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真田昌幸は武田勝頼を頼れる殿ではないと思っていたのでしょうか。

A 回答 (6件)

昌幸は武藤喜兵衛として勝頼の旗本として仕えており(そのおかげで長篠では死なずに済みました)


長篠戦いでの兄たちの死後、真田に復して相続を認めてもらっており
敗走してくる勝頼主徒を岩櫃城に迎え入れる準備をするなど
最後まで武田に忠誠を尽くしましたので頼るものとは見ていたとは思います。
しかし、武田滅亡前から打てる手は打っており、
北条氏直と誼を通じて勝頼自刃の翌3月12日には北条から被官を承諾する旨の手紙を受け取っていることも事実です。
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私は武田勝頼はタスク志向の人だと思ってます。



お城や鉄砲などそれまでの武田家の方針とは変えて、織田や他の大名と同じにしようとして反対に人が離反もした人。改革は思考的で人が離反や乱れたりは通常な現象なのかと思います。

武田家のそれまでの古い成功方式から変えようとしたんだと思います。しかし、ただ変えようとしただけで、アンチテーゼどまりだったかと。

物質や思考、直観どまりで外交なども失敗している人です。

後継ぎの方式も中継ぎ的など環境も悪かったとも言いますが、やはり誰が見ても資質ってわかると思います。
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>真田昌幸は武田勝頼を頼れる殿ではないと思っていたのでしょうか。



勝頼を頼っていたのは、間違いないでしようね。
当時の状況を考えると「寄らば大樹の陰」ですから・・・。
ただ、勝頼としては「真田を地方の豪族」程度にしか思っていなかったのでしよう。
ですから、主従の信頼関係はありませんよね。
今でも、勤務先が倒産の危機にあると「転職する」方が多くいますよね。
船が沈むまでに、脱出する。
社民党所属では選挙に勝てないから、民主党に移る。
国会議員でも、こんなモンです。^^;
ましてや、群雄割拠の戦国時代。
生き残る為には、何でもあり!です。
武田勝頼は「実は、有能な武将だった」という説があります。
ただの「突撃将軍」では、なかった様ですよ。
長篠の戦も、歴史書と実際の(発掘)証拠では全く異なります。
余談ですが・・・。
武田勝頼は、土佐の国(高知県)に逃げ延びた伝承があります。^^;
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/
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勝頼は昌幸の才能には気づいてなかったようです



昌幸の父 幸隆一徳斎は武田家にあって稀代の謀略家でした
その勇猛さは息子の2人 信綱と昌輝に受け継がれたと思ったのでしょう
昌幸は三男で当時は謀略家としてそれほど勝頼の目には止まらなかったと思います


むしろ昌幸のほうがあえて その才能がバレないように
控えめにしていたのでは?
昌幸は武田家がもう長くない事は悟っていた
下手に勝頼に取り入って一緒に滅ぼされるよりは
距離を置いて家の存続を図ったのだと思います
昌幸の頭脳なら当然の考えかと
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amanao76 さん、こんばんは。



そうですね。兄が次々と戦死して家督相続を許可してくれた勝頼には恩義があると思っていたと思います。
しかし、一説によれば勝頼はとても豪勇だそうですが、我が強すぎて一部の側近しか信用していなかったということです。勝頼自身はあまり昌幸を重用していないようです。家柄からか謀略などにたけた真田家をあまり勝頼は信用していなかったかもしれませんね。
詳細は下記のURLを参照ください。


真田昌幸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0% …
武田勝頼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

ご意見をいただきありがとうございます。
勝頼が昌幸を重用していなかったっていうのは、知らなかったです。
昌幸を信用していなかったから、天目山の時に小山田の岩殿城に向かったんですね。
小山田について行かず、昌幸を頼っていたら面白かったなと思います。

お礼日時:2014/11/29 23:53

九年仕えていましたから。



心情はわからんが、頼っていたという事実はある。
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