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「人間どうあるのかという現実」か
「人間はどうあるべきかという真理」か。

このカテで、しばしば見受けられる議論ですが、さすが哲学カテ、
極めて重要な点ではないかと思い、私なりに思索をしてきました。

まだ、私自身理解が不十分なところがありそうですが、今の私の
理解では、この両者が「対等」であるということが良いのであって
どちらかに偏ってはならないと考えています。

皆さまのご高見を賜らば幸いです。

質問者からの補足コメント

  • 非常に重要な問題だと考えますので、
    様々な人の意見があるとおもしろいと思います。
    ここでは、「分かりやすいバージョン」としてやり取りで
    きたらいいなと思います。

      補足日時:2016/02/29 23:05

A 回答 (18件中11~18件)

こんにちは、ねこりんさん。





>人間はどうあるべきかという真理
:いえ、【どうあるべきか】というのは、
【真理】ではなくまぼろしです。
空想・錯覚・曲解・夢・寝言とも言い、
また現実逃避とも言います。
【どうあるべきか】などと言っているのは、
まだ生まれていない人か既に死んだ人です。
つまり【生きている自分】に関心を持つ
ことができない人です。


毎日毎日24時間、
自分が精一杯自分をする、
ということに没頭していれば、
【どうあるべき】などと考える暇はありません。
もちろん【あいつ】は毎日毎日24時間、
精一杯【あいつ】をしています。



だから、自分もあいつらも
なるべく滑らかに共生できるように
今、話し合いをするのですよ。




お読みいただきまして
ありがとうございました。
補足要求受け付けます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>空想・錯覚・曲解・夢・寝言・現実逃避
などと言ってはいけませんよ。
それが正しいとしても、そういう「頭ごなし」を人は受け
入れるわけがないでしょ?
「理想派」の人たちがです。

「そっちが最初に頭ごなしにきたじゃないか!」といった
ところで、結局感情的対立を深めるだけです。

「あいつら」って、子供さんのこと?
>なるべく滑らかに共生できるように、話し合いをする
のは、縁をする皆とですよね?

最近は、自分の好きな人とだけ交わり、嫌いな人、考えの
違う人のことは、「排斥する」がさらに強くなっていると
思う。

昭和では、もっと交流があった。だから、こんなにイライ
ラしなかったし、寂しくもなかった。

お礼日時:2016/03/03 09:00

どうあるべきか、なんて問題は人間には


難しすぎて、手に余ると思われます。

あるべき、というのはあるべき姿を描き
それに向かって進む、ということになり
ますが、そのあるべきが問題です。

社会主義がその典型です。

資本主義では不平等になる。
平等こそがあるべき人間の姿だ、と
いうことになってやってみたわけですが、
社会主義が産んだのは、貧困と独裁と
自国民の大虐殺でした。

これなどは、あるべきに惑わされて
人間どうあるのか、ということを無視、軽視
した結果です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに社会主義は失敗をしました。
しかし、貧困、独裁、虐殺を生んだのは、社会主義ばかりでは
ないと思います。

社会主義は確かに理想的と言えると思いますが、社会主義が失
敗をしたから、「理想」というものが何やら「悪いもの」のよ
うに現代では感じられているようですが、一歩掘り下げてもう
一度我々は考えるべきかと思います。

お礼日時:2016/03/03 08:37

《真理》と言うからややこしくなります。



あるいは 《べき》というときそれは 《人間のありうる可能性もしくは
潜在的なチカラ》のことを言うと捉えると分かりやすい。

《おかしい。あいつは変わったやつだ》と思ったとき では おれは変わ
っていないか おかしいところはないだろうかと 内に省みることは可能
です。

いや おれにはあんな変わったところはないんだと思って ありゃあやっ
ぱしおかしい 排斥してやろうかと思ったとき いま一度 待てよ なん
であんな風に考えあのように振る舞っているのかとなおまだ考える余地は
あり得る。と思い直すことは われわれ人間に可能である。

けれども このように何度も考え直し考え続けることは 人間の――必ず
しも《当為》ではなく――生まれつきそなわった人間性としてのチカラで
あり《現実》です。

何でも対立するふたつの事柄に分けたがるのはよくないことです。

《理想》ということにしても もともと《現実》の中からわれわれ人間が
みちびいて来たものなのですから。つまり 立ち止まって考えることをお
こなった結果 突き詰め究めきったという場合に過ぎません。

これが 《ご高見》です。
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この回答へのお礼

この度は、ご投稿を賜り、恐悦至極に存じまする。

さすが、思考の職人といったところでしょうか。
おっしゃる通り、「真理」「べき」という言葉は現代においては
使いにくい言葉のように思います。

総じて言えることは、相対するものは対立するものでなく、調和
をすることにより、価値を生ずるのであると思います。
男と女、理想と現実。

「現実派」は「理想派」を敵対視しているし、逆もしかり。お互
いに「排斥」しようとすることは本能的といえるもので、避ける
ことはできないし、また避けるべきでないと思います。

しかし、議論をしても、人間「ギャフン」とは言わないもので、
結局、感情的対立を生んでしまう。
「対話」ということになるのでしょうが、その模範的イメージが
見えていないというのが、正直なところです。

