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「神道は宗教ではない、日本人の倫理だ」と言われたり、「神道は祖先への尊敬の念の自然な現れだ」と言われると、確かに納得はしてしまうのですが、論理的には脆弱な気がします。

神道が宗教か否かの問題は何も現代の靖国公式参拝問題に始まったわけではなく、それこそ明治維新のはじめからの問題のようです。
不平等条約の撤廃のためには信教の自由を憲法で定める必要があったが、神道とキリスト教を併置するわけにはいかないと。

そこで神道は宗教ではない、という神道非宗教論が唱えられたわけですが、新書や解説書を読むと神道が宗教ではないとされる理由は以下の三点です。
1、神道は祭りの儀式であって、「宗教=布教・葬式」ではない
2、神道は祖先を崇拝しその祭祀に従うことであってあくまで国家の掟である(or 先祖への自然な愛である or 自然な愛国心である)
3、神道は国家興隆の源であって、個々人が選択するような宗教とは格がちがう。

明治政府は「宗教=布教・葬式」と定義していたようで、それならば確かに神道に宣教師はいませんが、しかし神道行事は布教的効果も否定できないと思います。
そして祖先への自然な畏敬も、祖先の魂という観念が多かれ少なかれあってそれを祀り、自分自身や家族、日本国を見守ってもらおうというものだと思います。愛国心の表れとはいえ、神道的な礼拝は死者についての観念を含んでいるのではないでしょうか。
それとも例えば靖国参拝は「英霊を慰める」という側面は全くなくて、死後の世界など全く関わらずに単なる慣習・風俗として行われていると言えるでしょうか。

わたくし個人は、神道的な観念に非常に愛着を覚えますし、靖国問題も出来るだけ良い形で解決して欲しいと願っていますが、靖国参拝は宗教行為だと言われて調べてみても、確かに納得はできませんでした。

神道は宗教であるという方からも神道は宗教ではないという方からもお知恵をお借りしたく思います。

A 回答 (9件)

日本神道には教祖もいなけりゃ経典もなければ戒律もありません。

あるのは儀式くらいです。

宗教というのは、「我々の教えは、こういうものである」という経典があります。仏教にはお経があり、ユダヤ教には旧約聖書。キリスト教には新約聖書でイスラム教にはコーランがあります。神道にはそういうものがありません。
また、宗教には戒律という決まり事があります。十戒が有名ですが、イスラム教では豚を食べちゃいけないとか、偶像崇拝はイカンというようなその宗教内で統一された決まり事です。
しかし、そういうものもありません。個々の神社での決まり事というのはあっても、全体での決まり事はありません。
仏教には阿弥陀様やら菩薩様やらお地蔵様やらいらっしゃいますが、教祖としての仏陀(仏様)がいます。キリスト教にイエス。イスラム教にムハンマド。ユダヤ教にもモーセがいます。神道にはそういう人もいません。

「教え」がない以上、宗教かと問われると難しいところがあると思います。

日本神道には決まりがないので、何でも神様にしていいんですよ。これは私の神道の好きなところですけどね。例えばお稲荷さんというのは実は実態がよくわかってなくて、多くの場合は狐が象徴になるのですが、要するに動物でもいいわけです。靖国神社はご存じの通り戦死者が全員神様です。挙句の果てに、プロ野球の横浜ベイスターズが優勝しそうだったときは、「大魔神社」というのが作られました。そのご神体は当時不動のストッパーだった佐々木主浩選手(当時)で、つまり生きていた人でした・笑。大魔神社は神主さんがやってきて詔をあげたので、ちゃんと形式を踏んだ神社です(裏山のお稲荷さんくらいの格付けはあります)。
ま、私個人はこういう「いい加減さ」が好きですが、一神教の人たちからしたら「ちゃんとした教えもへったくれもない。宗教として成立してない!」ってなるような気はしますわね。
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神道は神ながらの道ですから、宗教です。



ただ、次のような問題があります。

1,神道はキリスト教のような創唱宗教ではなく、 
 自然発生的な宗教である。
 信者であるとの認識も不要の宗教で、これを
 法でどうのこうのと規定するのが妥当か
 問題がある。

2,憲法の政教分離にいう宗教に神道という宗教がが含まれるのか。
 欧米の政教分離は国家権力を宗教から守るための
 モノとして制定されたのだが、これを神道の場合も
 そのまま適用してよいのか。


