痔になりやすい生活習慣とは?

ヘーゲルは宗教哲学講義の中で触れている。これの岩波哲男による紹介が
あった。イェシュケ編集の講義選集( Vorlesungen )から引用されてい
る。

▲(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」) ~~~~~~~~~~~~
1. 神的理念の最高の外化(* =表現)は すなわち・・・それ自身の
外化として 以下のことを表明する。

  神は死んだ( Gott ist tot. )。神自身が死んでいる。

2. ――これはこの表象に先立って分裂の深淵をもたらす 途方もない
恐るべき表象である。




3. しかしこの死は同時にその限りでそのうちに最高の愛がある。

4. ――まさにその愛は神的なものと人間的なものとの同一化の意識で
あり――そしてこの有限化(* =肉化)はその極端にまで すなわち死に
まで駆り立てられる。

5. したがってここにその絶対的段階における統一観 すなわち愛につ
いての最高の観方がある。



6. ――というのはその人格 所有等々を放棄するという点での愛は行
為という自己意識だからである――他者において最高に〔自己〕放棄する
という点で――まさに死 すなわち 生命の制約を絶対的に代表するもの
というもっとも極端な他在において。

7. キリストの死はこの愛そのものの表象 Anschauung である。

8. ――他者のための 他者を巡る愛ではない――そうではなくて他在
すなわち死とのまさにこの一般的同一性における神性である。

9. この絶対的な極端との恐るべき合一が愛そのものである――思弁的
な表象である。(以上 Vorl. vol.5 p.60 )

(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」という言葉
https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhe …
p.4 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 10. わたしはこのような思弁的表象が好きくありませんが それ
は 何がしかのインパクトを与え そこにとどまるのではなく やはり何
がしかのヒラメキやさらには思索へとみちびくものがある。とは 感じま
した。

11. それは ただの死であって しかも他者のためにする行為などで
はなく やはり単なる死であった。

12. ただし 人間としてのイエスは 大泣きに泣いてその行為を好ま
なかったが キリストとしては みづからすすんで世の中としての人びと
の手に身をゆだねた。

13. それでもただの死が 存在が他在するというかたちを示したと言
う。

14. 《他在》というこの表象も おそらくどうでもよい。けれどもそ
こに メッセージがあるかどうかが 問題だ。

15. みづからすすんで磔の刑を受ける阿呆か。あるいは ヘーゲルが
見たらしい愛なるメッセージがあるのか。その愛は むしろ阿呆の内にあ
るのか。

質問者からの補足コメント

  • 1,000字(お礼欄)や400字(補足欄)では とても書けません。

    お礼欄は 大きく端折ってしまっています。

    末尾の:
    ★ その矛盾が完全に実現している事を示す為に、イエス・キリストは
    死ななければならなかったわけです。
    ☆ は 合理的な解釈と思いますが それに先行する命題は 必ずしも
    わたしに明らかではありません。

    ★ 「神」の痛みとは、「神」自身が、自己の神性を保持しながら、罪
    人たる人間として受肉した事の矛盾です。
    ☆ 字面の論理は分かりますが だから どうなるか。これが しっく
    りした落ち着きを見せません。

    《人間になる=受肉する》のと:
    ★ 罪 人 た る人間として受肉した事
    ☆ との違いが あるのか・ないのか だからどうなのか。よく分から
    ないでいます。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/23 16:32

A 回答 (3件)

本当は書籍から丸写ししたらいけないのではないかと思うのですが、




 神は死んだ、神は死んでしまった。—これは、あらゆる永遠なもの、あらゆる真なるものは存在せず、神のうちにさえ否定が存在する、というもっとも怖るべき思想である。最高の苦痛、まったく救いがないという感情、あらゆる高貴なものの放棄が、この思想に結びつけられている。—ところが、事態の経過はここで立ち止まってしまうのではなく、今や逆転が生ずる。すなわち、神はこの過程のただなかで自己を維持するのであって、この過程は死の死であるにすぎないのだ。神は蘇って生となる。…キリストの死は、このような死そのものの死であり、否定の否定である。…ところが神は、これを己れの死によって殺すために受け取ったのである。その汚辱にまみれた死は、こうした絶対的な両極の法外な統一として、この点において同時に無限の愛である。神が己れに疎遠なものを殺すためにそれと同一化したということは、無限の愛なのである。これがキリストの死の意義である。キリストは世界の罪を贖ったとか、神と宥和したとか言われるのである。


