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僕は日本史の勉強をサボってきたので大雑把な質問しかできなくて申し訳ないんですけど、なぜインパール作戦はうまく行かなかったのですか?

インパール作戦が失敗したのは、牟田口廉也中将の「突撃主義」が破綻したからと言われてますけど、それは具体的に、何がどうダメだったのですか?

A 回答 (9件)

武器弾薬の補給がない


食料も現地調達という無計画
そもそも物資を輸送する手段もない
兵員に持てるだけの装備を持たせてあとは戦場で調達するというその場凌ぎだった

ろくな道路も無いところを短期間で徒歩移動して、航空支援も敵情の確認も出来ず遮二無二机上の予定表に従って突進する

例えインパールでなくとも、世の中そんなに単純ではない
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。最後の一文は正論だと思います。

お礼日時:2014/06/22 20:50

日本陸軍お得意の現状把握実務能力の欠如というかルーピー脳。



具体的には補給がない見込めないのに戦線を伸ばしたということでしょう。飢え死にです。ホントに愚か。軍隊の愚かなことは馬鹿が指揮官になると兵は間違いなく死ぬという例です。東条英機はじめ日本軍人は論理的思考の出来ない馬鹿ばかりだった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/06/22 20:51

まず、作戦の目的が軍事上の必要よりもむしろ東条がチャンドラ・ボースの自由インド政府構想に参ってしまいその政治拠点を作ろうと言う政治的要素が強かった事。



牟田口が盧溝橋事件の時の現場の隊長であったため、日中戦争以来のおとしまえをつけて自分が手柄を立てて戦争を終わらせるなどと言う個人的な動機により立案した事。
川辺がそれを許容した事。

英印軍を侮り、2週間分の食料しか携行していなかった事。マラリアなど熱帯性の疾患が発生したときの備えが皆無だと言っていいほど貧弱だった事。これにより戦病死者・餓死者が続出した。日本軍の撤退路には餓死者、重病者が放置され白骨街道とまで言われた。またこの白骨転々と転がる様が後続部隊の道しるべとなったとさえ言われる。

武器弾薬の補給が全く考慮されていなかった事。
牟田口はジンギスカン作戦と称して牛に荷物を運ばせ最後にはその牛を食えばいいなどと言うフザケタ運輸方針しか持っていなかったため、山脈越えやチンドウィン川を渡河するときに牛はどんどん損耗していった。
敵は飛行機などをフルに使って補給を行ったがそれに対して無策だった事。
日本軍は山越え行軍のため軽装備であったが敵は戦車や大砲を備えた円筒陣地で待ち構え、日本軍の切り込み攻撃を無力化した。

司令官の牟田口は前線に出る事もなく知る事もなく避暑地のメイミョウあたりで安楽にしていた事。一説によればメイミョウでは遊郭まであったそうな。

現場の師団長3名の反対を押し切り牟田口が作戦を強行した事。
意見の違う師団長3名を作戦中に罷免し指揮が崩壊した事。

現場指揮官のそれぞれをみれば勇戦敢闘したケースも見られる(特に撤退時の宮崎繁三郎少将など)が、そもそもの作戦の土台自体が牟田口のアレなもので、成功する見込みははなからなかったと言える。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、うまく行かなかった理由がよく分かりました。背すじが寒くなるほどお粗末な作戦だったんですね。

お礼日時:2014/06/22 20:56

mkfdhさん、こんにちわ。



インパール作戦の代名詞になっていることは補給問題を無視した無謀な作戦として有名です。もともと大本営がたてた作戦だと言われています。しかし、実際に実施するにあたってその時期は敗色が濃くなった昭和19年でした。この間にいろいろな人事が行われ、第15軍の麾下にあった3個師団の師団長が更迭されたり、参謀長も更迭されたりします。一説によると反対者を追っ払うためだといわれています。
大本営も敗色濃厚になった局面を変えるために積極攻勢に出る作戦としてこの作戦を実施させようとします。
案の定補給路が険峻な山岳路で牛馬でも困難な移動ルートでした。また空からの攻撃には格好の的になりました。
そして、敵の陣地を攻撃するときには急襲のために軽装備であったため、敵の堅固な陣地を突破できませんでした。


