次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。
▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。
「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」
▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。
もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。
一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。
結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら
《ウソをつかない人間はいない》
と返しておしまいではないのだろうか?
定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?
具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり:
《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》
と。あるいは:
《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
を 現実的なホンネとする》
ということ。――こうではないか?
もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?
それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?
どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。
No.1
- 回答日時:
純粋に数学上の事柄を、数学以外に拡大解釈しない方が良いと思う。
あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。
不完全性定理は2個あり、それを正しく言うと
・第一不完全性定理
「無矛盾な形式的体系は不完全である」
無矛盾:矛盾が無い。
矛盾:A→BとA→(not)Bが同時に証明出来てしまうこと。
形式的体系:公理から出発した論理体系。
命題の証明は論理図の積み上げを行い、最終的にトートロージー(A→A)になったら証明完了。
現在の数学はどの分野でもこうなっている。
不完全:完全では無い。
完全:その体系内の数学命題は全て、その体系内で証明可能。
・第二不完全性定理
「数学は矛盾が無い」事は、数学手法では証明出来ない。
ご回答をありがとうございます。
★ あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。
☆ なるほど。
形式主義と直観主義とがあり 直観主義であっても 数式化はおこなうのだとか。
そうも聞きましたが:
★ 純粋に数学上の事柄
☆ であるという前提があるということでしょうか。
★ 形式的体系:公理から出発した論理体系。
☆ この・最初に触れた《公理》が 曲者なのでしょうか? 哲学としては 自
由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。
第一と第二とにも触れていただきました。
ううーむ。さらに注意をしてまいります。
No.2
- 回答日時:
不完全性定理というものを、現実世界に持ってきて理解しようとすると何がなんだか分からなくなります。
不完全性定理は、論理的なシステムに対する定理です。より正確に言えば、論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真であることを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということを、(A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定理です。
このような観点から、メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。
論理的なシステムに関して、それを外側(システムB)からみて議論していることに気がつかずに、中途半端に理解すると何がなんだか分からなくなります。
あなたが例に挙げた嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。
以上のことを踏まえて、じっくりと考えてみてください。
ご回答をありがとうございます。
★ メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。
☆ こういう解説は 初めてお聞きした次第です。
★ ~~~~~~~~~~
論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真である
ことを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということ
を、 (A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定
理です。
~~~~~~~~~~
☆ ううーん。趣旨説明欄におけるウソつきの事例だけでは 分かりづら
いですね。(と感じます)。
★ 嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの
中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様
?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。
☆ これもわたしにはピンと来ないようなんですが。たとえば ひとつに
神は 《ボク》とヨコの関係で集まり並ぶときの《外側》ではないですよ
ね? システムの内と外とを合わせたひとつの経験世界を超えた場が 神
だと思いますから。
つまり ヨコの関係にある人間としての第三者によっては ボクがウソつ
きかどうかは 依然として分からないところが多い。
もうひとつに ぎゃくに見て 《ボク》なる人間の主観ないし心の内にあ
ってはウソをついたかどうかは まったく明らかです。
(勘違いがあったり 判断材料が間違っていたりという場合にも 主観の
確信においては ウソを言ったか・いや言っていないかは はっきりして
いるものと思います)。
つまり その場合には ひとつのシステム(と言ってよいかどうかなんで
しょうが)の内で 結着はつくもののように見られます。
いや しかし 面倒ですね。すっかり納得が行くには。
No.3
- 回答日時:
>>哲学としては 自由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。
数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子の積み上げだけで行ないます。
それを1個1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れた通常の証明になります。
哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?
あくまで、純粋数学での話です。
形式主義の形式は、普段使う言葉の「形式」では無く、上の2行目・3行目の事を指します。
ご回答をありがとうございます。
★ 哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?