と引用されていました。なにかわかるような気もするのですが、前後の文脈がどんなものなのか、まるでイメージがつきません。

僕が気になるのは、(神が己れに疎遠なものを殺すため)というところがとくに理解できません。

イエスが十字架にかけられるのは人々を救うためではないのですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。引用の訳について こなれていると思うと同時に 論理
の運びが いまひとつ分かりにくいようにも感じました。

▲ 今や逆転が生ずる
☆ というところ。すなわち いわゆる否定の否定 つまり《死の死》
でしょうか。そこへの逆転がどうつながるかが分かりづらく感じまし
た。


★ 僕が気になるのは、(神が己れに疎遠なものを殺すため)というと
ころがとくに理解できません。
☆ ということですか。《己れ(=神)に疎遠なもの》というのは
これは 《死》のことだと思います。神は 生ないし生命そのもので
すから。

しかも 死ぬことによって その死を死なせるということだとも ヘ
ーゲルは言っているものと思われます。死の死 ゆえに・つまりは 
まさに生だというふうに。

ただ そこへ到る筋道が どうなってるんでしょうねぇ。



★ イエスが十字架にかけられるのは人々を救うためではないのです
か?
☆ これは 神学としては だいたい決まっているようです。

アダムとエワの犯した原罪〔そしてその後ひとびとが犯した罪〕につ
いて これらをすべて贖う(だから 罪からまぬかれてきれいになる)
ために そのいけにえとなって 十字架上に死んだ。と。

これが すくいにつながります。



わたしは 新約聖書のヘブル書8章に注目しています。そこでは旧約
聖書のエレミヤ書( 31:31~ )の《あたらしい契約》のことが取り上
げられています。
▼ ヘブル書
http://bible.salterrae.net/kougo/html/hebrews.html

☆ (1) 神はもう人びとの罪をおぼえない。忘れる
(2) 人びとは互いに神を知れと言って 教えることはなくなる

と書いてあります。この内容が イエスの登場によって成就するのだ
と。

ヘーゲルから主題の切り口としては離れましたが 内容は 同じです。

お礼日時:2017/09/24 21:09

お礼ありがとうございます。


まず、イエス・キリストの受肉ですが、これは神学的解釈ですから、特に気にする必要はありません。
宗教哲学講義では、このように説明すると言うか、キリスト教信者(ルター派)としては、このように解釈するしか方法が無いと言う事なんだと思います。
もちろん、ルター派プロテスタント以外の諸派は、また違う解釈をします。
イエス・キリストは、痛みを持たないと言う解釈が、カトリックの考えです。(現在は、変わっているかもしれませんが、ヘーゲルの時代はそうだったのでしょう)
実を言えば、ヘーゲルの哲学的内容としては、神と人間が和解すれば、それで良い事になってしまい、その方法は問いません。
つまり、キリストの死も、キリストの受肉も、ヘーゲルの哲学においては、それほど重要では無い雰囲気があるんです。
キリストの贖罪に触れていないのも、キリスト教から見れば、おかしいんです。(ただ、ルター派としては、それほどおかしくは無いのかもしれません)
キリスト教から、キリストを除いたら、キリスト教が成り立ちません。
つまり、ヘーゲルの哲学(神学)が、キリスト抜きに成り立ったら、完全な無神論者とされてしまいます。
しかも、なおかつ、全知に至るとしたら、ルター派として、キリストの聖霊が、信者の心の中に生きるのは、なんら問題無いわけですが、ヘーゲルの場合は、完全な和解=「神」と人間が一致してしまうわけです。
もちろん、ヘーゲルの論では、人間は「神」と和解する為に、人間の自我を捨て去る「痛み」を負わなければならないわけですけどね。(これは、極論すれば、人間から自我を抜けば、「神」になると言っているのと同じ事です)
ヘーゲルの論では、「神」は、キリストを受肉させる事により、人間にその「愛」=「和解」=「信義」を与えます。
これは、「神」から、一方的に与えられただけで、人間はそれに応えなければいけません。
キリストの死により、人間は「神」が真に「愛」を人間に送った事を確信します。(キリストの受肉の完成)
そして、キリストは、その死によって、「聖霊」そのものとなり、人間の心に刻みこまれます。
この事を確信する事が、信仰=「愛」=「神」との和解の応えとなるわけです。
ヘーゲルの場合は、「神」との完全な和解の為に、人間も自我を捨て、内在する「聖霊」との完全な和解をその人間の痛みとして受容し、全知に至ると言う事になります。
これが、完全な「信仰義認」を意味します。(ヘーゲルの場合は、全知に至る直前を宗教的段階としているので、ルター派と同じく、「神」の「愛」を信仰により確信した段階で「信仰義認」が成立しているのかもしれません)
ここまでは、表向きのヘーゲルの論なわけですが、どうも「精神現象学」は、元々「学の体系」として編集される予定で、「精神」と「宗教」は付け足しだったようです。(つまり、本来は不要な説明を付け加えたわけです)
「宗教哲学講義」は、元々、キリスト教神学の講義でしょうから、神学として語っているのは、宗教的理由から、そのような形にしかならなかったのでしょう。(キリストの受肉は、「神」が人間になると言う意味で、人間が「神」を認識する義認を与える行為なのは確かです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まず、イエス・キリストの受肉ですが、これは神学的解釈ですから、
・・・。
☆ その内容をるる説明いただきました。思ったことは 《神学》とし
ては わたしは アウグスティヌスですべて済むと思っていたことです。

