No.7
- 回答日時:
No.6です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。
お礼の中に
有力な商人は、幕府体制のお陰で莫大な富を集積でき、これだけの御用金を強制されても負担できる体力があったわけです。いわば、彼ら豪商は体制側です。体制を維持するための献金であり、幕府は、まだまだ信頼されていたと解釈しています。
とありますが、多少追加の説明をさせて下さい。
宝永2年(1705年)に起きた淀屋闕所事件というのは御存知ありませんでしょうか。
大阪はもとより全国一と言われた豪商が、財産没収、所払いになった事件です。
結果として譜代大名をはじめ西国大名の借金が棒引きになっただけではなく、幕府は金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)を手にいれています。
詳しくは下記のサイトをご覧下さい。
淀屋 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/淀屋
要は、幕府にとって不都合であれば、いかに財力を持つ商人であっても、町人という身分である以上、一片の通達で簡単に取り潰されて路頭に迷うということです。
絶対権力、身分制度というのはこのようなものです。
当時、幕府の直轄領である大阪の街の町政は、惣年寄と呼ばれる12人の人達に全権が委ねられていました。
逆に言えば権力を認める代わりに生殺与奪の権力を幕府がにぎっていました。
江戸時代は現在の両替商、米問屋など主要な業種には、現在の業界団体に相当する株仲間という制度があり、この株すなわち営業権を取得しなければ営業ができませんでした。
この株の所有を最終的に決めていたのが惣年寄りと呼ばれる人達です。
単に金銭で売り買いすれば済むような制度ではありませんでした。
更に、土地を取得する場合にも、この惣年寄りの許可が必要でした。
このような制度下で最大の豪商を取り潰して見せています。
このような、社会制度下で幕府からの御用金調達を簡単に断れたとお考えでしょうか。
利に聡い商人が、借金を抱えて、歴代の借金の返済(御用金の償還)も滞りがちな相手に簡単に
金を出すとお考えですか。
信頼とお書きになれておられますが、金銭の授受における信頼とはどのような意味とお考えでしょうか。
簡単に応じなかったからこそ、手形払いだの分割払いだのという条件を出しています。
西国の雄藩である長州を攻略する費用をおひざ元の江戸蔵前の札差ではなく、大阪の商人に求めていたことをどのようにお考えでしょうか。
借金であれなんであれ西国大名の経済的後ろ盾は大阪商人だったのとは違いますでしょうか。
このような背景と情勢を踏まえて、そこから幕府=徳川家の意図を読み取らなければ多額の金銭を動かす豪商などというの資格はないのではないのでしょうか。
武力を持たない町人にとっては金銭が唯一最大の武器です。
これを粗末にして軽々に扱うような町人はどこにもいませんでした。
豪商は体制派だと断じておられますが、明治維新後商都大阪はすたれて閑古鳥が鳴いていたとお考えですか。
財政基盤をもたない明治政府が最初に頼ったのは、どこの都市の商人とお考えですか。
再度のご回答ありがとうございます。
「淀屋」の歴史は、民放テレビで観ました。レポーターが倉吉にも行ってました。
そのとき、他にも同様のケースがないか、調べましたが、探し出すことはできませんでした。
淀屋は“見せしめ”でやられたと思っています。
>利に聡い商人が、借金を抱えて、歴代の借金の返済(御用金の償還)も滞りがちな相手に簡単に金を出すとお考えですか。
強制されて負担したと書いています。
現実に何度も負担しているではないですか。
>豪商は体制派だと断じておられますが、明治維新後商都大阪はすたれて閑古鳥が鳴いていたとお考えですか。
明治維新で右往左往した武士とは違って、生き馬の目を抜くのが大坂の商売人です。
ちゃっかりと儲かる方に変身したことでしょう。
No.6
- 回答日時:
ご参考までに幕末の御用金調達実績を記載させて下さい。
天保14年(1843年)2500両以上(銀6万6364貫目650目)
割り当て応募対象:大坂堺兵庫西宮町人705人、
徴収目的:融通並に窮民賑恤
嘉永6年(1853年)11月銀2万5896貫200目
割り当て応募対象:大阪兵庫西宮町人、
徴収目的:海防費用、江戸城西ノ丸再建 将軍代替わり儀式費用、
償還方法は追って沙汰する。
嘉永7年(安政元年)(1854年)6月ないし9月29万3000余両、
割り当て応募対象:江戸町人1300余人、?