つまり、神道は宗教ですが、それは憲法の政教分離で
規定する宗教ではない、というのがワタシの考えです。
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日本の神道はあまりに日本文化と密着しすぎているので、日本に住んでいる日本人が神道を宗教と認識できないのはやむを得ない面があります。

「日本」と「神道」の距離が近すぎるのです。

しかし、アメリカ大陸に神社があり、そこの神主はアメリカ人だと言うことを見せつけられると、がぜん、神道は宗教であると言うことが実感できるのではないでしょうか。

アメリカ椿大神社
http://www.tsubakishrine.org/jp/index.html
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神道には皇室神道、神社神道、教派神道とあります。

皇室神道は宗教とは言い難く、教派神道は明らかに宗教です。神社神道が一般に神道と言われます。多くの神社は戦後作られた神社本庁の傘下で宗教法人と認識され、宗教法人法の保護にあります。そうでないと固定資産税が免除されません。その意味で神道は法的には仏教やキリスト教と同じ取り扱いになっています。したがって、現在では宗教法人としての特権を受けておきながら、神道は宗教ではないとの主張は成り立ちません。

江戸時代以前は固定資産税と言う国税はないのです。大名は幕府に税金を支払っていません。幕府も大大名で中央政府ではないのです。武士が土地を所有していても税金を支払っていません。百姓は土地を借りているので年貢米を大名に納めているのです。神社や寺社の土地は武士と同じく所有しているので税金を納めていません。そして武士である奉行の支配下にあったのです。

王政復古の明治政府は神道を仏教より高い位置に置いて国民全員が信仰するようにしようとしました。それには宗教にすると各宗派のある仏教と混同されるので、神道を宗教としないことで格上げにしたのです。江戸時代では禅宗の臨済宗が武士の宗教として格上であったからです。明治政府の解釈が伝統的なものではなく、国家統一に神道を使おうと言う特異なものであったのです。

靖国神社は明治政府の国策で作られた神社で神社神道とは異質です。前述の神社本庁にも入っていません。戦死者を祭る目的ではあるが、暗殺された陸軍創始者の大村益次郎を祀ったり、先の大戦で戦犯とされた人達も祀っています。その意味で日本軍の功労者を祀っていることが誤解を受けるのです。私は親族や親戚が一人も祀られていないので参拝したことはありません。
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日本に浸透している神道は、神社と密接なのではないか。


また、その神社に祀られているのは過去の天皇などの歴史上の人物であり、
それは国家側が推奨する日本の歴史を踏襲するだけのモノではなかろうか。

この仮定が正しければ、神道は国家統治ツールに過ぎず宗教とは言えない。
現世利益が人間の最優先すべきモノなのに、何故死者ばかりなのだろうか?
神道に対する俺のいちばんの疑問はそこにある。

また、靖国神社に関して言えば、これはいちばん愚かな物としか言えない。
英霊? 馬鹿馬鹿しい。戦略も戦術もろくに考えずにノリで戦争をやらかした
愚かな前例を直視せず、死者を英霊と崇める事で綺麗事(お為ごかし)を
並べ、事の本質から目を背けているに過ぎない。死者を英霊というならば
もっと真面目に戦争しろよと言いたい。

無宗教というならば靖国にこだわる事もおかしいし、戦争に対する反省も見られない。

まあ、靖国神社に関して言えばあきらかに宗教ではないので度外視するが、
キリスト教にしても歴史的に見れば、国家を統制するためのツールに過ぎない。
まあ、信仰者の全てを否定する気にはなれないが、神道は広義的に見れば
宗教と言ってもいいぐらいの認識でしかない。

ただ、宗教そのものより、信仰を持った人間がどう行動するか。
そこに価値が生まれる。ただ、それだけの話ではないかと。
寧ろ宗教とは何なのか、その定義を見直す事こそがこの投稿では
重要なのかと思います。
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戦前の日本政府は


教派神道ではない、
伊勢神宮以下の神社は
「宗教でなく、日本人共通の習俗」とし。

内務省(国家)が管理する国家神道(宮司神主巫女は官吏公務員)
としてました。
 いささか無理があると思います。

しかし、靖国神社をクリスチャンの大平元首相麻生元首相が参詣してるように、
非常なほど、寛容で、ゆるやかな宗教だと思います。
 すべての人類が、高天原の神々の直接の子孫であるという
記紀の思想は、世界は一家人類は皆兄弟という
日本人本来の世界観の礎です( ^^) _旦~~