アクィナスやドンス・スコトスその他をまなんでそう考えていました。
プロテスタントでは ハイデルベルク信条だかを読んだことがあります
が アウグスティヌスで済むと思っていました。

問題は――とすぐにえらそうに我が田へ水を引きますが―― 非知なる
プラス・アルファをヘーゲルならヘーゲルが 自然本性の身と心のうち
の心のこと・つまり精神と同じ言葉で表現しているということです。

世界精神は 非知のナゾです。それを 経験存在たる人間の精神とあた
かも地続きであるかのごとく 捉えている。

これは 教会人間(聖職者)の成す神学の場――池? 沼?――に片足
をなお入れている。

★ ヘーゲルの論では、「神」は、キリストを受肉させる事により、人
間にその「愛」=「和解」=「信義」を与えます。
☆ 祭壇から説教する神学と同じです。

▲ (ヨハネ福音1章) ~~~
1: はじめに ことばがあった。
ことばは かみとともにあった。
2: ことばは かみであった。

14: ことばは肉となって、わたしたちの間に宿った。

12: ことばは、自分を受け容れた人、その名を信じる人びとには 神
の子となる資格を与えた。
13: この人々は、血筋によってではなく、肉の意志によってではなく、
人の意志によってでもなく、神によって生まれたのである。
~~~~
☆ すなわち 《われがわれである自己還帰》は 《人間の意志によっ
てではなく 神によってなのだ。すなわち 非知なるナゾによってだ》
ということ。

無条件で無根拠にてすべての和解が成り 人はすくわれる。

これが 《受肉 および その存在の死》の意味するところです。

★ 「神」との完全な和解の為に、人間も自我を捨て、・・・
☆ 《自我》は お呼びではありません。

△ (親鸞) はからひ無きを 自然といふ。/ 義無きを義とす。

☆ これが 非思考の庭です。思考に非ず。(ということは 思考は思
考で別様におこなっています)。

これが アウグスティヌスから出たぶらじゅろんぬ神論です。

お礼日時:2017/09/23 22:00

第一段階として、キリスト教が、イエス・キリストの死をどのように理解したかを分析する必要があるでしょう。


問題は、イエス・キリストの死が、「神」の死であるか、「神の子」の死であるかです。
同時に、イエス・キリストの死が、「神」の痛みを伴うかと言う事です。(これは、イエス・キリストの神格が痛みを感じたかと言う事です)
実を言えば、この解釈は、キリスト教諸派でも、それぞれ違います。(ヘーゲルは、その中では、ルター派の解釈に所属します)
ヘーゲルの立場は、これ(イエス・キリストの死)は、「神」の痛みを伴うという事です。
「愛」とは、ヘーゲルの解釈(必ずしも、ヘーゲルだけでは無いですが)によると、和解です。
ヘーゲルの解釈では、「神」の死とは、「神」による、人間(の霊(精神))との和解と言う事になります。
これは、「神」の「愛」による、「聖霊」と「(人間の)霊」との和解を意味します。
この和解は、イエス・キリストの死(「神」の死)が歴史的事実として受容される事により、なされると、ヘーゲルは考えます。
なお、ヘーゲル(ヘーゲルだけでは無いですが)にとっては、自然(世界)、歴史は、「神」の義そのものです。(「善」・「悪」も含めて、「神」の義、つまり、「神」のなせる業です)
ちなみに、ニーチェの「運命愛」は、それが、「運命」=自然(世界)の歴史的現象と考えれば、「運命」との和解を意味しますから、結論としては同じになります。(ニーチェは、「運命」を「神」の義と考えず、人間が操作できない現象と捉えている点が違うだけです)
ヘーゲルにおいては、「神の死」、「神自身の死」が歴史的事実としてあったと言う事が重要だと言う事です。
ここからが、ヘーゲルに対する批判の元となってしまうわけですが、ヘーゲルにとっては、哲学と信仰とは同じです。
簡単に言うと(簡単すぎるかもしれませんが)、ヘーゲルにとっては、哲学とは、「世界」と人間の和解の活動の循環と言えるでしょう。
「世界」=「神」の義としての歴史です。
つまり、「神」と人間の和解に至る道が、哲学=信仰と言う事です。
これは、(キリスト教)神学として考えれば、あまりにも当たり前の考え方です。
しかし、ヘーゲルは、ここで大転換と言うか、意味の読み替えを行います。
「神」=神と見なすわけです。(ここでの神は、Godでは無い事に注意してください)
ヘーゲルは、この読み替えをした瞬間に、対象を「神」と呼ぶことをやめる必要がある事を示唆します。(「神」=Godとは、固有名詞であり、「神」=Godと言う意味を持つ実体だと言う事です)
これは、哲学が、その対象を固定化(意味付け)して始めてはいけない事からの要請です。(哲学とは、問題に対する対応であって、対象が意味づけられている(回答されている)場合は、哲学できないからです)
哲学を、「神」と分離した、純粋な理性的活動と捉える立場から見れば、ヘーゲルは単なる神学であり、哲学では無く、神学(宗教)であるとされてしまいます。(逆に、神学がヘーゲルを批判するのは、イエス・キリストの死が、人間に対する贖罪と考えているとは思えない事、つまり、哲学している事です)
