次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

質問者からの補足コメント

  • それと言うのも ちょうどいま哲学カテでは 不完全性定理が 現実の
    世界のこととして・哲学のふつうの議論として 有効であり適用されう
    ると言っている〔と思わせる〕回答が寄せられているのです。

    はっきり知りたいと思っての問いです。

      補足日時:2017/04/15 14:18

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A 回答 (20件中11~20件)

補足ですが、ゲーデルの不完全性定理は、数理哲学的には、意味を持つかもしれませんが、哲学とは直接関係ない事です。


あくまで、数学の範囲の話です。(有限個の話も、数学の範囲の話ですよ)
哲学的に、無限個の検証が可能かどうかは、また別の問題です。(それは、哲学で検証する内容でしょう)
以前ご紹介した、「Wの存在」などの問題と類似ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まぎらわしかったり 素人をミスリードしたりするような解説など
について 注意を喚起する解説が大切であるように思います。


でも 不満がのこる感じはあります。

つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題につい
ての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。

お門違いの文句ですが。

お礼日時:2017/04/15 23:22

お礼ありがとうございます。


最後の引用されている自己言及のパラドックスですが、ゲーデルはそのようなものは使っていないです。
つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
単純に、例が悪すぎると言う事です。(ちなみに自己言及のパラドックスとして、ゲーデルは、命題Gとして、「Gの証明は存在しない」を使用しています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ つまり、サイトの開設者が使用しているだけでしょう。
☆ つまり 例外であると言えるということでしょうか?

そういった見方が しっかりと定着するとよいと思います。

お礼日時:2017/04/15 23:16

まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行っていないです。


そういう意味では、ゲーデルの不完全性定理も、当然ながら、数学の形式の中でしか成り立ちません。
ですから、現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)と合っているとかの議論に乗るものではありません。
また、数学においても、不完全性定理が成り立っていても、数学基礎論の範囲でしか困難は無いでしょう。
一つ重要な点があるとしたら、引用されている自己言及のパラドックスに対する、対応の仕方です。
これは、実は、論理学的には、重要な意味を持ちます。
このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな条件)を追加する事になります。
これが、一つで済むならば良いのですが、これが無限に続くとしたら、大変な事です。(有限個数の公理では納まらなくなります)
このような状態では、数学で扱える公理系とは、なりません。
実を言えば、数学でも実数の扱いが、その定義から難しいわけです。(実数は、その定義から全ての数を含むので、有限個数の公理で、その全てを表す事が不可能な可能性があります)
自然数などの場合は、単純に加算だけで、その定義を行う事が可能ですから、かりに無限個数があったとしても、有限の公理(定義)だけで、その集合を定義できます。
デデキントなどは、まずは自然数を定義し、その間に実数が埋め込まれていると言う発想で、連続な実数と言う概念を構成したわけですが、事実上それは、形而上の数と言っても過言では無いでしょう。(実際問題、現実世界でも、完全な連続と言う概念は、抽象的にしか得る事は不可能でしょう)
もともと、数の概念自体が、自然数以外は、アプリオリに定義する事が不可能なわけです。(クロネッカーなどは、「自然数は神が作った。 それ以外の数は人間が作ったものである」と考えていたようです)
数学に限らず、論理的にも、後出しじゃんけんできるとしたら、最初から公理系とは言えないわけです。
不完全性定理に特にこだわる必要は無いと思いますが、素朴論理学においても、その論理的整合性の研究は重要な問題です。
記号論理学などは、それを整理して、論理構造を明らかにし、論理的整合性を容易に判定できるようにしています。
述語に関しては、単純に状態を表すものなどは、公理から求められるものでは無いですから、その真・偽などは、元々、論理構造とは無関係です。
問題なのは、少なくとも、有限個の公理でなければ、人間はそれを検証できません。
抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題だとは思います)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。
★ 現実(この言葉自体も、哲学的には不完全だとは思います)
☆ これは 生活感覚といった意味でよいのではないでしょうか?