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
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論理的には脆弱なのは止むを得ません。


まず神道非宗教論というものを議論しようとしますと、「神道」ってなによ、「宗教」ってなによ、という質問に答える必要が出てきてしまいます
これに答えることは一筋縄ではいきません。
議論に先立ち、オレは「神道」とはこういうものと考える。「宗教」というものはこういうものだと考える。という、まず自分が使う言葉の定義から始めなくてはなりません。
平たくいいますと、現在、この二つの言葉には明確な定義がありません。
結果として議論百出となり到底結論には到達しません。

宗教という言葉は明治になってから英語のReligionを翻訳する際に新たに作られた言葉です。
従いまして日本語としての言葉の定義が極めて曖昧です。
突き詰めていくとReligionという外国語の外国での定義に頼ることとなります。
ここで厄介なのがReligionという言葉が長いことキリスト教圏で使われていた結果、キリスト教の唯一絶対神の概念が色濃く残ってしまっています。
更に、キリスト教に対して、多種多様な民族宗教などは宗教ではない、とする意図を持った定義も加わりました。
教義、聖典を持たないものは宗教ではない、という考え方がこれです。
現在でもこのキリスト教圏での概念に基づいて「宗教」なる言葉を考えられる方が沢山おられますが、残念ながらキリスト教固有の概念を咀嚼理解されておられないために、欧米の方の概念ともズレが生じてしまっています。
このズレに気付かないために往々にして欧米の方とも誤解を生んでいます。
このような事態に対して学問的に定義をし直そうとしていますが、宗教の定義は宗教学者の数ほどもあると言われているような状態です。
現在も各人各様の解釈といいますか理論に基づいて見解が述べられたり議論されます。

このような状態で習俗的行為と宗教的行為を峻別しようとしても結論がでません。
政教分離と定めても政教の「教」はなにかという問題が常に生じます。
もともと峻別が難しい言葉を明治政府が無理やり定義して、以降昭和初期まで時々の政府が運用したために今日の靖国神社問題のような事態が生じています。

一方で日本では、仏教伝来直後から仏と神とを峻別して扱ってきませんでした。
平安時代以降はむしろ積極的に統合といいますか混ぜ和せてしまいました。
いわゆる神仏混淆とよばれる状態です。
千年以上続いていたこの考え方を明治政府は無理やり分断しました。
いわゆる神仏分離令という通達です。
この結果修験道は解散の止む無きに至ってしまいました。
現在関係者の方々が復活に努力されておられて、関係寺院へは沢山の方が観光をかねて参拝されています。
観念的に分離できないものを人為的分離して、それに政教分離という定義が曖昧な政策を遂行しようとしたことで混乱が生じ、これを政治的に収集しようとして国家神道とよばれる政策をとりました。
この政策の理屈付けに生まれたのが神道非宗教論です。

更に厄介なのが、神仏混淆の状態のなかで室町時代に吉田という神官が唱えて後に吉田神道と呼ばれる考え方加わったことです。
この吉田神道が現在の人達が神道という言葉を聞いたときに漠然と思い浮かべるイメージの原型です。
当然室町時代以前の神道といいますか日本古来の考え方や受け取り方とは異なります。
ここで明治政府は王政復古という政治スローガンを正当化するために、無理やり室町時代以降の吉田神道なるものの考え方とそれ以前の考え方を一緒にしてしまいました。
このことも現在の人々の考え方に影響を及ぼしています。

靖国神社の問題は、国内のゴタゴタは別としまして、中国や韓国などの儒教圏の人達の誤解が元になっていることに注意して下さい。
ここで厄介なのが、日本人が儒教と考えている「儒教」と中国や韓国で引き継がれてきた「儒教」とは大きく違うといいますかズレがあります。
中国や韓国で引き継がれてきた「儒教」の考え方の中核には祖霊崇拝があります。
日本はこの部分は仏教が引き受けましたので所謂日本儒教には含まれていません。
中国や韓国で引き継がれている「儒教」では祖霊をこの世に呼び戻して一緒に食事をすることが重要な供養であり孝であると考えます。
現在の韓国でも祖先を埋葬した墳墓の前で飲食を楽しむ習慣があります。
このような生活感情のある人から見れば靖国神社を参拝するのは旧日本軍をこの世に呼び戻す行為と受け取ります。
このような感情的な誤解が含まていますので注意して下さい。

