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質問:「一階述語論理は複数の命題論理で(必ず)置換可能である」は真ですか、それとも偽ですか?

付随質問:二階述語論理は複数の一階述語論理で(必ず)置換可能ですか?

哲学科の学生、教員、それに市井の哲学愛好家諸兄など、専門の知見をお持ちの方々よりアドバイスいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (2件)

No. 1 です。

命題論理、述語論理について、少し厳密な話をします。

命題論理は、真偽の確定した命題(原子命題)を対象として、それらを論理記号(∧、∨、¬、⇒)で結んでできる複合命題(論理式)の真偽がどうなるかを研究するものです。出発点となる命題の真偽がどうであっても、真となる論理式をトートロジーといい、どのような論理式がトートロジーになるかを調べるのが命題論理(学)ということになります。

述語論理は、個体定数(a, b, ...)、個体変数(x, y,...)、関数記号(f(x), g(x, y),... のようなもの), 述語変数(P(x), Q(x,y), ...のようなもの)を持ちます。論理記号としては、命題論理のもののほかに、量化記号(全称記号、存在記号)を持ちます。固体定数、固体変数、関数記号から構成されるものを項といい、述語変数に項を代入した論理式(素論理式)から、論理記号で結んで構成される論理式の真偽を議論するのが、述語論理(学)です。どのようなモデル(固体の存在する領域、固体と関数と述語の解釈を決めたもの)でも、真になるような論理式(恒真)を考えたり、恒心ではないが、真になる解釈が存在するような論理式(充足可能)を考えたりするものということです。

「自然数は実数の部分集合である」というのは、常識的な解釈のもとで真偽が確定している命題です。この文の真偽は、論理学の守備範囲ではなく、論理学の側から見たら、天から与えられたようなものです。自然数とは何か、実数とは何かということが、きちんと定義されていなければなりません。その定義に基づいて、この文の真偽が決まります。ですから、命題の真偽を議論するのは、どちらかというと哲学の領分だろうと思います。
繰り返しになりますが、原子命題の真偽が定まったとき、それから構成された複合命題の真偽が、どうなるかを考えるのが、命題論理の仕事です。
あなたの質問にある、「『自然数は実数の部分集合である』というのは、命題論理でしょうか」というのは、問として不適切です。
「命題論理の命題でしょうか」ならば意味がありますし、その答えは、「イエス」です。

述語論理では、述語 P(x), Q(y) のようなものを考え、その解釈を、例えば、P(x) :「x は、自然数である」、Q(y): 「y は、実数である」のように定めます。すると、P(3) は、真となり、P(1.3) や P(ネコ) は、偽となります。P(3) のようなものは、真偽の定まったものとして、命題論理の命題です。
このとき、『自然数は、実数である」という文は、
  Ax(P(x) ⇒ Q(x)) .....(a)
と表されます(Ax は、「すべての x について」を表します。述語論理学では、A をさかさまにしたものを使いますが、どうすれば出るのか分からないので、、、)。この文は、「すべてx について、それが自然数ならば、それは実数である」ということを意味しています。

個別の自然数についてならば、P(3) ⇒ Q(3) のように表されますが、すべての自然数については、(a) のように Ax のようなものを使わなければ表現できないと思います(個別のものを書き並べるとすれば、無限個の式を書かなければなりません)。
前の回答で、命題論理では無限の対象を扱えないという趣旨のことを書きましたが、その意味は、上に述べたような意味です。

置換可能ではない例というのも、これでお分かりだと思います。
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この回答へのお礼

再度のアドバイス有難うございます。

なんだか算数と代数学の関係の様に思えてきました。
論理学を学習するとどのような事項にたいして分析力・判断力・批判力がつくのか興味を持っておりましたが、
集合演算とブール演算を理解していれば論理学は不要なのか、それとも論理学は、集合演算やブール演算を駆使しても表現できない論理を表現できるものなのか、興味を持つことができました。

これから、少し論理学の基礎を学習して、集合演算やブール演算で出来ない事が明確になるのか否か見極めてみたいと思います。

ご丁寧なアドバイスに重ねて御礼申しあげます。

お礼日時:2017/03/07 23:26

質問に対する答えは、「偽」です。

つまり、常に置換可能であるわけではない、ということです。

一階の述語論理と命題論理の根本的な違いは、無限を扱えるか否かだと思います。述語論理では、個体変数を用いて無限個の対象についての言明が可能です。しかし、命題論理の論理式を複数連ねた命題を構成しても、無限個の対象のすべてを記述することはできません。

議論の対象である個体が有限であれば、対象となるすべての個体について命題論理の論理式で言及することができます。


付随質問の二階の述語論理と一階の述語論理の関係も、一階の述語論理と命題論理の関係とパラレル(上位のレベルで)になっていますから、置換可能ではないということになります。
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この回答へのお礼

早速に回答ありがとうございました。

私もその命題は偽であってほしいと思っていました。
述語論理が文字数節約的な表現力があるだけというより、命題論理で表現不能な表現力を持っていて欲しいですからね。

しかし、お示しの違いの理由が「無限が扱えるか否か」であるというのは釈然としません。

一例をあげると、
「自然数は実数の部分集合である」というのは命題論理でしょうか。
私はこれは命題論理だと思うのですが、対象としては無限の実現値からなる自然数や、おなじく無限の実現値からなる実数を論じています。
この例のように、自然数とか、実数とか、群衆とか、民法全文とか、適切な(=その時必要な量的概念を含んでいる単語を選択、あるいは定義することによって、命題論理でも無限の数量を含む概念を表現可能ではないか、、、と思ったりしています。

多分、私が一階述語論理の形式を正確に理解していないことが原因と思いますが、もし、お時間あれば、命題論理で置換可能でない一階述語論理の例文などお示しいただければ大変たすかります。

どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2017/03/05 14:13

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