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かつて四畳半フォークなるものがありました。
かぐや姫の 「 神田川 」 「 赤ちょうちん 」 に代表される切ない曲調とその詞は、或る一人の女性がかつて愛し合い、貧しく儚い同棲生活を過ごした末の破局という過去・あの人を振り返る、そんな内容であったろうと思います。

歌の中のその女性は、その後良き伴侶と巡り合い今は幸せに暮らしているのかも知れない、それでも尚、必ずしも豊かではなかったあの頃に思いを馳せてしまう自分がいるのでしょう。

果たして学生時代に巡り合った相手との恋愛成就率 ( 結婚に至るという意味で ) は ?? 、そんな事を考えたりもするのですが、私自身はいみじくも学生時代に知り合った今の家内と結婚に至って早20と何年、無論盛大な紆余曲折の末にですが・・。

さて時まさに昭和の中後期、いまだ貧しい事が普通の時代でありました。
「 戦後のバラックってこんな感じ? 」 そんなあばら家住まいの友人もいた、その一方で飯場も普通にあったし鶏を飼っている御家庭もあった、今や平均坪単価全国有数の世田谷区に於いてです。

そんな中にあって我が家はまあ恵まれていた方でしょう、それでも週に2~3度は必ず猫すら跨ぐような安魚が食卓に上りまして、 「 え~!、また鯖~~ 」 、そんな不平を漏らそうものなら、 「 嫌なら食べなくていい!! 」 、般若のような顔をしたお袋様にそう怒られたものでした。

勿論小遣いだってそう貰えた訳じゃない、 「 金が欲しいなら自分で稼げ! 」 、それが普通で何の違和感も感じなかった不自由満載でいつもピーピーいってたあの頃、そんな昔が今となっては妙に懐かしく、金で買えるものなら買いたいほど・・。

その一方で、このところ立て続けに戦後を代表する大スターお二人が亡くなられ誠に寂しい限り、 「 昭和がまた一歩遠くなったなぁ 」 そんな感慨すら持つに至る昨今です。

さてちょっぴり切なかった貴方の昭和 ( 勝手に決めつけてすみませんが・・ ) を振り返り、成就しなかった恋愛・不自由したあの事・この事他何でも結構、思い出話などを語ってやって下さい。

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A 回答 (6件)

こんにちは。


お世話になります。寒くなりましたね。年末年始によって仕事とともに忘年会などもご多忙では?と存じます。ご自愛くださいませ。
(年度末は先とはいえ、下準備は今頃既に始まってますし・・・)

>ちょっぴり切なかった貴方の昭和

切ないと言いますか、考えさせられた事です。

(1)オヤジの給料袋2か月飛ばし(実質6か月)

題だけで良く分からないですよネ(汗)。
昭和の頃、給料は現金支給でした。私が小学生の頃です。帰宅して暫くすると亡母の罵声?オヤジが正座してる・・・ただ最後、曖昧ですが『俺は恩を忘れない!(亡母曰くもっと吠えたたらしい)』とのたまって、そのまんま給料袋持って出かけて2日程帰ってこない。この時期は休日も昼夜問わず出かけてました。これが数か月続き、亡母が無理に笑うの見てただ事でないのはすぐわかりました。
内情は、当時のオヤジの近親で金銭切迫(差し押さえ)になり生活費すら無く、最後半年分時期を見てその都度金渡したそうです。ウチそんな金持ちじゃないですし、家のローンやら定期・財形他もあったはず。
当時、給料日の夜に現金入りの給料袋を常に未開封で妻(亡母)に渡すのがオヤジのポリシー。亡母が正座して労う姿を普段見てたので・・・(笑っちゃう事に貰った明細票(既にコンピューター導入されてたと筈)の誤りを指摘して数回本社経理に文句言ったのが亡母で金勘定のプロの性。オヤジは後日経理に謝られ初めて知る始末・・・実は無頓着(汗笑))。
ただ亡母が後に『甘いんだな。でも良いの・・・そういう人だから。でもわかっててもあの時許せなかった』。大学の頃に真相を知りました。実際は亡母のオヤジの知らない嫁入り軍資金で補填してたそうです。すぐ働きにも出れない専業主婦でしたし・・・。
今では紙切れの給料明細ですが、昭和では手渡し現金も結構ある・・・あの頃の話し。

(2)バブル期の地上げ・倒産

私の大学時代で年号が変わりました。
世はバブル景気で・・・当時のUSリーバイス501が¥7900だったのがある日¥5900と(セルビッチ(赤耳)が無くなった)。後に調べると1986年までのようです。その頃は売れ残り?のセルビッチ付きばかり探してました。(古着のヴィンテージリーバイスが脚光の一方、フレンチ・イタリア・UKリーバイスもあった・・・股上などシルエットが微妙に違った・・・懐)

