海外旅行から帰ってきたら、まず何を食べる?

学問は、大衆に理解されてこそ意味があると思います。
ところが、知識人と大衆というものは隔絶しがちな関係にあると思います。
知識人からすると、学問が分化し専門性が高くなるほどに、「俗人どもには分からない」
という見下した態度になりがちだと思うし、大衆からすれば知識人に何ができるんだとい
う敵対心を持ったり、あるいは逆に盲目的な崇拝の念を持ったりすると思います。

学問が、知識人(自称も含む)の装飾品に堕してしまわず、人間社会により役立てるために
知識人と大衆のそうした隔絶を解消する方向への努力が必要だと思いますが、この点どの
ようにお考えでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • プンプン

    犀の角なら、何で好きでもない人とつるんで、愚痴やら人の陰口やらを
    ぶっこいてんのさ。
    くだらない質問に回答したりさあ。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/12 22:02
  • お読み頂けたかどうか。今の状態は続くようです。
    私自身のモヤモヤは晴れませんし、いずれ白けてゆくでしょう。
    また、このカテ全体にも同じような空気があると思います。ですから骰子さんにはその「コアの部分」
    の話しをして頂いたほうがいいと思うに至りました。
    そのお話の判断はもちろんそれぞれであるわけです。
    それにより、この不可解な白けた空気が少しでも解消されたらいいと思います。
    B氏はブロックしています。必要があればA氏も、と思っています。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/13 07:29
  • あなたは、ここを大事に思っているんですね?

    哲学人は、理論に殉じるんですね?オレは違う。

    オレは、目的に殉じる。

    目的に対しては、犀の角でありたいと思う。

    信頼関係が頼りなんかじゃないよ。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/14 09:29
  • 読み返してみると、せっかくのやり取りがすれ違っていると思う。
    オレがかなりイライラの精神状態であったことは事実だし(別に言いわけじゃないよ)、骰子さんがああやって、お節介してくれたし(あなたには不愉快なことでしたでしょう)、そういう状況もあった。

    オレは、骰子さんの話で納得したといったけれど、実は自分を納得させていると言ったほうが近い。
    でも、あなたは納得できていないことがいくつかあると思う。

    個人に関わることをこれ以上言うべきじゃないし、言いたくもないので話を一般化して、あなたが納得できるような話ができたらいいかと思いました。

    これは、理論に殉ずるか目的に殉ずるかという二人の根幹に触れることになるだろうし、「知識人と大衆」という質問にも関わってくると思う。

    どうだろうか?

    No.32の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/16 21:40
  • あまがっぱさーん、お話しようよー。

    No.31の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/18 09:34
  • 忙しいところ、子供みたいにうるさくしてすいません。

    じゃあ、また。

    「知識人と大衆」の補足画像6
    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/18 23:08

A 回答 (35件中1~10件)

まったくおっしゃる通り。

賛成です。

知識人は、分かりやすいことを分かりにくく語ることで自己の威厳を保持してきました。

大衆は学問を毛嫌いするか敬遠するかして、アプローチを拒んで来ました。

しかし、日本でも、近年の大学改革は、かなり真剣に、教育の実効性を高める努力をしていますよ。

各大学の改革の記録は「FDの記録」というような各校の冊子に記録されています。

そういう資料をたくさん読むと、キミの説が、説得力を増すと思う。
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この回答へのお礼

>知識人は、分かりやすいことを分かりにくく語ることで自己の威厳を保持してきました

学問の世界だけでなく、こういうことは様々な分野において、あることなんでしょう。
また、学問の世界ではこのことが大衆の学問を敬遠する一要因になってきたのではないか
と思います。

なるほど、大学の改革がコツコツとなされているんですね?

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/12/10 15:54

知識と知恵とは別でしょうね。



大衆も 知識が乏しいとしても 知恵をはたらかせます。

つまり ものごとについて無理か道理かは 誰でもわかります。
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この回答へのお礼

知識がなければ、湧いてこない知恵があり、学問の「考え方」
がなければ、湧いてこない知恵があると、経験上思いますが、
どうでしょうか?

>ものごとについて無理か道理かは誰でもわかります

はて?

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/12/10 16:02

知識人も生まれながらに知識人だったわけではありません。


大衆のままでいるのは生まれながらのままで生きているからです。
学問を自分のものにしたいなら勉強すればいいだけのことです。
あいつらが知識を独占しているおれたちを見下している、などと僻むんでいるかぎり学問を自らのものにすることはできません。

幸いにして15才まではごく安価で様々な分野の基礎知識を学ぶことができるこの国です。
そこで得た知識を基により深く広く学べるように高校大学もありますし、無料で書物を借りることができる図書館や有料のことが多いですが博物館も津々浦々にあるわけです。減少傾向とは言え書店も他国に比べれば多いですし、今はネットで書物を買うのも簡単です。

これでお膳立ては充分ではないでしょうか。
あとは意欲ですね。
馬を水場に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、と言いますね。
本人に意欲が無いことを他所に責任転嫁してはいけませんね。
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この回答へのお礼

初めまして(かな?)。

仰る通りです。

しかしながら、

学問は大人になってからでもできますが、青少年のころ、できるだけ早いうちに
勉強の面白さを知ることが大切だと思います。
子供は本来学ぶことを求めていると思います。ですから、それをすんなりと伸ば
してあげることが周りの大人たちのつとめなのではないでしょうか?

