次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

質問者からの補足コメント

  • それと言うのも ちょうどいま哲学カテでは 不完全性定理が 現実の
    世界のこととして・哲学のふつうの議論として 有効であり適用されう
    ると言っている〔と思わせる〕回答が寄せられているのです。

    はっきり知りたいと思っての問いです。

      補足日時:2017/04/15 14:18

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A 回答 (20件中11~20件)

補足ですが、ゲーデルの不完全性定理は、数理哲学的には、意味を持つかもしれませんが、哲学とは直接関係ない事です。


あくまで、数学の範囲の話です。(有限個の話も、数学の範囲の話ですよ)
哲学的に、無限個の検証が可能かどうかは、また別の問題です。(それは、哲学で検証する内容でしょう)
以前ご紹介した、「Wの存在」などの問題と類似ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まぎらわしかったり 素人をミスリードしたりするような解説など
について 注意を喚起する解説が大切であるように思います。


でも 不満がのこる感じはあります。

つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題につい
ての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。

お門違いの文句ですが。

お礼日時:2017/04/15 23:22

お礼ありがとうございます。


最後の引用されている自己言及のパラドックスですが、ゲーデルはそのようなものは使っていないです。
つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
単純に、例が悪すぎると言う事です。(ちなみに自己言及のパラドックスとして、ゲーデルは、命題Gとして、「Gの証明は存在しない」を使用しています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
☆ つまり 例外であると言えるということでしょうか?

そういった見方が しっかりと定着するとよいと思います。

お礼日時:2017/04/15 23:16

まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行っていないです。


そういう意味では、ゲーデルの不完全性定理も、当然ながら、数学の形式の中でしか成り立ちません。
ですから、現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)と合っているとかの議論に乗るものではありません。
また、数学においても、不完全性定理が成り立っていても、数学基礎論の範囲でしか困難は無いでしょう。
一つ重要な点があるとしたら、引用されている自己言及のパラドックスに対する、対応の仕方です。
これは、実は、論理学的には、重要な意味を持ちます。
このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな条件)を追加する事になります。
これが、一つで済むならば良いのですが、これが無限に続くとしたら、大変な事です。(有限個数の公理では納まらなくなります)
このような状態では、数学で扱える公理系とは、なりません。
実を言えば、数学でも実数の扱いが、その定義から難しいわけです。(実数は、その定義から全ての数を含むので、有限個数の公理で、その全てを表す事が不可能な可能性があります)
自然数などの場合は、単純に加算だけで、その定義を行う事が可能ですから、かりに無限個数があったとしても、有限の公理(定義)だけで、その集合を定義できます。
デデキントなどは、まずは自然数を定義し、その間に実数が埋め込まれていると言う発想で、連続な実数と言う概念を構成したわけですが、事実上それは、形而上の数と言っても過言では無いでしょう。(実際問題、現実世界でも、完全な連続と言う概念は、抽象的にしか得る事は不可能でしょう)
もともと、数の概念自体が、自然数以外は、アプリオリに定義する事が不可能なわけです。(クロネッカーなどは、「自然数は神が作った。 それ以外の数は人間が作ったものである」と考えていたようです)
数学に限らず、論理的にも、後出しじゃんけんできるとしたら、最初から公理系とは言えないわけです。
不完全性定理に特にこだわる必要は無いと思いますが、素朴論理学においても、その論理的整合性の研究は重要な問題です。
記号論理学などは、それを整理して、論理構造を明らかにし、論理的整合性を容易に判定できるようにしています。
述語に関しては、単純に状態を表すものなどは、公理から求められるものでは無いですから、その真・偽などは、元々、論理構造とは無関係です。
問題なのは、少なくとも、有限個の公理でなければ、人間はそれを検証できません。
抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題だとは思います)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。
★ 現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)
☆ これは 生活感覚といった意味でよいのではないでしょうか?

この感覚は 素朴なものではなく・つまり 太陽が地球をまわっている
といった感覚と異なっていても 地動説で生活が統括されるといった感
覚です。

その意味で 例示された嘘つきのパラドックスは 現実的ではないよう
に思います。

★ このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな
条件)を追加する事になります。
☆ それは 数学の側の事情であり 都合なのではないでしょうか?

形式主義の数学がおのれの帝国主義体制をのぞむものではないとすれば
生活感覚の現実に道をゆづるのが 自然でふつうだと考えます。

★ 抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題
が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題
だとは思います)
☆ あくまで数学の側のお家事情なのでは?