ヘーゲルが主張している事は、哲学の最終目的が、「世界」=「全体性の主体」と観念の和解であると言う事です。(一般的にこれを、「主観」と「客観」の合一(和解)と呼びます)
ヘーゲルにとっては、これはまさに、哲学であると言う事です。
実を言えば、イエス・キリストの死は、イエス・キリストの神格と、イエス・キリストの死を知らない者にとっては、意味をなしません。
そういう意味では、この「神の死」とは、キリスト教徒以外には、何の意味もなしません。
「神の死」とキリスト教徒の信仰が、「神の死」と言う「啓示」によりなされる事が述べているのは、「啓示宗教」とは、神の啓示の受容よる信仰が、神との和解となると言う事です。
ただし、ヘーゲルは、啓示宗教としてのキリスト教が宗教の最終形態であり、世界=全体知に至る最善の道であると主張しています。(これを徹底すると、信仰(宗教)=哲学となります)
余分な事を書きすぎましたね。
ヘーゲルにとっての「神の死」とは、(絶対)啓示宗教の契機としての意味しかないように感じます。
それは、歴史的現象であり、イエス・キリストの行動に対する意志とは無関係です。
何故ならば、イエス・キリストの受肉自体が、「神」にとっての痛みであり、イエス・キリストの死は、その痛みを表象したにすぎないからです。(イエス・キリストが完全に受肉した事を明かす為の死です)
「神」の痛みとは、「神」自身が、自己の神性を保持しながら、罪人たる人間として受肉した事の矛盾です。
その矛盾が完全に実現している事を示す為に、イエス・キリストは死ななければならなかったわけです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こちらにもようこそ。ご回答をありがとうございます。

この問いは 推測と想像の問題です。はっきり言えば 経験合理性を
いかに欺くかでしょう。

★ ヘーゲルにおいては、「神の死」・・・が歴史的事実としてあっ
たと言う事が重要
☆ という――神の想定から始まっての――仮説がどれだけ 経験科
学の検証に耐えるか。

わたしの解釈も 想像力の世界においてそこで得られるヒラメキがど
のような経験思想を得させるか。でしかありません。

▲ 愛
☆ は:
★ 人間(の霊(精神))との和解
☆ であり われと世界との・またわれ自身との和解だと考えます。
《わたしがわたしである(自己還帰)》です。

ということは どんな経験思想を得させるかというよりは 《自然本
性(身と心)+ α 》としてのわれを確立させ得るか。


ただし:
★ ヘーゲルにとっては、哲学とは、「世界」と人間の和解の活動の
循環と言えるでしょう。
☆ に同意しますが:
★ 「世界」=「神」の義としての歴史です。
☆ という見解を受け容れたわけではありません。結論を押しつけま
すが 《+α 》――非知のナゾ あるいは 非思考の庭――の問題だ
と考えます。

★ つまり、「神」と人間の和解に至る道が、哲学=信仰と言う事で
す。
☆ わが独断は キリスト・イエスの十字架じょうの死をとおして
人はその和解(自己還帰)が成ったというものです。普遍神とわれと
の関係が成った。

そこから しかしながら へそを曲げて道を外れる。ゆえに そのつ
ど あたかも巡礼の旅のごとく自己到来を果たしては ゆがむといっ
た遍歴をたどる。

(これが 永劫回帰かと 好意的に解釈したことがあります)。

そうして もし《非知( α )》が想定されず自覚されていなければ:
★ ヘーゲルにとっての「神の死」とは、(絶対)啓示宗教の契機と
しての意味しかないように感じます。
☆ 世界精神あるいは単純に摂理の《肉化――経験事象の中に摂理を
見るということ――》という神観つまりはひとつの特殊絶対性が現わ
れます。

宗教ではないかと批判されるのは この特殊絶対性を 主観から外に
出て 世界のものごとに当てはめようとする愚行です。

★ 「神」の痛みとは、「神」自身が、自己の神性を保持しながら、
罪人たる人間として受肉した事の矛盾です。
☆ ?

お礼日時:2017/09/23 16:25

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Q¿ 不倫がどうぢゃこうぢゃと 弱者の反感(ルサンチマン)がかまびすしくなった あぁ 世も末ぢゃわい

1. 弱者は 勇気も度胸もなく 浮気もできないというだけではないか。

2. そのやからがつくった倫理をやぶったからと言って 何をさわぐのか?

3. 高貴な強者は ビッグバンの初めから そのチカラへの意志で生きて
いる。きわめてうつくしい振る舞いだ。文句あっか?

4. 倫理道徳は 高貴な人種のつよさ・うつくしさに対するやっかみから
弱者が勝手につくった。

5. 天皇家も この《倫理》に合わせて 側室を排除した。あぁ 世も末
ぢゃわい。


☆ 教えて! ぐー。

Aベストアンサー

No.7です、

bragelloneさん、素直なコメントですね。


「つまり 《倫理・道徳》というものは 《つぶやき氏(=ニーチェ)》によれば 弱者が勝手にその弱さに合わせて都合よいようにつくったに過ぎない・・・と言ってるんです」
⇒そうなのですか。

