マンガでよめる痔のこと・薬のこと

以前読んだ本の中に、
「一日は朝から始まるという我々の常識は実は近代以降の時間観念であって、古代の日本人は日没を一日の始まりと考えていた。収穫祭などの祭りが通常日没から夜明けまで行われていたのも、このためである。祭りが昼に行われるようになったのは比較的新しいことである」
と書いてありました。

なぜ以前の日本人は日没から一日が始まると考えていたのでしょうか。
またなぜ近代人は朝から一日が始まると思うようになったのでしょうか。

質問お願いいたします。

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A 回答 (9件)

日本の祭祀が日没からなのは、夜の一日が日没から始まると考えていたからです。


対して、人の生きる昼の一日は、日の出より始まります。

なので、古来より一日の始まりは朝とされてきました。これは中国でそもそうですね。
いまので、正月の御来光を拝むのは朝が一日の始まりとされていたからですね。


近代(明治)になると、明確に夜中の0時が一日の始まりですね。



ちなみに、日没から一日が始まるというのは、西欧ですね。
クリスマスイブ(クリスマスの夜)が24日で、25日の夜がクリスマスでなはいのはそのためです。
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>古代の日本人は日没を一日の始まりと考えていた。



わたしもこの根拠が弱いと思います。
例えば新年の挨拶「あけましておめでとう」は、夜が明ける(日が明ける)=新しい1日=新しい1年、という概念だったと記憶しています。つまり日の出が1日の始まりです。

定時を刻む時計が発達する以前は1日の区切りは3つ、日の出と日の入りと南中だけでしたので、世のどこの国でも1日の区切りは日の出か日の入りでした。
この中で日の入りが1日の区切りであったなごりは、他の方の回答にもあるようにクリスマス・イブで、もともとは日の入りから次の日の日中までがクリスマスの日でした。今では日の入りから深夜12時までが前日となっているので、これをクリスマス・イブとして祝っています。
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>古代の日本人は日没を一日の始まりと考えていた。

収穫祭などの祭りが通常日没から夜明けまで行われていたのも、このためである。

何を根拠としてこれが書かれているのか、よくわかりませんが、私見としてたかまがはらの女神(アマテラス=日の神)が岩戸(洞穴)に隠れて、でてこなくなったのを憂いた臣民が真っ暗な中で灯火を焚き、大いに騒ぎ踊ったりして穴の中の女神の気をひいて誘い出し、これによって国に一日のはじめを、朝をもたらすことに成功した、という故事が思い出されます。これは現行天皇のいわれでもっとも有名な伝説なので、お説は是をいっているのかもしれません。
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日没云々については、月の満ち欠けを暦の基準としたことに起因しているとされています。


月の満ち欠けを基にして暦を作る際に、どこからどこまでを一日とするのかということを決める必要があって、出た月と次に出る月までの期間を一日と決めました。
月の出は早い遅いがありますので、月が出る夜の始まりつまり日没の時点を基準として、次の夜が始まるまでを一日としてカウントして暦をつくりました。
この夜の始まり(日没)を暦の上での一日のカウントの基準としたことはメソポタミヤの楔形文字の記録には認められています。
メソポタミヤの暦はやがて旧約聖書などの記述からユダヤ暦と呼ばれるようになり、キリスト教の暦に引き継がれローマ暦とともに、現在の太陽暦が国際化するまで使われました。
現在もロシア暦などの形で使われています。
日本にもこのような文字史料があるのか否かは寡聞にしてしりません。
お読みになられた本の著者が「古代の日本人は日没を一日の始まりと考えていた。」と日本人と普遍化して断定している論拠はよくわかりません

蛇足
日本人が文字で記録するようになったのは、中国から漢字が伝来した以降のことです
漢字の伝来と中国で使われていた暦の伝来はほぼ同時期であったろうと考えられています。
暦を取り扱う易学者が仏教の伝来よりも早く百済から来日してきていたことは分かっています。
古代中国の暦には、月の満ち欠けを基準としたもの(太陰暦)と立春を起点とした季節を基準とした二十四節季というものがあります(自然暦)
現在も、大寒、立春、啓蟄、春分などと言って言葉として残っています。
桃の節句、端午の節句などの節句という言葉もこれからきています。
冬至、夏至、春分、秋分なども含まれています。
これは日照時間の長短を基準としていますので、結果として太陽暦に相当します。
元々農事の目安として使われていましたので、こちらの方が一般に普及していたと思われます。
和歌など過去の文献でも、年月日で表すよりもこの二十四節季の言葉の方が多く見受けられます。
皇室の行事の記録などにも多く残っています
村落の祭礼などもこの二十四節季に基づくものや目安としたもが多く見受けられます
「日本人は」と普遍化するのであれば、こちらの方が適しているのではないのかと思います
農事ですから感覚的にも日の出をもって一日が始まると考えていたと推測するほうが自然ではないのでしょうか。
「夜なべ仕事」を一日の始まりの仕事と考えていたとは思えません。

