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例えば……

夏目漱石の「坊っちゃん」、好きです。しかし、次の箇所が気になります。

「ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。」

これ、将棋愛好家の立場から「それは違う!」と言いたくなります。冷やかされたことに腹を立てるのはしかたありませんが、待駒はけして卑怯ではありません。待駒は将棋の重要な戦術です。漱石先生が将棋に対してそういう認識をいだいていたのか、それとも表現上あえてそう書いただけなのかわかりませんが、将棋に関する誤解をひろめていないだろうかと心配になります。もちろん、こんなことは作品そのものの評価には微塵の影響もないのですが。

……といったように、文学作品中で思わず「それは違う!」と言いたくなるものを教えてください。

嘘を嘘らしく書いてあるものではなく、読者に誤解を与えかねないものや、作者が気づいていないであろう間違いなどを知りたいと思います。

とりあげていただく作品は、有名な作品、世上で評価の高い作品ほど歓迎します。
(多分私は読んでないけど ^^;)

寄せられた回答は、今後の読書の参考にするとともに、雑学の一助にします。

それでは、よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

>文学作品中で「それは違う!」と言いたくなるもの



これは大きく分けて三種類あると思います。
ひとつには、作者の側に知識がない、もしくは何らかの誤解があって、読者に「違和感」を覚えさせるもの。
もうひとつは、作者の側が、意図的に「違和感」を準備しているもの。
あともうひとつ、読者の側に知識がない、あるいは作品が書かれた当時と時代が移り変わったことで、現在見る時どうしても「違和感」を覚えてしまうもの。これに関しては、ご質問の趣旨とはずれるかと思いますので今回ふれません。

まず、一番目の、作者の知識の不足からくる「違和感」さらには「誤り」に関しては、いくつか思い当たる作品はありますし、実際にそれに関連する回答もこのサイトで行ったこともあるのですが、作品研究などの目的がある場合はさておき、そうした作家の知識の不足や誤解をことさらに指摘する必要があるのか、という疑問が私個人としてはあります(あくまでも個人的な趣味の問題であって、質問者さんやほかの回答者の方を批判する意図は毛頭ありません)。

ただ、既に有名な話ですし、岩波新書のベストセラー、大野晋の『日本語練習帳』にも取り上げられていますので、このカテゴリに属するものとしては、太宰治の『斜陽』の会話文をめぐって、志賀直哉の批判と太宰自身の反論を紹介してみたいと思います。
質問者さんがご存じでしたら申し訳ありません。

志賀直哉は雑誌の対談の席で、太宰の『斜陽』登場人物が華族に設定してあるにもかかわらず

「田舎から来た女中が自分の方に御の字をつけるような言葉を使うが、所々にそれがある」(大野晋『日本語練習帳』岩波新書よりの孫引き)

と主人公たちの会話文に「それは違う」と異を唱えた。

これに対して当の太宰は『如是我聞』の中で反論しているのですが、実は全然反論になっていない(笑)。
ところがこれがおもしろいんです。太宰治の晩年のエッセイ(口述筆記によるいわゆる「語りおろし」)ですが、志賀に対する批判(というよりほとんど罵詈讒謗)を通して、彼の文学観や文化、知識人に対するものの見方がうかがえるものになっている。
「それは違う」が、社会的に問題を引き起こしたのです。

ただ、問題の敬語に関しては、大野は同書の中で、誤りを指摘したあと、

「そこでやりとりされる会話を写実的に描くことは他所で育った太宰としては本来無理だったのです」

とまとめています(ただ批判した志賀に対しても「神様」ではなく「職人」である、と別の箇所で痛烈な批判をしています)。

二番目の、作者が用意した意図的な「違和感」、これは別の言い方をすると、伏線です。
作者は後の展開のために、いくつかの伏線をはっておく。これは「些細な違和感」という形で、さりげなく読者の目に留まる仕掛けです。
ミステリなどではこの伏線がきわめて重要ですが、文学作品でも随所に見受けられます。

