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http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/joho/toki.htm

上記に江戸時代の時間についての説明がありました。

午前12時から2時までが子の刻となっています。
干支は子から始まりますから、午前12時に1日が始まる(日付が変る)と考えられていたのかと思いますが
この考え方はあっていますか。

また
1日を2時間ごとに区切り干支で表現する方法が始まったのは戦国時代である。
とありますが、それ以前の1日の始まりはどうだったのでしょうか。

A 回答 (3件)

先の回答者さんの補足になりますが・・・



天智十年四月二五日=西暦671年6月10日に、天智天皇が漏刻を設置して鐘を撞いて時を知らせた頃から、一日を十二支で区切って・・・という考えはあったようです。

平家物語の中の有名な「扇の的」のところで、
「頃は二月十八日、酉の刻ばかりのことなるに・・・」
と出てきますから、鎌倉時代の初期には、一般的に使用されていたのでしょうが、それが正確な時刻かというと、そうではなく、陰陽師や暦の計算をする専門的な人以外の一般庶民の感覚は、一日を昼と夜の二つに分けて、それぞれをまた六つに分けて・・・という季節によって変動するあいまいな物だったようです。

そして、一日の始まりは、夜明けで、夜中の12時に日づけが変わるという感覚はなかったと思われます。

その事が、見事にわかるのが、あの赤穂浪士の討ち入りです。
今も、元禄十五年の12月14日が討ち入りの日と称されますが、あれは、厳密には12月15日の午前4時の出来事です。
しかし、まだ夜明け前なので、12月14日と称され、今も、そのままの日づけで言い表されていますよね。

つまり、江戸時代でも、一般庶民の一日の始まりは日の出とともに・・・という事ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

時間についての文献まで教えていただいて、感激です♪
討ち入りは今まで12月14日だとばかり思っていましたが
15日だったとはビックリです。

今後古典を読むときには注意したいと思います。

参考になりました。

お礼日時:2009/03/26 09:42

暦を作っている人とか、天文を研究している学者などは真夜中に日付が変わると考えていました。

しかし正確な時計がなかったのでその瞬間はわかりません。単に理論的なものだったようです。
庶民にとっては夜が明けたら翌日というのが一般的です。ですから昔の人の日記などを読む時には気を付けねばなりません。深夜の出来事については日付が1日違うことがあるからです。例えば「六日の八ツ刻(深夜2時頃)に・・」と書いてあったとします。夜明に日付が変わるわけですから、この記事は7日の午前2時を意味している場合があるからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

なるほど、日記を読むときには注意が必要なのですね。

現在でも一日のスタートは朝、という感覚がありますし
夜明けを一日の始まりととらえるのは自然なのかも出すね~。

昔はカレンダーというものがなく、
月をカレンダー代わりにしていたということです。

月が輝いて見えるのは夜なので
もしかしたら夜に一日が始まったのかなあ、などと考えていました。

参考になりました♪

お礼日時:2009/03/26 09:38

http://www.bao.go.jp/stardb/his/data/his0113.html
回答ではないですが、これによると、時刻を干支で区切って表示したのは飛鳥時代からとなっている。
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この回答へのお礼

ありがとうございます♪

ホントですね!
日本書紀などを見ると年代など干支で表しているので
時刻も干支で表していたんじゃないかなあ、と私も思っていました。

時間について記された史料をひろってみるといいのでしょうが・・・


参考になりました。

お礼日時:2009/03/25 14:49

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