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日本人はいつから宗教アレルギーなのですか?

原因は何ですか?

A 回答 (11件中1~10件)

日本には大昔から山には山の神様、海には海の神様、川には川の神様、森や大きな木や石などや風や雷にも各々神様が宿るとして自然に対して神様として崇めている民族です。


こうした神様は多数いるという多神教的な考え方(八百万の神様)を昔から根底に持っています。

その為大陸から仏教が入ってきた際にも、如来や菩薩や観音といった多数の神様的な崇拝対象がいる仏教はスンナリと日本には受け入れられたのだと思われます。
それに比べてキリスト教やイスラム教は唯一無二の神様を崇拝する“一神教”であり、「他の宗教(神様)は認めない」という考え方になる為、一般の日本人の考え方に馴染まない感覚があるのです。

仏教でも例えば日蓮宗は「日蓮を教祖(神)として崇拝し、他の仏教の宗派や他の宗教は全て間違っている」という教えである為、日蓮宗や日蓮正宗(創価学会等)に対して一般の日本人は敬遠しがちです。

宗教とは「心の拠り所」というものだと思います。
日本人は新年になると初詣に行き、子供が産まれると氏神様にお参りし、子供の成長に従って七五三詣りをし、入試の際にも合格を祈ってお参りし、結婚や葬式といった儀式の際にも何らかの神様(仏様)の前で祈願しているのが実情です。

このように日本人は宗教にどっぷり浸かっている民族です。
“宗教アレルギー”と感じられるのは、一神教を信じている諸外国に対して宗教感(宗教に対する考え方)が異なるということかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お参りや結婚式なども、本来は宗教儀式ですが今は単なるイベントですよね。
キリスト教が入ってきたころから日本人は違和感を感じていたようなので、
昔からあることとして理解できました。

お礼日時:2012/07/12 01:25

最近だとオウム真理教の事件からと言われますね


あれから宗教団体(特に新宗教は)
危ないのではと疑われるようになりました

疑うのは無条件で信じるよりは良いと思います
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この回答へのお礼

やはりオウムの後ですか。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/12 01:17

文科省の調べによると、神道の信者は1億1千万人です。


仏教は9千万人です。
どこが宗教アレルギーなのでしょうか。

質問者さんは、宗教というとキリスト教の様なものしか
念頭に無いのではないですか。
宗教にも色々あるのです。

例えば、日本で一番信者の多い神道ですが、これは教義も
体系もありません。
入信の儀式もありません。
それどころか、信者であるとの自覚すら不要という宗教
です。
だから、1億1千万の信者がいると言われても、ピンと
来ないのです。
こういう宗教もあるのです。

逆に言えば、こういう宗教だから、キリスト教のような宗教らしい
宗教は胡散臭く感じるのです。
愛だ、なんて言われるとお尻がかゆくなります。
神が絶対善で、悪魔が絶対悪だ、と言われてもオカシイと感じます。
善悪など、時代や立ち位置でコロコロと変わるものであることを
日本人は知っているからです。
そもそも、神道は布教活動をやりませんから、海外にまで布教に
来るキリスト教など信用できない訳です。

日本には、この、神道という独自の宗教があるため、仏教も
儒教も、神道的に変容されて受け入れてきました。
例えば、仏教には先祖を祀るという教義はありませんが、日本では
仏教は専ら先祖供養の宗教になっています。
儒教は、本来は能力主義を標榜する教えですが、日本では世襲の
大義名分に利用されています。

そういう訳で、質問者さんの質問は、いつからキリスト教アレルギー
なの、という質問だ、と解釈します。
答えは、太古の昔からです。

ちなみに、参考までにイエズス会と日本人の対話討論の記録を
書いておきます。
〇「信じれば救われる? なら、先祖は救われないのか。
  それじゃ困る」
 「・・・・・・・」
〇「善悪など、そんなに明確に分けられるものじゃないだろう」
〇「万物は神が創った? なら神は誰が創ったのだ? 神は自ずから存在する?
  なら、万物も自ずから存在するとして何が問題なのだ。
  キリスト教は形而下学はすごいが、形而上学は子供みたいだ。
  あんなお伽話を信じろというのか」(新井白石)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

宗教がタブー語っぽくなったのは
オウム事件が決定的だったと思いました。

お礼日時:2012/07/12 01:36

創価学会 壮年部の者です。



>日本人はいつから宗教アレルギーなのですか?

