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▲ (ヰキぺ:本覚) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A

(あ) 本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)という
ことで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧
を意味する。

(い) 如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。

(う) 平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、ある
いは元から具わっている(悟っている)ことをいう。

 ・・・

§ 2 本覚思想と日本仏教

(え) この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性
を具えている(本来、覚っている)が、

(お) 生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自
分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。

(か) もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教
説とは全く相反するものである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《本格的な》解説を願えましょうか? 

(き) 特に(う)の《釈迦の教説とは全く相反する》という主題
についてです。

(く) (う)や(お)と微妙に違って 《〈ひとはすでに生まれ
つき ブッダである〉と言う》という捉え方をした場合 どう考え
るか?

☆ そのほか自由に主題・論点を取り挙げて コメントをどうぞ。

A 回答 (15件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


龍樹の「空」は、自立常在と結合できると言う事でしょうか?(これは、浄土教系仏教には福音となりそうですね)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 龍樹の「空」は、自立常在と結合できると言う事でしょうか?
(これは、浄土教系仏教には福音となりそうですね)
☆ ナーガールジュナの論理は かなり深いものがあるように記憶して
いる感じがあります。

ちょっと別の概念ですが 《わたし》なる存在は 空であるが 空とし
て現象している。その現象の現実性を説いているように思われます。:

▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
  存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
  のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされ
ているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離
れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないので
ある。
     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《自立常在》は この素朴な《わたし》なる経験存在を超えている
わけですから それとして想定されている(され得る)と思いたいです
ね。


《現場――教典――》から離れてしまっていて 弱りますが。

お礼日時:2017/10/22 23:09

お礼ありがとうございます。


「空」に関しては、いろいろな捉え方がありますが、基本的には自立(自性と訳される場合もあります)する実体と言うものは無意味だと言う事だと思います。(実相が無いと言う意味では無いでしょう)
極論すれば、「有」・「無」を超越した概念と言えますが、現世も「空」なわけですから、実相の「無常」と言う概念を含むと考えて良いでしょう。(単なる「無常」とは違うと言うのが、一般的解釈でしょう)
「中論」自体が、説一切有部に対する反駁のようなんで、実体にこだわる事を批判していると言う事なんだと思います。
一応、龍樹も釈迦牟尼も死後の涅槃は無意味と考えていたようなんで、浄土教とは、元々親和性が無いんですけどね。(浄土教が即身成仏の教義ならば、良いわけですけどね)
即得往生が、その意味だとしたら、現世で涅槃ですから、問題無いです。(ただ、あくまで即得往生は権利と考えると、矛盾してしまいます)
ここら辺の矛盾が、浄土宗・浄土真宗にはあるわけですが、唯一の救いが、龍樹は念仏を奨励していたんです。(したがって、念仏自体は問題無いと言う事になります)
本覚は、天台の思想ですから、かなり外れてしまいましたね。(浄土教自体は、本覚思想の上に成り立っているようなので、浄土宗・浄土真宗が別に極楽や阿弥陀如来が存在するとしたのが、問題なだけです)
ただし、親鸞に関しては、実は完全他力では無く、仏凡一体の本覚として捉える説もあります。(逆に、完全帰依の完全他力と捉える従来の説も有力なのは確かです)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「空」に関しては、・・・基本的には自立(・・・)する実体と言
うものは無意味だと言う事だと思います。
☆ 《実体》は 西欧哲学にとって――大文字の《他者》だとか言って
―― 神でしたね。

そして アン‐アートマンは ア‐ブラフマンと言うのでしょうか 《無
き神》のことだと採ります。神論の基本として。

《空》も この《無い神》という神だと捉えます。


★ 極論すれば、「有」・「無」を超越した概念と言えますが、
☆ ええ。そのとおりに受け取ります。

★ 現世も「空」なわけですから、実相の「無常」と言う概念を含むと
考えて良いでしょう。
☆ つまりこれは 現象の相対化としての空観ではないかと。

★ (単なる「無常」とは違うと言うのが、一般的解釈でしょう)
☆ ここは 細かい教理があるのでしょうか。《相対化》としては す
べては移ろいゆきやがては朽ちるものとしての無常に帰着するとは思う
のですが。



★ 「中論」自体が、説一切有部に対する反駁のようなんで、実体にこ
だわる事を批判していると言う事なんだと思います。
☆ それだと 《実体》は 超経験として活きますね。つまり 空=
《〈無き実体〉としての実体》もふくまれます。