その一つに、「学問」というものが我々大衆のものとしてそこにあるのだという
意識を、大人たちが子供たちとともに共有する雰囲気を作ることではないかと考
えています。

お礼日時:2016/12/10 21:49

「知識人」というものは、そもそも存在しません。



冷静に、そのような使い方をする連中を見ていると、マスコミ関係の連中が
多い。

詰まり、左巻き連中の、お勉強の出来た連中が、「自分たちは特別な存在だ。」と
認めて欲しくて、使い始めたものだと、思っています。

「知識人」との対比で「大衆」と言う呼び方をするのも、結局、
「大衆とは違う。」と、思いたいし、そうであって欲しい、という
「左巻き連中」の考え方そのものです。

右寄りの人で、「知識人」と呼ばれる人を知りません。

他の方も指摘していますが、「知識」と「知恵」は異なります。

現実世界の中では、尊敬されるのは「知恵者」であって、お勉強ができた「知識人」
なるものは、尊敬されていません。

コンピューターの発達した現在、知識はPCに勝てませんし、「知識人」なるものは、
「暗記の達人」と同じで、社会に貢献するものは、何もありません。

今は「知恵者」が必要なので、そのために、民進党、共産党をはじめとする
連中の評価が「大衆」の中で、著しく低下している、と思っています。
彼らは「知識」と「知恵」の区別が出来ないし、したくない、のです。

ある意味「知識人」と言うのは、「差別用語」です。
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この回答へのお礼

「知識人」「大衆」の前に等しく人間であるという考え方がとても重要であり
ある意味差別用語であるというご意見には賛成です。

そのうえで、学者であるとか、教職者であるとか、批評家であるとかいった、
知的職業につく人々のことを「知識人」として(大まかにですが)質問をさせて
いただきました。

あなたが仰る、右・左とは保守的・革新的という意味ですか?すいません、い
まいちよく理解できませんでした。

「知恵者」が必要とのご意見にも賛成です。詰め込みすぎた「知識」を消化で
きない者でなく、学問を体得した「知恵者」でなければ30年後の日本を安定さ
せることはできないだろうと思います。

お礼日時:2016/12/11 15:23

学問は、大衆に理解されてこそ意味があると思います


   ↑
ハイ、民主制国家では、国民の民度こそが
国力になります。
その意味で、賛成です。

明治になって、政府は教育改革をやりましたが、
高等教育にしか力を入れなかった、諸外国と異なり、
初等教育に力を入れたのが
日本の特徴でした。



学問が、知識人(自称も含む)の装飾品に堕してしまわず、
人間社会により役立てるために
知識人と大衆のそうした隔絶を解消する方向への努力が
必要だと思います
   ↑
全くその通りで、ヨーロッパでは、そういう
動きがありまして、それを真似たのか、
日本でもそうした動きは出ています。
ソースは放送大学。
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この回答へのお礼

タンゾーさんこんにちは。

民主制国家では、といいますか国家というものは所詮国民の民度による、
といえないでしょうか?

「知識人」側からも、改革への努力が始まったようですが、「大衆」側か
らも特に我々大人たちが地域において努力を始めることが大切だと思いま
す。

こんな動画がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=XiOU2u8DMGo

お礼日時:2016/12/11 15:42

「知識人」の『知識』の内容によるが、言葉を伝えて


済む内容ではなく、認識の深まり=その言葉の裏にある
概念の変更を求めるものである場合、その場の言葉を
いくら重ねても、それは誤解を深めるだけである。
ヒント(エッセンス)以上のものは意味がない。

そもそも「知識人」とやらも、最初からそうであった訳
でなく、無の状態から長い時間を経てそうなったのだから、
いい年をして幼稚な段階にある人は、「知識」を自己顕示
や他人を言い負かすための道具としか考えていない気配が
ありありで、『自分の認識を深める労力なしでカッコつけ
たい』というように見えるので、そうした人間を相手に
するのは時間の無駄だ(ここでいくら説明しても、次の
質問時には変わらない認識に基づいている)。
教職ではないのだから、その回答を見ている(真に認識を
深める姿勢の備わっている)第三者に回答する方が良いだろう。
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この回答へのお礼

psytexさんこんにちは。

>その言葉の裏にある概念の変更を求めるものである場合

私の場合は、ぶっきらぼうで、強すぎるかなとはよく思います。

私はとにかく「保身」が嫌いです。保身のために言うことが「分かりにくい」
人はたまにいますが、嫌なものです。

psytexさんの文章も分かりにくいですが、保身を感じたことは一切ないですね。

お礼日時:2016/12/11 16:01

「学問は社会に役立てねばならない」という考え方自体が俗であり学問の本質を見ていないと言っていいでしょう。

今は役に立つかどうかわからないことを研究してこその学問。
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この回答へのお礼

