最速怪談選手権

《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれが
あるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。



ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではな
く 疑いそのことについてのことばがある。

《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか このこととは
別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことにつ
いての言葉がある。
 
それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知
れない。
 
それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならな
いという義憤のようなものでありうる。

――そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心
の奥に動きを見せるときがある。
 


これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間
にも みづからに得られる真実のことばであるかのように思われる。



けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のこと
ば(非思考の庭)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。ということ
のようである。

《ことばへの不信》なる問題をめぐって。




今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。
 
思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。
 
《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉
と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶ
せるようにはたらく》真実の言葉とがある。

後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして い
づれかの国語において意味を取るかたちである。
 


これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ
運動する》かのようである。
 
旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は 
もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控
えている。
――とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。



けれども――さらに重ねて捉えようとするならば―― 心の奥からの真実の言葉は 
《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに
語られるかのようである。
 
《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか 
きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息の
ごとくであったりする。とも言い得る。
 
もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実と
しての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさ
らに窓を 開かねばならない。  

さもないと 言葉に付いた(われわれ人間が付けた)色合いが 消えない。のではな
いか?





☆ 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》や《親しき内密
のことば(verbum  verum intimum)》なる用語は アウグスティヌスの『三位一
体論』からその一部の論旨とともに借りたものです。
ここに表わされた趣旨は 借りた筆者の勝手な脚色によるものです。

A 回答 (1件)

ここに回答?を寄せようと思ったのは、氏の質問「思想としてのゴロツキが・・」への私の回答№2の"非思考の場は、無色透明だから・・"という考えを訂正してみたくなったからです。

自分の頭の中でつじつまが合わないかな?と思ったんです。

そこで思い切って云ってみます。非思考の場(庭)に色有りと。

氏は、人の想定する神は実は想定せずともすでに己れに備わっているものとし、思索の対象外であるとして「非思考の庭」と表現しました。
非思考の庭、とは場、を指しているようにも思えます。
例えればお釈迦様の手のひらの世界を指しているような。

真意は神そのものを指しているのでしょうけれど。

非思考の庭に、何かありますか?
あるとするとそれは色ですか、それとも力ですか?

ことばは色。
色、がことばを生む。

と、こんなことを今、考えています。
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この回答へのお礼

★ そこで思い切って云ってみます。非思考の場(庭)に色有りと。
☆ (あ) 生まれつき備わった《非思考の庭――タターガタ・ガルバ
(如来蔵つまり あたかも胎内なる仏性の場)――》は おそらく色がつ
いていないでしょう。

(い) もしくは ブッダターやアートマンや神の霊としての《色》がつ
いているかも。

(う) この無色ないし神色が 人間色につつまれてしまう。

(え) その《霊》について心に思いその自覚を得て その神をわが心に
受け容れるという決心をした場合には それはすでに 経験的な意志行為
が介在して来ます。

(お) 経験的なものごとというのは 人びとの気持ちや意志行為として
の色合いがすでについています。つまり その人類の始祖のおこなった初
めの意志行為としても 人間の色が――たとえば 善と悪とを知るといっ
た思考のかたちで――ついて来た。

(か) 神からの賜物としての非思考の庭なる無色(または 神色)に人
間の思考や判断たる意志行為としての色をつける結果となった。

(き) すなわち 神とわれとの関係としての《非思考の庭》は もとも
との《神色》とそしてそこに加わった《人色》とが交じっている。

(く) 《ことば》は 人間の持ったものだとすれば 《人間色》がつい
ている。

(け) われわれ・あやまち得る人間は 非思考の庭における:

  《神色と人色との 矛盾せる一体性》

をあたかも見つつ 社会にあって生きている。

(こ) その《矛盾》に重きを置く人たちは 神は無いと言う。また こ
の世界なるあらゆるものごとは 初めから色がついていると主張する。

(さ) 神は無い――あるいは 無い神をおのが非思考の庭にいだく――
というのも 普遍神の受容であるという見方も成り立つ。

(し) という意味は 《無い神》派が 《神色》は無いと言うとき 神
の色に限っては 《無い》と言うのと《有る》というのとは 互いに他を
選ばない。

(す) 非思考の庭をめぐって 神色は有る(つまり 無色)と見るのも
神色は無い(つまり すべて人色がついているところから始まっている)
と主張するのも 神とその色にかんしては 同じことを言っている。

(せ) 《世の中万事すべて 人色》は そこに《神色》が隠れていると
いうのみ。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/30 09:49

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