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伊藤博文が日本に焼肉?すき焼き?を伝えたって本当ですか?

それまで日本人は焼肉?すき焼き?を食べていなかったのですか?

伊藤博文って大正時代の人ですか?

初代総理大臣ですよね?

明治時代の人?

日本人は明治時代まで肉を食べていなかった?

牛は農作業に使ってただけで伊藤博文が日本で最初に牛を食べた人になる?

A 回答 (1件)

ウィキペディアの「すき焼き」を読んでください。


コピペしました(笑)

★牛肉の供給
安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の日本国外の人々から食肉文化が伝わってきた。日本に肉牛畜産の産業がなかったため、当初は中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカから食用牛を仕入れていた。しかし居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加し、のちに神戸の家畜商が横浜へ食用牛を搬送するようになった。このような背景の元、幕府は元治元年(1864年)居留地に指定されていた横浜市の海岸通に屠牛場の開設を認めた。

★牛鍋

ぶつ切り牛肉を使った牛鍋
屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したのが最初の事例とされる。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。1867年江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた「中川」も牛鍋屋を開業した。明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」を創業し、当時主流の味噌煮込み風牛鍋を提供した。同年、横浜につづき東京の芝にも外国人向け屠牛場ができると牛鍋屋の流行は飛び火し、それ以降の牛食は文明開化の象徴となった。
食肉処理技術や冷蔵設備の未発達から、幕末から明治時代初期の牛肉は固くて獣臭さが目立ち、それらを緩和するために関東の牛鍋はぼたん鍋や紅葉鍋に類似した内容で、具材は牛肉の薄切り肉を使うことが定着しておらず、角切り肉を使う場合もあり、野菜はネギのみで味噌仕立ての味付けで煮る・炒め煮にする調理法が主流で、ネギを五分の長さに切ったことから、明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともあった[12]。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋もこうした味噌鍋が主流であったが、肉質が上るにつれて関東の味付けは味噌から、醤油と砂糖などを調合したタレ(割下)が主流になっていった。
1870年(明治3年)、福澤諭吉は築地の牛馬会社の求めに応じて書いた牛肉や牛乳の摂取をすすめる宣伝文『肉食之説』で
古来我日本国は農業をつとめ、人の常食五穀を用い肉類を喰うこと稀にして、人身の栄養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用い其乳汁を飮み滋養の欠を補うべき筈なれども、数千百年の久しき、一国の風俗を成し、肉食を穢たるものの如く云いなし、妄に之を嫌う者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を弁えざる無学文盲の空論なり。

— 福澤諭吉、『肉食之説』:旧字旧仮名 - 青空文庫

と表現していた。1871年(明治4年)に仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していた。1877年(明治10年)の東京における牛鍋屋は550軒を超えるほどであった。
1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらを沢山の割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となった。

★すき焼き

すき焼きは関西で使用されていた言葉であり、1869年(明治2年)に神戸で牛肉すき焼き店「月下亭」が開店、牛肉を焼いてから砂糖・醤油で調味するものであり、関東大震災以降に割下を使用するすき焼きが広がっていった。
高度成長期の昭和30年代後半には、ブランド牛が高級化すると共にすき焼きも高級化の一途をたどり、多くの人が好むごちそうとなっていった。


ってことで、「伊藤博文」の名前はありませんでした。
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