余談はさておき、時代が華やかな世情ですが・・・。
私のご近所で小学校以来の幼馴染のお姉さんがいました。歩いて5分。近所の同年代の子供たちと集まって遊んだり地区の子供会やPTA(親)の関連もあって行き来がありました。彼女の父上は先代からの商売でそれなりの財もなす。
でも・・・バブル時期の地上げ屋の攻勢で結果の顛末は商売も土地も追われる事になりました。自宅も売却で当時大学の私、彼女の話しから引っ越しの手伝いをしました。時間は夜更け・・・。レンタカーに彼女の自宅の部屋の家具や荷物、お買いもの自転車等を積んで朝方到着した先は街外れの閑散とした地域の寂びれたアパートの一室。風呂トイレあるも床板は膨れ畳は面が崩れささくれてる。壁は先住者のタバコのヤニで黄ばみ、風呂のタイルは割れ欠けてる・・・。風呂の給湯器は不調でバンバンひっぱたかないと着火しない(大家に連絡しました)。

彼女連れて近くの小さなリサイクルショップでガチャガチャチャンネル切り換えの14型カラーTVとぐらつくTV台、小ぶりな冷蔵庫や洗濯機、怪しげな電子レンジ。ホームセンターで清掃用具と共に安売りのカーペットや照明、調理器具など・・・。選ぶでは無く値段底値を見た買い物です。言い値の彼女に対して私が値切りました。大した成果は無かったですが・・・。
(家具のチリ汚れと元の油じみのつなぎにタオル頭に巻いて安全靴履いた無精ひげ、298円のディスカウントで買ったカード電卓と耳にロスマンズをはさみメモと共に値切る私は、周囲から見ると今でいうDQNの風体と思います)

日が暮れた頃にある程度けりがついて、彼女が引っ越しのお礼と景気づけと言って当時チェーン店の寿司屋で虚勢を張りました。断ったのですが・・・無理しなくていいのに・・・。食べたのは助六程度と握りちょっとでした。

彼女を送る時の助手席で、年末の華やかな街中や人波を缶コーヒー握って見つめる姿が切なかったです。後日当時乗っていた車(赤いシビック)を売却し中古の数万円の軽自動車を買いに付き合ったりしました。

売却された大事な店舗は怪しい店が入る飲食ビル、大きな代々の自宅は契約者が無いガラガラの駐車場・・・景気に歓喜・享楽する連中(自分も含めですネ)の一方で、無性に冷めてる行き場のない心の内もありました。まあ大人の方曰く学生さんの良い身分の世間知らず、苦労知らずのお気楽な自分外の戯言と言われても仕方がないですが・・・。

私が後に彼女と会った時は10年以上後の私の亡両親の墓参りの際で偶然でした。あちらもご両親がその後数年で過労と心労により亡くなったと話し、当時と経年と無情を感じました。先祖代々の檀家だったそうで同じ菩提樹とは偶然かご縁か?・・・再会時も独り身の彼女。一人娘で頼りも無くさぞ辛かったであろうと心が痛みました。

戦後の混乱期や高度経済成長の頃の苦労に比べれば・・・もあったのですが、昭和の最後に観た切ない現実として・・・。

事業主や商売人にとっては時代問わず経営・財政破たんの結末は普通にありうる当たり前すぎる話でしょうが・・・私的切ない昭和の一件の愚談でした。

m(__)m

PS:先日は幼稚な発言、誠にすみませんでした。他の方にもお詫びします。生来の地頭が悪く学識ない故、さらに申し訳なく。理不尽と思うにせよ大人なりの会話をするべきで失礼しました・・・m(__)m
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この回答へのお礼

Marennes さん、こんにちは。

>(1)オヤジの給料袋2か月飛ばし(実質6か月)

ざっと一読させて頂きましたが、御両親のお人柄が偲ばれる温かい逸話ですねぇ。
文章から窺い知れる Marennes さんの誠実さも、やはり御両親の背中を見て育ったが故なのでしょう、人情の機微と実生活のせめぎ合い、まあお二方共にお辛かったろうと・・。

余談ながら我が家は父親の代に遺産相続で盛大に揉めまして、以降何十年も叔父・叔母及び従兄達とは音信不通です。
少し寂しい気もしますが、兄弟・親類は他人の始まりとの現実がここにあるのもまた事実、親類縁者との距離感の取り方も人それぞれという事でしょう。

>当時、給料日の夜に現金入りの給料袋を常に未開封で妻(亡母)に渡すのがオヤジのポリシー。亡母が正座して労う姿を普段見てたので・・・

古き昭和の良い風景の一つだったんじゃないでしょうか。
今は味も素っ気もない、どころか私のところは Web での給与明細書配信に切り替わってもう随分と経っちゃう、つまり今は紙っぺらすらない状況です。

>ただ亡母が後に『甘いんだな。でも良いの・・・そういう人だから。でもわかっててもあの時許せなかった』。大学の頃に真相を知りました。実際は亡母のオヤジの知らない嫁入り軍資金で補填してたそうです。すぐ働きにも出れない専業主婦でしたし・・・。

