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喜怒哀楽その他諸々、全ての感情が空しく思えます。私は、あるいは私たちは、所詮感情を満たすただの器に過ぎず、暇つぶしのような毎日を過ごしているのではないか…
仏教でいう「一切皆苦」、その通りだと思います。
誰かが「人生は死に向かうベルトコンベヤーだ」みたいなことを言っていたと思いますが、これも言い得て妙だと思います。

こんな快楽に振り回されたり理性でおさえたりなんだするの繰り返しから脱却して、何も無くなってしまいたい、つまり早く死にたいと思うのは間違っていないではないか、と、足りない頭で考えるのです。

生きがいって暇つぶしのことじゃないんですか。死の闇を見ないための目くらましじゃないんですか。

自殺願望があって困ってるとかそういう質問ではありません。むしろそんな願望は当たり前だということです。でも死なれると、死んだ人にとっては「いちぬけぴ」ですが、生きている人は感情があるから悲しんだりなんだりするし、死体は残るし、生きている人たちの日常や秩序を壊す可能性があるから死なないようにするんじゃありませんか。

逆にそうでなくて生きている人はなにをもって生きようとしているんですか?
決して煽ってるわけではなく、本当にわからないのです。

私と価値観を同じくする方も、そうで無い方もできるだけ多くの回答がほしいです。よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    多くの回答ありがとうございます。
    生きるのは楽しいですよ。しかしその感情がただの目くらましなのではないか、とはっと目が覚めるようなときがあるのです。そんなとき死にたいと思うのです。
    生物としての性として生きたいと思っているのか、本当に意味があるから生きているのか自分でも判断できません。恐らく前者で、生まれてしまった、この世に適応する機能を携えて生まれてしまった。死ぬきっかけもなくどうしようもなく生きている…ような。

    私は現在、発達心理学から見れば、青年期の「疾風怒濤の時代」に生き…。この価値観が決して絶対ではないし、ここに書かれていることも最近思いついたばかりなのです。しかも、書きこんで1日で生死に対する見方がかなり変わっています。回答者様にそのきっかけを頂いたとも言えます。
    こんな青二才に構ってくれてありがとうございます。回答者様の一言ひとことが私の人格形成に影響しているのを感じます。

      補足日時:2017/11/05 22:10
  • 回答下さった方々、ありがとうございました。
    改めて自分の文章を読んでみると、本当の感情が動いた一瞬一瞬を捉え損ねていたように思います。感情がみな空虚だなんて、無意識とかいう真に真たる部分を理性的ぶって無視しているに他ならない。陰鬱さばかりが身に染みて駄目です。嬉しいとか楽しいみたいな感情を、どこか皮肉めいて見てしまうところがあるのです。本当にたちが悪い。あまのじゃくをこじらせたのか、自分を不幸と思いこんで自らを慰めるような、自己愛やモラトリアム気質みたいなのが気持ち悪くて仕方がありません、今もなお。これ以上自分の薄気味悪い情動を持ってした質問に回答頂くのは耐えられず、ここで回答を締め切ります。

      補足日時:2017/11/06 17:08

A 回答 (7件)

おいくつでしょうか。

お子さんはいらっしゃいますか?
私は宗教を持たないので、生物学的に聞きかじったこと(もしかしたらデマも含まれているかもしれません)で考えています。

人間に限らず、動物は種の存続のために生まれてきます。
主の存続自体が本当に必要なのか?と言うのは置いておくと、「本能」という言い方ができます。
喜怒哀楽は人間が成長するのに必要であり、成長することは子育てをするために必要です。
子を成し、生まれた子どもをまた次の子を産んで育てることができるだけの人間に育てることが役目であり、そのために生きています。
子どもを産めない身体の人、配偶者を得られない人などは、残念ながらその観点から言えば生きている価値はありません。
しかし、サポートという間接的役割は担うことができ、それが生物として生きている価値になります。
動物で言えば外敵から群れを守るために戦ったり、子育てをしている個体の代わりに餌をとってきたりすることで、
人間だと、働いて納税することや、友人や兄弟の子育てを手伝うことでしょうか。

これらは本能ですので、何も考えない人でも自然にこれを行うようできています。
「生きよう」という強い意志や選択をしなくても、勝手に生きるようになっているのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
高校生です(だからこそ、自分以上に大切なものが無いから、こうして死を受け入れられるのかもしれませんね…)。
本能は、生きる最もの要因だと思えますね。本能があるからこそ人間が人間として形成されているのでしょうし…
私も死んだら生きている人が可哀想とか言いつつ、本能をカバーするもっともらしい根拠を並べているだけなのかもしれません。