ニーチェが心から、そのように言ってるとすれば、それはニーチェがおかしいですね。

何故ならば、倫理・道徳がなければ、社会は混乱の極みだからです。
倫理・道徳がある中で、密かに浮気がある、ということであれば何も問題はないでしょう。

つまり、浮気は”弱者は勇気も度胸もなく”とは無関係でしょうね。

Q《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_genealogy_of_morals/on_the_genealogy_of_morals.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲しいと記載している以上、ニーチェも自説が完全とは判断してはいないでしょう)
「よい」とは何か?、「わるい」とは何か?と言う事は、ニーチェは自分の「よい」、「わるい」しか述べていません。
第一論文ー17で述べている以上、これはみんなで考えて欲しいと言う事です。(その問題提起とは、「善」、「悪」の起源及び、その価値についてです)
なお、第二論文ー「罪」、「疚しい良心」および関連問題、第三論文ー禁欲主義の理想の意味するもの、でさらなる論争を求めています。(第二論文は、その性格上、社会を扱います)
あくまで、この論文集は、「善悪の彼岸」で問題を提起したつもりだったのが、そのように読み取る読者が少なかったので、論文の体裁で、論争を巻き起こす事を意図したものなのでしょう。(批判しやすいように、あえて明確に記載しています)

お礼ありがとうございます。
誤解があるようですが、私が記載しているのは、ニーチェが述べた事、及びニーチェの論と思われる事です。(ニーチェの論を全て詳細に検証する事は不可能ですから、これが完全なものである保証はありません)
したがって、あくまでニーチェが論として述べた事であって、それが仮説では無く、実証されたものと言う事はありません。
ニーチェが論として述べている以上、ニーチェは確信していると言う事を前提としていると言うだけです。(なお、ニーチェが提起した問題は、読者に考えて欲...続きを読む

Q人間は生まれながらに善なのか悪なのか?性善説vs性悪説。あなたはどちら?

赤ちゃんは純心無垢の天使なのか ギャーギャー泣く欲の塊なのか?

人間は信じるべきか信じられないか

世界は人間の愚かさ故滅びるか 理想社会に到達するか?

あなたはどう思いますか? 現実はどうですか?

Aベストアンサー

性善説と性悪説って、二元論的な対立であって、対極的な議論じゃないですよ。
「人間は生まれながらに善悪を持つ」と言う前提で、「そのいずれが、より先天的か?」と言う議論です。

具体的に言えば、性善説は「善の本性を、後天的に淀ませる」と言う考え方に対し、性悪説は「悪の本性を、後天的な理性などで覆い隠す」とするものです。

すなわち、どちらかと言うと、性善説の方が、人生経験をすればするほど悪人になると言うことです。
「だから学問などで精神を浄化し続けなさい」と言う教えです。
逆に性悪説が、人間は長く生きれば生きるほど、善人(性悪説では「偽善者」ですが)になれる可能性があると言う教えですが、コチラも、「だから後天的に、良いものを身に付けなさい」なので・・。

結局、性善説でも性悪説でも、人間がやるべきことは「同じ」で。
やるべきことをやらねば、衰退するし。
やるべきことをやれば、発展します。

Q世界史における《力への意志》の位置づけ

次の仮説について 添削をどうぞ。

             *

1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
                  世界との未分化にして一体性。
                  寄り憑く状態が つねなるかたち。

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                  未分化状態を時間(生死)の自覚がやぶった。
                  《世界‐内‐存在》。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階(メタ・イリ)に位する。 
                  そのような雲の上から 《ヨリ》心性を束ね
                  (ファッショ) 《イリ》知性をも 社会力
                  学上(政治的に) 引き寄せる。

 
2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これが チカラへの意志の象徴であるので
はないか。これは はっきり 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 
必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。

2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民たちの社会を二階建て構造にしてそ
の二階から共同自治する社会経営の方式です。マツリは 一階の人びとのお祭り。