お母様は無論家計の遣り繰りと子育ての責務を負う訳ですから、そう度々甘い顔を見せられるはずもない、ただお父様のそんなところに魅かれたという事は、根っこのところはやはり人情に厚いお人柄だったのでしょう。

>今では紙切れの給料明細ですが、昭和では手渡し現金も結構ある・・・あの頃の話し。

家庭内で亭主の重みが消えた原因の一つが、給与の銀行振り込みにある、その点はほぼ確信しております。

>(2)バブル期の地上げ・倒産

バブル期の悲喜こもごも 、当時既に社会に出ていた私はその一方の当事者として、職業柄それはもう随分と見て参りました。
一夜大臣・一夜乞食は当たり前、夜な夜な銀座の高級クラブで札びらを切っていたあの社長、どこへ行っちゃったのかな?、そんな話はそれこそ枚挙に暇が無いほど。

鵜の目鷹の目で融資先を探していた当時の銀行は、その大半が胡散臭いと知りつつ、それでも尚地上げ関連企業に喜んで貸し付けていた訳で、バブル期の地上げに関わる銀行の貸し手責任は実に重い、自省を込めてそう感じております。

余程筋の悪い案件すら系列ノン・バンクからの迂回融資という禁じ手を使い、担保評価額の2~3倍の融資なんて支店長権限でどうにでもなったあの頃、ちっちゃなマンションに五番六番抵当まで付いていたなんて、笑えない話もあったほどです。

>戦後の混乱期や高度経済成長の頃の苦労に比べれば・・・もあったのですが、昭和の最後に観た切ない現実として・・・。

さて懺悔はその辺りにしますが、あのバブルのうねりが日本人の情を大きく歪めてしまった、そんな側面はあるのかも知れない。

他方地道な商売に勤しんでおられた御一家の人生を大きく狂わせてしまった、そういう事も多々あったのでしょうが、それにしてもその10年後ですら独り身であられたその女性を思いますと、何とも切ない話ですねぇ。

大きな枠組みの中にあって我々個々はちっぽけな存在でしかない、それと知りつつこの世の不条理にただ身を委ねるだけ、残念ながらそういう事なのでしょう。

>PS:先日は幼稚な発言、誠にすみませんでした。他の方にもお詫びします。生来の地頭が悪く学識ない故、さらに申し訳なく。理不尽と思うにせよ大人なりの会話をするべきで失礼しました・・・m(__)m

はて何であったろう?、貴方に限って失礼な発言を頂いた事も・御見掛けした事も無い為、ちょっとばかり考えましたが、ひょっとしたら削除のあの件でしょうか。
それでしたらただただ感謝申し上げるばかり、気にされる事などこれっぽっちもありませんよ。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/08 19:43

isokenさん こんにちは。


鬼のかく乱 風邪ひきです。

昭和38年の頃私は小学校の4年生。我が家のテレビはまだ白黒だったような気がします。スィッチをいれれば「ためー息の出るような・・・恋のバカンス」とピーナッツが歌い、舟木和夫が高校三年生をうたい三田明が「美しい十代」をうたっていました。
お相撲は、大鵬、柏戸、当時見た映画は水陸地中両用の「海底軍艦」これはプラモを買ってもらって作った気がします。
その5年後 昭和43年〈1968年)私は中学3年生
帰ってきたヨッパライ(フォーク・クルセダーズ)をラジオで聴いて衝撃がはしって
近所のレコード屋へ買いに走ったが、売っているはずもなく隣の大都市にでかけてやっとの思いで手に入れた。親父が大工に作らせた「応接間」と呼んでいるわけのわからない
クロスと板張りの寒い部屋にコンソールタイプのステレオがあってさっそく聴いてみました。
チンドン屋のようなふざけたイントロのあとに例の甲高い声が聞こえてきました。
これだ。これだと、僕は我先に時代の先端をとらえた感動に身を震わせたものです。

恋の季節(ピンキーとキラーズ)
ゆうべの秘密(小川知子)
虹色の湖(中村晃子)
この辺の曲はブラスバンドの譜面が出回っていて「死ぬまで私を」という
フレーズでサックスのパートが立ち上がって今陽子のマネをして前かがみに
なったりしてました。親父のソフトかなんか被った気もします。

サウンド・オブ・サイレンス(サイモンとガーファンクル)
花の首飾り(ザ・タイガース)
この曲はイントロのアルペジオがよく似ていてぱくったんじゃないかなって
思ったものでした。
エメラルドの伝説(ザ・テンプターズ)とあわせた3曲は
学園祭の学芸会バンドの定番。アコースティックギターにギター
マイクつけた変な楽器で演奏していました。