現在でも気象学や学問や法律など公的な際には深夜の零時をもって一日の区切りとしていますが、生活感情としては、夜は前日に含めて受け取っています。
「昨日みた夢」という場合に、深夜零時前の夢かどうかなどいちいち考えません。
「明日の晩に会おうか」というときに、あくまでも翌日の日没後のことであって日ノ出前の期間など念頭にありません。
このように公文書と生活感情とにはときとしてズレが生じます。
近代以前の庶民感情がこうだったということを断定するのは非常に手間がかかります。
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 平安時代の朝廷は、日が暮れてから活動を始めました。


 これは、昼間は農事や市場の商売で市中に目が届きやすい
のに対して、夜は、何しろ電気がなかった時代ですから、
外は真っ暗、でもそれでは物騒なので、警護番の武士を
各門に配置して、政策や神事、儀式をおこなったのです。
 というのは建前で、行事がおわれば大宴会、どんちゃん
騒ぎをしたことは、「催楽馬」のスケベな歌からうかがえます。
 知ってますが、公開をはばかるので、ここではちょっと・笑。

 
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1. なぜ以前の日本人は日没から一日が始まると考えていたのでしょうか。



これは、何も日本だけではないと思います。古い英語で「朝」は morrow といいます。 today の初めにある to は「いまの」と言う意味なので tomorrow は「今日の朝」という形のはずですが、ご存知のように現在の意味は「明日」です。

 日本語でも、古い言葉では「あした」は「朝」の意味でした。現在の意味は「明日」です。

 西洋では、クリスマスイブ、などと言って「イブ」のつくのは次の日と一体だと考えているのも同じ理由からだと思います。ユダヤ教の祭日も夕方から始まるのがあります。

2。またなぜ近代人は朝から一日が始まると思うようになったのでしょうか。

15世紀ごろ機械時計が公共の場に設置されるようになったため(下記)と思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5

 
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「千と千尋の神隠し」で、日没後に神々がやってきます。


昔は、神々や先祖霊はその時間に現世に降りて来ると考えられていました。
その理由は、火です。

火が効果的に見えるのは、やはり夜などの闇です。
火を並べて道を作り、そこを通り神々や先祖霊が降りて来ると
思われていました。
実際、かがり火などでできた道は幻想的です。
そこからの発想なのでしょうね。
朝や昼間では、火は全くさえません。
収穫祭などの祭りが通常日没から夜明けまで行われていた
のはそうした理由からです。
・・・でも、それが「日没を一日の始まりと考えていた」という
根拠にはなりません。
昔も今も、始まりは日の出なのです。

また、異説ではありますが
性行為はだいたい夜行われます。
昔の日本では、未婚の男女はだいたい夜這いや祭りの後半に
性行為を行いました。
夫婦の性行為も、やることが無い夜に行いました。
その結果、降りてきた霊や神々が男根を通じて
女体に魂として宿るという考えになっても不思議ではありません。
あまり明るい時間にやっているところを他人に見られたくないという
生物的な本能もあります。(排便中は他人に見られたくないということと
似たようなことです)
そのため、祭りは日没から始めただけで
「一日の始まりは日没」という理由で始めたわけではありません。

「一日の始まり」と「労働の始まり」と切り離さないといけません。
時間的概念でいけば、「一日の始まり」は日没後ですが
労働的概念でいけば、やはり日の出が始まりなのです。

夜は、労働には向きません。
せいぜい、わらじや着物の繕い、道具の手入れぐらいしかできません。
やはり睡眠をとる時間帯です。
目覚めや寝起きが、一日の始まりなのです。
寝てる間は、昔の人は「死んでる時間」だと思っていました。
だってその間、記憶がないですから。
その死んでる間に一日が変わるという考えだったのです。
だから時間観念的には、一日の始まりは夜になったのですが
「一日の始まり」というよりも「日付が変わった」という言い方のほうが
正確です。

昔も今も古代も近代も「さぁー、1日が始まるべぇ」と思うのは朝であり
「目覚め、寝起きの瞬間」からです。
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近代は太陽が最も南に位置する時間を正午(1日の半分)と定めたため、


夜更かししなければ日付変更のタイミング(0時)は寝ている。
だから起きたタイミングがその日の行動開始タイミングとなるからです。

ただ代表的なモノとしては・・・年越し番組、
見れば判る通り0時で1日は始まっていますよ?