★ (ただ、あくまで即得往生は権利と考えると、矛盾してしまいます)
☆ 自然本性としてそなわっただと思いますが それも権利と言おうと
思えばそうなりますが 困ったものですね。
▲ (即得往生) ここでの即得の語は、即時に浄土への往生を得るの
ではなく、阿弥陀如来より廻向された信心の利益として必ず往生が決定
していることをあらわす
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%B3%E …

☆ つまり:
★ 親鸞に関しては、実は完全他力では無く、仏凡一体の本覚として捉
える説もあります。
☆ ただしこのオシヘ――義――無きを以って義とす だと思います。


★ 唯一の救いが、龍樹は念仏を奨励していたんです。

★ (浄土教自体は、本覚思想の上に成り立っているようなので、浄土
宗・浄土真宗が別に極楽や阿弥陀如来が存在するとしたのが、問題なだ
けです)
☆ なるほど。

お礼日時:2017/10/23 06:34

お礼ありがとうございます。


龍樹に関しては、「輪廻」、「涅槃」、は全て「空」なんで、如来も「空」となりますが、そこと極楽浄土が結合するとなると、阿弥陀如来も極楽浄土も「空」となります。
このような結合は可能なんだと思います。
同時に、龍樹は「中論」帰敬偈(これは龍樹作では無いと言う説あり)において、「戯論(※形而上について語ること)を語らない正覚者(※釈迦牟尼)に敬礼する」と記しています。
つまり、極楽浄土に往生すると言う概念自体が、龍樹の「空」と結合しようが無いような感じがするんですよね。
親鸞の到達点が、阿弥陀如来自体が「空」であると言う事ならば、それは龍樹とは矛盾はしないわけですけどね。
司馬遼太郎は、法然・空海・一遍にとって、阿弥陀如来は「空」だったと断じていますけどね。
浄土教が求めた浄土は、実はこの世界であって、どこか別の所では無いと言ったら、浄土教自体が成り立たないような気がしますが、あくまで念仏と言う行為が大事ならば、浄土も阿弥陀如来も方便で良いと言う結論になります。(それ自体は「空」なので、その実体を求める必要は無いと言う事です)
つまり、「義無きを以って義とす」は、「空」そのものを意味すると解釈できれば、如来蔵も、涅槃も、輪廻も、縁起も、無我も、すべて、「空」として結合し、論理的には整合しますね。
何故か、「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17章20節ー21節)みたいな感じになってしまいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 龍樹に関しては、「輪廻」、「涅槃」、は全て「空」なんで、
如来も「空」となりますが、そこと極楽浄土が結合するとなると、
阿弥陀如来も極楽浄土も「空」となります。
このような結合は可能なんだと思います。
☆ 空は からっぽという意味ですが したがって色受想行識が
空だというのは やはり無常だということでしょう。

ただし 空即是色(受想行識)という折れ返しがあります。空だ
けれど 空として現象していると。

ということは この空(シューニャター)を別の意味に採っても
よいのでは? つまり 非経験の場としてです。人知を超えた場
です。

だとすれば 空にふたつの意味が出ます。

色などの現象を相対化するための空観と そして それら経験世
界を超えた場として 空を設定する。つまりは 神のことです。


★ 同時に、龍樹は「中論」帰敬偈(・・・)において、「戯論
(※形而上について語ること)を語らない正覚者(※釈迦牟尼)
に敬礼する」と記しています。
つまり、極楽浄土に往生すると言う概念自体が、龍樹の「空」と
結合しようが無いような感じがするんですよね。
☆ 空の第三の意味は 理念ではないでしょうか。理念について
語ってはいると思いますが。



★ 親鸞の到達点が、阿弥陀如来自体が「空」であると言う事な
らば
☆ これは 一般絶対性なる神のことです。


★ 浄土教が求めた浄土は、実はこの世界であって、どこか別の
所では無い
☆ そうだと思いますよ。加賀一向一揆で 吉崎でしたか そこ
でたたかった人たちは 極楽浄土なんてただの妄想だと思ってい
たらしいです。

