好きなおでんの具材ドラフト会議しましょう

少し突拍子も無い疑問で内容に纏まりがなくて申し訳ないのですが
今の世の中にたいして、カントとヘーゲルの影響はどのようなかたちで残っていますか?もちろん学問や思想にたいして大きなものだとは思います。
ヘーゲルはマルクスとかにつながるのかなあとか思うところがあるのですが、カントの考えはどのように生きているのでしょうか。当然ヘーゲルもカントに影響を受けているのは解りますが…また、世界の学者の哲学の業界などではどちらが主流?というかこのような考え方をするのか存じませんが、2人の考えが妥当というか事実だと思って信じている人が多いのでしょうか。質問の仕方が稚拙ですがお許しくだされればお付き合いください。

A 回答 (5件)

 ★ (No.4補足欄) こちらのコメントのご意見は回答No 2の方に対してのものということでしょうか?


 ☆ そうですが ヘーゲル論です。
 
 さらにおぎないます。

 ☆☆ 【Q:《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ】 ~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8791294.html

 1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。
 
 2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。

 3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。

 4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。
 
 5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。

 6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。

 7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。

 8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。




 9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?

 10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。

 11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。

 12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?

 13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。

 14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?
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 こんにちは。




 市民社会は 確かに商業社会・つまり市民がその労働力を売り買いするにしても商人になっての互いの交通を基礎とする社会ではありますが だからと言って 人倫が消失して共同体がこわれると直ちに言ってよいとは思われません。

 確認していませんが ヘーゲルもそんなことは言っていないと考えます。

 そんなことを言うなら むしろ経済外的なチカラとして 資本主義の利潤をもピンハネするのは 政治家であり国王であるでしょう。

 いわゆるお二階さんアマテラス公民 この人びとはすでに世界認識の普遍性や人格の倫理規範性にも達したとうそぶくアマテラス科学語および人格語を駆使して 一階の市民社会から じゅうぶんにその経済価値を強制的に獲得します。

 普遍性を看板に掲げているからには この強制獲得経済としての財政政策は 市民らの所得の再分配としての社会政策をもちゃんと盛り込んである。こういったところでしょう。



 市民社会が 人びとの自然本性に根差す直接的なつながりを基本とする共同体性をうしなうのだという議論は 単純すぎます。


 要するに 経済活動において 社会内分業が発達すると その商品や製品の部分にしかまたは 部分的な過程にしか携わらないことになるので けっきょくいわゆる疎外が起きる。というだけのことです。

 あつかっている商品が 部分的にしか知らないようであってよそよそしくなる。互いに取引する相手とも 部分的にしか責任を持たないとなると 仕方なくとしても よそよそしくなる。


 よそよそしくなるという疎外が起きているだけであって もともとの共生としての心は 人びとのあいだに生きている。目に見えて生きていないとしても まだ死んでいない。

 この共生の心をすでに死なせてしまって 科学語および人格語のみで ひとと接しまじはりを持つしかない人間。それは 国家の二階に住むアマテラス公民であります。


 こういった事情を見失ってはならないでしょう。
 ヘーゲルも 同じ趣旨に立つものと考えます。

 こういう内容のことを カントは 四角四面の文章で述べています。

この回答への補足

ありがとうございます。
こちらのコメントのご意見は回答No 2の方に対してのものと
いうことでしょうか?

補足日時:2015/01/20 18:29
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哲学界は、直接はよく知りませんが



http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-6 …

この辺り、面白いと思いました。
世界的に見た基準みたいですから、日本人だけで考えるのと違って
これもまた一興でしょう。


哲学者は影響を与え続けると、言えるように思います。

個人的意見では、カントの考えは人間に生きてると言えると思います。
特に三大批判は、考えではなく有り様ですから。
もっと掘り下げて、もっと改訂版を出してもよかったと思います。