■鎌倉時代の僧・日蓮は、諸国(当時、日本国内における主な社寺)修学の後、『南無妙法蓮華経』を本尊とする独自の宗派を開宗しました。これは、当時の最高権力者:北条時頼に宛てた「立正安国論」にも有りますが、正しい“法”に帰依する事により、その国及び国民の安穏と幸せを確立させることを目的としたものです。
当時の※宗教的情勢は、天台宗、真言宗、律宗、禅宗等の他に、鎌倉時代の僧・法然が開いた称名念仏(南無阿弥陀仏を唱える事で、死後西方浄土に行ける)の思想が急速に広まっていました。そういった背景の世の中は、今の日本の様に“天変地妖”、“飢饉”、“疫病”、“戦”が絶えませんでした。その世の中を日蓮は、『南無妙法蓮華経』を持って救おうとされたのです。
しかし、鎌倉幕府は日蓮の諌めも聞かず、日蓮・信徒を徹底的に弾圧します。この背景には、鎌倉幕府の権力者と結びついた【他宗の僧等】の働きがありました。何故なら、日蓮に法論を挑んでも敵わない事を判っていたのです。それ程、秀才な高層だったのです。当時、寺は今の寺とは違い、修学する場所、要するに仏教を根幹とした“大学”とでも言いますか、多くの僧が就学している比叡山などは、今で言う“東京大学”的な位置づけでしょう。

これらの弾圧が、宗教に対する<始まり>の様に思います。

※また、上記で『宗教』と書きましたが、『宗教』という言葉が始まったのは、明治初期からの事です。西洋との国交を始める際に、“幕末期にReligionの訳語が必要となって”使われ広まったそうです。

■鎌倉時代から現代まで、宗教弾圧は有りましたが、近代においては第二次世界大戦当時、帝国軍により神札の供用が有り、反する者は治安維持法で逮捕・投獄されました。戦前から戦後、日本においては新興宗教が数多く発生しました。その中で、創価学会は日蓮正宗の信徒団体として誕生しますが、その元で“折伏(しゃくふく)”といって弘教(法を広める目的で布教、勧誘をおこなう)を進めました。さらには、公明党を立ち上げ、政治にも進出いたしました。これにより、信徒を奪われる危険性と議席を失う危険性のもとで、他の宗教団体や政党、ジャーナリズム等により弾圧が繰り返されています。
そして、多くの国民は“宗教的アレルギー”を抱くことになっていきます。


>原因は何ですか?

■鎌倉時代もそうですし、現代においても同じなのですが『“宗教”というものに対して人間は無知である。』という事が根本にあると思います。それは、鎌倉時代の権力者もそうですし、現在においても“宗教”というものに対して、キチンとした研鑽が行われていない、また、現代では宗教的教育はされていない(正しい事を教えないから、正しい知識・認識が無いのは日本国民全体として当りまえ)点にあるでしょう。
江戸時代以降、寺請制度により寺社の存在意義が大きく変わってしまいました。そして、それらは、形骸化し教義も薄れただ儀式のみに重要視されるようになってしまったのです。

※少しでも良いですので、多くの方が“宗教とは何ぞや”という事を、研鑽される事が望ましいと思います。

※※また、本来仏教は“人間の個人の価値・可能性”という事を説いています。お互いが一人の人間として、共に尊重しあり社会を形成するものです。であれば、本来の“正しい宗教的規範”があれば、いじめやいじめによる自殺等は全く起こらないでしょう。また、それをだいの大人が隠蔽するなんてありえません。これは、目に見えませんが、日本人が代々宗教を軽んじる中で起きている事だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

元々日本人は一神教ではないからそもそも難しいのだと思いました。

学校で道徳の科目なら小学校からありました。たしか週1クラスしかなかったのですが、人だけでなく、鉛筆などの物にも神様がいるから大切にしよう、というような事を教わったと記憶しています。