あるいは いますでに往生していて 浄土にあると。

★ つまり、「義無きを以って義とす」は、「空」そのものを意
味すると解釈できれば、如来蔵も、涅槃も、輪廻も、縁起も、無
我も、すべて、「空」として結合し、論理的には整合しますね。
★ 何故か、「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』
『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた
がたの間にあるのだ。」(ルカ17章20節ー21節)みたいな
感じになってしまいます。
☆ つまり 宗教とそのオシヘ――《義》――から自由になるこ
と。として信仰を捉えていたし 生きていたと思います。

お礼日時:2017/10/23 01:09

お礼ありがとうございます。


仏教の外からの批判は、いくらでも成り立つので、それ自体は問題無いと思いますが、仏教内部で矛盾を持ってしまうのは、やはりまずいと思いますね。
少なくとも、「無常」、「空」と自立常在する存在は、結合するのは難しいです。(龍樹の空論においては、「自立存在」自体があり得ないはずです)
一応、「縁起」での結合を行っているようです。(極論すると、自立常在する仏も、縁起=空となる事になります)
つまり、親鸞が逸脱した上座部仏教及び原始仏教の「無常」の概念が、親鸞の到達した結論が、阿弥陀如来もその関係性=縁起=空で結合されている事(つまり、自立では無いと言う事)だとしたら、むしろ逸脱では無いと言う事になります。(阿弥陀如来=空となりますが、これで良いのかはわかりません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 少なくとも、「無常」、「空」と自立常在する存在は、結合するのは
難しいです。(龍樹の空論においては、「自立存在」自体があり得ないは
ずです)
☆ 《早わかり》を勝手にやっていますが そうなんですか?

つまり:
★ 「自立存在」
☆ と言えば ブラフマン神だと考えられます。アートマンのことにもな
りますが。

つまり 仏教の外のブラフマニズムについても 考えたはずです。そして
もし:
★ 「自立存在」自体があり得ない
☆ とすれば それは ゴータマのアン‐アートマン説の――単純な《アン‐
=否定》としての――影響ではないのでしょうか。そのまま右へならえを
しているように見えます。


★ 一応、「縁起」での結合を行っているようです。(極論すると、自立
常在する仏も、縁起=空となる事になります)
☆ うむ。これは わるい影響のように映ります。ブラフマン神を梵天と
して取り入れたとしても。



★ つまり、親鸞が逸脱した上座部仏教及び原始仏教の「無常」の概念が、
親鸞の到達した結論が、阿弥陀如来もその関係性=縁起=空で結合されて
いる事(つまり、自立では無いと言う事)だとしたら、むしろ逸脱では無
いと言う事になります。(阿弥陀如来=空となりますが、これで良いのか
はわかりません)
☆ ううーん。そのあたりの《現場》の事情は分かりませんが なにしろ:
▲ (親鸞:自然法爾章) ~~
自然といふは 
自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず 
然といふは しからしむといふことばなり。

しからしむといふは行者のはからひにあらず 
如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。

 * 爾(に・じ):しかり。そうである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということだとすれば・・・?

アミターバ・ブッダは 《自立である・でない》を超えていると思うんで
すがねぇ。希望的に かも分かりません。

あと:
▲ (親鸞:末燈抄) 義無きを以って義とす
☆ ですね。

お礼日時:2017/10/22 22:19

お礼ありがとうございます。


アートマンの永遠性の否定ですが、釈迦牟尼自体は、形而上の問題に関しては無記ですが、実在(現実存在)としての、肉体と心に関しては、「無常」として、ここに常在のアートマンを確認できないとしています。(上座部仏教及び原始仏教における実在は、色・受・想・行・識に限られます)
諸行無常にならって、実在として、そこに常在のアートマンは確認できないと言う事のようです。
これは、現象論としての確認不能ですが、「輪廻」に関しては、アートマンの「恒常」と「無常」を設定した場合、以下の矛盾が生ずるとしています。
「恒常」の場合は、永遠に「輪廻」し続ける。(解脱も無意味となる)
「無常」の場合は、いつか滅するので、「輪廻」が成り立たない。(解脱しなくても、いつかは消滅するか止まる)
したがって、「輪廻」と「解脱」が両立する場合は、「恒常」は少なくとも成り立ってはいけないと言う事です。
ここで、一つの疑問が出るのは、「無常」なんだから、「輪廻」が無いのではと言う事なんですが、そこで、仏教の「輪廻」と「業」の理論が出てくるわけです。
前回説明したとおり、これを解消するのが、心の連鎖です。
これは、「無常」と「輪廻」が同時に成り立ちます。
問題なのは、大乗仏教においては、本覚とか本仏とかの理論で、「常在」(自立存在)なものを設定している事なんです。
これと、「無常」、「空」との整合性を取るのには、かなり苦労しているようです。
もちろん、「輪廻」と「解脱」が両立する必要が無ければ、この論理は無意味です。(本当は、もっと高尚な理論があるのかもしれませんが、さすがにそこまでの理解は出来ていません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ アートマンの永遠性の否定ですが、釈迦牟尼自体は、形而上の問題に
関しては無記ですが、実在(現実存在)としての、肉体と心に関しては、
「無常」として、ここに常在のアートマンを確認できないとしています。
☆ いえ。まさにこの説明内容において アートマンの永遠性は 留保さ
れています。だって 無記としたわけですから 文句は言えません。