昭和43年頃までの世の中って高度経済成長とはいいながら、生活は貧しかったですね。
昭和44年の東大安田講堂事件のころは高校1年
昭和47年の浅間山荘事件のころは大学1年 おもえばあわただしい4年間。
世の中は勝手に騒々しく勝手に殺人者になって汚名を被って理想を扼殺していきました。

田舎の高校生だった私は、欲望を押さえれば偏差値が上がると勝手に考えて、英単語や年号をつめこんでいました。
巨泉のクイズダービーの回答者でもあったドイツ文学者の鈴木武樹の実弟が同級生にいて
「この本、君なんかが読むと面白いとおもうよ」といって紹介してくれたぶ厚い本がありました。
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』
高校時代に読んだ本と言えば、『三太郎の日記』『遥かなノートルダム』など受験の国語で引用される本だったり、柴田翔の『されどわれらが日々』庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』あたりで、それもクラスの文学好きの女の子の気をひくために読んでいただけでしたから、彼の進める本も最初は気が重い感じでした。
ところが、読み始めると息をもつかせぬ面白さ。
このままいくと内向的な性格に拍車がかかるとよくないということで、中学時代のステージを思い出し、落語研究会の門を叩いたのが運のつきでした。
昭和の時代は、おもえばさしたるお金をかけずとも、芸事が身に着く時代でした。少しのお金で多様な喜びが得られる感性の豊かな時代であったといえるでしょう。

この回答への補足

ex さん、こんばんは。

ところで貴兄の回答に対するお礼をしたためておりましたところ、完成寸前で全てが消えてしまい、ショックで立ち直れそうにありません。

パソコンを買い替えて似たような事が度々起こりまして、もはや何とも・・。

・・という事で、明日にさせて頂きたく、取り急ぎお願いするところです。

では・・。

補足日時:2014/12/08 20:55
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この回答へのお礼

ex さん、こんにちは。

>鬼のかく乱 風邪ひきです。

巷では随分風邪が流行っているみたいですね、無理をなさらず早くお直し下さい。

>昭和38年の頃私は小学校の4年生。我が家のテレビはまだ白黒だったような気がします。スィッチをいれれば「ためー息の出るような・・・恋のバカンス」とピーナッツが歌い、舟木和夫が高校三年生をうたい三田明が「美しい十代」をうたっていました。

我が家にカラー TV が御目見えしたのははていつだったのか、全く記憶にないのですが、応接間の上座に鎮座ましまして、それは大事に使っておりましたねぇ。

それ以前の白黒 TV は、終いにはチャンネルの取っ手が壊れてしまい、その傍には常にペンチが置かれ、画面が波打つ時には叩いて ( 何やらコツがあったようです )直したもんです。

>帰ってきたヨッパライ(フォーク・クルセダーズ)をラジオで聴いて衝撃がはしって

大ヒット曲でしたね、その主要メンバーが加藤和彦・北山修そしてはしだのりひこ、まあ伝説のフォーク・グループといっていいのでしょうが、はしださんはその後もシューベルツやクライマックスで大ヒットを連発、フォーク・シーン一方の主役であった気がします。

ところで御覧になられましたでしょうか 「 パッチギ 」 。
もう10年近く前になりますが、例の沢尻エリカ嬢 ( あの頃の彼女はとっても可愛かった ) ブレークのきっかけとなった映画ですが、かつて放送禁止となったらしい 「 イムジン河 」 が全編に流れこれがとってもいい、エンディングの 「 あの素晴しい愛をもう一度 」 も堪りません。

>虹色の湖(中村晃子) 

当時小学校の低学年でしたが、今でも好きな歌の一つです。
you tube で、ザ・ジャガーズと共演した同名タイトルの映画の1シーンが見れますが、若い頃の彼女はとってもキュートですね。

>昭和47年の浅間山荘事件のころは大学1年 おもえばあわただしい4年間。
世の中は勝手に騒々しく勝手に殺人者になって汚名を被って理想を扼殺していきました。

記憶に残る昭和の大事件はと聞かれれば、個人的には恐らく 「 浅間山荘事件 」 を挙げるでしょう、何しろ朝から晩までライブ映像が流れておりましたから・・。

経済成長と生活レベルの向上に反比例して、学生運動もかつての純度と世の中の支持の両方を失った挙句、あらぬ方向に行ってしまった、そういう事かも知れません。

比較的最近でも、中核派辺りの運動家が逮捕されたなんてベタ記事が時々紙面に載っておりましたが、その殆どが60代前後だったりしまして、この人達の人生とは一体・・、そんな事を考えたりもしたもんです。

>巨泉のクイズダービーの回答者でもあったドイツ文学者の鈴木武樹の実弟が同級生にいて

そう言えばそんな方もおられた、その後任が学習院の篠沢教授でしたねぇ。

>欲望を押さえれば偏差値が上がると勝手に考えて、英単語や年号をつめこんでいました。

雀荘や競輪場に入り浸り、ろくすっぽ学校にすら行かなかった高校時代は別としても、私の場合中学時代もそれはもう酷い成績でして、何しろ常にビリから数えた方が早かった典型的な劣等生。