この感覚は 素朴なものではなく・つまり 太陽が地球をまわっている
といった感覚と異なっていても 地動説で生活が統括されるといった感
覚です。

その意味で 例示された嘘つきのパラドックスは 現実的ではないよう
に思います。

★ このような、対応をした場合は、実は、新たな公理(アプリオリな
条件)を追加する事になります。
☆ それは 数学の側の事情であり 都合なのではないでしょうか?

形式主義の数学がおのれの帝国主義体制をのぞむものではないとすれば
生活感覚の現実に道をゆづるのが 自然でふつうだと考えます。

★ 抽象化により、その公理を有限個に押し込まなければならない問題
が存在する事は確かでしょう。(適切な抽象化が可能かどうかが、問題
だとは思います)
☆ あくまで数学の側のお家事情なのでは?

と考えるのですが。


★ まず、数学が世界を全て解明するなどの大胆な発言は、数学者は行
っていないです。
☆ でしたら 自己言及のパラドックスは 例示には使わないことだと
思います。

お礼日時:2017/04/15 22:50

no.6です。


うそをつくということの分析には
人間性否定かどうかということがくさびになります。
人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば
糾弾される筋合いのない創意として
次のより妥当と思われる価値観への進歩の過程の要素となる。
こんな解釈が妥当なんだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ウソをつくというコトは:
★★ (回答№6) 「主観や感情の入らない純粋な論理による
客観の世界の真理」①
☆ に入るということですか。

★ うそをつくということの分析には 人間性否定かどうかとい
うことがくさびになります。
☆ どうなんですかね。

相手の事情やその場の情況を考慮し 相手やその場の皆によかれ
と思ってつくウソは 《人間性の否定》にはならない・・・とい
うことでしょうか?

そうでしょうか?

事実や自分の主観真実を曲げてつくウソによってでも――まさに
嘘も方便というごとくでしょうか―― 当事者のそれぞれの人間
性を否定せずに 当面の問題を解決することができるなら 《純
粋論理の客観世界》に人びとは留まっている・・・でしょうか?


事実やおのれの主観真実を捻じ曲げたというコト このことによ
って問題が解決できて 当事者に利益がもたらされた・または損
失の出るのが回避された・・・ということは 相手の人間性にと
って 真実をとおして問題にあたるといった精神にかかる名誉や
誇りが傷つけられるのではありませんか?



★ 人間にとって人間性否定がよくないというのがこの場合①で
それに照らして矛盾のないうそであれば 糾弾される筋合いのな
い創意として[・・・]
☆ ううーん。ちょっと具体的にどういう場合を指すのか 残念
ながらよく分かりません。

《糾弾される》かどうかというよりは 先ほど触れたように名誉
や誇りの問題として 人間性の否定につながる・・・のではない
かとは思っていますが。・・・

お礼日時:2017/04/15 22:07

不完全性定理は「主観や感情の入らない純粋な論理による客観の世界の真理」①の一つで


それに対して現実の人間世界というのは「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実態」②
だと言えると思います。
そして①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われる価値観が構築され
さらにそこで可能になった模索から次の最先端の土台として①が進歩し
そこから新たな②、次の価値観への発展
ということが繰り返されるのが歴史の歩みだと考えていいのではないでしょうか。

そうやって人の世の中を認識すると
土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の一つとして
欠くことはできない
という解釈が妥当なんだろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 土台としての①はそれだけで人の世の中の真理にはなりえないが
実態と絡めて人の世の中を的確に把握して価値観を進歩させる要素の
一つとして欠くことはできない
☆ 一般論として そういうことであろうと考えます。


その上で大胆になって 疑問を述べますと 例示されている《嘘つき
のパラドックス》というのは いくつかの点で いまの一般論に必ず
しも当てはまらないようにも思います。


1. ウソをつくということは:
★ 「主観や感情といった精神活動によって発現した人為の世界の実
態」②
☆ なのではないか?