靖国神社に参拝されてことはおありでしょうか。
現在は見受けられませんが、昭和の高度成長期までは、ウイークデーの日中人気のない拝殿の板の間に老夫婦がジット座っておられる姿がよく見受けられました。
又本殿の裏側には各部隊の生き残りの方がそれぞれ植樹されていて、その幹にバラバラになった戦友に連絡をくれるように連絡先がかかれた札が付けられていました。
いずれにしましても、日本の長い歴史のなかで、一時期人々の心の拠り所になっていた施設であったことには間違いはありません。
それを崇拝するか否かは個人の考え方の問題です。
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西洋圏の多くではキリスト教が倫理の担い手であって、宗教が精神の根元にあるということ自体、普通に出てくる理論だと思います。


自分達の信じている(受け入れている)ことは当たり前で、他の国の文化は差別的な存在というのは、今時ありえない考え方だと思います。

宗教という言葉自体に差別的要素が含まれているように読めますね。実際にはそういう見方が多いとは思いますが。

天照大神をはじめ八百万の神々に拝む姿はどうみても宗教行為です。古事記を始めとした神話がその背景にはあるはずです。海外から見ている人の一部には日本人全員その信者のように見えているでしょう。

日本では宗教の問題点ばかりが話題になりますが、何十億人も支持するものに対する評価が島国故に偏見に満ちているのです。

日常の中で、食事に対して(神)に感謝する、できるだけ隣人愛を実践する、神が見ているので悪いことはしない、お陰さまと言って謙遜する、といったことは宗教を起点にしています。
神様が見ている、恵みを与えてくださっている、という信仰です。

日本では宗教を蔑視するがゆえに、モラルの低下、無気力無関心、精神病の多発が進んでいるのです。

話はずれましたが、日本人の宗教に対する考え方自体に偏見が多いことを書かせていただきました。
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いや単に、宗教と言うのは一つにまとめりための「教義」がなくてはなりません。

「宗」は基本や基盤となる中心を意味し、「教」は文字通り教えや教義、決まりごと。
神道には教義が存在しないので宗教であるべき要件を整えていない・・それで充分です。論理的も何もありません。

また幾つかの定義が示されていますが、宗教学者、岸本英夫による定義「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり、その営みとの関連において神観念や神聖感を伴う場合が多い」と言うものをあげておきます。

ただし一般に「神道」と言うと明治時代に発足した「神社神道」をさします。今では神社本庁が受け継いでいます。このほかに明治政府が神道による教育を断念したときに国の庇護から外れた神道があります。これらには「教義」があります。代表的なものが「教派神道」と呼ばれるグループです。このほかに金光教や御嶽教、出雲大社教、天理教、黒住教などがあります。

近年といっても象は25年頃から神社本庁にも国家神道復古の“きな臭い”動きがあり、神社への締め付けや政治連名の活発化などが起き始めています。とりまとめが簡単なんですよね、教義があったほうが。自分たちの強制力も増しますし。でもそれは神道では堕落への道です。
最近の「神社の常識」「神社のマナー」などもこの動きに同調するものです。

明治時代に定められたのは神職に対する祭事の作法であり、それに伴う昇殿参拝者の動きだけです。
私たちが日常やっている参拝は「自由参拝」といって“定められた”作法ではありません。せいぜい手水の方法、拝礼の順序、玉串の所作だけです。それ以外はありません。今常識とかマナーとか言っているのはすべて俗説でしかないのです。

それが神社本庁までがさも決まりごとであるかのように言いふらしている。これが問題なのです。神社神道の教義化の始まりです。
ただただ神に使え、お陰さまでお参りをするそれ以外に神道の決まりはありません。否それすらも「しなければならない」事ではないのです。
今後は神道も宗教となってしまうかもしれません。そのときには再び戦前に戻るやも知れません。

神社神道に関しては有名な言葉があります。
『神道は一般的な宗教の概念だけでは捉えられない、わが国の歴史と伝統とを踏まえた道徳、倫理、秩序、生活規範など、風土・生活に根ざした広い意味合いを包含しています。
神道は日々の生活の中で、自然との調和を図り、また祖先や人々と共に生きていく、という日本文化の根本をなすものに深く関わりを持つものであり、わが国の、或いは世界の諸問題に我々が相対していく上で、多くの示唆を与える事ができるものです。』(平成13年(2001)、高円宮憲仁殿下のお言葉より)
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