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質問:「一階述語論理は複数の命題論理で(必ず)置換可能である」は真ですか、それとも偽ですか?

付随質問:二階述語論理は複数の一階述語論理で(必ず)置換可能ですか?

哲学科の学生、教員、それに市井の哲学愛好家諸兄など、専門の知見をお持ちの方々よりアドバイスいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

No. 1 です。

命題論理、述語論理について、少し厳密な話をします。

命題論理は、真偽の確定した命題(原子命題)を対象として、それらを論理記号(∧、∨、¬、⇒)で結んでできる複合命題(論理式)の真偽がどうなるかを研究するものです。出発点となる命題の真偽がどうであっても、真となる論理式をトートロジーといい、どのような論理式がトートロジーになるかを調べるのが命題論理(学)ということになります。

述語論理は、個体定数(a, b, ...)、個体変数(x, y,...)、関数記号(f(x), g(x, y),... のようなもの), 述語変数(P(x), Q(x,y), ...のようなもの)を持ちます。論理記号としては、命題論理のもののほかに、量化記号(全称記号、存在記号)を持ちます。固体定数、固体変数、関数記号から構成されるものを項といい、述語変数に項を代入した論理式(素論理式)から、論理記号で結んで構成される論理式の真偽を議論するのが、述語論理(学)です。どのようなモデル(固体の存在する領域、固体と関数と述語の解釈を決めたもの)でも、真になるような論理式(恒真)を考えたり、恒心ではないが、真になる解釈が存在するような論理式(充足可能)を考えたりするものということです。

「自然数は実数の部分集合である」というのは、常識的な解釈のもとで真偽が確定している命題です。この文の真偽は、論理学の守備範囲ではなく、論理学の側から見たら、天から与えられたようなものです。自然数とは何か、実数とは何かということが、きちんと定義されていなければなりません。その定義に基づいて、この文の真偽が決まります。ですから、命題の真偽を議論するのは、どちらかというと哲学の領分だろうと思います。
繰り返しになりますが、原子命題の真偽が定まったとき、それから構成された複合命題の真偽が、どうなるかを考えるのが、命題論理の仕事です。
あなたの質問にある、「『自然数は実数の部分集合である』というのは、命題論理でしょうか」というのは、問として不適切です。
「命題論理の命題でしょうか」ならば意味がありますし、その答えは、「イエス」です。

述語論理では、述語 P(x), Q(y) のようなものを考え、その解釈を、例えば、P(x) :「x は、自然数である」、Q(y): 「y は、実数である」のように定めます。すると、P(3) は、真となり、P(1.3) や P(ネコ) は、偽となります。P(3) のようなものは、真偽の定まったものとして、命題論理の命題です。
このとき、『自然数は、実数である」という文は、
  Ax(P(x) ⇒ Q(x)) .....(a)
と表されます(Ax は、「すべての x について」を表します。述語論理学では、A をさかさまにしたものを使いますが、どうすれば出るのか分からないので、、、)。この文は、「すべてx について、それが自然数ならば、それは実数である」ということを意味しています。

個別の自然数についてならば、P(3) ⇒ Q(3) のように表されますが、すべての自然数については、(a) のように Ax のようなものを使わなければ表現できないと思います(個別のものを書き並べるとすれば、無限個の式を書かなければなりません)。
前の回答で、命題論理では無限の対象を扱えないという趣旨のことを書きましたが、その意味は、上に述べたような意味です。

置換可能ではない例というのも、これでお分かりだと思います。
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この回答へのお礼

再度のアドバイス有難うございます。

なんだか算数と代数学の関係の様に思えてきました。
論理学を学習するとどのような事項にたいして分析力・判断力・批判力がつくのか興味を持っておりましたが、
集合演算とブール演算を理解していれば論理学は不要なのか、それとも論理学は、集合演算やブール演算を駆使しても表現できない論理を表現できるものなのか、興味を持つことができました。