アン ‐ アートマンというのは ですから 《無いアートマン》というアー
トマンなんです。

後世のブディストらは アートマン説に戻ったのです。でもさすがにブラ
フマン神やアートマンという名には抵抗があって アミターバ・ブッダや
ブッダ・カーヤ(仏界・仏性)やタターガタ・ガルバ(如来蔵)と言い換
えました。

仏仏一如は 梵我一如と同じなんです。



★ 諸行無常にならって、実在として、そこに常在のアートマンは確認で
きないと言う事のようです。
☆ これは アン‐アートマンという言葉で そのように永遠性の否定と採
ったんだと思います。理論じょう間違ってです。



★ 〔アートマンが〕「恒常」の場合は、永遠に「輪廻」し続ける。(解
脱も無意味となる)
☆ いや それはおかしい。現象として人間である期間があるわけですし
《恒常》と言っても その《無限性(恒常性) - 有限性(無常性)》の
構造を成して現実の人間存在となるはずですから。

★ 「無常」の場合は、いつか滅するので、「輪廻」が成り立たない。
(解脱しなくても、いつかは消滅するか止まる)
☆ 輪廻が成り立たなくても かまわないでしょうね。

あとの議論は みな先ほどの《絶対性 ‐ 相対性》なる構造が現実の存在
のあり方だという理論で《成敗》することができると思います。

★ 「輪廻」と「解脱」が両立する場合は、「恒常」は少なくとも成り立
ってはいけない
★ 問題なのは、大乗仏教においては、本覚とか本仏とかの理論で、「常
在」(自立存在)なものを設定している事なんです。
★ これと、「無常」、「空」との整合性を取るのには、かなり苦労して
いるようです。

お礼日時:2017/10/22 20:36

お礼ありがとうございます。


まさに、この「輪廻」の行為主体としての心の連鎖に関しては、仏教諸派でも論争の元になっていたわけですが、現在は、これ自体も無記で良い事になっているようです。(理由は、前述したとおり、解脱者(阿羅漢など)は、その境地に達した時に、これを問わないと言う結論です)
龍樹(ナーガル・ジュナ)においても、これは「空」であるとして、それを問う事は無いとしています。(つまり、無記で良いと言う事です)
「ミリンダ・パンハ」の問答で、例話的に説明はなされています。(あくまで、例話的であって、概念を説明しているわけではありません)
一応、言語としての説明は、「現象的個体の生が、その業の介入によって、別の現象的個体の生に、改組・回帰される現象(結生)」と言う事になります。(現象としては、これですが、その原因や継承される業がどのような存在かは無記です)
なお、釈迦牟尼は、解脱に至る方法や、そこでどのような感情が起きるかは、かなり詳細に説明しています。(また、その方法が唯一だと言っているわけでは無く、あくまで自分が実践して確認した方法である事を述べています)
一切無記なのは、涅槃の境地だけです。(これだけは、口伝は不可能と言う事なんでしょう)
また、アートマンの永遠性を否定しなければ、「輪廻」があり得ない事も、論理的に説明しています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まさに、この「輪廻」の行為主体としての心の連鎖に関しては、仏教
諸派でも論争の元になっていたわけですが、現在は、これ自体も無記で良
い事になっているようです。
☆ うまい手があるようですね。

★ (理由は、前述したとおり、解脱者(阿羅漢など)は、その境地に達
した時に、これを問わないと言う結論です)
☆ ううーん。でも 問う人びとについては 困りますね。つまり 誰の
心の遍歴でも自分の過去の業とすることができるのなら 勝手に都合のよ
い歴史を自分の前世であるとすることで出来てしまいます。

