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18世紀は産業革命が始まり、西洋の優位が確定したように言われてますが、中国では清の雍正帝、乾隆帝の時期であり、特に乾隆帝は外征に負けたことがなく、ロシア帝国とも対等以上の条約を結んでいるほどです。
清と言えばアヘン戦争でイギリスにボロ負けしている弱いイメージですが、それは19世紀の話であり、18世紀までは西洋列強と同格以上の力を持っていたという理解でよろしいでしょうか?
当時の強国といえばイギリス、フランス、ロシアが挙げられますが、最強国家は乾隆帝の頃の清ではなかったでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 康熙、雍正、乾隆帝の時代は清の最盛期です。
    清が最も富強を誇っていた時期は18世紀ですが、その時期にイギリスが本気で攻めたなら、あっけなく植民地にされたでしょうか?
    私は、清どころか徳川幕府の日本さえも草刈り場にできなかったと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/29 21:25

A 回答 (2件)

うーん、むずかしく、興味のある質問ですね。


もし、乾隆帝または康煕帝の寿命が無限であれば100年くらで全世界を統一した
ことだろうと思います。彼らは軍事能力も高いですが、それよりも高いのは民政能力で、
占領地には比較的自由な宗教、自治、教育の権利を与えています。かつ、高い軍事能力と
反乱に即応する機敏性を備えていたため、周辺国はほとんど戦わずして傘下に入っています。
度量衡や文字を統一し、いまだに東洋の人々に与えた影響は大きいです。

ただ、ヨーロッパではもうすぐ後に砲戦と駆け引きの天才であるナポレオンが登場します。
乾隆帝はそれほど強国と戦った訳では無く、ロシアといえども当時は二流国です。
それに引換えナポレオンはヨーロッパの強国のほとんどを破っています。
また、イギリスの海軍力は伝統的に強力で、ナポレオンや乾隆帝の比ではありません。

私の結論としては最強国は総合的に見てフランスだったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

フランスの全盛期と清の全盛期は、実は重なっているんですね。
ナポレオンはフランス史上最強クラスの君主、一方で乾隆帝も長い中国の歴史の中で最強クラスの皇帝。
どちらも甲乙付け難いです。
また、清は乾隆帝、康熙帝の2名の名君がそれぞれ60年以上君臨したというのも大きいと思います。

お礼日時:2015/03/24 01:25

>当時の強国といえばイギリス、フランス、ロシアが挙げられますが



二国足りません。

イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアです。
欧州5大国と呼びます。



>18世紀の最強国家はどこですか?

イギリスです。

18世紀には欧州5大国がアジアに優越します。アジアとは、アジアの四大帝国のトルコ、ペルシャ、インド、清の事です。欧州5大国は世界のトップ5で、すべてヨーロッパに集中している事になります。

そして、そのトップ5の中で最強を決する戦いとなったのが、7年戦争です。
イギリスは7年戦争で覇権国になりました。

その大勝利は、1763年のパリ条約に対するチャタム伯の演説「我々には世界征服をする権利がある」という威勢からも伺えます。

その後イギリスは、「海主陸従」「海洋重視」を行い、アメリカとインドにあるフランスの植民地を見事奪い、ヨーロッパ大陸では、プロイセンに軍資金と少量の陸軍を援助し、フランス、オーストリア、ロシア、と果てのない殺し合いをさせ、ライバルを疲弊させる事に成功します。

ライバルを疲弊させ、自分は安全に海外の美味しい植民地を掻っ攫う事に成功したイギリスは、大英帝国の覇権を確立します。


そして、その欧州5大国は、アジアの四大帝国のトルコ、ペルシャ、インド、(清はこの時点では野心の対象外)を草刈場にしていました。






>中国では清の雍正帝、乾隆帝の時期であり、特に乾隆帝は外征に負けたことがなく、ロシア帝国とも対等以上の条約を結んでいるほどです。

その、「対等以上の条約」とは、1689年ネルチンスク条約の事ですか?

これは、雍正帝、乾隆帝の時代ではなく、康熙帝の時代です。
そして、1689年当時は「ロシア帝国」ではなく「モスクワ」です。

1689年当時は「ロシア帝国」はありません。当時のロシアは小国で、「モスクワ」と言った方が適切です。ロシアがヨーロッパで大国と認められるのは、1721年のニシュタット条約で大北方戦争が終結し、バルト海の制海権を確保してからです。この時から、国号を「ロシア帝国」に改名し、ヨーロッパからも大国として見られるようになりました。

しかしそれでも、欧州5大国のなかでは、ロシアは「最弱」でした。



それとついでに言うと、「対等以上の条約」が根拠で、その国以上の国力と言う主張はトンデモです。

榎本武揚がロシアと、1875年千島樺太交換条約という対等条約を結んだから「この時点で、日本はロシアと対等の国力だった」というような主張と同レベルのトンデモです。

1689年ネルチンスク条約は、清の国力よりも名君である康熙帝の外交力の賜物でしょう。
勿論、榎本武揚もそうです。





参考文献
『嘘だらけの日露近現代史』
(著)倉山満
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