これから、少し論理学の基礎を学習して、集合演算やブール演算で出来ない事が明確になるのか否か見極めてみたいと思います。

ご丁寧なアドバイスに重ねて御礼申しあげます。

お礼日時:2017/03/07 23:26

質問に対する答えは、「偽」です。

つまり、常に置換可能であるわけではない、ということです。

一階の述語論理と命題論理の根本的な違いは、無限を扱えるか否かだと思います。述語論理では、個体変数を用いて無限個の対象についての言明が可能です。しかし、命題論理の論理式を複数連ねた命題を構成しても、無限個の対象のすべてを記述することはできません。

議論の対象である個体が有限であれば、対象となるすべての個体について命題論理の論理式で言及することができます。


付随質問の二階の述語論理と一階の述語論理の関係も、一階の述語論理と命題論理の関係とパラレル(上位のレベルで)になっていますから、置換可能ではないということになります。
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この回答へのお礼

早速に回答ありがとうございました。

私もその命題は偽であってほしいと思っていました。
述語論理が文字数節約的な表現力があるだけというより、命題論理で表現不能な表現力を持っていて欲しいですからね。

しかし、お示しの違いの理由が「無限が扱えるか否か」であるというのは釈然としません。

一例をあげると、
「自然数は実数の部分集合である」というのは命題論理でしょうか。
私はこれは命題論理だと思うのですが、対象としては無限の実現値からなる自然数や、おなじく無限の実現値からなる実数を論じています。
この例のように、自然数とか、実数とか、群衆とか、民法全文とか、適切な(=その時必要な量的概念を含んでいる単語を選択、あるいは定義することによって、命題論理でも無限の数量を含む概念を表現可能ではないか、、、と思ったりしています。

多分、私が一階述語論理の形式を正確に理解していないことが原因と思いますが、もし、お時間あれば、命題論理で置換可能でない一階述語論理の例文などお示しいただければ大変たすかります。

どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2017/03/05 14:13

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Q対岸の火事(は消してはいけない)、、、?

哲学のカテゴリーでご活躍の諸兄にお考えを伺いたく、質問いたします。

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1.対岸の火事は、傍観するしかないし、傍観するべきである。
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哲学の問として成立するのかどうかよくわかりませんけど、諸兄のお考えをお聞かせください。

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1。

起こってしまったものは仕方がない。

缶ビール2本持参して見物だ。

Q量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在してる、そうです。そうすると、認識している私は、自

<量子論的な世界像において、世界は認識される事で存在しています。>
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こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

我々の主観的な〈世界〉が我々の認識に基づいているのは当たり前のことであり、
物理学的な〈世界〉が観測などに基づいているのも当たり前のこと。

「世界は認識される」という表現で問題なのは、この表現中の世界(主観的世界、物理学的な世界などなどの対象化された世界)を〈世界そのもの〉としていること。

我々の知る世界は、程度の差はあれ、主観的な世界に過ぎず、
そんなものがあればですが、
客観的な世界や〈世界そのもの〉に至ることはできないんじゃないですかね。


☆認識している私は、自分自身を認識している
◇〈認識している私によって対象化され、再構成された《認識している私》〉を認識しているに過ぎません。
認識主体である私が、私の表象(イメージ)を認識していると言っていいのかもしれないですね。
もっとも、ここで言う〈認識主体である私〉がすでに表象(イメージ)に過ぎないけれど。

ショウペンハウアーのこの言葉が参考になります。

ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。
https://goo.gl/w67lxK


ミクロとマクロの関係の話が出ているようなので、私は違う角度から。

我々が実際に生きる世界は、10²³というアボガドロ数オーダーのさらにアボガドロ数オーダーくらいの超多粒子系の世界。
たとえ電子などの粒子一つ一つの挙動が確率的なものであったとしても、このような超多粒子系の現象は平均的なものになり、この平均的な振る舞い、平均値からの逸脱は殆どなくなります。
 ――量子力学のトンネル効果があるからと言って、超多粒子系の我々は、我々の体を構成する電子などの量子の如く壁を通り抜けたりは出来ない!!――

