dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。

 2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。

 3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。

 4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。



 5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。

 6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?

 7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。

 8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。




 9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。

 10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。

 11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。

 12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。

 13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。

 14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。




 

 15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。

 16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。

 17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。

 18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。

 19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。

 20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。
 (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。

 21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。

 22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。






 23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。

 23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。

 23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。

 23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。

 24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。


 25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。

 26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。

 27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?





 28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。

 29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。

 30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。




 31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

 32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。

 33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。

 34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。






 36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。

 37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。

 38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

質問者からの補足コメント

  • 言い訳してらあ。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/27 18:41
  • だめ。

     これは 信条ないし心情の吐露までです。

     経験合理性において推論をすすめなければ何の意味もありません。

     しかも神は 経験世界を超えているからには その合理性――つまりは人間の能力と努力――によっては 明らかに成すことは不可能です。

     (つまりそういう場合には 人間にも手があって 非経験なる神を想定するということをとおしてそれとして可能だと人間は考えます。その手でこころみてください)。

     (つまりは 両性の存在というのは 経験事象です。神はそれを超えています)。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/01 05:23
  • ○ (ひとは 神の似像である。) ~~~~~~~~
     ・・・
     [S者/S圏]
     個体・・・・・・・・・・家  族(秩序・・・・・労働・・・・・愛 )
     社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・・共同自治 )
     経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・生産・・・・・経営 )
     政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・↓・・・・・・↓・・・・・・↓ 
     [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・↓・・・・・・↓・・・・・・↓
     社会科学主体・・・・・・社会形態(社会組織・・・経済活動・・・・政治 )
      〃・・・・・・・・・・〃(国家)(司法・・・・立法・・・・・・行政 )
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     ☆ このように社会を成して――共に――生きる。この条件は 自然本性として互いに等しく自由です。シガラミが問題となっているのみ。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/02 10:01

A 回答 (28件中21~28件)

『真・善・美』と云う語について考えてみました。



 真善美を一体とすることになんとなく抵抗を感じるのは、『真』の使い方にあるからではないかと思ったのです。
 真と云うと真理と云う言葉が浮かんできますが、真実と云う言葉も浮かんできます。ここで私は“真理”を物事の理(ことわり)として使い、“真実”は真の体(たい)、からだ、“実体”としてみようとおもいます。
 例えば、海。大海を実体とすれば、大海の持つ「要素」として、生物を生かす養分を持っていたり、うねりとか温度とかの環境を作り出している働きが有ると云えると思いますが、そう思えば真善美の“真”は実体と真理とに区別したくなるんです。
 真=実体には「真=理・善・美」が一体となって含まれている、と。

 ここで辞書、明鏡国語辞典で「真善美」と引けば【認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美】という人間の理想とされる三つの価値概念をいう、とありました。

 そして、ここで、つまずいて、しまいました。
 だから他の辞書も見たのですが“認識上の真”は形而上学的真理、“倫理上の善”は道徳的感情、“審美上の美”は感覚的完全美、としているようです。

 要するに私の貧弱な"お頭(つむ)"の混乱は、ブラジュロンヌさんが使う【真】をどう捉えるか、にてこずっているんだと思いました。

 堂々巡りの感がしてきましたが・・・・・

 源(みなもと)を実体として捉えてみれば、辞書で云う処の【真善美】は“一体である”となってしまい、でも、これではブラジュロンヌさんは不満なんですよね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

省エネ応答法。

真は 非経験の真理とそして経験の真実に分かれます。

真理とは 神のことですよ。(むろん それに準じて経験事象にも用います)。《形而上学的真理》。

経験の真実とは 経験事実を認識した主観真実です。事実があなたの言う《実体》に対応します。《認識上の真》。

事実はひとつでも それを認識するのは 一人ひとり《わたし》です。よって 同じひとつの客観事実からひとによって異なる主観真実が生じます。内容が同じで共有できるものは 定説であったり 共同主観=常識であったりします。

 ○ 経験事象:真と偽 善と悪 美と醜
  ⇒どちらかを考えて判定する。

 ○ 非経験(神):真理 善悪の彼岸としての至高の善 美醜を超えた美
  ⇒けっきょくこれは 考えるのではなく 信じる(無条件に受け容れる)ものです。

《みなもと》とは 神のこととして言っています。よ。

お礼日時:2015/02/26 09:33

美の自由度が高いことに関してちょっと補足します。


社会的動物としての繁栄に必要なものは同種間の争いの要素の少なさと考えていい
という解釈から

「美が多様であることはそこに矛盾しないけれども(目的がばらける)
 《(美醜は全か無/1か0か)としての共存が可能》
 善が多様であることは争いの源になる。(わがままな正義のぶつかり合い)
 《(善悪はいいか悪いか/1かー1か)として白黒をはっきりさせる必要が出てくる》
 世の中はまだ未熟でどれが普遍的な善かはわからない。
 しかしそれを判断するための真の探求は争いを軽減し
 社会的動物としての種として繁栄するために避けて通れない。」