と考えるのですが。


★ まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行
っていないです。
☆ でしたら 自己言及のパラドックスは 例示には使わないことだと
思います。

お礼日時:2017/04/15 22:50

no.6です。


うそをつくということの分析には
人間性否定かどうかということがくさびになります。
人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば
糾弾される筋合いのない創意として
次のより妥当と思われる価値観への進歩の過程の要素となる。
こんな解釈が妥当なんだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ウソをつくというコトは:
★★ (回答№6) 「主観や感情の入らない純粋な論理による
客観の世界の真理」①
☆ に入るということですか。

★ うそをつくということの分析には 人間性否定かどうかとい
うことがくさびになります。
☆ どうなんですかね。

相手の事情やその場の情況を考慮し 相手やその場の皆によかれ
と思ってつくウソは 《人間性の否定》にはならない・・・とい
うことでしょうか?

そうでしょうか?

事実や自分の主観真実を曲げてつくウソによってでも――まさに
嘘も方便というごとくでしょうか―― 当事者のそれぞれの人間
性を否定せずに 当面の問題を解決することができるなら 《純
粋論理の客観世界》に人びとは留まっている・・・でしょうか?


事実やおのれの主観真実を捻じ曲げたというコト このことによ
って問題が解決できて 当事者に利益がもたらされた・または損
失の出るのが回避された・・・ということは 相手の人間性にと
って 真実をとおして問題にあたるといった精神にかかる名誉や
誇りが傷つけられるのではありませんか?



★ 人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば 糾弾される筋合いのな
い創意として[・・・]
☆ ううーん。ちょっと具体的にどういう場合を指すのか 残念
ながらよく分かりません。

《糾弾される》かどうかというよりは 先ほど触れたように名誉
や誇りの問題として 人間性の否定につながる・・・のではない
かとは思っていますが。・・・

お礼日時:2017/04/15 22:07

不完全性定理は「主観や感情の入らない純粋な論理による客観の世界の真理」①の一つで


それに対して現実の人間世界というのは「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実態」②
だと言えると思います。
そして①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われる価値観が構築され
さらにそこで可能になった模索から次の最先端の土台として①が進歩し
そこから新たな②、次の価値観への発展
ということが繰り返されるのが歴史の歩みだと考えていいのではないでしょうか。

そうやって人の世の中を認識すると
土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の一つとして
欠くことはできない
という解釈が妥当なんだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の
一つとして欠くことはできない
☆ 一般論として そういうことであろうと考えます。


その上で大胆になって 疑問を述べますと 例示されている《嘘つき
のパラドックス》というのは いくつかの点で いまの一般論に必ず
しも当てはまらないようにも思います。


1. ウソをつくということは:
★ 「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実
態」②
☆ なのではないか?

2. だから あたかも《世の中の真理》としてのように妥当すると
見て例示されているのではないか?

3. けれども この例示は 趣旨説明欄に批判したように どう見
ても 現実から遊離している。単なる論理を振り回しているだけであ
ると見える。

4. したがってそのツテで見るなら:
★ ①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われ
る価値観が構築され さらにそこで可能になった模索から次の最先端
の土台として①が進歩し うんぬん
☆ といった展開が期待できるとも思えない。

5. つまり 理論が構築されそこから応用理論や政策論が展開され
ていくといった発展の過程は むしろ初めから――つまり 最初の理
論から――現実に立脚していることが 必要である。・・・と思える
んですけれど どうでしょうか。

6. ただし 技術的なことについては 論理的演算によって築かれ
た方程式などが すでに機械等の現実を形成しているかも分かりませ
ん。機械技術にとっては 数学の論理が有益であるかと思われます。


敢えて述べたものです。勇み足でさえなく 間違っているかも分かり
ません。

お礼日時:2017/04/15 21:19

哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がします。




述語論理(数理論理学)の世界では完全性の証明がされています。
P∧Q、P∨Q、¬P、P→Q、P↔Qなどの見覚えのある記号を駆使する世界です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、
述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がしま
す。
☆ そうなんですか。

△ 《ウソをつかない人間はいない》

△ 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこと
もある》

☆ こういった命題は 割り合い記号で示し論理的に表わしやすいよ
うな気がします。


次のような例は どうなんですかねぇ。

△ 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得
ずタテマヘに従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタ
テマヘに従うことを 現実的なホンネとする》