我々はマクロサイズの世界で、そして、圧倒的多数の多粒子系の世界で生きているので、量子力学がどうであれ、我々が日常的に観測する現象はほぼ100%の確率で(古典物理学的な)決定論に従っており、ここに量子力学の出番はありませんよ。

まして、哲学の認識論に量子力学や量子論は必要ないと思います。

こんにちは。

☆世界は認識される事で存在しています。
◇上で書かれている「世界」は、〈世界そのもの〉ではなく、我々の五感などの感覚によってもたらされた情報をもとに、〈わたし〉によって再構成された主観的な〈世界〉でしょう。

〈世界そのもの〉≠主観的な〈世界〉

そして、物理では
〈世界そのもの〉≠観測された〈世界〉
〈世界そのもの〉≠理論で想定される〈世界〉

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Q哲学的論理学(英: Philosophical logic)は有用ですか?

大昔は数学やその他の学問も哲学に包含されていたそうですが、歴史が下るにしたがって、各学問分野が独立しつづけ、現代は哲学が扱う分野は残り少なくなっている様に思います。

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質問1:集合論とブール演算を熟知している人が、哲学的論理学を学習して初めて可能になる論理・論述はあるのでしょうか?
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哲学の学生、数学の学生、哲学や数学の教員、それに市井の哲学愛好者など古典論理学や記号論理学に知見のあるかたよりアドバイスいただれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与えていて、すなわち集合を素材にして、さまざまな概念が構成されるという仕組みです。
 これが数学基礎論です。哲学をやるのに大いに助けになる。いや、哲学やる人には数学基礎論を必修にしたっていいぐらいじゃないか、と思います。

 というわけで、島内剛一「数学の基礎」の前半を(全部は分からなくたって気にしないで)とにかく通読なさることをお勧めしよう。数学の仕掛けの構造が、ドロドロした歴史的背景なんざ無視して、奇麗に整理されているからです。これを一通り理解した上で、それでもどうしても溺れてみたいのならドロドロに入ってみれば良いかと思います。

> 理学部の数学科に行かなきゃイケなかったかな。

 数学科に学費払うまでもなく、良いテキストがあれば独習で足りると思いますただね、歳を取ると根気と集中力が落ちるのがヤバいんだよな。

こちらもご参考になるやも知れぬ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/43691.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3290945.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3948315.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7423274.html

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与...続きを読む

Q唯我独尊は治りませんか?

いろんなことを考えるのは自由ですね。
哲学についても同様です。

ただ、自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。
自分の考えも、他の人の考えも共に尊重していきたいものです。

孤独の中で考えていると、どうしても自分の考えだけが正しいという結論にたどり着いてしまいます。
そうなると、他人が馬鹿に思えてしまうようです。

どんな考えも自由ですが、他の違う考えにも耳を傾けたいものです。
そうでないと、誰にも理解されず、最終的には自分が疲弊していきます。

人生も半ばを過ぎると、唯我独尊はなかなか治らないものですか?

Aベストアンサー

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

先ず、それを認めることが重要です。

教育を受け、書を読み成長してきたのであれば、それは
先人の知恵を頂いてきた事でもあります。
このことを謙虚に認めないといけない、と思います。
認めて初めて、他者に耳を傾ける事が、出来る。