ところが父兄参観日に合わせて成績を貼り出すなんて、学校側がエグイ事をするもんだから、我が子の頭の程度は分かってはいるものの、誇り高いお袋の面子を潰すと後が怖いてなもんで、その時ばかりは頑張って少しばかりましな成績 ( それでも精々学年で5番が限度 ) を取りに行ったもんです。

>昭和の時代は、おもえばさしたるお金をかけずとも、芸事が身に着く時代でした。少g

何しろ掛けようにもお金がありませんでした。
パソコンや家庭用ゲーム機があった訳でもない、精々駄菓子屋で100円握り締めて近所のガキどもに奢ってやるのが関の山、楽しくやろうと思えば子供ながら知恵を出すしかなかったそんな時代。

ただ今の子供達の境遇よりは遥かに良かったのかも知れない、世相を反映して何とは無しに右肩上がりの生活を信じて止まなかった、そう思っていたのは私だけじゃないような気がします。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/09 19:50

イソケンさんこんばんわw



昭和っつーと、高2までですね。当時は小さな借家に両親と弟と暮らしておりました。食うに困る程じゃないですけど、貧乏でしたね~・・・

父は自動車整備士だったんですが、一時期自分で自動車販売をしておりました。最近母から聞いた話では当時父は「月15万は家に入れるからと言って事業を始めたのに一度も入れた事がなかった」という事です。またある時期は父と母で空き店舗を借りて腕時計のベルトの研磨の下請け仕事をしていたのですが、やはり最近母から聞いた話では、父はパチンコばっかり行ってちっとも仕事に来なかったそうです。

大人になった息子には父の甲斐性の無さを暴露する母ですが、当時は父のことを一切悪く言わず、自分の稼ぎで私と弟を食べさせ育ててくれていたわけです。私と弟が小さい頃は昼間は焼き肉屋でパート・夜はハンダ付けの内職でその間私たちの世話をし、手を離れてからは正社員になって定年までよく働いていました。

父との思い出はあまりありません。毎日帰って来るのが遅く、休みの日も遊んでもらった覚えがありません。しかし私の一番古い記憶は、父と知らないお姉さんとどこかの遊園地で遊んだ記憶です。その次の記憶は、そのお姉さんがお姉さんの母親と二人で私の家に訪ねて来て、なぜか泣いているお姉さんをそのお母さんが叱りつつ、2人で私の母に謝っていました。母に「mikasa、外で遊んできなさい」と言われて外から様子を見てました。

最近になってようやくその二つの記憶の点が線として繋がり、父に問いただしたところ、やはり浮気相手だったとのこと。幼い私をお姉さんに会わせたのは、諦めてもらうつもりだったのが、お姉さんは子供を連れて来られたことを逆に受け取りその気になってしまって大変だったなどとニヤニヤしながら言っておりました。

そんな父も孫ができたらデレデレで私の子供たちを可愛がってくれてます。週末は実家に行き、弟の子達も含めて4人の子供を風呂に入れるのが父の楽しみです。もう70前なのに勤め人をやっており体力的に厳しそうですが、罪の償いだとばかりに私は容赦なく子供たちを押しつけておりますw 先日は父と私と息子で野球ごっこをやりました。「パパはじいちゃんに遊んでもらえなかったから野球下手なんだよ」と息子に言うフリでイヤミを言ってやりましたw
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この回答へのお礼

mikasa さん、おはようございます。

>父は自動車整備士だったんですが、一時期自分で自動車販売をしておりました。最近母から聞いた話では当時父は「月15万は家に入れるからと言って事業を始めたのに一度も入れた事がなかった」という事です。またある時期は父と母で空き店舗を借りて腕時計のベルトの研磨の下請け仕事をしていたのですが、やはり最近母から聞いた話では、父はパチンコばっかり行ってちっとも仕事に来なかったそうです。

恐らく今であれば世の奥様方が真剣に離婚を考えるレベルであろうかと・・。
ところが昔は必ずしもそうではなかった、その辺りの世代間の意識格差には興味深いものがある一方で、いざという時の女のど根性、我ら男共はとても敵わない気がします。

>大人になった息子には父の甲斐性の無さを暴露する母ですが、当時は父のことを一切悪く言わず、自分の稼ぎで私と弟を食べさせ育ててくれていたわけです。私と弟が小さい頃は昼間は焼き肉屋でパート・夜はハンダ付けの内職でその間私たちの世話をし、手を離れてからは正社員になって定年までよく働いていました。

私如きが感想を述べるのはおこがましい限りですが、いい話ですねぇ。
押しなべて子供とは親の背中を見て育ちますから、お母様の御苦労が mikasa さんのその後に与えた影響は小さくなかったのではないでしょうか。

