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質問の前提から述べる形を採ります。

1.
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
このことを再確認すべき時が来ているのではないでしょうか。そして、
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」、ということも。
こうした論理の帰結として、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
これが絶対的摂理の指し示すところであるのは確かであることを認識、あるいは感じることができるように思うわけです。
DNA に書き込まれた遺伝情報や生育環境などによって「自我としてのこの我」は規定されると思いますが、これらは、あくまで偶然のイベントとして、「この我」に降りかかってくるものだと言えるのではないか、ということでもあります。
絶対と偶然の表現に誤解があるといけませんので補足しておきますが、人類という種は絶対的摂理の指し示すところとして現在地球に存在しているが、「この我」を自覚する個々人が人類として存在しなければならない必然性は無い、ということです。

2.
とはいえ、こうした「自我としてのこの我」が存在するのもまた厳然たる事実です。
ここに「自我としてのこの我」と「人類としてのこの我」のせめぎ合いが生じざるを得ないはずなのですが、少なくとも今の日本では、後者についての理解が希薄なように思います。
「自我としてのこの我」が圧倒的優勢を保つ一方で、「人類としてのこの我」はヒューマニズムとして矮小化されているのではないか、ということ。
つまり、上記( C )が導かれる根拠としての( A )( B )について、十分な理解が浸透していない。
ここに留意することで、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」は、ヒューマニズムではなく、絶対的真理ゆえに真とされるべき命題であることを再確認すべきではないでしょうか。

3.
大前提である「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」 について少し補足いたしますと、その根拠としては、
「人智の及ぶ何らかの力の結果として我々は存在している。」わけでないことは明白であるから、ということになります。

4.
ここで今回の質問です。

「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

これらを一連の根拠ある真理として、つまり論理的事実である点を明確にしつつ、学習指導要綱に明記すべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youry …
こうした考え方が浸透することで、将来的に「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」という命題が感覚的に理解され、そのことによって世界は新しい局面を迎えることができるのではないか、という気がしているところです。

質問者からの補足コメント

  • #4さんのご指摘を受けて指導要領を読んだ結果、質問タイトルを次のように、若干、変更させていただきます。

    『現行学習指導要領は本質を把握できる内容になっているでしょうか』

    なお、質問の本旨は変わりませんので、質問本文は、そのままといたします。

      補足日時:2016/01/26 19:24

A 回答 (6件)

くるっています。

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この回答へのお礼

大丈夫ですか?

お礼日時:2016/01/25 19:20

我々が、恣意性を持たない宇宙の摂理の結果、存在しているという現在において、我が我であるというのは偶然であって必然ではない。

故に(C)に言うところとなる。

ご質問は上記のような流れと理解しました。

ここで、人間理解や共感において、その前提にあるものが、人類としての我々という意識であるということですが、私はむしろ、その極大的な観点からよりも、より狭い、具体的な範囲から始まり、その極大的な観点に至るのではないかと思いました。より狭い範囲とは、僕が住んでいたマンションの一室の、隣の部屋に住んでいた幼なじみ、とか。その実在の、他人という存在を学び、次にクラスメートなどの小さな仲間の存在を学び、次に職場や取引先といった社会を構成する、自分と縁のある人々の存在を学ぶ。そして、更に次に、国という大きな人々の集合というものを学び、次にやっと、人類という大きな枠組を学ぶのではないかと。

>「この我」を自覚する個々人が人類として存在しなければならない必然性は無い、ということです。<

この我は偶然的に存在したのかもしれないが、その固有の形態は彼が人類であるというところに大きく依存していると思います。それらはあくまで偶然のイベントとしてこの我に降りかかってくると仰られておるところですが、それは偶然であろうがなかろうが、事実として存在します。この事実の積み重ねをなくしては、「我」は存在しえません。つまり、無作為に生じた我であるが、事実、我は固有である。つまり、人類という前提があって、そこからより細かく枝分かれしたその先にこの固有の我があります。ですから、その個は、人類として存在しつつ、我として存在しているのです。

従って、学習指導要綱に記すべきは、人類としての行動規範であり、争いの絶えないこの地球上において、如何に争いの終わった世界へ向かうのかというその根拠、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」に言うところの人間理解や共感ではないでしょうか。