漱石の『明暗』をめぐって大岡昇平は『小説家夏目漱石』(筑摩書房)の中で、不自然なところが多いことを指摘しています(たとえば、お延が岡本に金を借りた後すぐ津田の入院している病院へ行かず岡本と歌舞伎へ行くことや、お延が津田とお秀の会話の中で清子のことが話されるのを盗み聞きするのに最後まで聞かないこと、吉川夫人が津田に湯河原行きを説得するそのやり方など)。

そうした不自然な部分はすべて伏線であって、結局書かれることのなかった部分へと結実していくに相違ない、として、大岡は結末を予想します。

『明暗』のように未完で終わってしまった作品はともかく、大多数の作品は、そうした「違和感」に、一応の説明がつくようになっています。
ただし、その説明に読者が納得がいかない場合、「それは違う」ということになる。

ミステリを読んだとき、「それは違う」「それはない」と言いたくなってしまうことが多いのは、作者の設定したカタストロフィが、伏線を気持ちよく説明しきれていないからです(というか、いわゆる「本格推理」は本来、論理ですべて説明がつく、そのカタルシスを本来目的としたものだから)。
釣り鐘から袖がのぞいていなかったのは、釣り鐘の外側にもうひとつ、張り子の釣り鐘がかぶせてあったからだ、と説明されても、「そんなデカイもの、いつどうやってひと目につかないように運んだんだ、しかも医者は片手だぞ」と小学五年生に突っ込まれるのは、作者の失敗ではないでしょうか(小学五年生は私、作者は横溝正史、作品は『獄門島』)。

あるいはまた、このようなケースもあります。

ウィリアム・フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(1936)では、主人公のトマス・サトペンがハイチで1827年、黒人奴隷蜂起に出会う。これは非常に重要なできごとなのですが、現実にはありえない設定なんです。これに関しては多くの研究者がさまざまな考察をしていますが、いまだに決定的な答えが出ていません。
単に作者の強引な設定、としてとらえるのではなく、そのことを通して作品の読みかえはできないか、あるいは南部アメリカ対アングロサクソン文化というコンテクストの中で、ハイチ、プエルト・リコなどの西インド諸島はどういった役割を果たすのか、と作者の用意した「それは違う」が、作品を読み解く鍵にもなりうるのです(と、専門に属することがらはさらっと)。

さて、最後にご質問文中の『坊っちゃん』の将棋です。

まず、自伝的要素の濃い『道草』の中に、主人公が年少の頃将棋を指した記述が見受けられます。

また将棋ではないのですが、『吾輩は猫である』の中にも、かなり長文に渡る囲碁の描写(対戦者は迷亭と獨仙)があり(十一章)、この部分はあきらかに知識がない人物の書いたものではありません。

江戸っ子で、父親は町名主であったとはいえ、武家ではなく町人階級の出身、漱石の中には落語を愛し、軽妙洒脱の風を愛した部分があります。
本が手元にないので確認できませんが、鏡子夫人の手になる『漱石の思い出』の中にも、冗談を言い出したらきりがなくなるようなところがあった、という記述があったように記憶しています。
『道草』の健三同様、幼少期より将棋に親しんだと推測しても、不自然ではないでしょう。

やはり待駒に関する知識がなかった、あるいは誤解があった、と考えるよりも、#2の方がおっしゃるように、待駒を「卑怯」と考えるほど、極端なまでに一本気で短気な性格の描写と読むべきなのではないか、後の行動の一種の伏線であったと考えた方が、無理はないかと思います。

(なお、余談ながら#3の方がおっしゃるように子規は確かに『墨汁一滴』の中で、帝大在学時、牛込の自宅にいた漱石を誘って散歩していた途中、水田にそよぐ苗を見て、「米がこの苗の実である事を知らなかった」と書いていますが、これはおそらく23歳ぐらい、漱石になる前の学生が、根っからの江戸っ子、町の子であったことの傍証でしょう。さらに余談となりますが、いわゆる「猥談」を仲間内でもせず、そのために孤立することもあったのは鴎外の方であって、『ヰタ・セクスアリス』をたとえタイトルだけであってもその文脈でお使いになることは非常な違和感を覚えました。以上、余談の余談、失礼しました)。
※質問者さん、他の方の回答を一部批判的に扱った部分がありますが、あくまでも批判や議論を意図したものではないことを最後に申し添えておきます。不躾な点などありましたら、ご容赦ください。

