
(α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。
(α‐1) ユヅリアヒは 人間力である。
これを検証したい。というのが この問いです。
神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面
に分けて捉えたと言います。
○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・
熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012
によりますと:
次のように 《ちから》の内容・分析が捉えられています。かんたんに引いておきます。
(β) プラトン『ソフィスト』:
《働きかける力( dynamis tou poiein ; dynamis energetike, potentia activa )》
と
《働きかけられる力( dynamis tou paschein ; dynamis pathetike, potentia passiva )》
このうち後者を承けての系譜:
(γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:
《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》
( pathein = paschein )
ただちに時間を飛びますが:
(δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。
(ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
=邦訳:《担いの実り豊かさ》
ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。
(ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:
《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性( passivité )》
《いかなる受動性よりも受動的な受動性》
このとき:
(α‐2) ユヅルは どういう人間の持つチカラでありその発揮であるか?
を解明したい。
そのための事例をひとつ提出します。
(α‐3) ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F% …
§ 1 あらすじ
§ 1.1 古事記
天照大御神(アマテラスオホミカミ)ら高天原(タカマノハラ)にいた神々(天津神:アマツ
カミ)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。
そのため、何人かの神を出雲に使わした。
大國主神(オホクニヌシノカミ)の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみ
なかた)のもとに天津神である建御雷神(タケミカヅチノカミ)が降る(*)と、大国主神も自
身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。
(* いくらか編集しました)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ オホクニヌシは スサノヲの子孫です。そのイヅモの国を アマテラスの国にゆづりまし
た。このユヅルちからは:
(δ) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》
=邦訳:《担いの実り豊かさ》
というチカラではないのか?
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
「同じ人間同士として協調したいという基本的な気持ちが
まずは譲り合いという表出になる。
それがうまくいかないときに力比べの必要性から
力への意志が生まれる。
さらにその力比べの過程を経る中で
仲間内の協調を優先しようとするところに
対外的に排他的な侵略的ベクトルが生じる。
そして協調性を発揮するための懐の深さは
‘豊かさ‘によって左右される。
つまり豊かであれば協調性の表出として
譲り合いの精神を発揮しやすくなる。
それは争いとは逆の平和な世の中の実現へとつながる。
豊かさとは限界の越えにくさ。」
こんな風に考えてみました。
ご回答をありがとうございます。
★ 豊かさとは限界の越えにくさ。
☆ あぁ この限界を超えたかったんですけれどねぇ。
むろん そのような限界は 一般的に見られる問題だとは承知しています。
批判のためでも何でもありません。
あと 初めての人間どうしの出会いについてですけれど:
★ 同じ人間同士として協調したいという基本的な気持ちが
まずは譲り合いという表出になる。
☆ となれば いいんですけれど 別のかたちもあるかなとは思っていた
んです。
すなわち 初めての出会いにあたって・初めてだからこそ 警戒心を持つ
ことがある。という場合。
つまり 欧米人やお隣のアジアの国々でも 最初に《ゆづり》を見せたら
完全に相手からバカにされ食い物にされかねない。といった事態の場合で
す
おそらく初めから 《チカラへの意志》を持ってみなぎらせている。
もっとも《強調性や 友情や 相手へのうやまい》などが乏しいというわ
けでもないのでしょう。じっくり時間をかけて 仲間となる場合もあると
か。
★ 対外的に排他的な侵略的ベクトルが生じる。
☆ これは 初めにゆづりあひをおこなっていても 生じる場合があるの
で 問題は複雑なようです。
それに あたかも人はみな人に対してオオカミだという場合でも 初めに
は警戒心こそ持ったとしても その初めから《侵略的ベクトル》を剥き出
しにしているわけではない。
こう考えてくるというと どうやら質問の切り口が 通り一遍になってい
て 答えづらいものになったようですね。
ゆづりあひと協調性とを 質問者がすでに前面に推し出してしまっていて
それとのマの取り方が むつかしかった。かも知れません。
よきユヅリアヒの場合を考察してみたら その場合から逸脱する事例を出
されてしまった。・・・といったようなやり取りしか出来なかったですね。
これは しくじった。かも知れません。
《ゆづる》とは いったいどういうことか?
これを追究したいとは思ったのでしたが。
ちょっと考え直してみます。
いづれにしましても 述べられた方向・志向性において捉えようとはして
いた問題です。
とりあえず こんなお応えにてです。
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