つまり これでは 理論性が無いにひとしい。

★ 龍樹(ナーガル・ジュナ)においても、これは「空」であるとして、
それを問う事は無いとしています。(つまり、無記で良いと言う事です)
☆ いや。空は空としては現象するわけですから ナーガールジュナに
しては いい加減なことを言っていますね。

★ 「ミリンダ・パンハ」の問答で、例話的に説明はなされています。
(あくまで、例話的であって、概念を説明しているわけではありません)
☆ そうですか。高価な東洋文庫で読んでいるのに おぼえていません。

★ 一応、言語としての説明は、「現象的個体の生が、その業の介入に
よって、別の現象的個体の生に、改組・回帰される現象(結生)」と言
う事になります。(現象としては、これですが、その原因や継承される
業がどのような存在かは無記です)
☆ ということは 《わたし》の生まれ変わりでなくてもよい。誰の心
の連鎖でもよい。ですね。

集団的無意識に似ていますね。(こちらが 真似した?)


★ なお、釈迦牟尼は、解脱に至る方法や、そこでどのような感情が起
きるかは、かなり詳細に説明しています。
☆ そうですかねぇ。やすらぎとか 煩悩が消えているだとか 一般的
で外形的な説明だけではなかったですか?

★ 一切無記なのは、涅槃の境地だけです。(これだけは、口伝は不可
能と言う事なんでしょう)
☆ でも 自分ひとりだけの確証に過ぎないとも。


★ また、アートマンの永遠性を否定しなければ、「輪廻」があり得な
い事も、論理的に説明しています。
☆ これは おかしいです。永遠の絶対性が アートマンなのですから。
アン‐アートマンというのは 名前を変えただけのはずです。

お礼日時:2017/10/22 18:31

補足ですが、「輪廻」の作用主体、「解脱」の意味が、古代インド思想(ヴェーダ)とは、仏教においては違いますが、大乗仏教諸派において、それが継承されているかどうかは、ちょっとわかりません。


本覚思想においては、仏教で否定されている永遠実体としての我(アートマン)なのか、単なる「輪廻」主体としての、心の連鎖なのかが良くわかりません。(上座部仏教及び原始仏教では「輪廻」は否定されていませんが、その主体は我では無く、心(精神機能)の連鎖とされています)
上座部仏教及び原始仏教においては、心(もしくは心的作用)の連鎖なので、「輪廻」は生まれ変わりでは無く、心が生として、連鎖すると言う事になります。
これにより、「無我」とは矛盾しない事になります。
なお、これを物質的な存在と考えるかは、部派仏教内でも論議を生みました。(「説一切有部」は、これにより分離する事になります)
大乗仏教がこれをきちんと継承している場合は、「本覚」は、そのような心の連鎖が最初から存在していると言う事になります。(何故、「本覚」なのに、「輪廻」するかは上座部仏教及び原始仏教からは、理解できません。)
大乗仏教からは、上座部仏教及び原始仏教は、成仏(この場合の仏は、救世主としての仏です)を求めていないので、小乗と言う蔑称を与えました。(大乗仏教の場合は、成仏したのは、あくまで釈迦牟尼だけとの見解で、その他の阿羅漢などは、仏として認めていません)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「輪廻」の作用主体、
★ (上座部仏教及び原始仏教では「輪廻」は否定されていませんが、その
主体は我では無く、心(精神機能)の連鎖とされています)
☆ そうなのかも分かりませんが それでは 意味が取れません。おそらく
輪廻というだけでは話が あいまいでよいとなるのかも知れません。

つまり 《転生・生まれ変わり》が問題だと考えます。

じっさいに:
★ 心(精神機能)の連鎖
☆ という説なのかも知れませんが そんなことを言ったら すべての人は
すべての人とこの心の連鎖を持つと言えてしまいます。ただちに却下されて
よい説ではないでしょうか。



★ 大乗仏教がこれをきちんと継承している場合は、「本覚」は、そのよう
な心の連鎖が最初から存在していると言う事になります。(何故、「本覚」
なのに、「輪廻」するかは上座部仏教及び原始仏教からは、理解できません。)
☆ このあたりのオシヘは 問題にならないと考えます。取るに足りないと
言ってよいはずです。