詳細は下記のURLを参照ください。


インパール作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。

お礼日時:2014/06/22 20:59

馬鹿の一つ覚えで「鵯越」をしたからです。


シンガポールはこの作戦で陥落出来ましたが、イギリスも察知して、
二度目は、待ち構えていました。

更に、グアムでも「鵯越」をして、支援部隊は壊滅しました。

山本五十六が”陸軍さんは「桶狭間」と「鵯越」ばかり”と批判して、
陸軍から命を狙われ、戦艦長門に司令長官として、逃げ込んだとか・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。山本五十六長官が「陸軍さんは桶狭間」と揶揄したのは、織田信長の正面突破説と迂回奇襲説のうち、後者を前提に語ったのですか?

お礼日時:2014/06/22 21:18

失敗は補給の問題と、効を欲しがる軍司令官の個人的わがままです。



約束の補給料を第15、31、33の3コの各師団に、第15軍司令官の牟田口廉也中将ができず、麾下部隊の命令の無視によって、戦線は大崩れになっています。

責任は、牟田口中将の上部機関のビルマ方面具、南方軍、大本営にもありました。
牟田口中将の作戦を裁可したことです。

原因として考えられるのは、大本営としても、押し詰まった昭和19年の戦局に、作戦成功の良い知らせを欲しい大本営の問題、国民に良い知らせをしたいとが欲が出た陸軍省です。

当初、牟田口中将は、補給の為、全陸軍の1/3に及ぶ大規模な補給部隊を要求しました。
それは、陸軍としては、到底不可能な事でした。
それが、大本営までの作戦申請の過程で、上部機関により、ドンドン減らされて、また認可されても、また降りてくる過程でドンドン減らされました。
その数字は、要求した数字を、はるかに下回り、たった3コ師団の補給も危ぶまれる程になっていました。
結果、3コ師団は、食料として、生きた羊、山羊をつれて出発しました。
物資輸送に使う、象も、物資消費が済んだ暁には、食用にする計画でした。
また、陸軍お決まりの、糧は敵に求めるの精神で、インパールまでの給養で進撃し、インパールで敵の糧食を得る計画でした。
中国戦線で、長年培われた、この精神で、作戦はスタートしたのです。

結果は、ご存知の通り、大失敗です。
師団長をはじめ、どんな優秀な現場指揮官がいても、作戦の結果は、見えていました。
反対した3人師団長をはじめ、第15軍参謀長まで更迭しました。
司令部の参謀も、内心では反対していたけれども、参謀長の更迭を見て、何も言えなかったと言われています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。解説は参考になりました。作戦失敗に官僚制の弊害のようなものを感じました。

お礼日時:2014/06/23 15:57

インパール作戦は、すくなくとも中盤戦までは、日本軍の圧勝だったのです。



インパールへの出撃に際して、牟田口中将は、
『ここに諸氏に告ぐ。
河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし』
と述べています。

そもそもインパール作戦は、迅速を旨とする作戦であったということです。

日本は初動段階で、インパールの入り口をふさぐコヒマを占領しています。
すぐ近くにディマプールという、英国軍の物資補給基地があります。
そこまでは、わずは2日の距離です。

もし日本が、その段階でディマプールを陥としていれば、補給の問題は解決していたのです。
そうなるとインパール作戦は、日本側の大勝利に終わった可能性すらある。

そのことを敵である英国側が、戦後はっきりと認めています。

まず、アーサー・スウィンソンという英国のインド駐留軍第二師団参謀は、その著書である「四人のサムライ」の中で、次のようにインパールの戦いを記述しています。

『当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった』

インパール作戦における日英の戦いは、毛筋一本で戦局が変わる微妙なものであったと書いているのです。
彼は、さらにこう述べます。

『当時のディマプールは、全地域にわたって、狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、輸送車が無尽蔵にあったのだから、牟田口は確かに勝っていた』