お礼日時:2017/04/15 17:03

これは、結構昔から言われている事なのですが、


哲学者さんたちは、不完全性定理を拡大解釈しすぎていますね(^^;)
不完全性定理は、数学が公理化・抽象化する段階で(要するに、数学を”数える”事に関する学から脱皮させる段階)
その基礎となる数論(自然数論とから整数論とか・・・)から出てきた物です(^^)
数論では不完全性定理が成立してしまう → 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って図式ですね(^^A)
でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定理を証明した事はありません(`´;)
哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなんかが考察しているんじゃないかと思います(-_-)
それに、数学的記号論理学は別として、論理学上の「真」は現実世界の「真」を指しませんよね・・・
・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似ていると思いますよ(^^;)

あまり参考にならないと思いますが、許してやって下さいm(_ _)m
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って
図式ですね(^^A)

★ ・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、
この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似て
いると思いますよ(^^;)

☆ おそらく そういうことなんだと思います。もしくは そういう問
題をめぐっての議論なんだと。


もう少し数学が分かればよいのですが どこかで すんなり納得のゆく
見方はないでしょうかねぇ。

★ でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定
理を証明した事はありません(`´;)

★ 哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなん
かが考察しているんじゃないかと思います(-_-)

☆ こういった方面での問い求めもありなんですね。

お礼日時:2017/04/15 16:58

>>哲学としては 自由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。



数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子の積み上げだけで行ないます。
それを1個1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れた通常の証明になります。

哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?

あくまで、純粋数学での話です。
形式主義の形式は、普段使う言葉の「形式」では無く、上の2行目・3行目の事を指します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?
☆ 哲学がそれをうやるかどうかわたしは知りませんが 数学に手
伝ってもらってやろうと思えばやれるのかなとは思います。
(いえ 実際には知りませんが)。


★ ~~~~~~~~~
数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子
の積み上げだけで行ないます。

それを 1個 1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れ
た通常の証明になります。
~~~~~~~~~~
☆ というのが 《形式》なんですね。

ちなみに 《純粋数学》と言われても 世界の・現実の事象につい
て すべてを数学の言葉で表わそうとするというのも 数学ではな
いか・・・とも感じられます。



たぶん 中に入ってみて 腑に落ちるように納得が行くことなので
しょうね。すみません。

お礼日時:2017/04/15 13:53

不完全性定理というものを、現実世界に持ってきて理解しようとすると何がなんだか分からなくなります。

不完全性定理は、論理的なシステムに対する定理です。
より正確に言えば、論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真であることを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということを、(A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定理です。
このような観点から、メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。

論理的なシステムに関して、それを外側(システムB)からみて議論していることに気がつかずに、中途半端に理解すると何がなんだか分からなくなります。

あなたが例に挙げた嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。

以上のことを踏まえて、じっくりと考えてみてください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。
☆ こういう解説は 初めてお聞きした次第です。

★ ~~~~~~~~~~
論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真である
ことを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということ
を、 (A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定
理です。
~~~~~~~~~~
☆ ううーん。趣旨説明欄におけるウソつきの事例だけでは 分かりづら
いですね。(と感じます)。


★ 嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの
中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様
?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。

☆ これもわたしにはピンと来ないようなんですが。たとえば ひとつに
神は 《ボク》とヨコの関係で集まり並ぶときの《外側》ではないですよ
ね? システムの内と外とを合わせたひとつの経験世界を超えた場が 神
だと思いますから。

つまり ヨコの関係にある人間としての第三者によっては ボクがウソつ
きかどうかは 依然として分からないところが多い。


もうひとつに ぎゃくに見て 《ボク》なる人間の主観ないし心の内にあ
ってはウソをついたかどうかは まったく明らかです。

(勘違いがあったり 判断材料が間違っていたりという場合にも 主観の
確信においては ウソを言ったか・いや言っていないかは はっきりして
いるものと思います)。

つまり その場合には ひとつのシステム(と言ってよいかどうかなんで
しょうが)の内で 結着はつくもののように見られます。


いや しかし 面倒ですね。すっかり納得が行くには。

お礼日時:2017/04/15 13:46

純粋に数学上の事柄を、数学以外に拡大解釈しない方が良いと思う。


あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。

不完全性定理は2個あり、それを正しく言うと
・第一不完全性定理
「無矛盾な形式的体系は不完全である」

無矛盾:矛盾が無い。
矛盾:A→BとA→(not)Bが同時に証明出来てしまうこと。

形式的体系:公理から出発した論理体系。
命題の証明は論理図の積み上げを行い、最終的にトートロージー(A→A)になったら証明完了。
現在の数学はどの分野でもこうなっている。

