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下記のような話がありました。実は私も幼稚園はカトリック、小学校ではプロテスタントの
日曜学校に行き、実家は禅宗で親戚には神道もいます。心情的にはキリスト教にもっと近い
(聖書の話はよく知っており、家には新旧聖書もあります。)のですが、ごたぶんにもれず四季
折々は日本の習俗を楽しみ、結婚式は神道+キリスト教、お墓は仏教です。まさに日本教と
呼ぶべきものですが、確たる信仰もなく、神(GODも八百万の神も)も仏も存在を信じている
わけではないのです。母は父の位牌を仏壇に飾って大事に拝んでいますが、私にはそもそも
死んだ人間を拝む感覚もわからないし、葬式も無宗教の直葬にするつもりです。(世代の差?)
こういう人間というのはいわゆる無神論者なのでしょうか、無宗教者?シンクレティズム?
年を取ってきて、なんか気になるようになったのですが、どれにあたるのでしょうか。
http://chikyuza.net/n/archives/17838

A 回答 (3件)

宗教とは一つの教えを信じ他を排する組織形態を言います。

仲良くしましょうなどと言っている団体があるけれど、それは仲良くするのではなく影響しあわないと言うだけの話、いってみてば飲み屋街で客引きは辞めようといっているに過ぎません。

それに日本はキリスト教が少ないと言うけれど、他の国で純粋なキリスト教がどれほどあるのかといえばかなり疑問です。例えばクリスマス自体を取ってみても、アレはキリストの誕生日ではありません。昔のヨーロッパの信仰にキリストの誕生日をかぶせただけです。リオのカーニバルもキリストとは関係ない。ましてハロウィンなどはキリストの「キ」の字も出てこない。
キリスト教国だってキリストと関係の無い行事など山ほどあるんです。
突き詰めてしまえば、キリスト教だから神社に行かないとか、仏教だからクリスマスなどしないなどと言い張っているのも日本人くらいなものです。
だから御覧なさい、日本お祭り見物に如何に外人が多いか、それどころか今の神社仏閣の観光スポットに行けば無宗教であるはずの中国人のほうが多い。さらに日本時如理しっかりと参拝する外人だって少なくない。なぜきちんとした参拝をするのかと聞けば、それが日本の礼儀だと聞いたからと・・・。
“郷に入っては郷に従え”この言葉を理解しているのは日本人より青い目をした外人だと言うことです。

なんでも方に当てはめようとし、そこから出るものは排除する。それが中世以降日本人が国を護る唯一の手段だったのです。そして未だにそこからはみ出ることができない。自由主義だとか言いながら全体主義に偏っている日本人の特性です。

無宗教=無神論者など問う言う考えはありません。宗教と信仰は異なります。信仰とは宗教に属することではなく敬神崇祖の念を持ち、感謝する心を言います。そこに無駄な定義などいりません。相手を神などと言う必要もありません。私たちは自然を利用して生きている、その自然に対し感謝すれば信仰です。
今の世で雨後のたけのこのように乱立する神や、召使かランプの精のように願いを聞いてくれる神など居るはずもなく、それを信じないから無神論者などというのであれば無神論者と信仰もイコールではありません。

両親を含む過去の人に拝するのは、その人が居たから自分が居る、その恩に感謝するためであり、その恩恵を感じないのなら無理に感じる必要も無い。それが自由主義です。でもだからと言ってそれを人に押し付ければそれは自由主義に反する行為と言うことになります。

別に自分を何かの分類に当てはめる必要などありません。分類とは先にあるものではなく、すでにあるものを便宜的に区分けしているに過ぎないからです。当然そこには例外があり、例外が多くなれば分類項目は細分化、或いは再構築されるだけなのです。
とかく日本人はその教育課程から、分類が先にあってそこの属さないものは異端視する傾向があります。これは次第に全体主義に移行する現況でもあるのです。
つまり、自分は自分と言う個人である。それだけで十分なのです。「どれにあたるか」そんな事は生きる上でまったく無意味で関係のないことです。分類法が変わった瞬間、貴方に課せられる分類はいくらでも変化してしまうのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。No.1のご回答者も同様なことをおっしゃられていますが、
自分はこうだとひとつの枠にはめてしまうのは、かえって人格の自由を阻害するという
ことでしょうか。貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/05 14:14

文科省によると、日本の神道の信者は


1億1千万人だそうです。

日本古来の、本来の神道てのは、特別な宗教で、先祖を想い
人間は自然の一部だと感じていれば、それでもう
立派な信者です。

信者である、という自覚すら不要の宗教です。

だから、きっと質問者さんも神道の信者ですよ。

ちなみに、神道では八百万の神々ですから、キリスト教も
仏教も、そういった神々の一つになります。
あの儒教でさえ、日本に来ると、神道的な儒教
になってしまいます。


”私にはそもそも
死んだ人間を拝む感覚もわからないし”
  ↑
私もそうです。家には位牌もありません。

ただ、先祖を想うという気持ちがあると
人間、あまり悪さは出来なくなります。
宗教てのは、そういう機能があります。

尚、どんな人間でも宗教的感情という
のはあります。
これが無いと、遺体もタダの生ゴミに
しか映りません。
そういう人間は、怖いと思います。
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この回答へのお礼

宗教というのは洗礼とか檀家になるということではなく、その人の
生まれ育った環境や文化を反映しているということでしょうか。
URLにもありましたように、日本人は昔からすべての外来宗教を
受け入れて、習合させていくことに秀でた国民といえるそうです。
そういった意味ではすべての考え方はいわゆる「日本教」に基づいて
いるのかもしれません。そういう点、欧米やイスラム社会ともあり方が
違うような気がしますが、難しいですね。

お礼日時:2012/04/05 14:10

哲学や宗教の問題は難しいですね。


あなたが幸せで何かにすがる思いが今までに発生しなかったからでしょう。

もっとも神仏も生活上の便法とも取れなくはありませんが、また、葬儀における慣習が理理解できず、
社会に生きている事の大切さや先祖・父母に感謝する気になっておられないのではありませんか。

絶対の無はないと思います。 従ってそういう考えの人たちがより合い、お互いを認めあうことになればそれも宗教?
方法論はともかく、自分で教祖になりたがる人もありますから、そういう意味からは心配事が少なくて
結構な事です。

(考えがまとまらない間は単に修行中の身、神の信仰対象は人間とは限らず、この辺りで区別か)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ある意味深刻な悩みもなく、宗教に
すがらずのんきに生きてこれたのは幸せかもしれません。
今のところの興味は、なぜ神とか仏とか、理屈に合わない存在を
崇め奉るのか、という点にあります。大都会育ちで宗教的環境と
縁が薄かったせいもあると思います。
単語の節句とか、クリスマスとか、季節のイベントはそれなりに
楽しんでいるのですが。

お礼日時:2012/04/05 14:04

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