この回答への補足

(続き)

『坊っちゃん』の「待駒」の件について。
質問文中でも「表現上あえてそう書いただけなのかわかりませんが」と留保をつけておいたのですが、#2さんとghostbusterはこの立場のようですね。私も作品的にはこれで何の不合理もないと思います。

ただ、(ここで将棋の話をひろげてもしかたないのですが^^;)、縁台将棋などでは「待駒は卑怯」という認識の人は昔はけっこういたみたいなので、そのあたり将棋をあまりを知らずに『坊っちゃん』を読んだ方は誤解しないでほしい、と思ったわけです。

しかし、このことを質問中の例として出したのは不適当であったかもしれません。将棋に対する問題意識と、小説に対する問題意識がごちゃまぜになってしまいそうで、私の不手際でした。

田んぼの件についてのお話は参考になりました。


>あくまでも批判や議論を意図したものではないことを最後に申し添えておきます。

はい、わかっております。


>不躾な点などありましたら、ご容赦ください。

ご容赦も何も、あやまるのはこちらです。
私のいたらない質問と軽口とで不快な思いをされた方々には心からおわびいたします。

また何か機会がありましたら、これにこりずに、御回答いただければ幸いです。

補足日時:2004/07/19 12:35
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この回答へのお礼

いつも、ありがとうございます。

まず「ヰタ・セクスアリス」について。

この小説は、鴎外の生真面目さと自己を見つめる真摯な姿勢が書かせたものであると、素人なりに思っています。私が「漱石版……」などと言ったのはただの冗談・軽口のつもりだったのですが、度をはずれた、無神経なものでありました。ghostbusterさんが非常な違和感を覚えたこと、全くごもっとも。おわびのしようもありません。

と同時に、私の軽口に調子を合わせてくれたがために、#3さんには不快な思いをさせてしまったかもしれません。誠にすみませんでした。


少々凹み気味ですが、気をとり直して。

>作家の知識の不足や誤解をことさらに指摘する必要があるのか、
>という疑問が私個人としてはあります

これ、ghostbusterさんのおっしゃることもよくわかります。作家の些細なミスを見つけて何か勝ち誇ったような態度をすることは、私も好きではありません。しかし、そういうことではなしに、たとえば、「獄門島」の釣り鐘のような(笑ってしまいました)楽しいお話がいろいろ聞けたらいいなと思ったのですが、質問のしかたがどうも下手だったようです。(それにしても、小学生で「横溝正史」ですか^_^;)

「日本語練習帳」は読んだことがあり、「斜陽」の話が出ていたことも思い出したのですが、肝心の太宰の反論がどんなものだったか、すっかり思い出せません。ついでに「斜陽」の内容も思い出せません。ghostbusterさんの回答を読ませていただくことがありますが(哲学カテを除く)、読書量もさることながら、読んだ本の内容を良く覚えていることにいつも感心してしまいます。何か特別な方法があるのでしょうか(余談)。

>(と、専門に属することがらはさらっと)。

そういえば、ghostbusterさんが「専門家」として回答してらっしゃることってほとんどありませんね。たしか現代アメリカ文学が専門であるとおっしゃっていたように思うのですが、そっち方面の質問は少ないのでしょうか。

『アブサロム、アブサロム!』(早口言葉か!)については何かそうとう深いものがありそうですが、私にはちんぷんかんぷんなので、さらっと。

(補足へ続く)

お礼日時:2004/07/19 12:32

お礼欄補足欄拝見しました。


回答をした際、書く必要のないことを書いてしまったかな、と気になっていたんです。拝見して、安心しました。

今回の回答は、ご質問に関連しつつ、回答欄、補足欄の補筆を行うもので、雑談を意図したものではありません(これは削除よけの御守り)。

まず設題をどういうことだろうか、どのような場合があるだろうかと、整理分類してしまうのは、一種のクセというか職業病というか、今回も「それは違う」と言いたいケースを「私はこのように分類してみた」わけです(人によってさまざまな分類のし方があると思います)。