我が家がそうでした、祖父が家庭を顧みないとんでもない遊び人でしたから、祖母が散々苦労して父を含む子供達を殆ど女手一つで育て上げたようです。

戦後の一時期なんて、家財道具や着物を売り捌いて飢えを凌ぐ竹の子生活そのもの、その一方で闇物資に手を染めるブローカーの真似事すらしたらしいのですが、生きる為には仕方なかった時代。

それでも尚、人手に渡った伝来の土地の殆ど全てを買い戻したのはまさに明治女の意地、そして死の間際手元にあった彼女の殆ど全財産・数千万円をお国の戦没者慰霊碑建立事業へと寄付して、あの世へと召されました。

そんな祖母の苦労を見て育った我が父親は、絵に描いたような真面目人間・石部金吉になっちゃいまして、酒・女・博奕・煙草他の一切をやりません。

>父との思い出はあまりありません。毎日帰って来るのが遅く、休みの日も遊んでもらった覚えがありません。しかし私の一番古い記憶は、父と知らないお姉さんとどこかの遊園地で遊んだ記憶です。その次の記憶は、そのお姉さんがお姉さんの母親と二人で私の家に訪ねて来て、なぜか泣いているお姉さんをそのお母さんが叱りつつ、2人で私の母に謝っていました。母に「mikasa、外で遊んできなさい」と言われて外から様子を見てました。

先にも述べた通り、私の父親は異常なまでの堅物且つ子煩悩でしたから、家庭内に波風が立つ事は殆どありませんでしたが、祖父に関して言えばその種のエピソードの宝庫です。

金は自然と湧いてくるとでも考えていたのでしょうか、盛大に消費する一方の典型的な総領の甚六タイプ、お妾さんも何人かいたようです、まあ私が覚えているのは粋筋上がりの最後のお一人なんですが・・。

子供ですから当時は世の中なんて皆目分からない、このお妾さんが何でも買ってくれまして、いいおばさんだと・・。

>そんな父も孫ができたらデレデレで私の子供たちを可愛がってくれてます。週末は実家に行き、弟の子達も含めて4人の子供を風呂に入れるのが父の楽しみです。もう70前なのに勤め人をやっており体力的に厳しそうですが、罪の償いだとばかりに私は容赦なく子供たちを押しつけておりますw 先日は父と私と息子で野球ごっこをやりました。「パパはじいちゃんに遊んでもらえなかったから野球下手なんだよ」と息子に言うフリでイヤミを言ってやりましたw

何だかんだあった過去を全て笑い話で済ます事が出来るとは、それこそ現在が幸せな証しなのでしょうが、若い頃の遊び人が転じていつの間にか好々爺となる、人生の結末とは斯様にハッピー・エンドであって欲しいものです。

それにしてもお母様の御苦労が報われて本当に良かった、mikasa 家の現在に万感の思いを込めまして・・。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/07 08:51

おはようございます。



何やら菅原文太の話しで御一緒したと思いましたら、
あれからもう5日ですか・・・・?

>昭和を振り返って

私は随分、私の懐かしい昭和の話しはしていると思います。
昭和は64年まででしたか?
私の中で昭和は三期に大別されるように思います。

敗戦と言う悲劇こそありましたが終戦までの20年間を、
真の近代国家を目指した激動期!
奇跡とも言われた次の20年を日本の復興期・・・
そして以降、昭和の終わりまでが高度成長期。

私としてはこの復興期とも言える昭和30年から昭和48年頃まで、
この時期が一番、昭和らしい昭和のような気もします・・・。

今日は少しこの昭和30年の頃の話をしてみたいと思います。
仰るように、一部に富裕の層があったにせよ、
日本国民が全体に貧しい時代でしたでしょうね。
当時の世田谷に於いてすらそうなら、
私の子供の頃の北海道の片田舎など推して知るべしでしょう・・・

ただそれだけに、皆肩寄せ合いながら、
一つのものを皆で分け合うように生きていたのだと思います。
私が以前「義理人情」の質問をしたのを覚えておられるでしょうか?
子供ながらにもそう言う大人たちの心のつながりのようなもの、
今思えば、まことに涙が出るような想いです・・・

まあまたisokenさんとは話す中で昭和の話しはすることもありましょうし、
最後に少し子供の頃の思い出の話しでも・・・
私はまあ小さな港町で子供時代を過ごしましたから、
魚と言うものは豊富でした。
伯父と言う人が網元でしたからね、持ち船が港に帰れば、
「毛蟹」やら「たらば蟹」、あと諸々の魚と何の不自由もありませんでしたね。
「にしん」などは当時仰るように猫跨ぎであったかも知れない・・・
今はもう幻の魚になりつつあるようです。

あの頃は「番屋」などで従弟と良く遊んだものです!
御存知でしょうか?
北原ミレイの唄などにも出てきますが、
漁師が網の繕いなどをする場所で2階立てで大きなものでしたよ。

