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イスラム国における人質事件を巡るネット上の自己責任論の興隆を見て、私たちは本来多様性を持つはずのネットの意見が一つに収斂していく様を目撃しました。
そしてその時は、誰もが自己責任という言葉をあまりにも無秩序かつ無責任に乱用し、誰もが自己責任という言葉を使いながら誰も自己責任の言葉が指す意味内容を明確に理解・定義して使ってはいませんでした。
結果として両人質が殺害され、政府は救出工作に全力をつくしていたわけですが、その渦中において自己責任論がどのような影響を持ち、どのような意味を発揮したのかを一度まとめる必要があると思います。でなければ、次に似たような状況が発生したとき、私たちはまた同じ無秩序を繰り返すことになるからです。
日本人は歴史的に見ても、一度熱がでて一つの潮流や意見が形成されてもほとぼりがさめれば当事者であったはずの人間が無関係を装いはじめ、主体性のある責任者がいなくなる国民性を持っています。

自己責任が盛り上がったとき、人質が捕まっているのは自己責任だから税金を使って政府は救助をするべきでないと言っていた人がいるのを私は覚えています。ですがその主張は現実を見てみればまさに日本政府と国際世論の動向を真っ向から否定するものであり、現実を無視した机上の空論に過ぎないものであったことがわかります。
このように、あのとき無秩序に展開された自己責任論のなかには、はっきりと誤りであったといえるものが含まれています。
そのため、自己責任論の正当性に決着をつけず、整理をつけず、無秩序なまま収束させるべきではありません。ちゃんと自分が言ったことには最後まで責任をもってその正否を判断してこそ私たちは成長できるし、それが言論というものでしょう。言うだけ言って事件がおさまれば終わりというのであればあまりにも成長がなさすぎます。

では総決算しましょう。
自己責任論ははたして正しかったのかどうか。
もし正しいというのであれば、なにをもっていかなる根拠により正しいといえるのかを事件の結果から演繹して明示してください。
私の意見では、自己責任論は現実を全く無視した机上の空論・感情論以外の何物でもなく、現実の要請に応えるにあたって完全に無益であった中身の無いものであったと考えています。人質をかばった発言をするだけで感情論でものを語っていると自己責任論者から批判されていましたが、私に言わせれば自己責任論こそ感情論以外の何物でもなかったと思えます。なぜなら中身がないからです。

A 回答 (9件)

そうでしょうか?



私は、自己の行動には責任をとるべきだとおもうので
自己責任論を常に支持しています。

誘拐したのは誘拐犯の自己責任に他ならない。
誘拐される方が悪いとか言うのは、誘拐犯の自己責任逃れの悪あがきに
すぎない、

悪いのは
誘拐犯であり、誘拐殺害を命じた国際陰謀団IS(偽「イスラム国」)の自己責任
に他ならない。


国際陰謀団IS(偽「イスラム国」)の自己責任は
裁判で、とるべきです。また犯罪行為をやめない時は、
国際警察行動で武力鎮圧を、やむおえない( ^^) _旦~~
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私の結論は


はなから言葉の使い方が間違っている
です。

私は自己責任を「全て自分の責任下で行えること」と捉えています。
それはそれにより起きた事象に対しての責任です。
仕事をする上で私が自己責任で行う決断は、もしその行為によって損害が発生した場合、私の権限内で損失を補填する全ての処理ができる場合です。

そもそも「自己責任なんだからほっとけよ」などは、使うとしたら、彼らが渡航する前に使われるべき言葉であって、渡航後に使われるべき言葉では無いと考えています。
渡航前に本人達が「自己責任で行ってきます」と言って、誰にも迷惑をかけないで100%生きて帰ってくる保証があるか、捕まったとしても関係する全てに対してもなんら損害も与えない用意があると証明すれば良いだけです。
それを事後に起きた件に対して「自己責任だろ」というのは間違っています。
なぜならば、殺害されるだけで責任が取れる案件ではないですから。
問題が国際問題に繋がるわけですから、完全に個人の範疇を超えています。
殺害されることが責任をとることにはならないです。
日本人が捕まってしまったのだから、政府は当然救出の為に動きます。
動いてくれないと困ります。日本人として。

話がそれました。
つまり「自己責任」という言葉は机上の空論ではないです。
今回は、使い方が間違っていた。
そして、そもそも自己責任の範疇では無かった です。
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おじさんです。


いい質問だと思います。
「自己責任・・・・・その主張は現実を見てみればまさに日本政府と国際世論の動向を真っ向から否定するものであり、現実を無視した机上の空論に過ぎないものであったことがわかります」
→私は少し違います。
私はお二人が殺害された時に国内、国際世論に注目しました。
日本政府が人命第一といいながらも身代金を支払わなかったからです。
結果として、日本政府を批判する世論はおきませんでした。
何故でしょうか、多くの市民が彼ら二人の自己責任だと感じていたからなのです。
私も友人や地域の多くの人達から意見を聞きましたが、ほとんどが自己責任という意見でした。
この市民感覚は、決して机上の空論ではないと思います。
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A:>イスラム国における人質事件を巡るネット上の自己責任論の興隆を見て、私たちは本来多様性を持つはずのネットの意見が一つに収斂していく様を目撃しました。