ところが「作者の無知・誤解からくるもの」を考えた時、一緒に、まぁ実にさまざまなことを考えてしまった。
要約してしまうと「知識はあるに越したことはないが、それでも絶対的な知識というのはあり得ない」ということと「誤解は避けられない」ということ。
加えて、作者が知らなくてこちらにその知識があれば、たとえその割合が100対1であっても、1の「作者は知らなかったんだな」がどうしても印象に残る。ちょっとした優越感とともに(自分の経験からです)。

これはマズいんじゃないか、という問題意識が回答の根本にあったわけで、質問者さんが作者の粗探しを意図しておられたとはちっとも思ってはいませんでした(不思議なもので、限られた文面からでも、人柄のある側面というのは意外なほど伝わるものですね)。ですからどうか凹まないでください。

ただ、現在では作者の誤解レベルでの「それは違う」というのは起こりにくくなっているのも確かです。
単純な知識の不足や誤解は、編集者のチェックが入りますし、それを潜り抜けても、雑誌の発表の段階であちこちから指摘され、本として出版されたときには訂正された形になっていることが多い。
外国の作品であれば、出版社はその旨を著者に通知して対処を求め、著者の意向に沿って何らかの処置が取られます。
単行本で出た段階で、そうしたエラーがあると、むしろ出版社のチェック機能の甘さが問題になることが多いようです。


>将棋をあまりを知らずに『坊っちゃん』を読んだ方は誤解しないでほしい、と思ったわけです。

普通に読んだら、この部分は「坊っちゃん」の短気、一本気、作為を嫌う性質のエピソードとして流れていってしまうところを、将棋をご存じの方の方は、このようにひっかかっていくのだな、とそちらの方が私にはおもしろかったです。逆に、将棋をご存じだからこそ、坊っちゃんの性質の極端さが深く理解できるのではないかと思いました(『猫』の囲碁の対極の場面もそうですね)。

単に言葉→意味でなく、その言葉にまつわる周縁的ことがらをいかにたくさん知っているかで理解の度合いが変わってくる。
なにごとであれ、広く知ることは、深く知ることに通じていくのだと思います(逆もまた真)。
私自身は囲碁将棋の知識はないのですが、先日、囲碁に詳しい方に「手抜き」「見合い」という考え方を教えていただいて、なるほど、こんな考え方もあるのか、と、世界が拡がっていくような思いでした。

考え方を少しずらす、視点を変える、というのは言葉でいうほど簡単なものではありません。
囲碁将棋含め、さまざまな趣味というのは、普段から複眼的思考を鍛錬するのに役に立っていくのではないでしょうか。


さて、本というのは読んだままにしておくと、流れていってしまいますから(そういえば細部まで頭に残っていた時期もあったなぁ、と遠い目…)、読んだことをひっかけておく釘が必要です。

私の場合、まず自分の中で整理整頓するために、読書録を作ります(いまはデータベースを使用しています)。
小説であれば、作者・タイトルのほかに印象に残ったフレーズを。
論文であれば、要約と引用を記録します(必要に応じて詳細なものから、全体の印象程度のものまでさまざま)。
これをやると、結局二度読みすることになります(二度目は拾い読みですが)。

そして、今度はそれをアウトプットする。
人に話すのでも良いし、こんな本を読んだ、とメールで送るのも良い。
自分の言葉で置き換えることによって、本で読んだ知識や考え方、思考の枠組みが、ずいぶん自分のものになっていくような気がします。
ここの哲カテで回答しているのは、もっぱらそのためです。