不完全:完全では無い。
完全:その体系内の数学命題は全て、その体系内で証明可能。

・第二不完全性定理
「数学は矛盾が無い」事は、数学手法では証明出来ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。
☆ なるほど。

形式主義と直観主義とがあり 直観主義であっても 数式化はおこなうのだとか。
そうも聞きましたが:
★ 純粋に数学上の事柄
☆ であるという前提があるということでしょうか。

★ 形式的体系:公理から出発した論理体系。
☆ この・最初に触れた《公理》が 曲者なのでしょうか? 哲学としては 自
由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。

第一と第二とにも触れていただきました。

ううーむ。さらに注意をしてまいります。

お礼日時:2017/04/15 13:26

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Q例外のない法則はあるか? これは真理と言い切れるものはあるか?

例外のない法則はない とよく言われますが 本当に例外のない法則はないのでしょうか?

例外のない法則 真理と言い切れるものはあるでしょうか?

もしあれば一つでもいいから教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

普遍的な宇宙の大法則(摂理)を想像すると、例外というものは存在しないように
思えますが、変化・成長があるということを考えますと、完全ではなく、「例外」
と呼べるものがあるはずだと思います。

またそれは、現在の人間の認識方法によるもので、宇宙の普遍性から見たときに
「正しい」とは全く限らないわけです。
そのあたりを、現代物理学が解明しつつあるように思えます。

もう少し言えば、なぜ変化・成長があるかと言えば、それは個別化された生命に
自由があり、その自由な能動的な創造という行為が変化・成長を産む、と。
その全体から見ればわずかな「歪み」が「例外的存在」となり、それを因として
全体が変化をする、と。

まあ、こんなことを考えて楽しんでいる私です。(^^♪

Q《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》とは どういう意味か

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思...続きを読む

Aベストアンサー

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力
というスタンスがあります。
卓袱台返しをするわけではなく、逆に言うと、
★あらゆる事象をバランスさせる力
が無ければ、宇宙・世界はバラバラにならざるを得ないはずなのだから、それを、
★自然宇宙の絶対的摂理
と呼ぶのは論理的であり妥当な思考だろう、ということ。
その上で、経験事象 A が
★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
★「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理になるかと思います。

上の表現において、
★ならざるを得ない
★妥当な思考だろう
★何ら齟齬は生じない
などの見解が、その根拠と共に示されていると思いますが、それらは(今のところ)わたしにとって動かしがたいものであるようで、経験事象 A と、それを顕現させている法則・原因が、
☆非連続
であるといった視点をとることは、なかなかむずかしいようです。
やはり「見解の相違」という落としどころに来ているように思うのですけどね。

(イ)
>~~《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

ともおっしゃるわけですが、「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
ここにきて、神と摂理の食い違い、つまり信仰と論理の問題。も生じてくるのかもしれません。
その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろbragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、その点についてはまた別の機会に譲るのが妥当なのでしょう。

(ウ)
>神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違という形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言えるでしょう。

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★...続きを読む

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。

Q不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

不可知も まだ知られていないこととしては 未知でしょう。

では わざわざ不可知と言うのは どうしてでしょうか?

定義してください。

Aベストアンサー

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めています。
ただし、人間存在の最終原因とか、神とか、摂理とかいったように、その思考の対象がすでに定まったものに対して適用するのは妥当とは思われない。
つまり、
『 過去、人間は、未知・既知といった経験事象としての概念の他、知り得ないと判断する思考現象としての不可知という概念を操ってきた。しかし世界には、知り得るか知り得ないかが知り得ない、と言わざるを得ないような [ 何か ] は常に存在しているのであり、それは 非知 とでも呼ぶべき対象なのである。』
といった脈絡で採用されるべき視点ではないか、と思う次第。

2.
そのあとの記述も精査しましたが、
>★ つまり、連続説の場合も、(ⅲ)の内容については大いに同意するものです
が、
 ☆’《とはいえ、経験事象が そうしたナゾの影響を受けていることもまた事実
 である》
★ といった続きがあるわけです。
☆ この《続き》は 一たん非連続(つまり 淵があって超えねばならなかった)
を認めたあとの《手続き》としてなのです。さもなければ 《無限》が 有限世
界と地続きだとなります。

☆超えねばならなかった
ものではなく、あくまで、当初から並立しているもの です。
こういった内容に象徴されるように、すべてが 非知を大前提にした論理展開 となっていますよね。
なぜ、非知でなければならないのか?
ここが示されない以上、弱いのではありませんか?