この(C)の根拠に(A)、(B)が提示されているわけですが、(A)と(B)に語られるところは抽象に過ぎてその根拠としては威力が低いと思われます。人間理解や共感、人の痛みを知るということは、我々が人類であるから可能なのであり、その人類を宇宙が生み出したからという理由で、人間理解や共感が可能であるわけではないと思うのです。(C)の利益は、人類に根拠を求めても、宇宙の摂理に求めることは難しいのではないでしょうか。偶然に、私は私でありあなたはあなたであるから人間理解や共感が可能なのではなく、同じ人、人類であるから、人間理解や共感が可能なのだと思うのです。

難しい質問でしたのでちょっと筆が散らかりましたが、ご容赦ください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

理路整然とした文章で、非常にわかりやすかったです。
>人間理解や共感、人の痛みを知るということは、我々が人類であるから可能なのであり、その人類を宇宙が生み出したからという理由で、人間理解や共感が可能であるわけではないと思うのです。

おっしゃることはよくわかるつもりです。
ただ、それは単に(教えられた)ヒューマニティに過ぎないのではないですかね。
では、人類であるからといって、なぜ人間理解や共感が必要なのか?
こうした問いへの答えが必要ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
キリスト教徒がイスラム教徒に共感するのは、そう簡単ではないと思うのです。
「我々が人類であるから」だけで、それが可能でしょうか。

>偶然に、私は私でありあなたはあなたであるから人間理解や共感が可能なのではなく、同じ人、人類であるから、人間理解や共感が可能なのだと思うのです。

ここは少し補足させていただきます。
>偶然に、私は私でありあなたはあなたであるから人間理解や共感が可能

ということではなく、
[ 私は私でありあなたはあなたであるのは偶然なのだから、私があなただったかもしれず、あなたが私だったかもしれない。それゆえ人間理解や共感が可能 ] のように解釈していただければと思います。

お礼日時:2016/01/26 18:28

当たり前のことなので学習するようなことではないと思います。


うちの子は7歳ですが、おとといは湯気はランダムだろうかと呟いてしばらく見つめ、流体力学のような圧力の条件や部屋の空気の流れで言えばランダムに違いないだろうけれど、この渦の出来方はランダムとはいえない面があるかもしれない、とても難しい、と言っていました。
当たり前のことに、制限をつけないでおくことは、学習の根幹ではないかと思います。
むしろ別のことで多くの制限を学習した結果、あたりまえのことがわからなくなる秀才バカの存在が心配です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>空気の流れ

のみならず、
>この渦の出来方

にまで着目するとは末恐ろしい7歳ですね。
>当たり前のことに、制限をつけないでおくことは、学習の根幹ではないかと思います。

なるほど、と思いました。

ただ、どうなんでしょう。
「自我としての我」は、放っておいても認識できると思うのですが、「人類としてのこの我」については(当たり前ではあるが)難しいのではありませんか。
むろん、どちらも我であることに違いはないわけですが、切り口としてです。

お礼日時:2016/01/26 18:37

追記します。


リンク先記載の道徳の指導要綱には、全学年を通じて同じ4本の指針がありますね。

1.主として自分自身に関すること。
2.主として他の人とのかかわりに関すること。
3.主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
4.主として集団や社会とのかかわりに関すること。

これを見て、わたしは気付きました。ソニーの井深氏ではありませんが、
はこぶるさんのご懸念に応じるには、「小学校では遅すぎる」。
畑をする母の傍らで座らされてミミズを掘って太陽を浴び、和解と調和の内なる求めを聴く心で、何ものも裏切るまいと思うくらいの幼い頃でないと、宇宙自然から授かる徳は育たないと思います。小さなものの諸形態を貫く無限大の未知が、石ころにも自分にもミミズにも野菜にも母にも流れ込んでいることを思うとき、そこで特別の愛情を母から受けて存在のしるしを自分自身に認めるとき、慈悲、同情、共感、公正とは、世界の関係を繋留する自分を震源とし、自分は行動を起こす力そのものなのだとわかるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

学習指導要領を少し読んでみましたが、最高学年では、次のようになっていますね。

3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。
(2) 自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。
(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。

質問前にじっくりと読んだわけではなかったのですが、「人間の力を超えたもの」という表現が入っているのは驚きでした。
しかし、やはり [ 本質を見落としている ]のではないかという気がします。
すなわち、
(1) なぜ生命がかけがえのないものであるのか?
なぜ自他の生命を尊重する必要があるのか?
(2) なぜ自然は偉大なのか? なぜ自然環境を大切にする必要があるのか?
(3) なぜ人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ必要があるのか?