そうやって釘をいくつか用意して、それでも流れていってしまう内容は、所詮は縁がなかったのだな、と…(笑)。


やはり本を読む量は相当減ってきています。
小説はここ数年、年間十冊読むか、読まないかではないでしょうか。

小学生の頃、といえば、思いだすのがちょうど五年生の夏休み。親の本棚にあった司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み出したのです。午前中から読み始めて、読んで、読んで、とうとう八巻目を読み終えたとき、部屋が薄暗くなっているのに気がついた。なんだか身体が浮いたような感じ、違う時空を生きていて、現実に戻るのに時間がかかるような感じがしたのを覚えています。あそこまで、文字通り全身全霊で本の中に没入するような読み方は、いまとなっては決してできないので、懐かしいような、ちょっと寂しいような気持ちです。
横溝もそのころずいぶん読みました(そしてそのあと捕物帖時代が来る)。『悪魔の手鞠唄』は犯行の動機が最後までよくわからなかったんですが、そのしばらくあとで読んだ『悪魔が来たりて笛を吹く』はよくわかったので、いつの間にか知識がついていたんでしょうね(何のことかわからない?そしたら読んでくださいな)。

この回答への補足

訂正。
『蛇とピアス』は『蛇にピアス』でした。失礼しました。

ついでに一言。
『竜馬がゆく』を子供の時に一日で(半日という言葉の使い方に自信がなくなったので一日にします)読んだという話は、大変興味深いものでした。単にびっくりしたというだけでなく。
おそろしく陳腐な言い回しですが、さしずめ、「その時、読書の精が舞い降りた」と言ったところでしょうか。見当違いでしたらごめんなさい。(あやまってばかりですが)

補足日時:2004/07/21 19:20
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この回答へのお礼

ちょ、ちょっと待ってください。私の読み間違いでなければ、小学五年生が『竜馬がゆく』全巻を半日で読んだのですか。。。。。

(絶句)

言葉がでませんので、そのことはちょっとおいといて。前回のお礼でおかしなところを訂正させてください。

「すっかり思い出せません」→「さっぱり思い出せません」あるいは「すっかり忘れてしまいました」

「将棋をあまりを知らずに」→「将棋をあまり知らずに」(「を」が一つ余計でした。コピペしましたね。)

他にもあるかもしれませんが、とりあえずこれを訂正しておきます。

      ◇

さて、本題。
前回の回答の三分類を目にした時、真っ先に「実は、面白くなかった有名作品」でのghostbusterさんの回答を思い出してしまいました。そこでも三分類をやっていますね。
実を言うと今回の私の設問は「実は、面白く……」の影響で生まれたものでして、あ、いや、もちろん困っているから質問したのですが…(お守り。お守り。^^;)
つまらない質問に対してずいぶん真剣に考えてくださっているのだなと思うと恐縮です。

「たとえその割合が100対1であっても」という言葉にはハッとさせられました。優越感を感じそうになったら思い出して自分を戒めたいと思います。(私の場合は百億対一くらいか)

>現在では作者の誤解レベルでの「それは違う」というのは起こりにくくなっているのも確かです。

これで思い出すのが#1の回答に出ている『蛇とピアス』。作者が芥川賞を取り人気作家になった現在では、編集者のチェックがもっと周到になるのではないでしょうか。
もっともタトゥーの描写が不自然であったのかどうか、私には(たとえ読んだとしても)わからないのですが。

読んだことをひっかけておく釘の話は参考になりました。読書録を作るというのは多くの人が考えそうなところですが、「今度はそれをアウトプットする。」というのがミソですね。ghostbusterさんがここで回答する理由の一端が垣間見えました。

あと、言い忘れましたが、『明暗』と『道草』は未読です。読んだらまた面倒な質問するかもしれませんので、覚悟しておいてください。(笑)


いろいろと教えていただき、ありがとうございました。
(そして、「お守り」ありがとうございました。)




にしても、小学五年生が『竜馬がゆく』全巻を半日……、ホントーデスカーーー!!!!