双方の兵力は、英国15万、日本は9万です。
しかも、英国軍は、十分な兵站がある。
対する日本側は、毎度のことだけれど、ギリギリの装備しか持っていない。

ギリギリの装備しかなかったのは、牟田口中将の資質の問題ではありません。
日本という国自体が、貧しく、ギリギリの戦いをせざるを得なかったのです。
そこを間違えてはいけない。
日本本土だって食い物がなくて、食管法が施行され、闇米が流通し、人々に生活物資がいきわたらなかったのです。
冬は寒いけれど、石油ストーブさえ炊けなかった。
だからみんな木を燃やしたのです。
都心部では餓死者まで出る状況だった。
日本はそうした事情の中で戦っていたのです。
第15軍だけが、なにも兵站が少なかったわけではない。

それでも牟田口中将率いる第十五軍は果敢に戦い、昭和19(1943)年3月21日には、宮崎繁三郎指揮の左突進隊が、はやくもウクル・サンジャクの英国第49旅団を潰走させています。
日本陸軍は、ほんとうに強かった。

そして続く本隊が、コヒマに肉迫した。

コヒマは、ディマプールからインパールに通じる、補給路の要衝です。
日本軍の猛攻に、3月25日、英国のアジア総司令官であるマウントバッテン卿は、ロンドンにある英国統合本部に次のように打電しています。

『もはやインパール街道と、ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。
第四軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。
唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。
よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい』

その第7師団の空輸が始まったのが4月6日です。
その空輸が始まった当日に、日本軍は、はやくもコヒマを占領しています。
まさに疾風怒涛の快進撃だった。

コヒマの目と鼻の先には、英国軍最大の補給基地であるディマプールがあります。

ディマプールが陥ちれば、日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、戦いに必要な一切合財を確保することができます。

ところがここで、予期せぬ出来事が起こります。
一刻の猶予もならないと、督戦をあおる牟田口中将に対し、コヒマ攻略の指揮官が、牟田口中将兵の反発から、敵前で進撃を停止してしまうのです。
これは外敵というより、むしろまったく内部事情です。

ディマプールにいた英国スタッフォード将軍は、
「このとき、もし日本軍が、コヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら、(作戦全体において、英国に勝利はなかった」と述べています。

日本側のコヒマ攻略の指揮官は、その後インパール作戦の日本側の配色が濃くなったとき、補給途絶の故をもって、無断撤退して抗命事件を起こします。

なぜか戦後史観では、この命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が将兵1万の命を救ったと高い評価を得ているのだけれど、実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、あと二日の距離を急進し、ディマプールを陥としていたら、戦況はまったく違うものになっていた、ということなのです。

たしかにインパール作戦は、困難な作戦でした。
しかし、当時、タイに駐留していた牟田口中将率いる日本陸軍は、わずか3個師団なのです。
この3個師団で、英国のビルマへの浸透を抑えることは、前線が広すぎてどうにも困難です。

さらに、支那南部の雲南省には、国民党十万の大軍がいます。
この大軍は、通常の寄せ集めの支那兵と異なり、米軍のジョセフ・スチルウェル中将によって、米式で徹底的に鍛えあげられた軍団です。

時間が経てばたつほど、日本側は不利になる。
しかも彼らには、十分な補給がある。

簡単にいえば、東海道を東進する圧倒的大軍の敵を、箱根(インパール)で討つか、関東平野(ビルマ)まで引き入れて迎撃するかという選択が、インパール作戦となっています。

これだけではありません。
インパール作戦の実施は、日本とその同盟国との関係が大前提となっている。

そもそも大東亜戦争というのは、日本によるアジアの植民地からの「解放」戦争です。
特ア三国以外のアジア諸国は、みんなそう理解している。

なぜならそれが本当のことだからです。
異を唱えているのは、特ア三国だけです。

特ア三国は、大東亜戦争においては、日本とも諸外国ともまったく戦闘をしていません。
当時、八路軍と呼ばれた毛沢東率いる中国共産党は、単に中国奥地に隠れていただけだし、金日成は、名前も登場しない小者にすぎない。
韓国を建国した李承晩は、米国亡命中で日本軍には会ってもいない。
彼らは強力で規律正しい日本陸軍を前に、逃げ回っていただけです。