宗教的規範というとやり過ぎに思うのですが、道徳的規範なら親も学校ももっと教えるべきとは思います。

お礼日時:2012/07/11 22:39

 日本の中世には「起請文」とか「願文」と呼ばれる形式の文書があります。


これは「○○を行うにあたって私は誓い(あるいは請求)を立てます」との建前を踏襲する形式なのね。そしてその「誓約や請願」をどこに向けて立てるのかといえば、為政者である幕府や朝廷もあれば荘園領主であったりと「現実的に許認可を行うことの出来る立場にある人」が実際にはほとんどで、そこには「神仏」は飾り物的な意味合いしかないけれど、それでも当事者に何らかの不利益や不都合が生じた場合には「それ見たことか、天罰が下った」などとひそひそ話をされてしまうのね。
 一方では「神に対する誓い」というのは、当時の人々の意識としてこの世の法規範を越えたところにあると考えられている約束事なのね。それはどこの誰が作ったかは知らないけれど神の法だったり仏の法だったりすることもあって、中世後期から戦国時代にかけての一揆と呼ばれる示威行為を行う時や村掟といってその地域や地域に所属する人々のみに限定されて適用されるルールを独自に作る時などに作られる証文として具体的に作られたのね。それが簡略化された形が「水杯(みずさかづき)」などという行為にもなるのね。あるいは自分で立てた目標や誓い事が達成されるまでは好物を飲食したり封印する「○○断ち」など称し、目標に対して一心不乱に努力する姿勢を示すことにも当時の物の考え方が残っているのね。
 図書館に行って「國史大辞典」や「古文書学」の本で調べてみると判るけれど、その中に「午王法印」やら手形が文字の上に押されている気持ちの悪い古文書があるの。何か思い詰めて切迫感に駆られた感じがしてとても気持ち悪いのね。
 そういえばこんな言葉もあるのね。「神にもすがる」「神頼み」「神風」なんぞといって、実際にはありもしないけれど最後は目に見えない力や人知を超えたところにあるとされる力になぜか頼ってしまうのね。
 もっと古くなれば「盟神探湯(くがたち)」といって、煮えたぎった熱湯に身体の一部を浸けて、もし火傷しなければその人は嘘をついたり罪を犯してはいないことの証明になるなどの全く根拠レスな裁判方法もあったのね。物理的にみれば全くの嘘デタラメで下手をすれば生命の危険を伴うにもかかわらず、なぜこんな無謀なことをしてまで神という存在を意識したのかは学問の世界でも論叢が行われているのね。
 そうそう「祟り神」といって、政敵によって政界から抹殺された人物が怨霊となって自らを貶めた相手に復讐するなんぞという物騒な話もあるのね。これは奈良時代の末期あたりから平安時代そして鎌倉時代の初頭にかけて観られる現象で、有名な話として藤原時平に対する菅原道真や桓武天皇に対する早良親王などの話があるのね。殊にこの菅原道真は当時の人々にとって最も恐ろしい祟り神だったらしくて、京都御所に落雷が落ちて炎上したり、それ以外にも疫病が流行ったりとか災害が続いたりして、それらが全て菅原道真の祟りだとの噂がたち、仕方なく彼を丁重に祀ったのが京都の北野にある北野天満宮だといわれているのね。
 だから日本人にとって決して「宗教アレルギー」に相当するものはないともいえるけれど、個人的には創価学会なんかはやっぱり胡散臭い団体だと思う。何年も顔を合わせていない友人からある日突然に電話がきたりしたら用心するに限る。そして少しでも批判しようとするならば上役みたいな人を連れてきてなんだか訳の分からない講釈や説明をして自己満足して帰って行く。全く時間の無駄以外の何物でもないと思うのね。それでもあの人達は何だか訳も解らずに一つの価値観に固執して他を全て排除してしまういや~な考え方をしても平然としていて、それが近代的な思考様式からみれば信じられないとなってしまうのね。

※残業続きで少しアタマガ疲れていてこの様な表現になってしまいました。失礼をお詫びするのね。
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多神教で「なんでもあり教」の信者だから、ある特定の宗教に縛られるのが嫌なのですよ。



いつからこんなのになったのかというと、仏教が入ってきたときに神仏習合して仏教も神道も並立しちゃったときからそうなのだと思います。
戦国時代に日本に来た宣教師たちもキリスト教を教えるとみんなニコニコして聞くから最初は「なんて聞き分けのいい民族なんだ!」と感動するのですが、「いいか、他の宗教を信じちゃダメだ」と言い出すと突然「えーそんならキリスト教やです」ってなるって嘆いていたんですよ。
日本人は、いろんな神様と乱交したいんです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