お礼日時:2004/07/20 20:31

No.3です。

お礼につられて再登場。
それにしても、回答より長いお礼文で恐縮です。
「回答がどっさりきたら」と夢想して、さっぱり集まらない、
なんてのは、私にもよくあります。お互い懲りない面々で^_^;。

で、ご質問、なんでしたっけ。
そうそう、その前に、「絹」って小説(物語かな)間違ったイメージを植えつけちゃった。
アマゾンのレビューどおり、美しく官能的です。中篇だし、読んで損はないと思います。

で、坊ちゃんの悪態のかずかず、じゃなくて「それは違う」ですが、
時代小説、歴史小説ということで思い出しましたので、それを(ご存知だったら失礼ってことで)。

昔、三田村鳶魚(えんぎょ)という、
NHKTV「お江戸でござる」に出ていた杉浦ひな子さんとは似ても似つかない怖いおじさんがいて、
(ひな子さん、毎週かわいかったですね。和服がとてもよく似合ってました)
吉川英治を初めとする当時の歴史小説を時代考証の立場から滅多切りにした人がいたそうです。
現在、中公文庫で「鳶魚江戸文庫」として10冊くらい出ていると思います(が、もちろん読んでません)。

そして、その滅多切りにされた吉川英治さんが後年、
今度は司馬遼太郎さんを「勉強不足」と決めつけたんだそうです。
司馬先生の眼光紙背に徹する資料読みや数万冊の蔵書は、その時から本格的になったんでしょうか。

岡本綺堂の「半七捕物帖」は江戸末期の風俗をよく伝えているそうですね。(青空文庫でたっぷり読めます)
綺堂氏はもともと江戸っ子で和漢洋に通じた一大教養人でもあったので、それが書けたんですね。
ふつう時代考証し出すと、小説なんて一行も書けないんじゃないか。
それではどうするかというと、なるべく風俗に触れなくていい書き方をする、んだそうです。

具体例に全然触れられなくて、ごめんなさいです。

漱石は何をやってもどれをとっても超一級だったので、田んぼの話が生きるんですね。
「漱石版ヰタ・セクスアリス」、面白い。苦沙弥先生たち、どういう顔つきで。
それより猫くんは何と弁舌するでしょうね、「天佑がちと足りない」などと宣いつつ。
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この回答へのお礼

>「回答がどっさりきたら」と夢想して、さっぱり集まらない、
>なんてのは、私にもよくあります。

そうですか、zephyrusさんが、頻繁に質問をなさっていること知りませんでした。どちらのカテゴリーが多いのでしょうか。こんど注意して見てみます。

で、なんでしたっけ。そうそう、アレッサンドロ・バリッコの「絹」。現代海外文学はほとんど読まないのですが、記憶の片隅に入れておきます。

「三田村鳶魚→吉川英治→司馬遼太郎」の話は聞いたことがあったような気がするのですが、はて、何で読んだか。もしかしたら、記憶の混乱かもしれません。

それにしても、時代小説、歴史小説は考証が難しいですよね。誰の言葉だったか忘れましたが、「時代考証を一通り勉強してから書こうなんて思っていたら、時代小説なんて一行も書けない。書きながら勉強するんだ」というのがあったと思います。

ところで、

>岡本綺堂の「半七捕物帖」は江戸末期の風俗をよく伝えているそうですね。

    (中略)

>それではどうするかというと、なるべく風俗に触れなくていい書き方をする、んだそうです。

これ、後半部分は岡本綺堂の話ではなく、時代小説についての一般論と受け取ってよいのですか。岡本綺堂の話が続いているのだとすると、風俗をよく伝えているのか、風俗に触れていないのかよくわからないのですが。(笑)

再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/19 10:35

ごくたまにありますね、そういうこと。


そんな時、「ちょっと待ってくれ」とか「おやおや」とか思うのですが、
なにせ現代人は忙しい。そのまま読み飛ばしてしまうのが常で
どの本のどこにあったかなんて丸で覚えておりません。

たとえば欧州の小説などで、
それこそ「ボスポラス以東に人間は住んでいない」式の表現を
どこかで読んだような気もするのですが、まあ、あくまで気がするだけです(汗)。

などということをいくら書いても回答になりませんので、ひとつだけ。
アレッサンドロ・バリッコという1958年トリノ生まれの音楽学者兼作家の「絹」という小説(1997年白水社刊)。