☆ 哲学がそれをうやるかどうかわたしは知りませんが 数学に手
伝ってもらってやろうと思えばやれるのかなとは思います。
(いえ 実際には知りませんが)。
★ ~~~~~~~~~
数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子
の積み上げだけで行ないます。
それを 1個 1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れ
た通常の証明になります。
~~~~~~~~~~
☆ というのが 《形式》なんですね。
ちなみに 《純粋数学》と言われても 世界の・現実の事象につい
て すべてを数学の言葉で表わそうとするというのも 数学ではな
いか・・・とも感じられます。
たぶん 中に入ってみて 腑に落ちるように納得が行くことなので
しょうね。すみません。
No.4
- 回答日時:
これは、結構昔から言われている事なのですが、
哲学者さんたちは、不完全性定理を拡大解釈しすぎていますね(^^;)
不完全性定理は、数学が公理化・抽象化する段階で(要するに、数学を”数える”事に関する学から脱皮させる段階)
その基礎となる数論(自然数論とから整数論とか・・・)から出てきた物です(^^)
数論では不完全性定理が成立してしまう → 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って図式ですね(^^A)
でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定理を証明した事はありません(`´;)
哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなんかが考察しているんじゃないかと思います(-_-)
それに、数学的記号論理学は別として、論理学上の「真」は現実世界の「真」を指しませんよね・・・
・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似ていると思いますよ(^^;)
あまり参考にならないと思いますが、許してやって下さいm(_ _)m
ご回答をありがとうございます。
★ 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って
図式ですね(^^A)
★ ・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、
この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似て
いると思いますよ(^^;)
☆ おそらく そういうことなんだと思います。もしくは そういう問
題をめぐっての議論なんだと。
もう少し数学が分かればよいのですが どこかで すんなり納得のゆく
見方はないでしょうかねぇ。
★ でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定
理を証明した事はありません(`´;)
★ 哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなん
かが考察しているんじゃないかと思います(-_-)
☆ こういった方面での問い求めもありなんですね。
No.5
- 回答日時:
哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がします。
述語論理(数理論理学)の世界では完全性の証明がされています。
P∧Q、P∨Q、¬P、P→Q、P↔Qなどの見覚えのある記号を駆使する世界です。
ご回答をありがとうございます。
★ 哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、
述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がしま
す。
☆ そうなんですか。
△ 《ウソをつかない人間はいない》
△ 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこと
もある》
☆ こういった命題は 割り合い記号で示し論理的に表わしやすいよ
うな気がします。
次のような例は どうなんですかねぇ。
△ 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得
ずタテマヘに従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタ
テマヘに従うことを 現実的なホンネとする》
No.6
- 回答日時:
不完全性定理は「主観や感情の入らない純粋な論理による客観の世界の真理」①の一つで
それに対して現実の人間世界というのは「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実態」②
だと言えると思います。
そして①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われる価値観が構築され
さらにそこで可能になった模索から次の最先端の土台として①が進歩し
そこから新たな②、次の価値観への発展
ということが繰り返されるのが歴史の歩みだと考えていいのではないでしょうか。
そうやって人の世の中を認識すると
土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の一つとして
欠くことはできない
という解釈が妥当なんだろうと思います。
ご回答をありがとうございます。
★ 土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の
一つとして欠くことはできない
☆ 一般論として そういうことであろうと考えます。
その上で大胆になって 疑問を述べますと 例示されている《嘘つき
のパラドックス》というのは いくつかの点で いまの一般論に必ず
しも当てはまらないようにも思います。
1. ウソをつくということは:
★ 「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実
態」②
☆ なのではないか?
2. だから あたかも《世の中の真理》としてのように妥当すると
見て例示されているのではないか?
3. けれども この例示は 趣旨説明欄に批判したように どう見
ても 現実から遊離している。単なる論理を振り回しているだけであ
ると見える。
4. したがってそのツテで見るなら:
★ ①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われ
る価値観が構築され さらにそこで可能になった模索から次の最先端
の土台として①が進歩し うんぬん
☆ といった展開が期待できるとも思えない。
5. つまり 理論が構築されそこから応用理論や政策論が展開され
ていくといった発展の過程は むしろ初めから――つまり 最初の理
論から――現実に立脚していることが 必要である。・・・と思える
んですけれど どうでしょうか。
6. ただし 技術的なことについては 論理的演算によって築かれ
た方程式などが すでに機械等の現実を形成しているかも分かりませ
ん。機械技術にとっては 数学の論理が有益であるかと思われます。
敢えて述べたものです。勇み足でさえなく 間違っているかも分かり
ません。
No.7
- 回答日時:
no.6です。
うそをつくということの分析には
人間性否定かどうかということがくさびになります。
人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば
糾弾される筋合いのない創意として
次のより妥当と思われる価値観への進歩の過程の要素となる。
こんな解釈が妥当なんだろうと思います。
ご回答をありがとうございます。
ウソをつくというコトは:
★★ (回答№6) 「主観や感情の入らない純粋な論理による
客観の世界の真理」①
☆ に入るということですか。
★ うそをつくということの分析には 人間性否定かどうかとい
うことがくさびになります。
☆ どうなんですかね。
相手の事情やその場の情況を考慮し 相手やその場の皆によかれ
と思ってつくウソは 《人間性の否定》にはならない・・・とい
うことでしょうか?
そうでしょうか?
事実や自分の主観真実を曲げてつくウソによってでも――まさに
嘘も方便というごとくでしょうか―― 当事者のそれぞれの人間
性を否定せずに 当面の問題を解決することができるなら 《純
粋論理の客観世界》に人びとは留まっている・・・でしょうか?
事実やおのれの主観真実を捻じ曲げたというコト このことによ
って問題が解決できて 当事者に利益がもたらされた・または損
失の出るのが回避された・・・ということは 相手の人間性にと
って 真実をとおして問題にあたるといった精神にかかる名誉や
誇りが傷つけられるのではありませんか?