2. だから あたかも《世の中の真理》としてのように妥当すると
見て例示されているのではないか?

3. けれども この例示は 趣旨説明欄に批判したように どう見
ても 現実から遊離している。単なる論理を振り回しているだけであ
ると見える。

4. したがってそのツテで見るなら:
★ ①の土台の上で自由に展開した②によって最先端の妥当と思われ
る価値観が構築され さらにそこで可能になった模索から次の最先端
の土台として①が進歩し うんぬん
☆ といった展開が期待できるとも思えない。

5. つまり 理論が構築されそこから応用理論や政策論が展開され
ていくといった発展の過程は むしろ初めから――つまり 最初の理
論から――現実に立脚していることが 必要である。・・・と思える
んですけれど どうでしょうか。

6. ただし 技術的なことについては 論理的演算によって築かれ
た方程式などが すでに機械等の現実を形成しているかも分かりませ
ん。機械技術にとっては 数学の論理が有益であるかと思われます。


敢えて述べたものです。勇み足でさえなく 間違っているかも分かり
ません。

お礼日時:2017/04/15 21:19

哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がします。




述語論理(数理論理学)の世界では完全性の証明がされています。
P∧Q、P∨Q、¬P、P→Q、P↔Qなどの見覚えのある記号を駆使する世界です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学も定義、公準を定めて、記号で表現すれば、何と無くですが、
述語論理に近いものになり、完全性が証明されてしまう様な気がしま
す。
☆ そうなんですか。

△ 《ウソをつかない人間はいない》

△ 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこと
もある》

☆ こういった命題は 割り合い記号で示し論理的に表わしやすいよ
うな気がします。


次のような例は どうなんですかねぇ。

△ 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得
ずタテマヘに従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタ
テマヘに従うことを 現実的なホンネとする》

お礼日時:2017/04/15 17:03

これは、結構昔から言われている事なのですが、


哲学者さんたちは、不完全性定理を拡大解釈しすぎていますね(^^;)
不完全性定理は、数学が公理化・抽象化する段階で(要するに、数学を”数える”事に関する学から脱皮させる段階)
その基礎となる数論(自然数論とから整数論とか・・・)から出てきた物です(^^)
数論では不完全性定理が成立してしまう → 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って図式ですね(^^A)
でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定理を証明した事はありません(`´;)
哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなんかが考察しているんじゃないかと思います(-_-)
それに、数学的記号論理学は別として、論理学上の「真」は現実世界の「真」を指しませんよね・・・
・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似ていると思いますよ(^^;)

あまり参考にならないと思いますが、許してやって下さいm(_ _)m
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 数論を基本とする数学には不完全性定理が成り立ってしまう って
図式ですね(^^A)

★ ・・・ある意味、不完全性定理を現実世界に当てはめてしまう事は、
この論理学上の「真」を現実世界の「真」に当てはめてしまう事と似て
いると思いますよ(^^;)

☆ おそらく そういうことなんだと思います。もしくは そういう問
題をめぐっての議論なんだと。


もう少し数学が分かればよいのですが どこかで すんなり納得のゆく
見方はないでしょうかねぇ。

★ でも、ゲーデルが哲学で問題になる「言語」について、不完全性定
理を証明した事はありません(`´;)

★ 哲学での「言語」については、ラッセルやビトゲンシュタインなん
かが考察しているんじゃないかと思います(-_-)

☆ こういった方面での問い求めもありなんですね。

お礼日時:2017/04/15 16:58

>>哲学としては 自由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。



数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子の積み上げだけで行ないます。
それを1個1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れた通常の証明になります。

哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?