に対する答えを教師が持っているのかどうか、極めて怪しいと思うからです。
ただ、上記の記述内容に気づかせていただいた段階で、質問のタイトルは変更する必要がありそうですね。
補足欄に示します。

>小さなものの諸形態を貫く無限大の未知が、石ころにも自分にもミミズにも野菜にも母にも流れ込んでいることを思うとき、そこで特別の愛情を母から受けて存在のしるしを自分自身に認めるとき、慈悲、同情、共感、公正とは、世界の関係を繋留する自分を震源とし、自分は行動を起こす力そのものなのだとわかるのではないでしょうか。

理想的な流れでしょうね。
全ての子供が、こうした環境で成育できるなら素晴らしいことだと思います。
ただ、
>特別の愛情

を母親が正しく認識している必要はあるかもしれません。
>世界の関係を繋留する自分を震源

とすることが、必ずしも、
>慈悲、同情、共感、公正

と関連付けられるかどうかは未定なような気がします。

お礼日時:2016/01/26 19:12

補足の件了解です。


キリスト教徒とイスラム教徒についての問題意識がご質問の背景にあったのですね。
なるほどという思いでお礼を読ませて頂きました。
その観点から改めて読むと、(C)におけるハコブルさんの見解の方が私の言うヒューマニティーよりもシンプルだし、一歩進んでいる様に思います。別にヒューマニティーを持ち出さずとも、より強力な人間理解や共感が得られる術はあると。

しかしながら一方で、神が恣意性を持たないという見解は、キリスト教徒やイスラム教徒の持つ神観とは異なります。彼らの神は唯一普遍の絶対神で、人格神であるからです。そして、我の信ずる神の他に神は無いと言う強固な信念を互いに持っているので、相互理解の際に大きな、そして相容れぬ矛盾を生じます。

しかし、同じイスラムでも世俗主義と言われる集団は、政治に宗教を取り入れず、また異教徒に対しても寛容です。そこには確かに、矛盾もあるが、許容できる矛盾として、小さな宗教とも言うべきものが生きています。また、良くも悪くも個人主義というものが浸透した結果、信仰はプライベートなものとなり、誰が何を拝もうがその人の自由であると、そう言う権利を互いに認め合うことが主流となっています。かくして宗教は民族や国家を支えるものから、個人を支えるものへと変遷していっているのでは無いでしょうか。

宇宙の摂理と言う巨大なものの、非人間的な性質、即ち恣意性の欠如を根拠に、人間の相互理解を語るのも一つの道ではありますが、肝心の一神教の信者達には、その宇宙の摂理を神と呼ぶ事については大きな反発があるでしょう。その点、ヒューマニティーが、ある程度の作為の混じった代物であるとしても、論理的根拠を神や宇宙の摂理に持たないと言う、その弱さゆえの柔軟性が人類にとっては都合の良いものであるのは確かでもあります。

総論すると、宗教を民族や国家のものから個人のものへと縮小することで生じた隙間を、ヒューマニティーという神に頼らない生き方の規範で満たし、今ある宗教間の軋轢を緩和してゆくことが、現実的な道では無いかと。

どうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>別にヒューマニティーを持ち出さずとも、より強力な人間理解や共感が得られる術はあると。

同意いただいたので素直に喜んでおけばよいのかもしれませんが、私は正直なもので、すこしニュアンスが違います、と言わずもがなのことを言ってしまうんですよね。
つまり、
ヒューマニティーなどは、言ってみれば人間が作り出した価値観にすぎず幻想にすぎない。
本質的な真理について理解することによって、はじめて、
>より強力な人間理解や共感が得られる術

が【無意識的にさえ】理解され、無意識的であるがゆえに、極めて自然に実行にも移されるのではないか、といったことです。
出し惜しみしているわけではありませんが、話が散らかりすぎると良くないので、まだ、俎上には上げていないのですが。

>そして、我の信ずる神の他に神は無いと言う強固な信念を互いに持っているので、相互理解の際に大きな、そして相容れぬ矛盾を生じます。

そうですよね。
これを解消するためには・・。

>良くも悪くも個人主義というものが浸透した結果、信仰はプライベートなものとなり、誰が何を拝もうがその人の自由であると、そう言う権利を互いに認め合うことが主流となっています。