まさかこの説で 現代人にアピールするとは思えません。(実用的な話にこ
ちらから先になってしまい 申し訳ないですが)。


★ 大乗仏教からは、上座部仏教及び原始仏教は、成仏(この場合の仏は、
救世主としての仏です)を求めていないので、小乗と言う蔑称を与えました。
☆ いづれにしても 《ブッダであること》の中身を明らかにすることが先
決だと考えます。


★ (大乗仏教の場合は、成仏したのは、あくまで釈迦牟尼だけとの見解で、
その他の阿羅漢などは、仏として認めていません)
☆ 勝手な議論ですと言い切ってよいはずです。判定する基準としての定義
が明らかではないのですから。

お礼日時:2017/10/22 15:10

お礼ありがとうございます。


整理すると、まず、上座部仏教又は原始仏教においては、解脱が重視され、出家者は解脱する為に修行していたと言う事です。
仏教の特殊性は、2か所指摘しましたが、もう一つ、サンガ(僧団)を構成した事もあるでしょう。(出家者が集団で行動するのは、当時の宗教観ではあり得ない事だったはずです)
仏教以外の六師外道(これは、仏教側の呼称です)がサンガを構成していたかどうかはわかりません。(思想や教義に同意する出家者は、修行は単独で行っていたはずです)
サンガは、主に托鉢や今でいう坐禅などの修行を集団で行い、釈迦牟尼の指導を受けていたわけです。
なお、サンガは初期は男性しか参加できず、女性はいませんでしたが、アーナンダの進言により、女性のサンガも作られる事になりました。
在家は、托鉢僧に布施を行い、輪廻を続ける事になります。(在家には、業の思想と縁起などの概念が教えられます)
なお、「無常」、「無我」、「苦」、「縁起」などが、仏教としての、特殊用語と言えるでしょう。
上座部仏教及び原始仏教の古代インド思想(ヴェーダ)との違いは、「無常」、「無我」であり、これにより、梵我一如は解脱からは、除外されます。(解脱の定義と言うか、行先が違うと言う事でしょう)
なお、上座部仏教及び、原始仏教においては、形而上学などのギリシャ哲学で言われる第一哲学に関しては、無記(語らないと言う事)です。
何故、無記で良いのかと言えば、解脱により、形而上の世界に行く事は無くなるからです。(つまり、解脱者にとっては、形而上の知識は不要と言う事です)
また、現世に留まりませんから、永遠と言う時間概念も不要です。
在家に関しては、解脱は目指しませんから、古代インド思想(ヴェーダ)のままでかまいません。(これに関しては、無記です)
「輪廻」、「解脱」、「業」などは、すでに古代インド思想(ヴェーダ)などで確立していました。(これらは、釈迦牟尼が作った概念ではありません)
大乗仏教は、龍樹(ナーガールジュナ)などにより、部派仏教から分かれたと言われていますが、上座部及び、原始仏教とは大きく教義が変わっています。(形而上的な存在として、仏を位置づけ、衆生救済、如来蔵などの思想が生まれ、誰でも成仏できるという思想となります)
つまり、大乗仏教では、形而上学を扱っています。(これが、形而上学を無記とした、上座部仏教及び原始仏教との大きな違いです)
何故、形而上学が必要なのかと言えば、成仏する場合に、極楽などの形而上の世界及び、救済者としての菩薩・如来などの仏が永遠性を持つ必要があるからです。
仏教とキリスト教の類似点は、上座部仏教・原始仏教→キリスト教、キリスト教→大乗仏教の2種類が指摘されています。
キリスト教の愛(仏教で言う慈悲)、修道僧などの概念は、上座部仏教・原始仏教の影響があると言われています。
大乗仏教に関しては、阿弥陀如来などが、聖母信仰、キリスト(救済者)と類似しているとの指摘がなされています。
なお、大乗仏教に関しては、ウパニシャッドを一部取り入れたとの説もありますが、本来のブラフマーは人格神ではありません。(ブラフマーは、宇宙原理と言うようなものなので、救済者とかにはなりません)