キリスト教は他の宗教を信じることを許していないのですか?
「えーそんなら嫌です」って大昔から神道の日本人ならそう思いますよね。

確かに新道と仏教が一緒になったのが始まりに思えてきました。

お礼日時:2012/07/10 23:49

日本の宗教は「国家」です。

言い換えれば権力者。
明治維新後、国が神道を国の宗教とすると決定したので、廃仏毀釈運動がおきました。
戦前は「国家神道」が当たり前の状況で、これにアレルギーはありませんでした。

つまり、国家が○○教を国の宗教とすると決定すれば、日本国民の多くは従う可能性が高いのです。
これに気がついて、実力行使に打って出て、失敗したのが×原×晃です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
廃仏毀釈運動なんて知りませんでした。
織田信長の討ち入りのように、戦国時代ならまだあり得ると思うのですが、
そんな遠くない昔に国が暴力や権力でお寺や仏像を破壊したり、信じられません。

失敗したその人に関しては、そのような意図だったのですか?
輪廻転生で、現世で悪いことをすると(自分の気に入らない人達)、後世で不幸せになってしまうから、これ以上悪いことができないように排除した、等のコメントをどこかで読んだ記憶があります。

お礼日時:2012/07/10 23:08

大まかに言うと、GHQの【神道指令】により


日本の国家神道が崩壊したとされているようです。

近代の宗教アレルギーは、
一部の新興宗教が信教よりも利益を追求し過ぎた為
【宗教・新興宗教・胡散臭い・身ぐるみ剥がされる・洗脳・しつこい・鬱陶しい=関わりたくない】
と言うロジックになっているのではないか?
と思います。

※親戚の葬式の時に、某学会が押しかけてきて騒ぎになった事が有りました。
入信している方から見れば正当性が有る行動なのかも知れませんが、
外部の人間から見ると、彼らは異常としか思えませんでした。


しかし…正月にはお参りに行き、お盆には先祖の墓を参り…
クリスマスには西洋の神様を有難がり…

決して、日本人自体が宗教に対してアレルギーを持っている訳では無いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
国の力は凄いというか怖いですね。

宗教アレルギーという意味は、例えば普通の友達同士の会話で"宗教"という言葉を発する自体、タブーになっていることです。
もし誰かが宗教の話をしたら、友達の間で噂になる、そんな意味です。

日本人にとってお参りなどは昔からの決まり、(深い意味はなく子供のころからそうだから) 特にクリスマスなんて単なるイベントで宗教なんて無関係です。お墓参りは違うと思いますが、神社やお寺巡りは大体観光です。

宗教=その某学会のような人達、という概念があると思うのですが、そういう異常と思える団体が会員数を伸ばし、事件が起き、一般の悪いイメージが広まり拒否反応に繋がったのではと思いました。

お礼日時:2012/07/10 23:32

宗教アレルギーということはないと思います。


質問者さまも亡くなったら、どこかしらのお寺の僧侶なりを呼んで葬式をすると思います。
結婚されていないならば、いずれ教会であれ神社であれお寺であれ式を挙げると思いますが、これも宗教とつながっていますね。
アレルギーということではなく、日常的に宗教と接する機会が少なくなっているので意識しないということでしょう。
冠婚葬祭の節々では、宗教は何かしら関わっています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お葬式は宗教というよりお別れの会、お墓参りは会いに行きたいから会いに行く、もしくは会いに行く日だから会いに行く。結婚式は今パーティイベントですよね。本来は宗教と繋がっているのに、誰も気にしていない。
宗教アレルギーとはいわゆる一般的な拒否反応という意味で質問させてただきました。

お礼日時:2012/07/11 00:01

 


アレルギーはありませんよ
妊娠したり、子供が生まれたら神社にお参りするし、盆には墓参りするし、クリスマスは祝うし、困ったときは「神様お願い」と言うし、歌では「便所の神様」だし....
イスラム教の人を見ても毛嫌いする人はいないし、神社宗教、仏教、キリスト教、等しく接してます。

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

神社やお寺、教会、お墓参りは確かに等しく接していますよね。
というか日本人は宗教の違いをこだわりませんよね。
本来宗教的な儀式なのに、多くが単なるイベントになっています。

お礼日時:2012/07/11 00:09

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