昔は時刻の概念がないので日没が日付変更のタイミングと考えたのだと思います。
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逆に解釈すれば判りやすい



日没が一日の終わり
これなら、違和感なく理解できますよね
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Q昔、1日はいつ始まると考えられてたのですか。

http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/joho/toki.htm

上記に江戸時代の時間についての説明がありました。

午前12時から2時までが子の刻となっています。
干支は子から始まりますから、午前12時に1日が始まる(日付が変る)と考えられていたのかと思いますが
この考え方はあっていますか。

また
1日を2時間ごとに区切り干支で表現する方法が始まったのは戦国時代である。
とありますが、それ以前の1日の始まりはどうだったのでしょうか。

Aベストアンサー

先の回答者さんの補足になりますが・・・

天智十年四月二五日=西暦671年6月10日に、天智天皇が漏刻を設置して鐘を撞いて時を知らせた頃から、一日を十二支で区切って・・・という考えはあったようです。

平家物語の中の有名な「扇の的」のところで、
「頃は二月十八日、酉の刻ばかりのことなるに・・・」
と出てきますから、鎌倉時代の初期には、一般的に使用されていたのでしょうが、それが正確な時刻かというと、そうではなく、陰陽師や暦の計算をする専門的な人以外の一般庶民の感覚は、一日を昼と夜の二つに分けて、それぞれをまた六つに分けて・・・という季節によって変動するあいまいな物だったようです。

そして、一日の始まりは、夜明けで、夜中の12時に日づけが変わるという感覚はなかったと思われます。

その事が、見事にわかるのが、あの赤穂浪士の討ち入りです。
今も、元禄十五年の12月14日が討ち入りの日と称されますが、あれは、厳密には12月15日の午前4時の出来事です。
しかし、まだ夜明け前なので、12月14日と称され、今も、そのままの日づけで言い表されていますよね。

つまり、江戸時代でも、一般庶民の一日の始まりは日の出とともに・・・という事ではないでしょうか?

先の回答者さんの補足になりますが・・・

天智十年四月二五日=西暦671年6月10日に、天智天皇が漏刻を設置して鐘を撞いて時を知らせた頃から、一日を十二支で区切って・・・という考えはあったようです。

平家物語の中の有名な「扇の的」のところで、
「頃は二月十八日、酉の刻ばかりのことなるに・・・」
と出てきますから、鎌倉時代の初期には、一般的に使用されていたのでしょうが、それが正確な時刻かというと、そうではなく、陰陽師や暦の計算をする専門的な人以外の一般庶民の感覚は、一日を昼と夜...続きを読む

Q厚生年金・夫死亡後の妻の受取額について

妻の両親が厚生年金を受給しています。
(本人達の年金等の知識・認識が浅く、要領を得ない質問になることをお許しください)
父親は69歳で厚生年金を11.5万円/月、母親は63歳で厚生(おそらく)年金を3.0万円/月受給しています。
両親は田舎に住んでいますが、現在でも生活費に事欠く状況です。
今後、仮に父親が先に他界した場合、母親の受給額はいくらになるのでしょう。
生活費の援助が必要になると思いますので、今から考えておきたいと思います。
遠隔地に住んでいるため、厚生年金の種類などは確認できていません。
本来は社会保険庁に問い合わせるべきでしょうが、もし詳しい方でおよその事が簡単に分かる方がいらっしゃれば、
ご回答願います。

Aベストアンサー

年金は簡単に言うと、老齢基礎年金と老齢厚生年金の2本建てになります。(会社員の経験がある場合)
なお、公務員の場合は厚生年金の代わりに共済年金となりますが、どちらでも大きな違いはありません。

まず、現状の認識で考えますと、夫は最低15年(おそらく25年)以上は公的年金に加入していたと思われます。
妻も最低15年以上加入していたと思われます。

a)夫:69歳、老齢基礎年金及び老齢厚生年金を受給
金額がかなり少ないことから、厚生年金受給期間が少ない、国民年金未加入期間があるなどの事情があると思われます。

b)妻:63歳、厚生年金3万円受給
これは特別支給の老齢厚生年金と呼ばれる物で、厚生年金独自の給付です。
金額からすると長期ではないが一時会社員として働いたことがあると思います。

まず将来について考えますので妻が65歳以降の場合について考えます。

A)夫、妻共に健在の場合
夫の年金額は変化はありません。
妻の年金は自分自身の「老齢基礎年金」及び「老齢厚生年金」を受給するようになります。
金額はご質問内容からはわかりません。
というのも妻の年金加入期間が満額の40年あれば基礎年金だけで月6.5万円ほどもらえますが、加入期間は現在の特別支給の厚生年金の金額からは推測できないのです。
妻はこの老齢基礎年金に加えて老齢厚生年金をもらいます。ただ金額は現在の受給額よりも少なくなるでしょう。