また、古代インド思想における、神々の道による神の国への転生も、つれていくのは、神のような者であり、ブラフマーではありません。(この神のような者が何かは明示されません)
また、梵天として、人格神化された場合でも、それほど重視されていません。(仏より下におかれています)
ヒンドゥーにおいても、ブラフマーは、シヴァ、ヴィシュナなどの作用神に比べれば、信仰者は少ないようです。(基本的には、ブラフマーは法則なんで、人格化しても、何らかの作用を与えてくれないと言う事なんでしょう)
単純に言えば、本覚と言うのも、アートマン概念の復活と言えますが、ブラフマー・アートマン自体が救済者では無いので、原理としては、やはり違うようです。(あくまで、形式が似ている(永遠性)だけで、思想としては、立脚点が違いますし、ウパニシャッドと一緒だったら、宗教としてある必要がありません)
日本の場合は、古代神道においては、造化三神は存在しますが、造化三神は創造神ではありません。(記述によると、天地開闢後に造化三神が成った事になっています)
つまり、日本においては、天地開闢を行った主体が何だかわからないわけです。(むしろ、原因は存在しないで、何かが突然成ると言うのが、日本の思想と言えるかもしれまれません)
そういう意味で、日本思想には、その根源原因としての主体が存在しません。
日本の神は、成る神と生まれる神(親の神がいます)の二種類が存在しますが、成る神は、突然現れます。(成る神は、自身が根本原因と言う事です)
また、成る神は、突然隠れます。(つまり、その表出においては、永遠性を持ちません)
つまり、元々、日本の思想は、「無常」が当たり前と言う、アニミズム(自然信仰)が主体だと言う事です。
同様に、人間を作った存在も不明です。(雰囲気としては、国産みの時に、自然に他の物と同時に発生したような感じです)
神話は、皇統につながってはいますが、民衆に直結していないと言う、特殊な宗教形式となっています。(国家神道においては、国民は皇統に接続される存在として確立されましたが、中世においては、そのような思想は無いでしょう)
廃仏毀釈以前は、神道と仏教は混淆されていたわけですから、大乗仏教自体は、神道とも親和性は良かったと言う事でしょう。(議論されたのは、仏教輸入の時だけです)
本地垂迹(神道側では、神本仏迹説)などの方便も、上手く機能したと言う事ですね。
なお、天台宗の教義や空海の思想が、伊勢神道に流用されたとの説もあります。
日本には、哲学は無いと言われますが、いわゆる形而上学のようなものは、仏教伝来以降しかありませんし、突然成るものを解明しようと言う思想は元々無かったと言う事です。(無常と言うしか方法は無いと言う事でしょう)
また、仏教哲学にしても、禅は行為そのものが仏道ですから、基本的には方法論そのものは確立されません。
それ以外の仏教諸派にしても、中国経由の仏典理解でしかありません。(もちろん、個々の僧による、解説と言うのは存在しますが、公には、仏典を根拠にしなければいけないので、完全に哲学する事は不可能です)
これは、西洋哲学(ヘーゲルあたりまで)においても、神学と分離したとは言え、公に神を語る事は出来なかったわけです。(神を語りたかったのかもしれませんが、方便として「超越的存在」、「絶対的他者」などの宗教と無関係の方法を取る必要があったわけです)
デカルトなどは、相当警戒して、異端審問にかけられないようにしていたと言う雰囲気はあります。
ニュートンなどは、遠隔力を提唱したので、かなり異端として見なされていました。(上手く回避したとは言えるでしょう)
ガリレオなどは、ほとんど異端で無いのに、完全に嵌められています。
カントなども、巧妙に回避しています。(この場合は、あえて語らなかったと言うべきですが)
現代においては、このような形而上学に対する興味は、哲学者は失っています。(実践哲学や、認識論が主題と言う事でしょう)
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補足です。