お礼日時:2016/03/03 08:24

私もこの質問と同じ趣旨の事について気になっていました。



この世界、世間や人々は、どうあるのかという事実を鑑みるだけでは、そこに苦しみの病根をみて、それを取り除く事はできないでしょう。しかし事実を鑑みなければ、何が病根であるかもわかりません。
従って、事実を見、そして人としてどうあるべきか、猪突さんはありえべきという言葉を使っていますが、要するに、本当に望ましい人としてのあり方を導き出せるかという事だと思います。1番さんが手順と仰るところで、私もそう思います。
人としてのありえべき姿が見えていないと、事実を見るだけで打つ手立てがありません。人としてのありえべき姿だけが夢想され、事実を置き去りにするなら、現実を好転するための何の力価も持ち得る事はできないでしょう。
仰る様に、事実を見る事と、人として望ましい生き方を希求する事の二つは両輪であり、何方を優先させるべきかという話ではないのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

あほなさんとも、基本的に同意見のようです。

そもそも人間というものは、宇宙の中で(地球でもいいですが)いかなる
存在であるのかということを知らずに生まれてきて、自分の住む社会の
文化を信じ、それを哲学、思想などとして自分を位置づけ、決定して生
きてゆくものであることは、国によって民族によって、考え方が違うこ
とからみれば、明らかだと思います。

今、P氏の主張を再読してみると、過去の「真理」を用いるのではなく
「自分の好きなように生きる"べき"であるという真理」ー現在多くの人
たちが採用しつつある「真理」を自分の哲学にしているということに他
ならないと思うのです。

このようにストレートな表現であったなら、私もそれほど気にならなか
ったかも知れませんが、「人間はどうあるのかという現実が重要である」
という表現の中に、「恣意性」を感じたのです。

彼の退会を待っての投稿ではありません。たまたまこのタイミングになっ
たことを承知いただけたら幸いです。

お礼日時:2016/03/01 16:47

どちらも捨てるのがいい。

現実は幻想であって真理は知りえない。
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この回答へのお礼

すると、何が残る?

お礼日時:2016/03/01 00:43

16.無常について


(1)科学の視点からこころを見る
A・スマナサーラ長老
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi78.html


どうせサイエンスライターは
仏教は科学とか言っているスマナサーラのほうは
無視するのだろうな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

よく理解できませぬ。

お礼日時:2016/03/01 00:37

アイザック・ニュートンのオカルト研究


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4 …


最近サイエンスライターに粘着されていて、うんざりしていたけれど
そんな奴に科学かどうか判定されて揶揄されるよりも
ニュートンがオカルト研究していたという話のほうが興味深い。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

関連がよくわかりませぬ。

お礼日時:2016/03/01 00:30

対等、ではなく“手順”という事になるかと思います。



どうあるべきか、ではなく、どうあるのか、という事が大事だという“理由”がもっともであるような受け止め方をされている意見がこのカテで述べられ、その説得力に圧倒されてか異議がまだ出されていませんが、ニャンポコリンさん同様?何となく私は違和感を感じています

今の私の理解は、まずは“どうあるのか”を見極めて受け止めて、そこから“どうあるべきか”を導き出すと云う手順が“真理”に近づく適切な手段なのではないか、と云うものです。

“理想としての真理”から導き出す結論は、物事に対処する姿勢・行動を正当化してしまい“間違い”を認められなくなる、という事を指摘しているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

意見が合いましたね。

>まずは「どうあるのか」を見極めて受け止めて、そこから「どうあるべきか」
を導き出すという手順が真理に近づく適切な手段

なるほど、私とかなり近いことを考えているのではないかと思います。

ハコブルさんの質問の中でのやり取りにかなり詳しく書かれていましたが、
チョトツ氏の文章は熟読しないと理解できないので、まだなのですが、プラ
ポチ氏の文章を引用すれば‥‥彼が退会したからといって陰口をいうのでは
ありません‥‥、「人間がどうあるべきかという真理を知っているのだ、そ
の真理によって解決してゆくのだ」とありますが、違いますよね?少なくと
も私は違います。

真理を求める人は、普遍的な「哲学」のみを求めるのだと思います。「人間
とは何か?」とか「最高の価値とは何か?」などの、これだけはないと困る
というものを、私は欲します。

社会主義だ、資本主義だ、唯物論だ、唯心論だ、は、普遍性のないものであ
って、むろん、そういったものを考え、ハードルを上げてきた人間たちはい
たでしょうが、私に言わせれば、そのような人たちは、「真理を求める人」
には入りません。おそらく、yy8さんもハコブルさんも同意見だと思います
がどうでしょうか?

結局、普遍的な哲学の存在を信じる人と、否定する人との論争になるのかと
思います。世相は圧倒的に後者か?

私たち素人の論理は、多分畝っていたり、言葉がぬけぬけだったりするんで
しょうが、主張は負けないつもりです。ハードルを上げて馬鹿にしないでも
らいたいですよね。

お礼日時:2016/03/01 00:24

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