小学生の頃、給食などもありましたが、
シチューのようなものに入っているのは「さんま」でした。
家で母親が作るライスカレーなど、肉などありませんでしたね
薩摩揚げが肉の代用でしたし・・・
もうここいらの話しを始めると話しがあり過ぎて(笑)
肥え汲みのおじさんが馬車に樽を積んでくるとか・・・(笑)
まあまた機会でもありましたら。

少し余談をして本当に最後に・・・鯖の話しが出ましたので。
先日、青森の平目の話しをしておられましたが、
青森にも名前は忘れましたがブランドの鯖があるようです。
関に「関鯖」があるように、
水揚げされる場所でブランドにして付加価値をつけていく・・・
漁業も変わっていくのでしょうね・・・
このたびも「今戸橋」の話しは出来ませんでしたが、

今日はまあここいらで・・・
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この回答へのお礼

おはようございます。

大正・昭和を生き抜いた明治生まれの先達がそうであったように、今平成を生きる我々昭和にどっぷりと浸かった世代にとって、過ぎ去ったあの頃は特別な時代、そういう事かも知れません。
いい歳したおっさんの繰り言と言えばそれまでですが・・。

>今日は少しこの昭和30年の頃の話をしてみたいと思います。
仰るように、一部に富裕の層があったにせよ、
日本国民が全体に貧しい時代でしたでしょうね。

貧しい事が当たり前であった時代、依って貧乏を特別視する事も今ほどではなかったようですが、弱者を足蹴にする腹立たしい昨今の風潮は何とも・・、まあ弱者と言えば殆どの国民が何等かの部分で弱者であったのでしょうから。

その一方でお金持ちといっても恐らく大した事は無かった、我が家も住まいこそ御屋敷と言って差し支えない構えでしたが、さして金がある風でもありませんでした。

私は30年代中期の生まれですから、当然30年代の記憶は僅かしかありませんが、記憶に残る事件と言えば 「 浅間山荘 」 であったり 「 大久保清事件 」 であったりするのですが・・。

>伯父と言う人が網元でしたからね、持ち船が港に帰れば、
「毛蟹」やら「たらば蟹」、あと諸々の魚と何の不自由もありませんでしたね。
「にしん」などは当時仰るように猫跨ぎであったかも知れない・・・
今はもう幻の魚になりつつあるようです。

網元といえば農村部では地主に相当する地元の有力者ですね、それにしても蟹の食べ放題とは羨ましいほどに贅沢な食環境、 kamejrou さんのお住まいも、かつて 「 ニシン御殿 」 と称された豪邸であったのでしょうか。

>あの頃は「番屋」などで従弟と良く遊んだものです!
御存知でしょうか?
北原ミレイの唄などにも出てきますが、

「 石狩挽歌 」 でしょうか?
確かなかにし礼さんの作詞であったと思いますが・・。

>小学生の頃、給食などもありましたが、
シチューのようなものに入っているのは「さんま」でした。
家で母親が作るライスカレーなど、肉などありませんでしたね
薩摩揚げが肉の代用でしたし・・・

給食は全く駄目でした、いつもどうやって残そうかと、そんな事ばかり考えておりました。
その一方で仰る通り幼い頃はまともに牛肉なんて食べた記憶が無い、ライスカレーに入っていた僅かばかりの肉も、今思えば何の肉であった事やら、クジラ肉に関する記憶は山のようにありますが・・。

さて 「 仁義なき戦い 広島死闘篇 」の1シーンを思い出してしまいます。
スクラップの番をして何とか凌いでいた貧しい広能組の夕食風景、そして何かの肉を美味そうに頬張る広能。
「 お前らも遠慮せんと食え! 」と言われても、 「 おやっさん用に買うた肉ですけえ~ 」 ・・と一向に手を出さない子分一同。

「 一体何の肉じゃ~ 」 、それが犬の肉と分かり 「 ワシ、指詰めますけえ~ 」 ・・と前田吟さん、当時の極道社会の貧しさとはそんなものだったのでしょう。

>水揚げされる場所でブランドにして付加価値をつけていく・・・
漁業も変わっていくのでしょうね・・・

何時の頃からか我が国の農林水産業が進みつつある道、そういう事なのでしょうが、それにしても暖流と寒流が盛大に交わる我が日本の水産資源は恐らく世界でも指折り、他国の不法操業ましてや環境破壊などは露ほどもあってはならない、そう思うばかりです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/07 07:33