多様性とは、「結論」を出す前の「議論」をする段階で望ましいとされるものだと思います。
質問者様の仰る「多様性」ですが、私にはただの混乱や無秩序な状態が続くことによる停滞としか思えません。


B:>そしてその時は、誰もが自己責任という言葉をあまりにも無秩序かつ無責任に乱用し、誰もが自己責任という言葉を使いながら誰も自己責任の言葉が指す意味内容を明確に理解・定義して使ってはいませんでした。

質問者様が「誰も自己責任の言葉が指す意味内容を明確に理解・定義して使ってはいなかった」と考える根拠どのようなものでしょうか。
(発言に際して、聞かれていない言葉の定義を延々と説明する人もいないと思います)


C:>結果として両人質が殺害され、政府は救出工作に全力をつくしていたわけですが、その渦中において自己責任論がどのような影響を持ち、どのような意味を発揮したのかを一度まとめる必要があると思います。

質問者様の「政府は救出工作に全力をつくしていた」というお考えが示しているように、
世論としての「自己責任論」は何の影響も与えていないと思います。


D:>自己責任が盛り上がったとき、人質が捕まっているのは自己責任だから税金を使って政府は救助をするべきでないと言っていた人がいるのを私は覚えています。ですがその主張は現実を見てみればまさに日本政府と国際世論の動向を真っ向から否定するものであり、現実を無視した机上の空論に過ぎないものであったことがわかります。
このように、あのとき無秩序に展開された自己責任論のなかには、はっきりと誤りであったといえるものが含まれています。

どのような意見であっても、無秩序に展開されることは質問者様が望む「多様性」ではないのでしょうか。
そもそも多様性とやらは自由な言論が前提であり、それは方向性だけではなく論理の正誤やレベルについても制約はされない筈だと思います。
また「日本政府と国際世論の動向を真っ向から否定する現実」とは何でしょうか。



質問文ですが、質問者様の論理(のようなもの)の説明でしかなく、明確に質問と判断できる部分がありませんが、もしかして↓がそうなのでしょうか。
(私には、件のテロリストと同様に条件付の「要求」としか思えません。)

E:>もし正しいというのであれば、なにをもっていかなる根拠により正しいといえるのかを事件の結果から演繹して明示してください。

↑の「演繹」ですが、質問者様の要求では「事件の結果」が「正しい」という証明がされていると必要がありますが、その根拠は何でしょうか。

【演繹】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E7%B9%B9
(一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
―中略―
以上のことを一般化した演繹の代表例として三段論法がある。)


また、↓の最後の文章ですが、要約すると1と2になると思います。

F:>私の意見では、自己責任論は現実を全く無視した机上の空論・感情論以外の何物でもなく、現実の要請に応えるにあたって完全に無益であった中身の無いものであったと考えています。
G:>人質をかばった発言をするだけで感情論でものを語っていると自己責任論者から批判されていましたが、私に言わせれば自己責任論こそ感情論以外の何物でもなかったと思えます。なぜなら中身がないからです。


1:自己責任論は感情論であり、中身のないものである。
2:自己責任は感情論である。理由は中身がないからである。

そして、↑は↓の三段論法になっていると思いますが、
Hが事実であるという証明を質問者様はしていないように思います。

H:自己責任論は感情論である。
I:感情論は中身がない。

結論J:自己責任論は中身がない。


私は、今回の「事件への対応(結果ではない)」への評価は「帰納法」で考えるべきであると思います。
(「今回の事件への対応」は、過去の事件の経験から「テロへの対応方法」得たものである。)

【帰納】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
(個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。)


ちゃんと自分が言ったことには最後まで責任をもってその正否を判断してこそ成長できるし、それが言論というものでしょう。


もしかして、質問者様は日本人がテロの標的になったのは安倍総理の外交の結果であり総理の「自己責任」とお考えなのでしょうか。

私の記憶では、この事件では「自己責任」を否定する多様性のある意見もあったと思います。
そして、そのような意見の方々は国籍にも多様性があったようです。
しかし、私は、それらの方々の行動が何故か事件の解決より安倍総理の退陣要求に「収斂」していく様を目撃しました。


【官邸前で後藤追悼・安倍辞めろデモしてる人たちの正体、なんと韓国系キリスト教団体だったwwwwww 建国記念日を否定する活動も】
http://hosyusokuhou.jp/archives/42610370.html
(在日本韓国YMCAwwwwwwww)
「自己責任とはなんだったのか」の回答画像4
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火中の栗を拾う、と言う諺は他人に唆されてと言う意味合いが有りますが、