上座部仏教では、解脱者は自ら、解脱者とは言わないそうです。(解脱して、無我となっているので、自分を表現する事が出来ないと言う事のようです)
ただし、解脱者は、自分以外の解脱者が解脱している事はわかるので、ある人が解脱者である場合は、解脱者だと説明できるようです。(釈迦牟尼が解脱者が解脱した事を言えるのは、この為との事です)
ただし、大乗仏教の場合は、解脱のみを重視していません。(あくまで、成仏を目指すと言う事です)
大乗の場合は、仏は衆生救済をできる存在と考えていて、単なる解脱者ではありません。(救済の為に、輪廻する仏もあると言う事です)
ここら辺の思想転換は、何故起きたかはわからないですね。
救済を重視したので、大日如来や阿弥陀如来などの、形而上の存在を想定したと言う事でしょうか?
なお、これらの形而上の存在も単なる方便(この場合の方便は、あくまで仮の方法と言う意味です)と考える僧や信者は存在します。(親鸞などは、そのように考えていたと言う説もあります)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 上座部仏教では、解脱者は自ら、解脱者とは言わないそうです。
(解脱して、無我となっているので、自分を表現する事が出来ないと
言う事のようです)
☆ それは 思想とは呼べませんね。独り言です。

隠遁者として 一切社会とのつながりを断てばよいのに。

★ ただし、解脱者は、自分以外の解脱者が解脱している事はわかる
ので、ある人が解脱者である場合は、解脱者だと説明できるようです。
(釈迦牟尼が解脱者が解脱した事を言えるのは、この為との事です)
☆ それは 《解脱者》どうしの国益のために言っていると勘ぐられ
ても仕方ないですね。



★ ただし、大乗仏教の場合は、解脱のみを重視していません。(あ
くまで、成仏を目指すと言う事です)
☆ 同じではないのですか? そんなややこしいことは 御免被りた
いです。


★ 大乗の場合は、仏は衆生救済をできる存在と考えていて、単なる
解脱者ではありません。(救済の為に、輪廻する仏もあると言う事で
す)
☆ これだから 言わんこっちゃないですね。

★ ここら辺の思想転換は、何故起きたかはわからないですね。
☆ もともとペテンだったから。


★ 救済を重視したので、大日如来や阿弥陀如来などの、形而上の存
在を想定したと言う事でしょうか?
☆ それこそ 《本覚》を 一点突破に 打ち出せばよいはずです。

自未得度先度他とも言いました。

★ なお、これらの形而上の存在も単なる方便(この場合の方便は、
あくまで仮の方法と言う意味です)と考える僧や信者は存在します。
(親鸞などは、そのように考えていたと言う説もあります)
☆ たぶんこれは 梵我一如に帰ったのでしょう。

アン‐アートマン(無‐霊我)をブッダターと言い換え 元の(?)
神論と信仰観に戻ったのでしょう。


でも 《本覚》を言うだけでは ゴータマ・マジックの幻影は消え
ませんね。

お礼日時:2017/10/22 05:24

お礼ありがとうございます。


5火説と二道説は、「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」に書かれていますが、その二道は、「祖霊への道(ピトリ・ヤーナ)」、「神々の道(デーヴァ・ヤーナ)」です。
輪廻は、ピトリ・ヤーナで生じますが、実はそれも2つの道に分かれます。
一つは、人間への輪廻、もう一つは畜生への輪廻であり、畜生へ輪廻した場合は、ずっと畜生のままとなります。(畜生の場合は、生・死は即座に生じて、輪廻と言う概念は無いようです)
この概念に関しては、釈迦牟尼も「スッタニ・パータ 519」において、言及しています。
これが、根拠になって、在家でも死後不還果までは、到達できると考えられているようです。(デーヴァ・ヤーナに到達すると言う事です)
なお、不還果は、解脱では無いので、梵天界で阿羅漢にならないと、解脱はしません。(どうも、解脱しなくても、輪廻からは抜けられるみたいですね)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 一つは、人間への輪廻、もう一つは畜生への輪廻であり、畜生へ輪廻
した場合は、ずっと畜生のままとなります。(畜生の場合は、生・死は即
座に生じて、輪廻と言う概念は無いようです)
☆ これは きびしいことを考えたものですね。一度は 人間であったと
いうところが 何とも――特に哲学だとも思いませんが――おやっ と考
えさせられました。

六道輪廻ですらないんですからね。人間の道は絶たれるわけですね。


★ この概念に関しては、釈迦牟尼も「スッタニ・パータ 519」におい
て、言及しています。
▲ (スッタニパータ 519)・・・一切の悪を斥(しりぞ)け 汚れ
なく よく心をしずめ持(たも)って 安立し 輪廻を超えて完全者とな
り こだわることのない人
☆ やっぱし ゴータマの思想は いただけません。《完全者となる》の
なら やっぱり《即身成仏》です。つまりは 《本覚》です。

★ これが、根拠になって、在家でも死後不還果までは、到達できると考
えられているようです。
☆ 徐々に《完全者》に近づくという理論で人は満足するということはな
いですね。まだ 先ほどの《畜生へ輪廻した場合は ずっと畜生のままな
んだよ》というオシヘのほうが 教育的ですね 或る種の考え方では。

お礼日時:2017/10/22 05:12

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