なぜに途中で止めたのか疑問ですが、興味が移ってしまったのかなとも思います。


>2人の考えが妥当というか事実だと思って信じている人が多いのでしょうか。

カントの三大批判は、自分を知れば自分の中から出てきます。
信じる必要も疑う必要もない事です。

そこから考えに至れば、正統性のある意見になるでしょう。
今と昔は、情報量が変わって対処方法が変わるかもしれませんが
方向性が変わることはないと思います。
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日本の大学の哲学会はほとんどドイツ観念論が中心で、たぶん今でもそうだと思います。


先生がドイツ観念論をやっていたら、生徒もドイツ観念論の論文を書かないと学位がもらえないから、時代が変遷しても、象牙の塔の中はそれとは無関係に師弟関係で結ばれているから、ドイツ観念論から抜けられない。
私もご多分に漏れず、若いときからデカルトやカントやヘーゲルの本ばかり読まされてきました。
もう、うんざりします。
カントなんか全集で、隅々まで読まされました。
たいていのことは先人が論じてしまっているので、その隙間を探すのが大変で、年々細かくなって、一般の人から見たら、何をやっているのか分からない。
だから、普通の勤め人になってしまった私でも、今でも読む本と言えば、カントやヘーゲルばっかり、だからカントとヘーゲルの今の世の中に対する影響と言われても、私には答える資格がありません。
ただ、私の若いときは学生運動が盛んな時で、マルクスは議論の関係で、どうしても読まなければならず、けっこう読みました。
ただ、今は誰も社会主義だとか、その方面の本を読む人がいなくなって、古書店に行っても、マルクス関係の本は2束3文で、1冊100円の廉価本がワゴンに入れられて、あふれているけど、誰も買いません。
もう、世の中はカントだとか、ヘーゲルだとか、マルクスなんて、誰も関心を持っていないのを感じます。
私などは、浦島太郎の気分です。
カントやヘーゲルの名前を出すと、お前はアナクロニズムか? と笑われます。
つくづくと、時代が変わったんだなあ、と思います。
それで、フランス現代思想のドゥルーズとか、ガタリとか、デリダとか、ラカンを読もうとしましたが、何を言っているのかさっぱり。
お前なんか、お呼びじゃないと言われているような気分でした。

あなたも、そういう質問をするところからすると、だいぶ時代から取り残されている人なのではないかと思います。
それとも、大学で依然としてドイツ観念論をやっているから、時代とは無関係にアナクロニズムに首を突っ込んで、そういう質問をしているのでしょうか?
デカルトからカント・フッサールに到る近代哲学が戦後フランスのポスト・モダンで終わってしまったことはご存じだと思いますが、もう、自我だとか主体だとか、そういう話題は誰も論じる人がいなくなってしまい、私から見ると何をやっているのか分からない状況です。