つまり人は本能によって生きている。とすれば、「私は本能(という機能)があるから生きているんだ」として生きていくのですよね。勿論これは答えでしょうが、考え続ければ続けるほど、非常に空しくなります。本能を満たし満たし生きている自分達が本当に意味の無い存在なんだなあと感じます。「生きるために生きる」ということですよね。ロボットと何ら変わらない。動く機能を与えられているから動く。それ以外に理由は無いのだと。
(人間の間で愛を求めるのは、誰かにとって、自分が絶対的な必要性を持っていることを証明したいからだと思います。無いものは求めない、つまり自分には「絶対的な必要性」など無いことを、「愛」は物語っています。これも人間など空しい存在だとする一つの根拠です)

色々長く書いてすいません…だからといってどうこうというわけではないんです。本能によって生きていることに間違いありません。その通りだと思います。だから人(動物)は空しくて、だから早く死にたい、と思った次第です。

お礼日時:2017/11/05 01:48

僕も、日本に老後の未来を感じないので、なるべく長生きしたくはないです。



いつ死んでもいいんで。
って感じで、毎日精一杯生きてます。

命の問題に関しては、神様が決めてることだから、逆らって自殺なんてしちゃったら、これから先ずっと人間に生まれ変われなくなるでしょうね。
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この回答へのお礼

いつ死んでもいいと思いつつ生きるのも良いライフハックだと最近思っています。
「早く死にたい」というと否定されることが多いもので…
自殺、はしないように思想統制しているところです
死んだらできれば、この世には二度と生まれたくないですね…
回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/05 01:55

えぇ、まぁ小さな幸せや喜びを見つけ出して、それなりに楽しく生きていこうとしていますよ。


恋をしたり、楽しい趣味に没頭したり、仕事を通じて自らを高めたり・・・と、出来る事はたくさんあります。
暇な時間・・・ぼーっと過ごすか、やりたい事をして過ごすかの違いじゃないですか?人生って。
一生懸命、何かに没頭していれば時が経つのもあっという間。まだ足りない、もっと生きたいって思えてくる。

どーしてもそういう感覚が理解出来ないのであれば、いっそ仏門に下るのもテかも知れませんね。
質問者さんは、なにか僧侶としての素質がありそうに思えました。
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この回答へのお礼

そう思うと、人生はやはり暇つぶしの連続なんですよね。
喜んだり幸せを感じたのも束の間、所詮「生きるために生きる」存在なのだと空しくなるのです。(これはno.1の回答者さんへのお礼に書いた通りです)
人生はそう、永遠に終わらないプチプチみたいなイメージです。膨らんだ空気(欲望)を潰して潰して、潰しきらないで人生終わり…みたいな。
まあそんなものですよね…俗に手を突っ込みつつ、それで悩みつつ、なんだかんだ死に果てるのを待ちます。
仏教の考え方はなかなか共感できるところがあるので、もっと勉強します。ここに色々、人生に関するヒントがあるかもしれません。
夜分に回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/05 02:03

若い人ほど早く死にたいとか長生きしたくないと言うもんです。


人生がまだ短いからそれだけ執着がないんですよ。
いろんな経験を経てつらい思いも楽しい思いもたくさんして、そうなると執着が出てくるものです。
ここまで頑張ったのに簡単に死にたくない、とね。

頑張れずに本当に死んでいった人、病気や事故で不本意に死んでいった人、年を重ねると身近にそうした死を見聞きする機会があります。
そして自分が今無事に生きていられることが決して当たり前ではないことを知らされます。
また恋人や配偶者、子供に恵まれたら、自分の命は自分だけのものではないことを実感します。
もちろんそれ以前に生んで育ててくれた親がいたことも。

事実、私も本気で死を考えた時期がありました。
でも「死にたい」は「生きたい」の裏返し。
生き甲斐は暇つぶしですか。
まあそういう考えも悪くはないでしょう。
だったら出来るだけ良い暇つぶしをしたいじゃないですか。
出来るだけ満足度の高い時間を持ちたいじゃないですか。

人間は自分のために頑張るとすぐに限界を迎える。
だけど人のためには頑張れるんです。
きっとそれは承認欲求の裏返し。
誰しも自分の存在を認めて欲しいという思いがあります。
自己満足でいいのです。自分で自分を認められることが最も大切です。
生きるってそういう事じゃないでしょうか。
そこが動物と人間の違うところ。