へ~、isokenさんの奥様とは古くからのお知り合いなんですね。

とても才色兼備な素敵な方みたいで、それもisokenさんの実力なんでしょうね。。
私は昭和は中学の話になりますが。。同じ塾の男子と付き合いました。で、同じ塾の友達も同じ塾の別の男子と付き合っていたので、よく四人でダブルデートしました。と言っても、中学生ですから、ゲームセンターやマックですが。で、私は彼にキスされたんですけど、友達はなかなか彼にキスしてもらえなくて、私の彼をすごい羨ましがって、羨ましさのあまり、彼女は私の彼を無理やり誘ってキスしたんです。女の友情なんてこんなもん。。と中学で悟りました(^_^;)
話飛びますが、なんとisokenさんて、丸の内に勤務されてるんですね!別の質問で読みましたが。私も丸の内なんです!丸ビルのマンゴツリーも行きましたよ!たしか奥様とのデートコースなんですよね?isokenさんと、大学も勤務地も同じなんて、光栄です♪どこかですれ違っているかもしれませんね♪
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この回答へのお礼

haiji さん、こんばんは。

>へ~、isokenさんの奥様とは古くからのお知り合いなんですね。

彼女が19歳の頃から知ってます。
2年近く付き合ったかな、でも色んな女の子とラップしちゃってるから、私にとって特別な存在という訳ではありませんでした。

ところがさる切っ掛けで何年か後に再会した、そしてその日のうちに結婚を決めちゃった、無論彼女が首を縦に振ったからですが、まあ強引でしたねぇ。

美人が必ずしも恋愛運に恵まれるとは限らない、彼女の前半生は典型的なそのパターンなのでしょうが、その原因を作ったのが他ならぬこの私だった。
そして今の彼女の生き甲斐も多分私、且つこちらもそれと同じ心境になりつつある、まあ人生とは面白いものです。

>羨ましさのあまり、彼女は私の彼を無理やり誘ってキスしたんです。女の友情なんてこんなもん。。と中学で悟りました(^_^;)

それはまた随分と早くに達観したものですが、手を繋ぐだけでドキドキした中学時代のデートってとっても楽しかった、それもありですねぇ。

>私も丸の内なんです!

馬場先門の近くとだけ、申し上げておきましょうか。

>丸ビルのマンゴツリーも行きましたよ!たしか奥様とのデートコースなんですよね?

オーナー一族である東京店の GM が家内の知り合いでして、その御縁で随分行きましたねぇ、最近は御無沙汰ですが。
バンコク本店にも度々行きましたが、手紙を預かったりした事もあった、それはもういつも歓待してくれます。

マンゴツリー本店は、バンコクのレストラン・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた事が有る名店ですが、洒落た造りで一部がオープンテラスになってまして、そりゃもう雰囲気が抜群の上、プライスもぐっとリーズナブル。
haiji さんが御夫婦でバンコクを訪れる際には、是非共いらして下さい。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/06 01:16

isokenセンセー、お邪魔します(^^)



ギリギリ昭和~平成でしょうか

私の初恋物語です

お相手は中学生のときの美術教師

たいして男前でもなかったと思うんですが、何故か惹かれてしまいまして…

もう四半世紀以上前のことなので忘れてしまっている部分もありますが、美術は相変わらず下手だったのですが、成績は良かったですよ

(今でも苦手です)

目と目で通じ合っていた、と勝手に思い込んでいます

私が免許を取ってからは先生と同じ日産シルビアを買いました

ノスタルジックな瞬間ですね

今は別に好きだった人が乗っていた車に乗っています(爆)

その後、美術教師は教え子とデキちゃいまして…

妻子を捨て、彼女と新しい家庭を築いています

「あと1年遅く生まれていたら・・・」

今でもそう思います

ワタクシのその後の遍歴はyoutubeでお聴きください
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この回答へのお礼

michiyo さん、こんばんは。

センセーに格上げしてもらって、嬉しいやらそうでないやら・・。

>私の初恋物語です
>お相手は中学生のときの美術教師

女の子って、先生が初恋の御相手ってケースが多いみたい、まあ少なくとも同年代の男の子よりはおませさん、・・というか精神年齢が高いのでしょう。

>私が免許を取ってからは先生と同じ日産シルビアを買いました

私が乗ってたシルビアは恐らくその2代か3代前・ SOHC の時代の HB 、当時の日産は電気系統が弱くてね、随分と泣かされましたが・・。

>その後、美術教師は教え子とデキちゃいまして…
>妻子を捨て、彼女と新しい家庭を築いています

好意的な見方をしますと、その先生は誤魔化しが出来ない・全てに本気の方だったのかも知れない。
まあ彼自身が現在の境遇をどう感じてらっしゃるかが全てなのでしょうが・・。

私は小者ですから人生をもっと狡く生きてます、浮気は所詮浮気でして決して本気になる事は無かった、家内と別れるという事などこれっぽっちも考えた事がありません。

>「あと1年遅く生まれていたら・・・」
>今でもそう思います
>ワタクシのその後の遍歴はyoutubeでお聴きください

出会わず・苦しまなくて済んだ、そう言う事でしょうか?
仮にそうだとしても、それを含めた全てがやり直す事が出来ない、そしてかけがえのない自分の人生です。

後悔は何も生み出さない、それは遥か後年に於ける貴女の赤裸々な告白部分に就いてさえ、言える事かも知れません。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/06 00:22

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