dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

石田三成と真田昌幸の正室は兄弟ですが、これは三成は昌幸と縁があり昌幸の紹介で婚姻したのか、たまたま同じ家の娘を正室にして縁ができたのか教えて下さい。

A 回答 (4件)

own3さん、こんばんは。





真田昌幸の正室山手殿は宇多頼忠という人の娘ということから出たお話ですね。この人はもともと尾藤氏であり、最初信濃の小笠原氏、今川氏、そして武田氏と主人を変えています。理由は遠江の国人領主だったからです。このとき昌幸と縁続きになったのでしょう。永禄7年(1564)とのことです。兄は尾藤知宣といって織田氏や秀吉に仕えました。そのおかげで、武田滅亡の折には織田氏、次いで秀吉の弟秀長に仕えることになります。
秀長が大和郡山で100万石を領するとその重臣として13000石を知行しました。大体天正10年(1583)ころに石田三成と次女が結婚しているそうです。この後、彼は兄の罪に連座して、知行を返上し、三成のところに寄食しています。
結論から言って確かに頼忠の婿が昌幸であることは有名だったでしょうが、秀吉が三成に箔をつけるために縁組させたのでしょうか?あまり有名なお話も伝わっていないので、単なる偶然と考えるのが妥当でしょう。
むしろ後日談のほうが縁続きであるということ示しているでしょう。、尾藤知宣の息子を父の罪の連座からまぬかれるために頼忠が自分の養子にしました。そして、今度は三成の兄正継の養子にします。そこへ昌幸の娘と結婚させます。

詳細は下記のURLを参照ください。


宇多頼忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A% …
尾藤知宣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E8%97%A4% …
山手殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B% …
真田昌幸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

わかりやすく丁寧に回答ありがとうございました。
偶然なんですね。その後、真田と石田家の縁が深くなって良かったと思います。
URLもありがとうございました。

お礼日時:2014/10/25 19:12

ウイィペディアより



・宇多頼忠

主君
今川義元→武田信玄
→豊臣秀長→秀保→秀吉

宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将、大名。通称は下野守。宇田とする説もある。初名は尾藤二郎三郎、または久右衛門と称した。

尾藤氏はもともと信濃国中野牧を本拠とし、信濃守護・小笠原氏に臣従していたが、小笠原長時が武田信玄に敗れて所領を失い没落すると、本拠を遠江国引佐郡に移し今川氏に従ったとみられる。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、父・尾藤重吉と長兄・又八郎は森可成、次兄・知宣は羽柴秀吉とそれぞれ織田氏の家臣に仕えたが(のち、重吉と又八郎は可成と共に宇佐山城の戦いで戦死している)、頼忠は引佐郡に当主として残り、

のちに武田氏に臣従した。また、永禄7年(1564年)頃には、政略結婚のため武田氏家臣・真田昌幸に長女を嫁がせ、忠誠を誓ったと考えられる。

ところが長篠の戦いで武田氏が遠江国で勢力を失うと、頼忠は所領を捨てて兄・知宣を頼って近江国長浜城へ赴き、その紹介で羽柴秀長の家臣となった。

『竹生島奉加帳』には兄・知宣と共にその名が残っている。 秀吉や秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が100万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ1万3,000石を領する重臣となっていた。

なお、石田三成に次女皎月院を嫁がせたのは白川亨「石田三成とその子孫」によれば「津軽家史料」で二人の間に生まれた最初の子である長女(山田隼人正の妻)は関ヶ原の時点で22歳だったと記載されているので、逆算すると本能寺の変の前と推定されている。

兄・知宣が九州征伐で秀吉の不興を買って改易され、後に小田原征伐の時に惨殺されると、頼忠は宇多と改姓して婿の三成のもとに身を寄せた(この時に1万3,000石を返上したという説が有力)。

慶長5年(1600年)9月17日、関ヶ原の戦いの後、三成の居城であった近江佐和山城は東軍に攻撃され、頼忠は息子の頼重、三成の父・正継、三成の兄・正澄らと共に自害した。

※というわけで、武田信玄が真田を取り込むために
娘を政略結婚させ、
武田滅亡後は、秀吉に、気にいられて、もう一人の娘を三成に嫁がせたと\(^^;)...マ

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz


石田三成と真田昌幸の正室は兄弟

姉妹です( ^^) _旦~~
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
詳しく教えていただきありがとうございました。

お礼日時:2014/10/25 19:09

長篠の戦いのあと、武田家を離れて羽柴家に仕官したという 親の偶然



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

親の偶然なんですね。

お礼日時:2014/10/25 19:09

豊臣秀吉の紹介だと思いますが


三成は秀吉の参謀 一方真田昌幸は秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた曲者です
三成と昌幸を結びつけておけば安泰と考えたのでしょう
秀吉のやりそうな事です
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
秀吉が婚姻させた可能性もあるということですね

お礼日時:2014/10/25 19:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!