真善美に関してこうした見方も可能だと思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

そうですね。
 けっきょく真理は 人間の誰にも分からない。(主観的には 分かったという人間が出て来るかも知れない)。

 善は けっきょく存在の保持。《生きること したがって ともに生きること》になるはず。

 美は? 
 ★ 美が多様であることはそこに矛盾しないけれども(目的がばらける)
  《(美醜は全か無/1か0か)としての共存が可能》
 ☆ ん?
 ゴッホに全なる美を感じ ピカソにゼロなる美を見る。あるいは そのぎゃくの場合。
 いづれの場合にも 何人もいても 争いを避けることも出来るし 争いになることもある。

 目的がばらけなくても 共生は可能。ばらけても ほかの問題であらそうこともあり。

 まだ ? です。

 簡単に表わしています。了解あれ。

お礼日時:2015/02/23 16:03

成長の順序として、まるっきりわがままな状態から


まずは社会的動物として意識の上で善というものを考え
さらに各人各様の善というギャップに直面して
それぞれの善の正しさをはかる基準としての真を求めるという一つの方向
があると思います。

もう一つ生物という存在として進化の中で遺伝子に組み込まれてきた
美という大筋の枠組みがある中で(真の一つ)
各人が人生を歩みながら後天的に構築されていく
個人的なセンスとしての美という感覚の存在。

真善美ということの関係に関しては
真という土台の上で善と美を頂点とする三角形が動的に揺らいでいる図が浮かびます。
優先順位や自由度ということを考えると
善の三角形の上に大きく美の三角形がかぶさるようなイメージです。

そこで真の源ということになりますが
人間にとっての真とは
空の表象としての色、タオの表象としての現実、
そういったものの一つなのではないでしょうか。
現代風に言えば自然界の法則の表出の結果の一つ、
それが人間にとっての真善美の土台の部分に奥深く広がっているのではないかと思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) 

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 ☆ この神が真理であり善。けれど 美は人それぞれ。なぜ?

お礼日時:2015/02/23 14:11

真善美の源は同じではない、一つではない、という仮説を立てました。



 真、は宇宙の本体の事。
 善、そして美、は人間だけの感覚、知覚、であると。

 真、である宇宙の中の一つの星に稀なる環境が生じて生命を生み出し、究極?の生命体である人間に備わった“高等精神”の働きが善悪を意識させ、美醜を感じさせる。

 美醜、に付いて。
 まずは醜に付いて考えてみると、いつまでもそこには拘わりたくない、避けたい、と云った拒否反応が普通の、正常な、“精神”であれば起きます。汚れたどぶ川とか萎れた花とか。

 でも、きれいな川の流れや、咲き誇る花、には美を感じます。

 その時の「美」が人の心にもたらす刺激。
 それは“生命”の喜び。

 「美」に接すると人間は自身の命に、喜びと力(生命力)を感じます。
 「善」にも、こうした「美」と共通するものが有ると思います。

 また“美学”という言葉には、多分に知的で私的(主観)な思いが込められているようで、この「質問」で使うのは不適当ではないでしょうか。

 こんなふうに思いましたが。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

むむ。敵方にまわったな。

《美学》というのは 哲学または神学において まさに真善美のうちの美を特に中心として考える分野です。

 真理は 神である。は いいですか?
 でしたら 善美は 人間の世界におけるそれらと関係してはいますが そこから一たん離れて この神である真理の持つ内容を 別のかたちで捉えたというものです。わざわざ 真理のうちに善もあれば美もあると やはり想定した場合です。

 想定ですから どうしても想定してはダメというのでなければ 想定します。というお話になります。

 そうして その神の問題とは別に 人間の世界において 善悪や美醜といった具体的な問題が起きています。真偽が問題になるのと同じようにです。

 人間の本当は 〔主観の〕真実であり 神の本当は 真理です。主観・客観を超えたものです。善悪の彼岸や美醜のかなたと同じく。

お礼日時:2015/02/20 23:11

☆と。

したがって 神としての善や美やも この真理に準じて規定することが出来るはずです。
☆ただし これらの真善美は 非経験でしょうね。
◇こうなる。
そして、これらの完全な統一体として《神》が想定されることになるのでしょうね。

ただ、こうした還元は、たいして意味を有さないのかもしれない。

我々が真、善、美を論ずるとき、その対象は真・善・美そのものではなく、具象であり、具体だから。
「○○は、正しい、善い、美しい」ですから。
少なくとも、捨象化された、純粋化された善・美は、おそらく善いものでも美しいものでもないでしょうから。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

さっそく本題に入りますが。

 今回の真善美の理論は ひとえに《具象的な美は 各人に十人十色であるのは なぜか?》を明らかにしようとしたものです。そういう意味があると考えるのですが どうでしょう。

 ヤマシサ反応をものともせずあたかも別様の意志に付き従った結果 自然本性としての心――これが 生きること・ともに生きることとして善だと想定――に損傷を与える。

 受けた傷に応じてその癒しのための美を求める。ということは 求める美が傷のサマによって千差万別となる。これが 具象としての美とそしてあたかも神としての美との両建てをおこなうこの理論のミソです。

 ということなのですが。

お礼日時:2015/02/20 17:11

こんにちは。



真理⇔美・善
理性⇔感性
抽象⇔具象
第一次性質?⇔第二次性質?