舞台は一九世紀中葉の南仏と日本なのですが、
この日本が、どこの惑星上のパラレルワールドかというくらい歴史的現実とかけ離れています。

尤も、作者もそこは心得ていて、「日本の読者へ」という巻頭の断り書きの中で、
「ここに物語られた日本とは、(中略)西洋人の空想の方にはるかにしっくりなじむ日本である」、
「ひろい心で理解してほしい」とあるので、わざわざあげつらうのはフェアーでないのですが。

回答、お粗末ながらここまで。あとは余談です。

漱石先生にないのは、たぶん猥談と勝負事(賭け事を含む)。
将棋も縁台でひとがやいやいやるのを見ていただけではないでしょうか。
田んぼに生えている植物を、あれから米が取れるということをある時期までご存知なかったらしいし。
大きな仕事を為し、後世に多大の影響を与え続けている人も、すべてが完璧とはいかないんでしょうね。
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この回答へのお礼

>そのまま読み飛ばしてしまうのが常で
>どの本のどこにあったかなんて丸で覚えておりません。

おっしゃる通りです。
投稿した直後は、「回答がどっさりきたら、お礼書きが大変だなあ」などとバカなことを夢想していたのですが、ちょっと答えにくい質問だったかもしれません。それにもかかわらず、何かしら答えてやろうというzephyrus様の心意気には涙を禁じ得ません。
うぅ………………………(涙)…………………………………

で、何でしたっけ。そうそうボスボラス。じゃなくてっ! アレッサンドロ・バリッコの「絹」ですか。ハイ、もちろん読んでいませんし、名前すら初めて聞きます。

しかたないのでアマゾンのレビューを読んで見ましたが、「世界で最も美しい絹糸を吐く蚕……美しい謎……絹のようにしなやかで官能にみちた……」なんて言葉を目にすると「おおっ」と思ってしまいます。しかし、そうですか、「どこの惑星上のパラレルワールドか」ですか。断り書きをあまり気にとめずに読んだらずっこけるかもしれませんね。

日本人が書く日本の時代小説、歴史小説にも、昔の人が見たら笑ってしまうものが多々あるのかもしれませんが、外国人による異文化の誤解というのは独特のものがあります。そういう意味では、日本の作家が書く外国の歴史物なども、かなり眉に唾をして読みたいと思います。(めったに読まないけれども^_^;)

漱石の田んぼの話はおもしろいです。落語好きだったりとか、庶民的な面もあると思うのですが、意外と世間知らずのところもあるのでしょうか。

>漱石先生にないのは、たぶん猥談と勝負事(賭け事を含む)。

といのもおもしろい。
しかし、猥談こそしませんが、漱石作品には恋愛の機微が実によく描かれているものがあります。これらは、実体験で培ったものなのか、古今の書物などから得たものなのか、想像で書いているだけなのか、どれなのでしょうか。気になります。

どなたか「《贋作》漱石版ヰタ・セクスアリス」なんて書いていただけないものでしょうか。
なんて、これこそ余談。少しおしゃべりが過ぎたようです。

回答いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/18 10:31

質問の主旨とは外れますが、坊ちゃんは極端に短気で変なヤツじゃないですか。


ご指摘の描写は物凄く彼っぽい、むしろそれが正当なルールだからこそ
彼の性格描写ができているのだと思いますが。

無用の差し出口でした。失礼。
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この回答へのお礼

「表現上あえてそう書いただけなのか」と私が言ったのは正にそのことです。

ご指摘、ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/17 05:15

最近話題になりました、芥川賞の受賞作、「蛇にピアス」



この中で出てくる、タトゥーの入れ方の記述がまるきり違うんだそうです。
入れ墨を実際に体験した方が読み、「違う!違いすぎ!」といって怒っていました。

私は読んでいませんし、実際に入れ墨もしたことがないのでわからないので自信なしです。

方法についての描写がまるきり違うんだそうです。
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この回答へのお礼

「蛇にピアス」読んでいません。作者の外見だけは知っていますが、タトゥーはしてないんでしょうね。若い女性が取材するのも大変そうだし。「蛇にピアス」を読むことがあったらそのあたり注意したいと思います。

御回答を読み、なぜか、谷崎潤一郎の「刺青」を久しぶりに読んでしまいました。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/17 05:09

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