何をしようが、俺の自由だと、言う人は(他者に)迷惑をかけてでも←俺の自由だと宣う輩が殆んどです。

元来法が出来る以前は、社会規範に元ずいて行動をして居ました。
今の法制度の世の中に置いても、基本は(社会規範)が根本の筈です。
その根底は、他者に迷惑を掛けない事が基本原理です。

今回に限りませんが「自己責任論」については、人の命とどちらが大切かと言う論点で、そもそも食い違いが生じて居ると考えられます。

一人二人を助ける為に多勢の犠牲若しくは国家問題にまで発展しても、一個人を救うべきかと言う問題だと思います。

だいたい(身勝手な自由を口にする輩は)自由と自由奔放をはき違えています。
自分の命が助かる為には、国家の威信など二の次以下としか考えて無い人種です。
一人が助かる為には、地球が破滅してもしたかだ無いと言う考えが根底に、見え見えです。
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> もし正しいというのであれば、なにをもっていかなる根拠により正しいといえるのかを事件の結果から演繹して明示してください。



「極論」を否定しつつ、「極論を展開」してますよ。
その結果、「最も重要な本質」を見落としている様です。

質問者さんの極論を否定するのは、最も代表的な自己責任だけを例示すれば、事足ります。
後藤氏らは、殺害されましたので、彼らは、自らの「命」で、自己責任部分を果たしています。

言い換えれば、後藤氏らの失われた命に対しては、たとえ国家でも責任は負えません。
尊い命は、経済的な賠償すれば責任が負えると言うものでもないでしょうから。

そもそも国家に、その賠償義務があるか?も、道義的責任は間違いないですが、法的責任は、司法判断に委ねられます。
日本の司法は賠償責任を認めるかも知れませんが、恐らく各国で判断が分かれるところで、「自己責任ではない」などと言うのは、少なくとも「人類普遍の真理」などでは無いです。

質問者さんが問題提起している答えは、ごく単純な話です。
すなわち、「自己責任」と、それ以外の「国家責任」などが「混在している」と言うだけの話ですよ。

従い、「全て自己責任」などと言うのも間違いですが。
一方で、後藤氏らが殺害されたと言う事実をもって、「自己責任論は現実を全く無視した机上の空論・感情論以外の何物でもなく」とまで言うのも間違い。

極論を持って、「事件の結果から演繹して明示してください。」と言うのであれば、同様の手法で、まず「自己責任は一切存在しない」を、明示してみて下さい。
「自己責任は無い」とするならば、後藤氏らは、なぜ殺されたのでしょうか?

質問者さんも、ここまて言ってるのだから、今さら「自己責任は無いとは言ってない」などと、言い訳はしませんよね?

冒頭に書いた「最も重要な本質」は、「命の問題である」と言うことです。
「国民の尊い命」に対しては、国家責任等があることは確かで、その責任は無限責任に近いかと思いますが、それはあくまで道義的責任であって、道義的責任である以上、「感情的」なものは避け得ません。
また「自分の命」や「家族の命」に対しては、国家や他人に依存すべきでは無く、自分や家族の命を損なった場合、最大被害者は自分なのだから、最大責任も自己に帰属するのではないですかね?

従い「命の問題」に対しては、「無限責任VS最大責任」みたいな話ですが、私はどちらかと言うと、最大責任の自己責任論を擁護しますよ。
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お二人は死の死は自己責任であり、国が法的責任を負うことは無い(最終的には司法の判断)、というのが常識的な考え方だろうと思います(道義的責任もしくは政治的責任については議論が分かれるだろうと思います)。



自己責任を証明せよと言われると、平行線は交わらないを証明せよと同じように、多くの人にとって面白くない問題ではないかと思います。もちろん帰納法での証明などは初等幾何学で教わりますが、元々(平面幾何学では)交わらない2本の直線を平行線と定義したわけでそんなものの証明なんて無意味(若い頃の記憶!)、それと同じぐらい、自己責任は当然だと思います。

ただ、中には感情的にお二人を非難される人もいますね。それに対しては賛成できません。特に後藤氏は生涯かけたライフワークの中で一命を絶たれてしまったわけで貴重な人材を失ったという喪失感が強いです。到底批判することは出来ません。以上、自己責任論者即感情的他者攻撃者ではない事を付記しておきます。
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NO7です。

冒頭の「お二人は死の死は自己責任」はタイポです。「お二人の死は自己責任」に訂正させて頂きます。すみませんでした。
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「ちゃんと自分が言ったことには最後まで責任をもってその正否


を判断してこそ私たちは成長できる(略)」

 そう、自分の行動に責任を持つことで成長するんですよ
 自分の行動に責任を持つ…つまりは自己責任ですね
 自己責任を否定するため自己責任を求めるとか矛盾してますよ

 本来自己責任なんてのは当たり前すぎて言うまでもないけれど
日本では自己責任の意識が薄いために、こういう極端なケースで
盛り上がるってだけでしょうね

 実際問題として、自己責任は当然としてそのうえでどうするか
ということが重要になんですが…
 幼稚すぎてそのステージに行けないということでしょう
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