戦後の東京裁判で、日本陸軍だけが裁きの対象となり、海軍にはまったく罪が及んでいない事情がここにある。
要するに、実際には日本軍とまったく相対することのなかった連中が、後年になって、「我こそは抗日戦線の英雄」などと、嘘八百を言い募るものだから、その三国だけが、おかしな歴史認識となっているのです。

それ以外のアジアの国々は、すべて、日本のおかげで独立できたと認めています。
日本は、おおいに自信を持つべきです。

実際、大東亜戦争のさなかである昭和18(1943)年11月に、東京で大東亜会議が開催されています。
会議の席上で、ビルマのウー・バー・モウ総理は、次のように述べています。

『インドの独立なくしてアジアの独立なし』

そして特別参加していた自由インド政府首班のチャンドラ・ボーズは、特に発言を求めて烈々たる気迫で、次のように語った。

『他国は、あるいは英国と講和ができるかもしれませんが、インドとしては絶対に英国と講和はできない』

これを受けて、東条英機総理は、

『日本は、いよいよインド独立のため、全幅の協力をする決意』

と述べています。

この会議で、日本がその時点ですでに占領していた、インド領アンダマンとニコパル両諸島が、自由インド政府に帰属することになった。
この会議で、日本はインドの独立のための具体的支援行動に出ることを、国際的に約束したのです。

約束は守らなければなりません。
日本は、大東亜会議の二か月後である昭和19年1月に、インパールへの進攻作戦を決定する。

軍は、国家の命によって動きます。
国が、インド独立支援を決めたのなら、それに沿った軍事行動をする。
それが軍隊というものです。

この決定の時点で、牟田口中将以下の第十五師団は、タイで道路工事をしています。

軍隊というと、戦闘以外のときは、なにやら教練をしているくらいしか仕事がないと思っているなら、大間違いです。

諸外国の軍隊はそうかもしれないけれど、日本陸軍は、戦闘以外のときは、地元のために植林事業をしたり、ジャングルに物流の中核となる道路を造ったり、橋をかけたり、公共施設や病院を建てたり、地域のために休みなく大土木工事を行っていた。

ぜんぶ、当該地域住民のためです。

とにかく、休んだり、暇にしていることがない。
24時間、365日、休みなく、地域のために働き詰に働いていたのが、日本軍です。

本国から命令を受けた牟田口中将は、具体的なインド独立のためのインパール作戦の詳細を煮詰めます。
その作戦の詳細が煮詰まった、昭和19(1944)年3月8日、牟田口中将によって発動されたのが、インパール作戦です。

ただし、日本のインド独立支援という国家の命題を背負った牟田口中将と、現場の戦線だけを監督する現場指揮官との間には、その意識において、この時点で大きなギャップが生まれています。

つまり、日本国の決定としては、インド独立支援を行う。
ところが、この時点で、すでに日本は全体の戦線を縮小する方向にあったわけで、にもかかわらず、
「なぜいまさら戦線を拡大するインド攻略などしなければならないのか」
という意識が、現場指揮官内に万延していたのは否めません。

そして起こったのが、コヒマ攻略隊の造反でした。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。当時の事情がよく分かり、大変参考になりました。しかしコヒマを攻略しディマプールを目前にして、なぜ攻略隊は造反してしまったのか、それが痛恨の極みです。

お礼日時:2014/06/23 17:30

第31師団にたいし、コヒマ占領の報に接した牟田口は確かにディマプールへ追撃命令を出していますが、その命令はビルマ方面軍(第15軍より上級)により「第15軍司令官はディマプールへの追撃を中止すべし」と言う命令により覆されています。



コヒマ攻略の指揮官佐藤幸徳が、牟田口への反発から、敵前で進撃を停止したというのは誤っています。またコヒマを押さえたとはいえ、その西南方高地にはイギリス軍が陣地を構え、やすやすとディマプールへ「2日で」突入できる状況ではなかったようです。