あくまで、純粋数学での話です。
形式主義の形式は、普段使う言葉の「形式」では無く、上の2行目・3行目の事を指します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学ではそんな演算子は無いし、積み上げも出来ないでしょう?
☆ 哲学がそれをうやるかどうかわたしは知りませんが 数学に手
伝ってもらってやろうと思えばやれるのかなとは思います。
(いえ 実際には知りませんが)。


★ ~~~~~~~~~
数学の公理は論理演算子で表現し、命題の証明は公理の論理演算子
の積み上げだけで行ないます。

それを 1個 1個、普通の数学の言葉に置き換え変換すれば、見慣れ
た通常の証明になります。
~~~~~~~~~~
☆ というのが 《形式》なんですね。

ちなみに 《純粋数学》と言われても 世界の・現実の事象につい
て すべてを数学の言葉で表わそうとするというのも 数学ではな
いか・・・とも感じられます。



たぶん 中に入ってみて 腑に落ちるように納得が行くことなので
しょうね。すみません。

お礼日時:2017/04/15 13:53

不完全性定理というものを、現実世界に持ってきて理解しようとすると何がなんだか分からなくなります。

不完全性定理は、論理的なシステムに対する定理です。
より正確に言えば、論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真であることを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということを、(A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定理です。
このような観点から、メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。

論理的なシステムに関して、それを外側(システムB)からみて議論していることに気がつかずに、中途半端に理解すると何がなんだか分からなくなります。

あなたが例に挙げた嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。

以上のことを踏まえて、じっくりと考えてみてください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ メタマセマティックス(超数学)という言い方もします。
☆ こういう解説は 初めてお聞きした次第です。

★ ~~~~~~~~~~
論理的なシステム A と B とがあって、A の中で「真であるが、真である
ことを(形式的に)証明することができない命題が存在する」ということ
を、 (A の外側の)システム B で(形式的に)証明したのが、不完全性定
理です。
~~~~~~~~~~
☆ ううーん。趣旨説明欄におけるウソつきの事例だけでは 分かりづら
いですね。(と感じます)。


★ 嘘つきのパラドックス(の変形バージョン)について言えば、ボクの
中では解決できずにパラドックスになりますが、ボクの世界の外側(神様
?)から見たら、ボクが嘘つきかどうかは分かるのではないでしょうか。

☆ これもわたしにはピンと来ないようなんですが。たとえば ひとつに
神は 《ボク》とヨコの関係で集まり並ぶときの《外側》ではないですよ
ね? システムの内と外とを合わせたひとつの経験世界を超えた場が 神
だと思いますから。

つまり ヨコの関係にある人間としての第三者によっては ボクがウソつ
きかどうかは 依然として分からないところが多い。


もうひとつに ぎゃくに見て 《ボク》なる人間の主観ないし心の内にあ
ってはウソをついたかどうかは まったく明らかです。

(勘違いがあったり 判断材料が間違っていたりという場合にも 主観の
確信においては ウソを言ったか・いや言っていないかは はっきりして
いるものと思います)。

つまり その場合には ひとつのシステム(と言ってよいかどうかなんで
しょうが)の内で 結着はつくもののように見られます。


いや しかし 面倒ですね。すっかり納得が行くには。

お礼日時:2017/04/15 13:46

純粋に数学上の事柄を、数学以外に拡大解釈しない方が良いと思う。


あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。

不完全性定理は2個あり、それを正しく言うと
・第一不完全性定理
「無矛盾な形式的体系は不完全である」

無矛盾:矛盾が無い。
矛盾:A→BとA→(not)Bが同時に証明出来てしまうこと。

形式的体系:公理から出発した論理体系。
命題の証明は論理図の積み上げを行い、最終的にトートロージー(A→A)になったら証明完了。
現在の数学はどの分野でもこうなっている。

不完全:完全では無い。
完全:その体系内の数学命題は全て、その体系内で証明可能。

・第二不完全性定理
「数学は矛盾が無い」事は、数学手法では証明出来ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あくまで、公理的に作られている数学の話だから・・。
☆ なるほど。

形式主義と直観主義とがあり 直観主義であっても 数式化はおこなうのだとか。
そうも聞きましたが:
★ 純粋に数学上の事柄
☆ であるという前提があるということでしょうか。