だいぶ前ですが、ヘーゲルの「法の哲学」と「法哲学講義」を読んで、これはマルクスそのものではないかと思ってびっくりしたことがあります。
マルクスは「資本論」をはじめ、「経済学批判要綱・グルントリッセ」などほとんどの本を読まされましたが、ヘーゲルの「法の哲学」などを読むと、ヘーゲルなしにマルクスもあり得ない、「法の哲学」の経済版が「資本論」なのだと思いました。
ヘーゲルは近代社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなるものと考えて、家族を人倫共同体、そして市民社会をその共同体の喪失態、そして家族で失われた共同体を高次に回復したものが国家だといい、最終的に国家を理想としました。
国家の中でこそ、人間が人間らしい生活ができる、と。
これを経済的な交換形態から見ると、家族が、マルセル・モースの「贈与論」でいうところの贈与互酬の交換形態、そして市民社会が商品交換の資本制の交換形態、さらに国家は収奪と再分配の交換形態。
歴史的に言うと、人類はその三段階を経て、発展して来て、古代が贈与互酬、中世が収奪と再分配、近代が商品交換の時代、その歴史的な三形態が現代に共存しているのです。
古代がそうであったように家族は共同体、だから物のやり取りは贈与互州によって行なわれます。
父親が子供の養育費・教育費を出しても、それを金銭で返せとは言いません。
母親が家事労働をしても、それに対して金銭で支払えとは言いません。
家族は共同体だから、互いに助け合い、友愛をはぐくみ、物は只でやり取りされます。
ところがその家族の共同体も生計を維持するために市民社会に出て、働かねばなりません。
働きに出ることで、家族は解体します。
家族の中に金銭が入ってくると友愛は失われます。
市民社会は資本制の社会、誰もただでは働きません。
資本家も労働者をただで雇用することは出来ません。
しかも市民社会は激烈な競争社会だから、道徳的なことを言っていたら、置き去りにされます。
他人を蹴落としてまで、自己の利益を図らねばならない。
市民社会では、人間は互いに敵同士です。
富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなります。
貧富の格差がどんどん拡大します。
脱落したものは死ぬしかない。
市民社会は人間が人間らしく生きられるところではありません。
市民社会は、だから家族の共同体の喪失態です。
何事も金銭に換算されます。
お金を持っていない人間は誰かも尊敬されず、男は結婚もできません。
幸福さえも、金次第です。
ヘーゲルによれば、そこにこそ、国家の存在理由があります。
ひとは国家の中では、互いに同胞であり、仲間です。
市民社会で敵同士でも、国家の中では互いに家族です。
困った人には福祉政策で、貧しい者には生活保護で、失業者には失業保険で、病人には健康保険で、高齢者には年金を支給し、高額所得者からは「累進課税」でより多くの税金を徴収し、それを貧しい人に再分配します。
国家は出来るだけ国民の平等を実現します。
市民社会の市民は、国家の中ではみんな等しい国民です。
互いの職業は無関係です。
国家はヘーゲルによれば、回復された家族です。
国家は共同体です。
人は国家の中でこそ、人間性を回復します。
それがヘーゲルの思想です。

このヘーゲルの「法の哲学」の市民社会の章を経済学で解明し、なぜ資本制の社会で、貧富の格差と、階級が生じるのかを明らかにし、市民社会・資本制の社会を批判し、社会主義の社会を実現しなければならないと言ったのがマルクスです。
ヘーゲルのいう国家です。
社会主義の社会でこそ、いいかえればヘーゲルのいう国家の中でこそ、人間が人間らしい生活ができる、と主張しました。
残念ながら、そのもくろみは失敗しましたが、その理想はまだ生きています。

まあ、そんなところでしょうか。
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こんばんは。




☆少し突拍子も無い疑問で内容に纏まりがなくて申し訳ないのですが
◇私などは、毎回、まとまりのない回答を書いて、質問者さんたちを困らせています。



☆今の世の中にたいして、カントとヘーゲルの影響はどのようなかたちで残っていますか?
◇ヘーゲルについては知りませんが、
カントですと、
たとえば、
政治哲学のロールズなんて有名ですよね。

ジョン・ロールズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …

正義論(ロールズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9% …

そして、ロールズの政治哲学は、日本の政治や施策に反映されています。ロールズの正義論は、社会保障の根拠の一つとされております。



☆ヘーゲルはマルクスとかにつながるのかなあとか思うところがあるのですが、カントの考えはどのように生きているのでしょうか。
◇ロールズもそうですが、
 新カント学派
なんてのが有名です。

新カント派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%82%AB% …



☆また、世界の学者の哲学の業界などではどちらが主流?
◇どちらも現代の主流ではないと思いますが、
あえて言うのならば、
カントということになるのではないでしょうか。

数年前、話題になったマイケル・サンデルの『白熱教室』で
カントは出てきましたけれども、
ヘーゲルは出てこなかった(ポリポリ)。


☆2人の考えが妥当というか事実だと思って信じている人が多いのでしょうか。
◇さぁ~。
かつての私の知り合いにカントの研究者がいましたので、カントと答えることにします。
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