3.[ おまけ ]
>☆ というのは 《絶対の隔たりが 〈無限〉と人知とのあいだに ある》と認
めた上でそのあと それでも わたしは連続説に立つのだという宣言なのです。

違います。
あくまで「宇宙の摂理の象徴としての神」の場合にはですが、
☆絶対の隔たり
は当初から認めていません。
よって、
>★ ここで〔☆ こそ〕また連続・非連続の論議に舞い戻ってしまうわけで〔☆
それに関しては〕やはり見解の相違と判定するのが妥当じゃないですかね。

といった甘言に篭絡されるいわれもありません、ということになりそうです。

>★ むろん、この場合の「直接」は、一般の経験事象同士における直接とは意味
が異なることは、128回ほど申し上げているので、すでにご承知のはずでしょ
うけど。
☆ 鯉の滝登りではありませんが 一たん有限から無限の夢幻境へと論理で駆け
上ったからには その《精神の軌跡》を抜きにして この《直接》の意味内容を
考えるわけには行きません。でしょう?

★原因が分かったとしても、その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。
という言及に関して、
・原因=有限での経験事象
・最終原因=無限の夢幻境での事象
のように分けてお考えなのだと思います。
しかし、
★原因が分かったとしても
という表現は、
「あ、これだ!」のように
★原因が分かったとしても
といった意味ではありません。
★原因に対する原因が永遠に付きまとう
というのは、論理的合理性に基づいて、つまり、これだけで成立している命題なわけです。
説明上、例として挙げることはありますが、経験事象としての原因を必須の要素として必要としているわけではない、という点にご留意いただければと思います。

#76です。

1.
>☆☆ 非知
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそうだと言おうとしています。

了解しました。

>でも 哲学する人は ぶらじゅ何とかというどこの馬の骨とも分からないや
つが 非知を言い始めたと知って ほかの方法を考えようとするでしょうね。

いえいえ、そうとは限りませんよ。
☆ 非知
に関しては、
☆ のほうが だいたいほかの方法よりよさそう
といった謙虚なるご見解は不要で、
むしろ、それしかないと言えるほど稀有の視点ですよ。
少なくともわたしはそう認めていま...続きを読む

Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

Q殺人はいけない

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一言でいけないとしないのは正当防衛など許される殺人があるからです。
しかも自分が心から許す事の出来る殺人になります。
道徳からはいけないとされる殺人を何故心から許せるのかは、
自分を危険にさらしたり悪事を働く者に対しその人を守ろうとする気持ちにならないからです。
死刑も同様の理由で国民が納得する殺人になります。

殺人がいけないのは当たり前ですが、いけない理由が気になると思います。
まず、殺人がいけないのは罪もない人を殺すことに対してです。
逆に、悪に対しては殺してもいい答えが導かれます。
戦隊ヒーローものも、ヒーローが悪を殺して怒る人などいないわけです。

殺したら殺し返されるからと言う理由は、自分中心の考えになります。
道徳とは関係ありません。

道徳でいけない理由は、恐らく命を奪うとはその人の人生を奪うことであり、
他人の人生を脅かしたり狂わせたり奪う権利を持っていない、
それがいけない事だからとなります。

つまり、殺人がいけないのは人の人生を奪う最低な行為だからと言う道徳からくる、
答えではないかと言うことです。

他に納得できる理由があればどうぞ。

殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一...続きを読む

Aベストアンサー

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自炊に初期投資って一体…?という方にはこちらがお勧め。
「底辺から這い上がって語る貧乏 都会とカップラーメン」

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「やっかみで赤の他人に酔っ払いのような絡みをするのがどれだけ恥ずかしい事か、それすら判らんのかね。まずはそこから恥ずかしいと思ったらどうだ」

これに尽きますな。

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MMDとUTAUとボカロ(KAITO、MEIKO、ミク、VY1、VY2そしてボイスベース専門と化したキヨテルがいます)で遊んでる底辺うp主です