仰ることが学問の本質だとしたら、学問というものは「役に立つかどうか分からないもの」

になってしまうのでは?

お礼日時:2016/12/11 16:06

まず、知識人と学者ってのは違うんじゃないですか?


知識のある人と言う意味で「知識人」と呼んでいるのなら、「学者」は含まれるかもしれませんが、大衆が接する(もしくは、大衆に発信する)「知識人」はもともと、大衆に対して存在するわけですから、各メディアに出てくる「知識人」は、大衆を見下したような発言はしないでしょう。
質問文の「知識人」は、まさに学者そのものを意味していると思いますが、元々学者は大衆の為に研究しているわけではないです。(学者は、学問を究めるのが職能であり、大衆に啓蒙する立場ではありません)
学者が大衆に対峙する事は、普通は無いですから、啓蒙したいと思う学者が、「知識人」として、一般的な会話をしているだけじゃないですかね?
大衆(これ自体も、一種の幻想で、単に専門家で無い一般人としか言いようが無いです)が、はたして、特定の学問の専門知識を必要とするかどうかも疑問です。
社会学者や文化人類学者、一部の心理学者は、まさに、人間及び社会を研究対象としていますから、その専門分野が「知識人」として活動するのには適していました。(一時期は、メディアもそのような学者をもてはやしていましたね)
現代においては、情報(もしくは、公表された知識と言われるもの)は、WEBで拡散していますから、いわゆる「知」という体系も、ある意味閉鎖的な学会と言う場で整理されるものとは言えなくなってきています。(そのかわり、それを判断する能力が必要になっています)
いわゆる「文化」という「知」自体が変化してしまったわけです。
本当に上から目線ならば、「大衆」になんか発信しないでしょう。(「知」を自分で独占するはずです)
メディア自体も、大衆に理解してもらおうとは、完全には思っていないと思いますよ。
「大衆」が知りもしない、「学者」の専門分野に反発や敵対する事も無いです。(それ自体が見えないわけですからね)
啓蒙に関しては、「大衆」自身が求めなければ、実践は難しいです。(あくまで、「大衆」と言う名の一般人ですけどね)
どうも、最近は、「知」に対して、与えられるものと言う、思考が強すぎる人が多いような気がします。(これは、教育制度の問題かもしれません)
知りたければ、自分で探さないと駄目ですよね?
大学なども、学生以外への啓蒙活動としての、講演や、聴講などで、知りたい人への門戸は開いています。
啓蒙者だって、専門書に比べれば、大量に出版されていますよ。(専門書が少ないのは気がかりですけどね)
実を言えば、質問文の意図自体が良くわからないんですよ。
「学者」が大衆を拒絶しているのか?
「大衆」が「学者」を拒絶しているのか?
その構造自体がわからないわけです。
それは、「学者」の問題なのか、「大衆」の問題なのかと言う事です。
両方の問題であれば、それはコミュニケーションしようとしていないだけでしょう。
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この回答へのお礼

>質問文の意図自体が良くわからない

私の意図を少し説明させていただきます。ヘタな文章でいたずらに長くなろうかと思いますが、ご容赦を。

まず、学問の目的ということについてですが、「人間生活における有用性」というものを第一にすべきだと
考えています。
「本質を追求する」のはこの目的のためであって、「無目的的」に探ってゆこうとする傾向があるとすれば
それは間違いであると思います(文学とか芸術であればそれでよいとは思いますが)。

以前私の何かの質問の時に、哲学をはじめとして学問全体に「本質」を追求しない傾向がある、ということ
をlupanさんから教えていただいた記憶があります。その傾向は、学問が次々と分化をし専門的になってい
るということが要因ではないかと推測しています。

この、学問の全体的な傾向性を問題視しているということが一つです。


次に「知識人」ということの定義ですが、質問文に私は特に定義はしませんでしたが、私としては、学問に
関わる「職業」についている人、とわりとおおまかに考えております。
これを、「自分が知識を持っていると自覚している人」とそうでない人、との立てわけも面白かろうとは思
いました。
lupanさんには「学者」と決めていただいたので、このやり取りではそれでゆきましょう。