B)夫が死亡したとき
妻は3つの選択肢があります。
1)自分自身の老齢年金をそのまま受給する。しかし今回の例では金額的に損になると思われます。
2)自分自身の老齢基礎年金+夫の遺族厚生年金(夫の老齢厚生年金金額の3/4)
3)1,2の中間です。夫の遺族厚生年金の2/3と自分の老齢厚生年金の1/2を受ける

上記のうち一番金額の大きい物を選択します。
なお、夫が妻65歳以前に死亡した場合は中高年寡婦加算がもらえ、その後65歳からは経過的寡婦加算がもらえるのですが、妻が65歳以降に夫が亡くなった前提ですから今回は算定に含めませんでした。

どちらにしても夫・妻が健在(且つ妻は65歳以上)の場合よりも少なくはなります。
ただどの程度減額になるのかは夫と妻の加入歴次第で変わります。

これ以上のご回答を知りたい場合は、まず夫、妻の加入歴をきちんと調べるしかありません。
年金制度は複雑ですから、夫、妻の生年月日と加入歴がわからないと金額的にも相当異なる答えが出てきてしまいます。
なお本人以外が社会保険庁に問い合わせても教えてはくれません。(当人がいけない場合は代理人となりますが、詳細は社会保険庁に問い合わせて下さい)

では。

年金は簡単に言うと、老齢基礎年金と老齢厚生年金の2本建てになります。(会社員の経験がある場合)
なお、公務員の場合は厚生年金の代わりに共済年金となりますが、どちらでも大きな違いはありません。

まず、現状の認識で考えますと、夫は最低15年(おそらく25年)以上は公的年金に加入していたと思われます。
妻も最低15年以上加入していたと思われます。

a)夫:69歳、老齢基礎年金及び老齢厚生年金を受給
金額がかなり少ないことから、厚生年金受給期間が少ない、国民年金未加入期間がある...続きを読む

Q中国はなぜ1つの標準時時間しかないのか?

中国はあれだけ国土が広大なのに1つしか標準時間が無いですよね、ロシアとかはいくつもあるのに。
アメリカやオーストラリアでさえいくつも標準時間があって
国内で数時間は時差がありますよね
首都の北京に合わせてあるってことは
西側は日の出も日の入も早くて活動しにくいとか問題があるのですか?
あるいはテレビも北京や上海と同じ番組を見るので夕方にニュースを見るとかができないとかはありそうですけど。
なぜあれだけ巨大な国土で東西に広がっているのに標準時間が1つしか無いのですか?

Aベストアンサー

 端的な理由は中央集権的な社会主義国家だからですが、
それ以外に地理的な理由もあります。

 中国は人口 13 億人のうち、海から 1000km 以内の範囲に
10 億人が暮らしています。重慶や成都がある西南地区も含め
れば 12 億人になり、実は中国人口のほとんどは、東はハルビン、
西は成都の範囲にほとんど収まってしまうのです。

 ハルビンと成都の経度差は、約 22 度です。実はこの数字は
根室と石垣の経度差にほぼ等しいんですね。経度 15 度が時差
1時間に相当しますから、中国の主要都市では東と西の時差は
実は 1.5 時間程度しかないのです。

 となると、日本でも札幌と福岡では日の出が1時間以上違い
ますが、日本国内が統一時間であることに誰も困っていないの
が実情ですよね? 同様に、中国も国内に時差を設ける合理的な
理由がないと考えて差し支えないと思います。

 中国は東西にものすごく広く見えますが、実際には成都より
西の部分は人口が希薄で、時差が広がっても影響はほとんど
ないんです。だから、時差を設けて面倒くさくするより、全土
統一時間のほうが簡単だし、現実面でも困らないというわけです。

 これに対し、東西両海岸に大都市のある米国は時差がないと
困ります。カナダもバンクーバーとトロントでは離れすぎていま
すし、ロシアも人口の多くがウラル山脈より西に偏在している
とはいえ、東ロシアにもノボシビルスクやイルクーツク、ナホ
トカやウラジオストックといった主要都市があります。

 端的な理由は中央集権的な社会主義国家だからですが、
それ以外に地理的な理由もあります。

 中国は人口 13 億人のうち、海から 1000km 以内の範囲に
10 億人が暮らしています。重慶や成都がある西南地区も含め
れば 12 億人になり、実は中国人口のほとんどは、東はハルビン、
西は成都の範囲にほとんど収まってしまうのです。

 ハルビンと成都の経度差は、約 22 度です。実はこの数字は
根室と石垣の経度差にほぼ等しいんですね。経度 15 度が時差
1時間に相当しますから、中国の主要都市では...続きを読む


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