3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共同生活におい
て 互いの自由をとうとぶ。《時間的なること(存在)》をいつくしみ 限りあるも
のゆえに互いの意志自由を重んじる。民主制である。

3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(事実認識が 
基礎である。排中律や 因果関係の把握などをまもる)。

3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの成果を得ることを目指す。
これは 勤勉と呼ばれる。

3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。
ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をお
もんじるようになる。勤勉が 産業を築いた。




4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり
経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんた
んに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。

4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なので
あると思われる。品行方正であると見られることを 意識している場合が多い。
 



5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまち
うるスサノヲ人間語をしゃべっていると言える。その基礎においては 合理性を問い
求めている。

5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉超知性にあっては あたかもあやま
ち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 優秀さとともに 他人(ひと)に負けた
くないから 他人の上に立ちたいからという思わくもはたらいていると思われる。

5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するよう
になる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。むろん スサノヲ人間語から出た
のである。

5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使
するようになると 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるも
のの下にも立つまいと誓うようになったらしい。その存在じたいが 侵すべからざる
神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ お
しえ導くようになる。

5-4. 武力に支えられつつであるが 人徳のしからしむるところだと見られた。




6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造
になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普
遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。

6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民
圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。
 
6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 
公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。




7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が 
さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。

7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は

 《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像

に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 

 《 S - A 二層連関構造》なる個人

ではないかと考えられる。

7-2. 言いかえると 《 S = A  なる単層》としての人間観に立つ人びと・つま
りは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。