興味深いお話です。
ただ、「通常の状態」の場合は、たしかに何事も起きないと思うんですよね。
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」が、真理として浸透しているなら、「通常の状態」の範囲が広がるように思いますが。

>肝心の一神教の信者達には、その宇宙の摂理を神と呼ぶ事については大きな反発があるでしょう。

全くご指摘のとおりと思います。
そして、それは今後の重要課題のひとつと認識もしております。

>総論すると、宗教を民族や国家のものから個人のものへと縮小することで生じた隙間を、ヒューマニティーという神に頼らない生き方の規範で満たし、今ある宗教間の軋轢を緩和してゆくことが、現実的な道では無いかと。

かなり良い線を突いていただいたと思います。
宗教に関しては、単なる信仰以外に、組織への帰属による安心を求める心理が少なからずあるように思います。
個人的には、「祈り」という行為だけで人は十分、救われ得る、という認識が、自然に浸透していければ良いのだが、という気はしています。
組織宗教は諸悪の根源。

お礼日時:2016/01/27 18:19

ふむ、、本質的な真理について理解、ですか。

これは難しい。
根源的なものの理解というのは、本質的であるかもしれないが、太古的である場合もあります。それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。
ヒューマニティーは人類が作為したものかもしれませんが、最も進歩した価値観の一つであり、現代に通じ、また集団ではなく個人個人に通じ得る、真に普遍的なものに近づいているものです。表層的かもしれませんが、その表層が、きめの細やかさという意味において、些末まで行き渡るという意味においては大切になってきます。

つまり、我は我であり彼ではないという厳然たる事実、個人という存在を受け止めつつ、各人が人類としての行動規範を得て、無益な争いから離れようという事が、ヒューマニティーには可能であります。

一方で、本質的な真理についての理解は、左の人に出来たら右の人にもできるというものではない様に思います。宇宙の摂理という人智の及ばぬものが存在するだろうという事は分かっても、誰もがそこから、彼は我であったかもしれず、我は彼であったかも知らない、という、共感や人間理解に到達するだろうか?と疑問が生じます。そこにはハコブルさんならではの思索の深みが存在しており、誰しもが同じ様な思索を持ち得るかというと、難しいと私は思います。ですが、この深い共感と人間理解がハコブルさんの上において実現したなら、縁は自然と繋がって、周りの人もハコブルさん自身も豊かにしてくれるのかなと、そんな気はしています。

宗教について

とある思想や教義が、組織によって保たれてきたという面があるのは事実でしょう。そしてその伝わる聖書やコーランなどから恩恵を受ける個人が存在することも事実だと思います。ですから、組織だった宗教が諸悪の根源だと私は思いません。
また、祈りや瞑想が、個人の魂の安らぎに貢献するものであるというのは同意できます。しかしそれが、何か根本を解決するものであるかどうかと言うのは、まだ疑問が残ります。瞑想や祈りは静かに行われるものですから、世の喧騒から離れられるものではあるのですが。。

少し自説を述べすぎたでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。

私の意図も、まさにそこにあります。
戦前・戦中の軍国日本、現在の北朝鮮、アルカイダやタリバンの少年兵などの例を挙げるまでもなく、刷り込みほど、人間に強く作用するものは無いと思うのです。
そもそも、自我としての我 は放っておいても育つものですが、人類としての我 はなかなか難しい。
しかし、真理であるのだから、それを知らしめる必要があるはずです。
そして、たとえば、躾によって超自我性が自然に(何の抵抗もなく)身につくように、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という認識が無意識領域で身につくのではないでしょうか。
このことによって、かなりの問題が解決しやすい方向に動き出すような気がするわけです。

>しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。

はい、これはおっしゃるとおりです。
きれいごとではすみませんよね。

>一方で、本質的な真理についての理解は、左の人に出来たら右の人にもできるというものではない様に思います。

そのために小さい頃からの教育として、そして、おっしゃっていただいたように無意識的に身につけさせる必要があるのではないか、と思う次第。

>ですから、組織だった宗教が諸悪の根源だと私は思いません。

同感です。
しかし、こちらも根が深いですよね。
双方向で、関連する問いをさらに(ぼちぼちですが)続ける予定です。

>少し自説を述べすぎたでしょうか。

とんでもございません。
実に参考になります。

お礼日時:2016/01/30 23:18

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