生きるのが虚しいから早く死にたいなんて、短絡的な考え方だと思いますね。
人の営みってそんな軽いものじゃないですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
執着があるから生きるのだということですね。
それは勿論、正しいと思います。だからこそ空しいと思うのです。

あなたや、他にも立派な生きがいを持つ方々にとっては、生きた「結果」が執着だった、ということではないでしょうか。生きた結果、執着が増えたから、手放すに手放せなくて、生き続けているということ。生きる結果が執着であると同時に生き続ける「目的」にもなっているのだと。
しかしも私は今、執着する対象がありません。執着があるから生きるのだとすれば、これから先、私は執着する対象を見つけるために生きねばならないということです。「生きるために生き」なければならないのです。
「生きたから生きる」のと「生きるために生きる」のとでは大分違うと思います。前者はなるほど執着の累積があるから早く死にたくはないでしょう。後者の私は、大切なものを見つけたとしても多分、前者のようにそれ自体を生きがいとしていけるのか…答えはまだありません。

勿論、暇つぶしとしての人生、できる限り楽しもうと思っています。まだまだ人生には未知の部分があるようなので。また、それは尽きそうにないです。人生が空しいとしたうえで、空しさを引き受ける覚悟はあります。
そんな中で、守りたいものが、執着できるものが、死への目くらましとして立ちはだかったとき、ふと我に返って死はそんなに怖くないのだと自分に言い聞かせられる言い訳が、たぶん私は欲しいのです。結局は。人一倍死ぬのが嫌なのかもわかりません。

死の肯定が、これから人生にどんな影響を与えてくるか自分自身を見守りたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/05 20:56

一切皆苦・・それを解決するのが仏教です



最初に 何になりたいのか
何でありたいのか 明確に決めよ
そうすれば他は 天より授けられるであろう
16世紀のフランスの文人ラブレー  の言葉です

しかし
授けられた可能性の中から 正しく選択するのは
その人自信の問題です
人生は選択の連続です
進む道を決めるのは自分自身です
其の選択が未来を変えるゆえに
いかに生きるか の価値基準を持つ事が重要になる
人間は 人間性を向上させる 進歩した選択を通して
自分自身を作り上げるのである
ルネ・ディボス  アメリカの細菌学者  の言葉です


生きている意味

世界の90%の人がわからないまま死んでいきます

人生の意味・・・何をするため

悲しいお話をします
ピエール・ガッサンデー(フランスの哲学者 数学者)の言葉を紹介します
「私は何故、生まれてきたの知らない どう生きれば良いのか
知らないで生きた そして何故死ぬのか 分からないまま死んでいく」
と 悲しく言いました
 有名な哲学者と言えども このありさまです


夢や希望があっても無くても
「何のために」 を学ぶ事 最っとも大事です

人生の意味  それが分からなければ
「意味なく生きる」 さみしい人生になります

人類  太古の昔より
哲学者 文学者 詩人 芸術家 宗教家が
哲人 聖人が 一生かけて答えを求めていた
究極の課題   「何のために」 です

詳しく語ると 超長くなるので カットします

透徹した哲学者 詩人 文学者の答えは
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である)
ルソー・・・・(私が語らなければならないのは人間についてである)
カーライル・・・(理想は我々自身の中にある)
等々 世界的な文学者 哲学者 詩人は 口をそろえたように
 (一番大事な答えは貴方の中にある)と言っています

これじゃ 何のことかと思うでしょう

生きている意味・・・結論をいいます
「幸福になるため」です 
 しかし
生と死 を理解できなければ
運命とは 縁とは
又 自分自身の使命が 価値が分からなければ
本当の幸福などありません
そして「何のために」が分からないと
寂しい人生で終わるのです

自分は何処から来て 何処へ行くのか 何のために

ソクラテスの(汝自身を知れ)ですが
詳しくは 哲学の話になりますので
超長くなるので カットします

分かり易く 幸福とは何か
分かり易くご説明します

相対的幸福」と「絶対的幸福」という幸福観を踏まえ、
幸福を聞く力ギとなる具体的な六つの条件を示します。
第1に「充実」、
第2に「深き哲学をもつ」こと、
第3に「信念をもつ」こと、
第4に「朗らか」に生き生きと生きること、
第5に「勇気」、
第6に「包容力」です