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

Q宇宙の公理

いま目の前に厳然として存在する宇宙について考察するとき、次の5つ公理に行き着いた。

  1.宇宙は存在する
  2.宇宙は無限である
  3.宇宙は連続体である
  4.宇宙は不変である
  5.宇宙は不滅である

宇宙は存在する。
宇宙は存在するし、もともと存在した。
宇宙は創られたのではなく、もともと存在していた。
宇宙に始まりはなく、ビッグバンなどもともと無かった。

宇宙は無限である。
宇宙の空間軸は無限である。
無限なる宇宙に果てはなく、果てのない宇宙に形はない。
この無限なる宇宙にとって、137億光年の空間などビー玉にも満たない。
また宇宙の時間軸は無限である。
この無限なる宇宙に始まりはなく、終わりはない。
時間軸の如何なる時点においても宇宙は常に存在していた。
宇宙の歴史は無限であり、137億年どころか137億の137億乗年よりはるか以前から宇宙は今と変わらず普通に存在しておった。

宇宙は連続体である。
宇宙はその中のどの一部をとってもそれ自身やはり無限である。
つまり宇宙とはマクロにもミクロにもこの上なく無限なる実体である。

宇宙は不変である。
宇宙の至る所で惑星や恒星、銀河が誕生したり消滅したりして宇宙の地図は移り変わるが宇宙の基本構造は不変である。

宇宙は不滅である。
人類が滅びようと、地球や太陽が消滅しようと宇宙にとっては砂粒が一つ消える様なもの、宇宙が無くなることはない。
宇宙は未来永劫、完全に不滅である。

これらは公理であり、証明を求めるべきものではないがあまりに自明である。
そしていま目の前に厳然として存在する宇宙と深遠なる宇宙の公理について考えるとき、神や仏、天国や地獄の事などもうどうでもよいことに気付くのである。

いま目の前に厳然として存在する宇宙について考察するとき、次の5つ公理に行き着いた。

  1.宇宙は存在する
  2.宇宙は無限である
  3.宇宙は連続体である
  4.宇宙は不変である
  5.宇宙は不滅である

宇宙は存在する。
宇宙は存在するし、もともと存在した。
宇宙は創られたのではなく、もともと存在していた。
宇宙に始まりはなく、ビッグバンなどもともと無かった。

宇宙は無限である。
宇宙の空間軸は無限である。
無限なる宇宙に果てはなく、果てのない宇宙に形は...続きを読む

Aベストアンサー

その宇宙の公理はエントロピーに似ている。しかしそれを説明出来ても人は如何に生きるべきかは説明出来ない。人の人生とは「どうでも良いこと」ではないからだ。釈迦はインド哲学から宇宙の中に仏教感を創造した。どうでも良いはずの宇宙はやがて曼荼羅にという重要な教の基盤となったのである。宇宙は神が作ったものではなく、宇宙そのものが神であることに気づく段階を悟りとすれば、あなたはその入り口で扉を開けようとしているのです。

Q哲学的論理学(英: Philosophical logic)は有用ですか?

大昔は数学やその他の学問も哲学に包含されていたそうですが、歴史が下るにしたがって、各学問分野が独立しつづけ、現代は哲学が扱う分野は残り少なくなっている様に思います。

アリストテレスやフレーゲが哲学の一分野として開発した論理学(Philosophische Logik, Philosophical logic)は、数学の集合論やブール演算が開発された現代においてもなお有用でしょうか?

質問1:集合論とブール演算を熟知している人が、哲学的論理学を学習して初めて可能になる論理・論述はあるのでしょうか?
質問2:命題論理あるいは述語論理で記述(論述)できるが、集合論とブール演算では表現できない「何か」があれば、その一例をご教示ください。

哲学の学生、数学の学生、哲学や数学の教員、それに市井の哲学愛好者など古典論理学や記号論理学に知見のあるかたよりアドバイスいただれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与えていて、すなわち集合を素材にして、さまざまな概念が構成されるという仕組みです。
 これが数学基礎論です。哲学をやるのに大いに助けになる。いや、哲学やる人には数学基礎論を必修にしたっていいぐらいじゃないか、と思います。

 というわけで、島内剛一「数学の基礎」の前半を(全部は分からなくたって気にしないで)とにかく通読なさることをお勧めしよう。数学の仕掛けの構造が、ドロドロした歴史的背景なんざ無視して、奇麗に整理されているからです。これを一通り理解した上で、それでもどうしても溺れてみたいのならドロドロに入ってみれば良いかと思います。

> 理学部の数学科に行かなきゃイケなかったかな。

 数学科に学費払うまでもなく、良いテキストがあれば独習で足りると思いますただね、歳を取ると根気と集中力が落ちるのがヤバいんだよな。

こちらもご参考になるやも知れぬ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/43691.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3290945.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3948315.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7423274.html

No.2, No.6です。
 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与...続きを読む


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