ディマプール追撃の可能性については防衛省の防衛研究所の平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書に荒川 憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に—」という論文が出ていますがその中でディマプール追撃について検討されている文を引用します。原文は以下のURLで確認できます。

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum …

>果たして31師団のディマプールへの追撃は可能であったろうか。軍事的合理性の視点から検討してみよう。筆者の結論は極めて困難であるというものである。それは日英の公刊戦史を基に1944年4月4日から4月中旬頃までの両軍のコヒマ西南高地周辺への兵力進出状況を検討した結果である。英軍側は当初からこの一帯の緊要地形であるコヒマ西南側高地に陣地を確保していた。加えて逐次コヒマ周辺に増援してきた日英両軍の兵力の格差である。しかも、制空権は終始英軍側にあった。
>確かに、宮崎支隊長が4月4日コヒマを占領した歩兵第58連隊3大隊を北方のチェズウエマ(Cheswema)に向かわせず、コヒマ西南側高地を背後から攻撃させていたなら、この高地は奪取できたかもしれない。しかし、奪取しえても、その後の戦闘様相は現実に繰り広げられたコヒマ西南側高地の争奪戦と同じであったろう。
>『コヒマ(KOHIMA)』の著者A・スウインソン(Arthur Swinson)は、この問題について河辺と牟田口の命令を比較した上で「牟田口の方が実際正しかった」と断言している。しかし、これは日本軍を過大評価しすぎている。ディマプールに進出できるのは歩兵第138連隊第3大隊が先頭になるであろう。その3大隊はコヒマ~デイマプール道遮断のため4月6日コヒマ西方15キロの高地に進出したが、そこで英軍部隊と接触する。大隊はこれを夜襲したが、失敗、大隊長は戦死して、以後両部隊は対峙状態のままとなった。
>結局ディマプールへの突進が成立するためには31師団に補給能力があり火力が追随しているという英側と同様な条件が必要である。

そもそも英印軍は当然自軍の弱点を想定して守りに入りますから、ここを攻められるとマズいと言う点は日本軍よりも把握しています。
また自軍の軍事常識として、ある程度の補給を維持できる作戦で攻撃してくると想定しますから、英印軍はむしろ日本軍を過大評価したと言えるでしょう。
勝者はしばしば敗者をたたえますが、それは弱敵を倒してもさほどの手柄ではないからです。ある意味リップサービスとも言えるでしょう。ガダルカナルで戦ったアメリカ兵が実体以上に日本軍は強かったと言う事があるのも同様な事でしょう。

参考URL:http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。説得力のある解説で大変参考になりました。日本軍の強さを讃えた英国側の証言についても、裏読みする必要があると分かりました。

お礼日時:2014/06/24 07:43

純粋に軍事的に見ると「大河で分断され交通に不便な平原地帯」というビルマの地勢は防御側に不利であり、そこで外郭の防衛のためビルマ・インド間の交通の要衝であるインパールを攻略してそこで守るという、攻勢防御作戦そのものはそれなりに合理性があります。


問題なのは当時の日本陸軍にそれを実行できる能力が無かった事です。
そして戦史を見ると同様に「軍事的には合理的な思考に基づき構想された作戦ではあったが、実行は不可能であり結果的には大きな失敗を招いてしまった」という実例は珍しくないのです。
例えば第一次大戦前のドイツ軍は参謀本部が長年にわたり練りに練ったいわゆる「シュリーフェン作戦」に基づき、フランスを一気に攻略すべく攻勢をかけていますが、現在ではこの作戦は実現不可能であり、軍部がそれにのめり込みすぎた事がドイツ帝国を英・仏・露の三大国との大戦争に引きずり込んで破滅させる遠因になったとされています。
日本陸軍は組織面で帝政ドイツを参考にした面が多々あり、この結果悪い面までまねてしまったと言えるかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。帝政ドイツを真似た弊害という視点からのご意見は大変参考になりました。その点についても勉強したいと思います。

お礼日時:2014/06/24 07:28

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