哲学も同じでしょう。
私は、哲学で、路傍の石ひとつも動かせるわけでもなかろうに、と
思っていますが、それでも、存在を全く否定している訳でもありません。

しかし、独善的な論理構成と結論には、悲哀を感じます。

そういう人は、自分が受けてきた教育や読破した書の価値が
理解できていない。
どのように自分の血となり肉となったか、の理解も出来ていない、と
思っています。

まあ、病気なんだと思っています。

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

...続きを読む

Q底無しのばかばっかしぢゃん このところの書き込みは

中身がからっぽ。からっからっ。


いかに。

Aベストアンサー

ハサミとバカは使いよう。

これいかにぃ〜♪

中身がからっぽ、平気さ、ぷぅ〜

外見を叩いて、太鼓のつもりさぁー 

創発、カオス、皆歓迎♪

無への不安もないバカさぁ〜

Q狂気とは

狂気について考察したいと考えています。

チェレンコフ光というのがありますよね。
これを制御するのは理性の極致だと思います。
なんにせよ強暴なエネルギーの制御は、人間が行う課題だと思います。

私はチェレンコフ光が子供の頃から好きです。吸い込まれるように魅せられ、原子炉に入っていきたい衝動を持っています。
これは狂気でしょうか。

Aベストアンサー

狂気の最たるもの

https://www.youtube.com/watch?v=LDxF80pyVDo&index=16&list=PLjRNMBifTNgxhiuFb3LEsZBH-g6obdoYg

Q人びとはなぜ神のことが分からないのか

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
の。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経
験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

Aベストアンサー

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、ただ見守ります

その人が、悪事を働く場合も、否定をしません・・・なぜなら、その人が良い行いをする為には、正反対の悪い事とは、なんなのか・・・という経験も必要だからです

だから、神は最終的には、良い人を支持するのでしょうが、途中経過としては、悪の経験も必要だと考えます

正義を知る為には、悪を知る必要があります

ちょっと、違ういいかたをすれば、例えば、よく思うのですが、私は、いつも、ワガママな人とかに、あった場合、イライラしてしまいます

そして、自分を人として、ダメな奴だな〜〜と自己嫌悪におちいります

でも、そんなダメな奴でも、天国に行って、いい人のなかにいれば、それなりに、徳がある人の様な振る舞いはするだろうと思います

しかし、天国の様な場所では、悪い人がいませんから、こんな私でも、徳のある人の様な、振る舞いをしますが、この世に戻って、イライラする人に会えば、また自己嫌悪するような、行動を起こします

つまり、私には、自己嫌悪する様な、要素があるにもかかわらず、それを出させる対象物がなければ、その状態には、なりません

言い方を変えれば、その人に、悪の心があっても、それを引き出す 要因が無ければ、その人は、悪の心を出せません

では、悪の心を持ったまま、それに気づかずに、過ごすのと、悪の心をしっかり認識する為に、悪の経験をするのと・・・どちらが、良いのでしようか?

もし、不本意ながら、自分の悪をしっかりと受け止めたい場合は、悪の経験も必要になります

だから、神は、悪も否定しません、
よく、神と聞いて、慈悲あふれる神を想像する方は、神の半分しか理解していない といわれます

だから、悪を望んでいる訳ではないですが、否定している、訳ではありません・・・どちらも、成長する為に必要な要素なのです・・・

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、た...続きを読む

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。

Q電子の二重スリット実験

量子力学の実験の一つに、電子の二重スリット実験がありますよね

人間が数学の抽象世界で考えてきたこと、哲学の「われ思う故に我あり」(自分が死んだとたん世界が消えるのようなもの等)

数学と哲学が発展して 後から量子力学が発展してきましたが その量子力学が人間の頭の世界でしかなかった実存主義的なものや現実では使えないと思っていた数学が量子力学で肯定するような事実

このような予定調和のようなものには驚愕せざるを得ません。

みなさんはこれらについてどうおもいますか?また、これらについて面白く書かれているマイナーな著書や面白い記事は何かありますか?

一応量子脳理論や有名なものは知っているつもりなのでマイナーなものだとありがたいです。

Aベストアンサー

>みなさんはこれらについてどうおもいますか?

哲学を引用するなら、「だから我は実在する」というデカルトの発言だけでなく、誤謬推論を紹介して「我は実体ではない」と論破したカントも引用しておかないと、哲学自体が偏っているように思われてしまうリスクがあります。

私は、「数学は自然科学ではない」という事実に納得したのは50歳も過ぎた頃でした。それまで、数学と自然科学の区別も満足につけられなかったのです。

今、「哲学は科学か?」という命題を持っています。
科学をScienceととらえるか、Wissenschaftととらえるかでも結論が異なるような気がします。


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