★ 形式的体系:公理から出発した論理体系。
☆ この・最初に触れた《公理》が 曲者なのでしょうか? 哲学としては 自
由だとか良心だとかが 公理になるかと思いますが。

第一と第二とにも触れていただきました。

ううーむ。さらに注意をしてまいります。

お礼日時:2017/04/15 13:26

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とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

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Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
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Q《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。

 【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。

 【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。


 1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。

 2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。
  最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
 
 * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつ...続きを読む

Aベストアンサー

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
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日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意味する。
or
・西洋にも落日の光景の芸術がてんこ盛り。なお、落日=終焉の意味の芸術は除外する。
の部分を爆撃するしかないです。そこをつぶさない限り、山折さんの論理はダメージを受けないのだけど、
bragelonneさんはそれと関係ない、どうでもいいところばかり攻撃しています。

>【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
科学では証明できないという意味では錯覚である。
ただし、「再生」を否定する思想系(たとえばキリスト教)も科学では証明できない。
つまり、思想の客観性からは、引き分け。つまり、言っても意味ない。
※ここでいう客観性とは、科学における証明のことであり、観測事実(=賛成派・反対派で意見が一致する事項)から片方だけ矛盾が生じるゆえに間違い、という論理が成立することを言う。

>――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。
>これが 日本人の信条ではなかったか。
当時の時代背景を無視した発言です。
聖徳太子が憲法1条に、「和を以~」と書いたのは、曽我氏と物部氏の戦争が終わった直後。
モロに、和を乱した状態の直後。
あと、「和を以~」は、悪用されていて、議論すべからず、という意味に使われています。
議論の時は、何を言ってもいいけど、決議後は決議に従うのが世界標準。「和を以~」??アホか~。
その意味で、「和を以~」は、単に「私は議論下手です」と言っているだけ。

> 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。
>どうでしょう?
どうでしょうって...思想は各人の自由だから、
「私は山折哲雄および木下順二の思想に同意できない」以上の意味を見出せません。
全否定しようが部分否定であろうが、知ったこっちゃないです。ご自由にとしか言いようがありません。


>β‐1
>β‐2
人間のあさましさ・その欲望の深さに絶望したことを、「飛び去った」と表現しただけ。
比喩なので、字句どおりにとる必要はありません。

>夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
比喩なのでいちゃもんをつけるのはどうかと思うが。
自然科学でも一応は説明可能。
「羽根がなくなった」わけではないため。
羽の一部を使っただけであり、羽根を全部むしったのではないため、当然、飛べます。
※《つう》は、自分で自分の羽を抜いています。他人により羽根をむしられたわけではありません。

> ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
現代科学と重要な相違点があります。このため、鐘は人為的でなく自然現象と解釈せざるを得ません。

・なぜ、夕方(=日の入り)に鐘が鳴るのか?
  夏や冬には、現代なら鐘が鳴らない。午後6時に鳴る。

旧暦では、現代の時刻の定義と異なり、日の出・日の入りが六つ時と定義されます。
要するに、昼・夜で、1時間の長さが違った。
現代時刻なら、春分の日近辺・秋分の日付近しか、日の入り時刻に鐘が鳴らないところ、
年間を通じて、日の入り時刻に鐘が鳴ります。現代時刻のほうが、明らかに人為的です。

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意...続きを読む

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。

Qひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。

 例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。

 禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。

 けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。

 ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。

 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?

 でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。

 どうすればよいでしょう?

 * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――



 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。

 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。

 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で...続きを読む

Aベストアンサー

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席させてもらいますとお断りしておきます。
わたしの都合というのは、たとえば
理解力・表現力・語彙の不足・時間の不足などです。

>《ことだまのさき(咲き・幸)はふ国なれど 言挙げぞ我れする》で行かなくちゃ 世界では話が始まりません。ただしその基調は《ゆづりあい》であるとは考えます。その意味で沈黙は金だと。
:異議なし。

>☆ これは分からんなぁ。説明不足では?
:3番様が「ひとのさが」とおっしゃったので、
「さかなのさが」と言っただけです。
釣られましたと言っただけです。ふざけすぎですか。


「ちまた」は「道・股」と書くのですね、
知りませんでした。おもしろい。


>☆ 【Q:美智子さん雅子さん愛子さんは アース役となって】〔ガミガミ役からの意識の排泄としてのガミガミ電波をゴミ処理のごとく受けておられるのではないでしょうか?〕
 たぶんこれについて 《それはいけないことだと言うに決まっています》と言ってよいと思います。《自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来い》という魂胆だからという理由からではないでしょうか。
:分かりませんです。主語を書いてください。
「>いけない」のは、外に出て行った
「美智子さん雅子さん愛子さん」ですか。
それとも「ガミガミさん」ですか。
「>都合のよいコトよ出て来い》という魂胆」
を持っているのは、ここでは誰ですか。

>自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。
>アース役を探し出し(または 自分で作り出し)
:捏造に関しては以前わたしは「渇愛(による歪んだ期待)」
ということで納得しましたが、
「自己アイデンティティの確立のため」と
昔だれかが言っていました。なるほどなあと思いました。

>占いというのは みづからの意志ではないと思おうとするだけのことですから
:異議なし。

>おのれをも神隠しに遭わせる・つまりむしろ《神隠れ》であるように思われます。
:はい、これが、
「>責任逃れつまりあるいは 意志放棄であるように見られます。」
ということでよいのだろうか。

...........ブレイク...............

>社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。
>責任が、行動を制御するからである。
>問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。
>金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。
>貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。
...................................



>ともかく――ひとをではなく その考えや行動をなのですが―― 批判をする場合というのは この社会では オカルトやら霊媒師やらでないとしづらいというこれまた雰囲気があるのでしょうね。
:気のせいだと思います。

>《いやしい者が言っているぶんには 言わせておけ》
:分かりません。これを言っているのは誰ですか。
そう言って男が聞き流していると?

>数値にしてどのくらいの割合なのでしょうか。
:分かりません。

>まっ いづれにせよ 現状認識から入って行くということではないでしょうか。
:ありがとう。やさしいね。
みずから墓場に住んでいるのに、
聞いてちょうだいとわめいている人のことでしょうか。

>これで「マインドコントロール」の問題にも触れ得て ボールはそちらのコートへ行きましたよね。
:話をそらすなと言っていますか。

ぶらじゅろんぬさん。ふたたびこんばんわ。
ご返信ありがとうございます。4番です。

>★ 最初から何もしゃべらんほうがいいのかなあ。
 ☆ というようなつぶやきは 誰からも聞きたくはないですね。
:わかりました。それなら二度と言いませんですわ。
ぶらじゅろんぬさんが「しゃべりっ放し」を嫌っているようなので、
このように、つぶやきとして、反応してしまっただけです。
しかし施錠された檻の中でしゃべっているわけではなく、
公園のようなところでしゃべっていますから、
わたしの都合で勝手に退席さ...続きを読む

Q法螺吹きの効用について――心のゴミをきれいに処理する《アース役》とは?――

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも負っています。

 5. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。

 6. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 覆われ包まれ癒されてくるようにもなります。

 7. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。

 8. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。

 9. この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。

 11. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。

 12. たしかになお かつての悩み癖が消えないかのごとく 思い思いの心配をすることはあります。たとえば 心にシミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいの心配です。

 13. ですが やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。

 14. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや蔑みといった心のゴミの――排泄専門の・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
 
 15. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――という法螺を吹きたくなりますね。どうでしょう?

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みを...続きを読む

Aベストアンサー

私も一つ、法螺を・・・

『日本は今や世界に冠たるアース役を買って出ているのだ!』

         (☆ 天才バガボンに替って。)


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