★ 人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば 糾弾される筋合いのな
い創意として[・・・]
☆ ううーん。ちょっと具体的にどういう場合を指すのか 残念
ながらよく分かりません。
《糾弾される》かどうかというよりは 先ほど触れたように名誉
や誇りの問題として 人間性の否定につながる・・・のではない
かとは思っていますが。・・・
No.8
- 回答日時:
まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行っていないです。
そういう意味では、ゲーデルの不完全性定理も、当然ながら、数学の形式の中でしか成り立ちません。
ですから、現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)と合っているとかの議論に乗るものではありません。
また、数学においても、不完全性定理が成り立っていても、数学基礎論の範囲でしか困難は無いでしょう。
一つ重要な点があるとしたら、引用されている自己言及のパラドックスに対する、対応の仕方です。
これは、実は、論理学的には、重要な意味を持ちます。
このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな条件)を追加する事になります。
これが、一つで済むならば良いのですが、これが無限に続くとしたら、大変な事です。(有限個数の公理では納まらなくなります)
このような状態では、数学で扱える公理系とは、なりません。
実を言えば、数学でも実数の扱いが、その定義から難しいわけです。(実数は、その定義から全ての数を含むので、有限個数の公理で、その全てを表す事が不可能な可能性があります)
自然数などの場合は、単純に加算だけで、その定義を行う事が可能ですから、かりに無限個数があったとしても、有限の公理(定義)だけで、その集合を定義できます。
デデキントなどは、まずは自然数を定義し、その間に実数が埋め込まれていると言う発想で、連続な実数と言う概念を構成したわけですが、事実上それは、形而上の数と言っても過言では無いでしょう。(実際問題、現実世界でも、完全な連続と言う概念は、抽象的にしか得る事は不可能でしょう)
もともと、数の概念自体が、自然数以外は、アプリオリに定義する事が不可能なわけです。(クロネッカーなどは、「自然数は神が作った。 それ以外の数は人間が作ったものである」と考えていたようです)
数学に限らず、論理的にも、後出しじゃんけんできるとしたら、最初から公理系とは言えないわけです。
不完全性定理に特にこだわる必要は無いと思いますが、素朴論理学においても、その論理的整合性の研究は重要な問題です。
記号論理学などは、それを整理して、論理構造を明らかにし、論理的整合性を容易に判定できるようにしています。
述語に関しては、単純に状態を表すものなどは、公理から求められるものでは無いですから、その真・偽などは、元々、論理構造とは無関係です。
問題なのは、少なくとも、有限個の公理でなければ、人間はそれを検証できません。
抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題だとは思います)
ご回答をありがとうございます。
そうですね。
★ 現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)
☆ これは 生活感覚といった意味でよいのではないでしょうか?
この感覚は 素朴なものではなく・つまり 太陽が地球をまわっている
といった感覚と異なっていても 地動説で生活が統括されるといった感
覚です。
その意味で 例示された嘘つきのパラドックスは 現実的ではないよう
に思います。
★ このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな
条件)を追加する事になります。
☆ それは 数学の側の事情であり 都合なのではないでしょうか?
形式主義の数学がおのれの帝国主義体制をのぞむものではないとすれば
生活感覚の現実に道をゆづるのが 自然でふつうだと考えます。
★ 抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題
が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題
だとは思います)
☆ あくまで数学の側のお家事情なのでは?
と考えるのですが。
★ まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行
っていないです。
☆ でしたら 自己言及のパラドックスは 例示には使わないことだと
思います。
No.9
- 回答日時:
お礼ありがとうございます。
最後の引用されている自己言及のパラドックスですが、ゲーデルはそのようなものは使っていないです。
つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
単純に、例が悪すぎると言う事です。(ちなみに自己言及のパラドックスとして、ゲーデルは、命題Gとして、「Gの証明は存在しない」を使用しています)
ご回答をありがとうございます。
★ つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
☆ つまり 例外であると言えるということでしょうか?
そういった見方が しっかりと定着するとよいと思います。
No.10
- 回答日時:
補足ですが、ゲーデルの不完全性定理は、数理哲学的には、意味を持つかもしれませんが、哲学とは直接関係ない事です。
あくまで、数学の範囲の話です。(有限個の話も、数学の範囲の話ですよ)
哲学的に、無限個の検証が可能かどうかは、また別の問題です。(それは、哲学で検証する内容でしょう)
以前ご紹介した、「Wの存在」などの問題と類似ですね。
ご回答をありがとうございます。
まぎらわしかったり 素人をミスリードしたりするような解説など
について 注意を喚起する解説が大切であるように思います。
でも 不満がのこる感じはあります。
つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題につい
ての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。
お門違いの文句ですが。
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