 〔スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)‐ アマテラス公民圏(《 S = A 》人)〕

だれもが アマテラス公民を志向するのであろうか。つまりは・だから 
《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては そのA圏二階の住人が つねにひっくり返される
ウゴキ( revolution )を秘めている。

7-3. これは ひとりの個人が 《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象
を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium
contra omnis.》。

7-4. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理
性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。

7-5. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て 悪びれず やっ
てらんねえよと言った。




8. これから どうなるか? グローバリズムは とうぶんつづくか。二階建てなる
国家は ひょっとしたら ひらぺっちゃくなるかも。

次の仮説について 添削をどうぞ。

             *

1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
                  世界との未分化にして一体性。
                  寄り憑く状態が つねなるかたち。

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                  未分化状態を時間(生死)の自覚がやぶった。
      ...続きを読む

Aベストアンサー

日照りが続いたら、雨が降るように祈りたくなる気持ちは起こらないでしょうか。

北斗七星の並びに井戸を掘ってみて、水不足を解消できるでしょうか。

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Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q先天的総合判断は可能か、、、その事例の是非について。

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加法の法則が成立)における特殊(7+5は加法の一例)を挙げただけですから、分析的判断になるのではないでしょうか?

質問2:別のソースには「三角形の内角の和が二直角である」という例も見られるようですが、これもリーマン幾何学の中から、あえて意図的に曲率がゼロの空間を選んだから内角の和が180度になるわけであって、一般のもとに特殊の例を包摂するにすぎず、やはり分析的判断ではないでしょうか?

質問3:数学的な事例以外で、「なるほど、、、」と納得できる分析判断の事例をご存知でしたら、ご教示ください。

蛇足ではございますが、岩崎先生の解説本を読んでいると、カントの目指した認識論的主観主義は破綻しているのではないかと思えてきたところです。
これに関して、ご意見、ご主張のある方は、上記の質問の回答に加えて、お考えをご教授ください。

どうぞよろしくお願いします。

合掌

カントの本は難しすぎて読んでも理解できないので、岩崎武雄先生が日本語で書いた「カント」という解説本を読んでいます。

カントの純粋理性批判は、先天的総合判断が可能かどうかを吟味しているが、これがその中心テーマだそうです。

その記述の中に、総合的判断の事例として「7+5が12である」というものが載っていましたが、これに関して疑問に思うので質問します。

質問1:私たちが、四則演算、とくに加法の法則が成立する公理系を選択している以上、7+5が12になることは、一般(すなわち加...続きを読む

Aベストアンサー

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問2.主語は、三角形の内角の和、述語は180°です。
三角形の内角の和に180°は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えます。
質問3.分析判断の例はいくらでも考えられます。
例.死者は生者では無い。
例.独身者は、未婚である。
主語の概念が、主語とは別の言葉で表現できる場合は、それを結合すれば、分析判断となります。
ここで、質問1と質問2は、総合的判断と言えますが、それが先天的かどうかは、さらに吟味しなければいけません。
カントの時代は別としては、現代の数学においては、公理の真・偽は判断されません。