そして、問題は「学者」なのか「大衆」なのかといえば、両方です。さらに、どちらかといえば「学者」で
あると考えます。
どういうことかといえば、いみじくも仰っているように、

>元々学者は大衆のために研究しているわけではない

このような「感覚」こそ大衆との隔絶感をうみだすものであろうと思います。
知的職業家仲間の閉鎖的サークルが形成される空気を感じます。
《しかしこれは、他の重要な分野、政治家、行政を司る者、法律家などにも大いにあると思います、いや、
あらゆる専門家にあることかもしれません》

また、「大衆」側には、私をはじめとして「僻み根性」「くれくれ根性」が存在することは間違いあ
りません。


この問題もまた、大変に難しく、放っておけば誰も問題視しない,手を付けようとしないものの一つ
であると思います。
何とかできないものかという思いです。そして、少なくとも「言い出しっぺ」の一人でありたいという
のが私の考えることなのです。

お礼日時:2016/12/11 18:22

知識人は、学ばない人間ですよ。

大衆にも、考える人格は、あるでしょう。でも、本当に、学ぶ人格は、俗人じゃないって、尊敬も、要る気がします。
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この回答へのお礼

>知識人は、学ばない人間ですよ

それは、違うんじゃない?

大衆のほうが学ばないんじゃないかな?

「学ばずは卑し」だ。

お礼日時:2016/12/11 18:33

おっしゃる通りとは思っていたのですが、中々現実は厳しいものだと思っています。



知識人という言葉は一般に、大衆の導き手、リーダーの役割を果たす人をさすようです。一つのコミュニティを維持するものとして学問を用いるわけです。古くは村の司祭さまがこういう役割を果たしていたようです。日本だとお坊さんですね。しかし宗教の権威が失墜したので、今だと学者が務めることになりました。ただこうなると博士号はライセンスみたいなもので、学者は専門外のことにも口を出すようになります。宛て推量がここには混じって行くことになるでしょう。

知識人がコミュニティを率いている時、反論や議論は必ずしも歓迎されません。知識人に対する信頼を壊すことは、コミュニティを壊すことになるからです。したがって、知識人は議論を吹っかけられると「面白い論点をどうもありがとう」とか「あなたの見解は実に豊かだ」などと言って、体よく回収してしまいます。回収しきれないことを言った人は、破門です。

しかし双方ともに苦しいことにもなります。知識人の方も、万能ではないから、口からでまかせを言っていることもあるでしょう。推論とか、感想とかを述べていることもあるでしょう。しかし先生の役なので、頑張らないとなりません。しかしこれでは真理は探求できません。分からないことは分からないと言ったり、人に聞いてみたりしないとなりません。嫌な相手はやはり嫌です。これも我慢しないとならない。

学問をしようとなると、知識人みたいな態度はかなぐり捨てないとなりません。しかしこれもこれで難しい。大学でやっても難しい。やはり教養や分析力は千差万別あります。したがって序列はどうしてもできてしまいます。

例えばあるXさんの分析力が卓越していれば、Xさんだけが存在すればよく、他の人は存在価値がないというようなことになります。Xさんはいるだけで、周りを潰していくわけです。Xさんが大学の外に出て行くと、大衆を片っ端から潰して行くことになるわけです。ま、こういうモンスターが一人勝ちし、それ以外生き残れないのが、学問の厳しいところです。

>「俗人どもには分からない」

見下すのは良いことではありませんが、距離を穿つことは常に悪いことではないと思うのです。一線を画すと言いますか。
同じ中身を見下さずに言えたら、その人は人徳者なんだろうと思います。
ただ結局、距離はあるわけです。
人間が生きていくにあたっては、仕方ないことというべきか何と言うか。
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この回答へのお礼

あなたの言う通り、まともではなかったですね。不可解で、不気味ですらありました。もう縁することもないでしょう。

>知識人という言葉は、大衆の導き手、リーダーの役割

これは大変示唆に富んだ考え方に思えます。
一族の「長老」なんていう存在も昔はあって、年配者の経験を踏まえた「知恵」が尊重された時代から大きく変化し、見ず知らずの、何の責任も負っていない博士号を持った人間の「知識」を重宝する時代になりましたね。

しかし、医師でも大学病院の高名な先生よりも、かかりつけの医者のほうがいいように、小さな地域の中で「長老」的存在があればいいと思っていました。
話しが広がってしまいますが、SNSのコミュニティーばかりでなく、自分の住む地域のコミュニティーの再構築がなされるべきだと考えています。その中で「ニュー知識人」として昔の「長老」的存在を買って出る「頭のいい人」が出てきてほしいと思います。
あ、結構理想論でしたね、失礼しました。

でも、そんな感じになれば知識人と大衆の垣根が低くなってゆくのではないかと思います。

そうですか、学問の世界って、とっても厳しいのですね。

お礼日時:2016/12/11 22:21
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