このような関係にあり、真と美、善は同列に語れないのではないか、
そんな気がするんですよね。

美と善は、
エピクロスじゃないけれど、
感覚次元(は言い過ぎか(・・?)で快楽に基づく、と言っていいんかな~。

これが一点。


あと、「真理、美・善はチョメチョメ」というのは、言葉や概念の誤用、濫用じゃないか。
「○○は正しい」、「○○は真理である」、
「○○は美しい」、「○○は美を有する、持つ」
という表現はいい。
しかし、
「真理は△△」、「美とは△、△」
というのはおかしいんじゃないか。

「○○は美を有する、持つ」という表現は、「○○は美しい」と同義でしょう。
主語なしで、美は語れないと思うんですよ。
真理、美・善は主語にしてはいけない、主語にすると無内容になる、と言った方が適切なのかもしれないのですけれど。
それに、
「リンゴの美」は個物であるリンゴを離れて存在できない。なのに、我々は、リンゴの美や美が、あたかも、個物であるリンゴに離れて存在するように考えてしまう。
そのリンゴを美しいと思う人間を切り離して、リンゴの美や、美が存在する、と考えてしまう。
イデアですね。
こういう考え方がそもそもおかしいんじゃないか。
そんな気がするんですよね。

真理は、正しい以外の何物でないから、
「真理とは?」、「正しいとはどういうことか?」
なんてことをやりだすと、
論理法則に行き着くことになってしまう。
形式的なものになってしまい、日常の我々とはまったく無関係なものになってしまう。
命題や公理などが与えられないと、現実的な意味を有しませんから、こんなもの。

そして、
これは美や善についても当てはまるのだろう。


うまく表現できなくて、ちょっと困っているんですが。
たぶん、
我々は、真理、美・善を語る事のできるメタ言語の単語を持っていないじゃないですか。
そもそも、そんな単語があるかどうかが疑わしいし。
出来るのは、せいぜい、枠組みや形式を論ずることしかできない…。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ありがとう。(省字です)。

 ◇ 枠組みや形式を論ずること
 ☆ は出来るんですよ。

 ○ 真理とは ラプラスの悪魔のごとく あいつとおれとの間に起こっているすべてのものごとを知っている存在を想定したその存在の知力などのあらゆる能力とそのハタラキを言う。

 と。したがって 神としての善や美やも この真理に準じて規定することが出来るはずです。

 さきほどの《あいつとおれの問題》についてなら トラブルのすべてを互いによいかたちに導く《うつくしさ および よいこと》とすればよい。つまりは 真理の関数に成り得ます。真理が 美の関数であるかも分かりません。
 ただし これらの真善美は 非経験でしょうね。

 どうでしょう。(74字も残しました)。

お礼日時:2015/02/20 14:04

お礼ありがとうございます。



> なるほど。たぶん ただし《人間》は みづからとその《源》との仲介のような位置づけである。かも知れないとは思います。

思うのは自由ですから、それはそれでいいと思いますよ。

誰にも強制されず自分が感動し、感動した故に守りたいと自らで動く主体が
私ですから、仲介とかに興味は湧きません。
他律に興味は無いですね。

では、失礼します。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


 お聞き入れになるかならないかは 自由ですから まったくいいと思いますが
 ★ 思うのは自由ですから、それはそれでいいと思いますよ。
 ☆ というのは 哲学としての――生活および共生のための交通整理から始める問い求めである哲学としての――行き方には ふさわしくない。そして その同じ轍をわたしも踏んでみています。


 ★ 他律に興味は無いですね。
 ☆ それは マチガイです。

 どう間違っているか? 《みなもと》は――すなわちその意味での《他律ではない自律》は―― 人間という存在にしかなく この高々一世紀を生きるに過ぎない存在にだけあると決めつけたことになるからです。

 人生には さらに深いナゾがあるはずです。よ。

 あなたは 対決姿勢でいつも回答を寄せています。

 わたしはいつも 売られたけんかを受けて立っているだけです。

お礼日時:2015/02/19 12:37

内容は長すぎるので、読んでません。


お題目に対してのみ。

源は一つです。
それは「人間」です。

人間がそう感じるから。
それだけで十分だと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 なるほど。たぶん ただし《人間》は みづからとその《源》との仲介のような位置づけである。かも知れないとは思います。

 かんたんですが こんな感じに思います。

お礼日時:2015/02/19 09:54

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す