 日本の著名な作家の言葉に
「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)
とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである──と。
人生も事実、そのとおりかもしれない。

 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて
、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、
その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。
どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。
愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。
美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。

 いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。
これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。

 結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である
立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。
揺るぎない「絶対的幸福」ではない。

どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、
苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、
仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。

 幸福は“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。
自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
それを前提に申し上げれば、
幸福の第1条件は、「充実」であろう。
「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、
そのように感じられる人は、幸福である。
多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。

幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。
朝、奥さんに叱られ「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と、
ふさぎこんで1日を出発する──これでは不幸である。充実はない。

だれよりも立派に仕事し、生活を勝利しきって、
あまった時間を「人のため」「社会のため」に使っているのは幸福である

“根性曲がり”の人間が多い現在にあって、苦労しながら、
ただ相手の幸福のために、足を運び、語り、心をくだき、面倒をみる
まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。
最高の哲学を実践している事になる
それだけの価値ある哲学をもったということ──
それ自体が幸福である。幸福の第2の条件は、「深き哲学をもつ」ことである。

第3に、「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
これは世界的傾向である。このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。

“日本国の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、
“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫にも紛動されない
何があろうと、厳然と「信念」を貫く そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。

 第4に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
「いつも文句」「いつもグチ」──それでは自分も周囲も不幸である。
いつも前向きに、はつらつと生きている。
人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」
と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。皆にも希望をあたえる。

いつ会っても、つまらなそうな顔をして、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
反対に、奥さんに叱られても、「何か浪花節が聞こえるな」。
子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」
たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、とらえていく。
その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
 
すべてを善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。
現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、
実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。
そういう「人格」を築き上げれば、いかなる財産よりもすばらしい人生の宝になる。
 
第5の条件は、「勇気」である。
勇気のある人は、何でも乗りきっていける。
勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。
 
第6の条件は、「包容力」である。包容力のある人は、皆に安心感をあたえる。
 小さなことで人を責めたり、いちいち騒ぎ立てたり、
そういう心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。

 特にリーダーは、怖がらせてはいけない。疲れさせてはならない。
あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。
大海のごとく広々とした心をもつ人は、自分も幸福である。周囲も幸福である。
 

さて  最後まで読んでくれたかな


一切皆苦・・それを解決するのが仏教です
超 超 長くなるので 又ね








生命の法則
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage17.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「信念」については私も同意です。
自分の美徳を持ち、それに従って生きることほど幸福なことはないと思います。
そのために、一時的、連続的な困難や葛藤に悩まされるでしょうが、美徳のために死んだ人ほど立派な人はいないと思います。ソクラテスは私の尊敬する人物です。
宗教は、(特に個人単位で見れば)幸福になるためにあるのだと思いますが、宗教はまさに美徳を追うものだと。宗教に生きるということは、過去の人物が指し示した信念に沿って生きるということだと思います。
その信念が例え、絶対的な解(あるのかわかりませんが)にとって間違いだったとしても…

幸福は必ずしも生への執着と結びつかない、と私は思います。
死から生を見てみれば、死を堂々と受け入れられる覚悟と美徳こそが、最も優れているのではないか、と私は思っています。これが私の信念です。
実際、命を投げ捨ててでも信念に生きた人々は現代も称賛されていますね。(ここで、称賛されるためにやったことではないというのが重要)
むしろこの世の欲望(愛や夢に形容されがち)は、死へゆったりと向かう美しい流れを阻害するように思えます。ソクラテスだって、もし彼に手放したくない愛や夢があったなら、あんなにも美しい死に方、美徳に生きることはできなかったと思います。
(どうしても美化してしまうところはありますが…)

そういった意味で、執着が芽生える前に早く死にたい、のではないかと思っています。

お礼日時:2017/11/05 21:44

自殺を考える輩は


生きてる価値ゼロ
ですから、
間違っていませんので、
早く確実に実行為て下さい。
必ずですよ。
宜しくお願いします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私が実行した時は、その発言の責任をとってくださいね。

お礼日時:2017/11/05 21:53

死にたいって思ったこと正直何度もあります。


でも今死んでないのだから生きたいって心のそこでは思ってるんですよ。
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この回答へのお礼

心の底では生きたいと思ってる、正しいと思います。
しかし死は免れない、だからこれから年を重ねて生への執着が増す前に早く死にたい、と思うのです。
死ぬのが怖いことの裏返しなんでしょう。自分でもわからないことが多いです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/11/05 21:59

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