
 ☆ あっ。そういう教養あふれる会話は できません。ただ聞くだけです。


 ★ アリス・リデルのお父さんは、Henry George Liddellで、ギリシャ語のいちばん有名な辞書を編纂した人です。
 ☆ あぁ。たしか Liddell & Scott とか。へえーえ。




 ★ 深い仲なのですか。
 ☆ メールのやり取りをしています。





 ★ 私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。
 ☆ ウケルお答えですよね。





 フランスの自動車・交通事情なんて 知らないもんね。




 あぁ。わたしも 夕鶴おつうの質問をしたことがありました。いろいろですね。

お礼日時:2014/05/18 19:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!