つまり、公理は先天的では無いわけです。(ユークリッド幾何学においては、公理は先天的もしくは、常識的に正しいと判断されるものとされていましたが、現代ではそのような解釈では無く、あくまで公理が成り立つ場合の形式的操作と考えられています)
したがって、現代においては、質問1.質問2の例は、総合的判断ではあるが、先天的総合判断ではありません。

質問文に書かれている「総合的判断」は、「先天的総合判断」の事なんでしょうか?
まずは、「総合的判断」かどうかを吟味しましょう。
カントの定義では、「総合的判断」とは、主語に述語の概念を含んでいない場合です。
質問1.主語は、7+5であり、述語は12です。
述語である12が7+5に含まれているかが問題になります。
ここで、この判断が、分析的判断だとすると、7+5に12が含まれていなければいけません。
一見したところ、7+5に12は含まれていません。 したがって、総合的判断と言えま...続きを読む

Qシャカも、モハメットも、孔子も、尊敬され、天寿を全うしましたが、なぜ、キリストは、天寿を全うしていな

シャカも、モハメットも、孔子も、尊敬され、天寿を全うしました。
しかし、キリストは、天寿を全うしていません。(できなかったのか。しなかったのか。)
なぜ、キリストだけは、特殊なのですか?

Aベストアンサー

過激で、当時の政治体制を揺るがしかねなかった
からです。

釈迦は穏やかです。既存の政治権力と対立することは
ありません。
モハメットは、自ら戦争を仕掛け、勝利しました。
孔子などは、それこそ政治体制維持の為の教えみたい
なものです。

しかしキリストは違います。
既存の宗教を悪と断じ、体制に真っ向から対立しました。

Q「魂」は存在するのか?

「人間の意識は脳のニューロンに流れる電気の信号で脳が死ねば意識は無くなり人間は無になる」と主張する人がおります。
しかし、もし電気の信号が人間の意識だとすると、人間は自由意思を持つことはできません。
なぜなら電気の信号は物理的なエネルギーなので物理の法則にしたがわなくてはならないからです。

「今日の昼は物理の法則にしたがってラーメンを食べねばならない」なんて人いるでしょうか?
そんな人いませんよね?

人間には物理の法則にしたがわない自由意志があります。
人間の意思が物理の法則にしたがわないということは、なにか物理の法則から自由なものが根本にあると推定します。その物理の法則から自由なものとはいったい何か?

意識にせよ自由意思にせよ体積もなく質量もなくそれを示す計算式もありません。
なので物質であるとはとても思えません。
では情報の一種なのだろうか?情報をうまく組み合わせれば意識や自由意志が発生するだろうか?
しかし、もし情報だとすると「紙と鉛筆」で意識や自由意志が作れることになりますが、それもありえなさそうです。

物質でもない、情報でもない、となるといったいなんなのでしょうか?
この世は物質(エネルギーも含む)と情報でなりたっています。それ以外のものはありません。
となると人間の意識や自由意志はこの世のものではないことになります。
この世のものではなく、意識や自由意志を有するものとはつまり「魂」そのものではないかと思うのです。

みなさんはどのように考えますか?いろいろな意見を聞かせてください。

「人間の意識は脳のニューロンに流れる電気の信号で脳が死ねば意識は無くなり人間は無になる」と主張する人がおります。
しかし、もし電気の信号が人間の意識だとすると、人間は自由意思を持つことはできません。
なぜなら電気の信号は物理的なエネルギーなので物理の法則にしたがわなくてはならないからです。

「今日の昼は物理の法則にしたがってラーメンを食べねばならない」なんて人いるでしょうか?
そんな人いませんよね?

人間には物理の法則にしたがわない自由意志があります。
人間の意思が物...続きを読む

Aベストアンサー

私は誰でしょうか。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html

私は誰でしょうか。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか...続きを読む

Q今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

今ちまたで、流行りのス昆布貴方は好きですか?ベビーラーメンと比べてどうですか?

Aベストアンサー

いい加減なこと言うでない。
ス昆布がちまたで流行ってるって誰が言った。
今ちまたで流行ってるのはカルビーのカールだろが。

Q「主」とは誰ですか?

「主」とは誰ですか?
 自分ですか?

Aベストアンサー

その答えは、ご質問者次第では。

「主」を、「しゅ」と読むか、「あるじ」と読むか。

ご質問者が、「支配されるもの」として、自分を認識すれば、「しゅ」と読んで、
宗教世界に浸るかもしれませんし、

「支配されていないもの」として、自分を認識すれば、「あるじ」と読んで、
自分を認識するかも知れません。

結局、気分次第で、読み方、意味が変わると言う事は、
究極、普遍性を持たない「言葉」、と言う意味だと思いますが。


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