安政7年(万延元年)(1860年)1月、天保14年御用金高以上(銀6万8147貫目)
割り当て応募対象:大坂町人960余人
徴収目的:外国事件処理並びに本丸普請
償還方法、期限のいずれも明示なし。
手形、分割納入を認める。
元治元年(1864年)9月銀2万6095貫目、
割り当て応募対象:大坂町人104人、
目的:長州征伐軍資
長州征伐に伴う銀資金目的の徴収は以降も慶応元年、慶応元年5月、慶応2年4月、と立て続けに行われました。
最後の慶応2年4月は700万両(銀17万8784貫目)
割り当て応募対象:大坂兵庫西宮町人1108人、
同時期にフランスより600万ドルの借款が提案されたが、慶応三年に交渉を破談しました。
同時に江戸所内にあった御金蔵の黄金2万両を使い果たしました。
御用金は原則年利12.5%で償還されることになっていました。
幕末は償還が大幅に遅延していました。
明治維新の際に薩長主体の明治政府は継承せずに踏み倒しました。
結果として大阪を中心とした豪商は軒並み倒産しました。
明治政府は江戸幕府の債務を踏み倒す一方で、新政府の財源として、幕府の御用金と同様の徴収(300万両)を行いました。
明治2年に公債の形に変更しました。
幕府に対してはフランスが借款契約を申し入れましたが、薩長にはイギリスが同様の申し入れを行っていました。
万が一どちらかがフランスやイギリスの申し入れに従って借金していたら、後日中国のようになっていたでしょう。
この点については、幕府も薩長も矜持を貫き通しました。
薩長軍は軍票なる怪しげなものを発行しながら江戸へ進軍していました。
これも結局は踏み倒しました。
以上のように幕府財政が黒字であれば町人に頼るようなことはしてはいなかったでしょう。
注)割り当て対象に大阪商人が多いのは若干背景があります。
西国大名が年貢米を現金に変えていたのは、大阪でした。
この米を担保に莫大な借金をしていました。
薩摩藩は500万両余の借金をしていました。(明治に入り廃藩置県を理由に踏み倒しました)
いわば、この大阪の米問屋が西国大名の資金源でした。
幕府は江戸蔵前の札差を使っていました。
市販の素人向けの書籍からの情報がお嫌いのようですので参考書籍は遠慮させていただきます。
幕府の勘定方の資料が国立国会図書館等にありますので、ご確認願います。
丁寧なご回答真にありがとうございます。
「幕府財政が黒字であれば町人に頼るようなことはしてはいなかったでしょう」ということですが、まさに仰るとおりです。
文久期以降、幕府は田安・紀伊家に対して貸付金の返済を強く求めるなど、親類筋大名優遇策にも次第に制限を加えはじめていますから、ここまで財政は逼迫していた(というよりは大赤字)に違いありません。
しかし、これを乗り切る強力な手段が御用金である、ということですね。
私の勝手な解釈では、御用金は“政治献金”だと思います。
有力な商人は、幕府体制のお陰で莫大な富を集積でき、これだけの御用金を強制されても負担できる体力があったわけです。
いわば、彼ら豪商は体制側です。
体制を維持するための献金であり、幕府は、まだまだ信頼されていたと解釈しています。
>天保14年(1843年)2500両以上(銀6万6364貫目650目)
これは、一人当たり2500両以上ですね。
総額、金にしておよそ102万両集めたそうです。
幕末の財政は一言で言えば“御用金財政”だと思いました。
幕閣はしたたか、徳川家のためには何でもやる、ということがよく分かりました。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。
幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。
幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。
江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しいインフレになっています。又、収入を増やそうと米の生産量増やすと米価が下がるなど、色々と悩みは多かったでしょうが財政難とは無縁だっと思います。
言って見れば政府の買い物やインフラ整備も現物交換の様な物で、国債の発行も無く(江戸末期にそれらしき物もありますが、本格的に始まったのは明治以降)、莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。
質問とは外れてしまいますが、財政難では無かったと思い回答を寄せさせて頂きました。
ご回答ありがとうございます。
確かに今の日本のように国債発行でその場しのぎ、累積残高は気の遠くなるような厖大な額という状況とは異なりますね。
それに実際、賠償金をポンと支払って、さらに新産業を興し(製鉄所建設)、艦船を購入するなどして軍備を整えるという前向きな政治を行っているのですから。
>莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。
「回って行くシステム」、なるほど!うまい表現です。
そんな見方もできますね。よく考えてみます。
No.4
- 回答日時:
やや頁数が多いですが、
下記などから当時の状況がある程度は掴めるように思います。
〇「元治期の幕府財政/飯島千秋」
『横浜商大論集 22(1)/1988-12-10』(49-105頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110005999860
〇「江戸幕府貯蓄金銀と蓮池御金蔵/飯島千秋」
『横浜商大論集 31(1/2)/横浜商科大学/1998-03-01』(31-94頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110005999961
既読なら笑って許して下さい^^
ご回答ありがとうございます。
「元治期の幕府財政」は、一応拾い読みしていました。
ちょっと古いのとそれに文久年間の様子を知りたかったので、
飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年刊)を読みたいと思ったのですが、あいにく市の図書館にはありませんでした。
今回この論文「元治期の幕府財政」をしっかり読んだので、その一部を書いておきます。(後日、私自身が読むときの参考)
1.文久期の厖大な諸支出を賄う手段は貨幣改鋳であり、それによってもたらされる益金であった。
2.すくなくとも慶応2年頃までは、改鋳益金に収入の大きな部分を依存するという、それまでの財政の枠組みが堅持され、機能していたとみられる。
3.文久3年に幕府は、オランダからの蒸気船購入代金62万4000ドルを4回に分けて長崎での外国船からの取立税銀のうちから支払うことにした。長崎だけの税銀では不足するので神奈川・函館両港の税銀かあるいは金蔵金のいずれかから充てることにした。
4.文久期幕府財政においては、「年貢収入にもとづいて、直臣団の切米役料と江戸城奥向および諸役所経費を支出するという定式部分は一応機能している」こと、「年貢収納は限界に達しており」・「財政収支のバランスは、貨幣改鋳の利益金によって辛うじて維持されていた」そして「文久期の幕府財政は、まさに崩壊前夜の様相を示している」
5.元治元年は、90万両をこえた上洛・長州征伐費、50万両に達した朝廷関係費、30万両に及んだ常野州賊徒追討費なども、443万両余の改鋳益金でなんとか賄われたのである。
「江戸幕府貯蓄金銀と蓮池御金蔵」は、大変参考になりました。
奥御金蔵の金銀は、天保13年(1842)には、488,000両(銀も両に換算して)、金分銅11個、銀分銅29個とあります。
文久元年(1861)には、608,000両(内、金558,000両)で、金分銅、銀分銅は不明です。
そして、文久3年、元治元年(1864)に合わせておよそ585,000両余支出されたと推定されるから、慶応期にはほとんど皆無に近い状態となった、とあります。
私の疑問は、(文久期)賠償金や艦船購入費用、長崎製鉄所他の建設費用などはどのように工面したのですか、という質問です。
そんな賠償金をポンと支払って、さらに艦船を購入したり、製鉄所を建設したりする余裕があったのか、それともどんな手段で工面したのか、という疑問でした。
幕府はこの時期、大金を未だ保有していたことが分かりました。
貨幣改鋳の益金の莫大さもよく分かりました。
正直、質問のタイトル「幕末の幕府財政」は、大きすぎました。
私のレベルでは重過ぎます。
もっと単純に「賠償金を即金で支払っていますが、どのような工面をしたのか」くらいにしておくべきでした。
お礼を書こうとしても自分の考えをまとめ切れません。
No.3
- 回答日時:
幕府の幕末の財産を示す資料がありました。
中公新書「江戸城」の p127 に
1840年代の江戸城、蓮池御金蔵と奥金蔵の
金銀高が載っています。
合計して
金貨 約 2、395、000 両
銀貨 約 (135、000 貫)
225、000両
このほか金、銀の地金(分銅金という)
約 33、000両分
あります。
合計 約 2、653、000両
二百六拾万両もの大金です。
金蔵だけでこれ位あるので、膨大な支出に耐えました。
ただ新政府軍が接収したのは僅か8万両。
すべて使い果たしたか謎、埋蔵金の噂があるのは
もっともです。
敗戦後の日本軍の財産同様です。
ご回答ありがとうございます。
これは凄い!!!
幕府は、年間予算計画も立てず、決算だけを見て由とした壮大などんぶり勘定で済ませた理由が分かりました。
しかし、何かの上納金が入った直後かも知れませんし、常時、最低限の値かどうか、が疑問です。
大変参考になりました。
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