牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

日本的キリスト教

ナショナリズムの問題ですよね。
日本とか日本的とか。

日本語を勉強している外国人のほうが
日本人よりもしっかりした文法の日本語を話すとか

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    伊藤博文とか国家神道とか
    神道 しんとう ジンドウ シェンダオ

    保留です。内村鑑三とか無教会主義とか
    北海道なのですね。

      補足日時:2017/11/11 23:48

A 回答 (5件)

「日本的キリスト教」と言う言葉における「日本的」とは、単純に「日本」に土着したと言う意味でしかありません。


戦前においては、土着の意味をナショナリズムと結びつけてしまったので、結果的に国策に追従する形となったので、現代においては、これは日本のキリスト教史の中では、反省として捉えられていると思われます。
現代の日本のキリスト教諸派は、この反省から、日本への土着化は考えていないでしょう。(むしろ、日本に土着化する事を拒否していると言っても良いと思います)
西欧諸国においては、ローマンカトリックは、布教において、布教先の風習・習俗をその中に取り込み、教会を中心に土着化をはたしてきました。(日本における仏教寺院と同じ方法です)
日本において、本質的に土着したキリスト教は、隠れキリシタンぐらいでしょう。(しかし、その秘教性から、完全な土着化はなされていません)
実を言えば、本質的に「日本的」であるのは、日本独自のローカライズの手法である、「改善」なわけです。(決して、いわゆる伝承的な「日本」ではないでしょう)
つまり、日本において、本質的な日本的キリスト教と言うものがあり得るとしたら、その教義や儀式すらも改善される余地が必要となると言う事です。(現在、日本のキリスト教諸派の世界的な地位がどのようになっているかは、わかりませんが、そのような変質は、現代ではありえないでしょう)
日本において、いわゆるキリスト教の教義の本質としての、キリストの贖罪に関しては、原罪の思想が欠如している日本人には、基本的な理解が困難なわけです。
日本には、いまさらキリスト教の宣教師がくる必要はありません。
大航海時代のイエズス会などの宣教師は、布教先の国情や、国民風習に関しては、かなり研究して臨んでいたようです。
そういう意味では、日本に土着化しようと言う意志はあったわけです。
ただ、間違っていたのは、布教先だったんですよ。
信長に布教したのは、正解でした。(ただし、信長は本能寺で死んでしまいます)
信長が天下を取っていれば、上手くいけば、キリスト教が日本に土着できたかもしれません。
ただし、キリスト教徒が勢力を持って信長に反抗したら、すぐに焼き払われたでしょう。
以後明治維新まで、日本へのキリスト教布教は途絶えました。
明治維新後は、いわゆるお雇いさんと呼ばれる、外国人技術者、外国人教師によって、キリスト教布教は行われ、札幌農学校においては、内村鑑三などのクリスチャンを生む事になります。
ただし、日本は、国家神道によって、西欧のキリスト教国家とは別の宗教的土台を構成していきました。(この段階ですでに、キリスト教の土着化はほぼ不可能となりました)
日本的キリスト教は、基本的に教会中心のカトリシズムは不可能との見解から生まれたものです。(習俗としての、キリスト教は不可能ですから、あくまで思想的に土着化するしかありません)
私は、キリスト教徒ではありませんし、戦前の事もわかりません。
歴史的には、日本的キリスト教は、大日本帝国の国策に追従したのは確かでしょう。(国策のキリスト教的解釈により、それに同調したと言う事です)
本質的に世界宗教であれば、ナショナリズムとは無縁のはずですが、キリスト教自体は、ナショナリズムの否定はしていませんから、どのキリスト教国でも、ナショナリズムとは密接に結合しています。(王権神授説などは、その解釈の一つです)
現在は、日本的キリスト教と言う概念はある意味死語ですから、質問文に書かれているような、外国から見た「日本的」と言う概念自体は無いでしょう。(キリスト教で、「日本的」と言う概念を説明する事は無いでしょう)
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そもそも日本的て何?

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日本的キリスト教の日本とか日本的とはどういうことか?


  ↑
日本独自の宗教は神道です。
この神道は、キリスト教などと異なり、教義も経典も
ありません。

先祖や自然に敬意を持てば、立派な信者認定です。
信者であるとの自覚も不要な宗教です。

だから、日本で生まれ育った人間は、ほとんどが
神道の信者になってしまいます。
文科省の調査でも、神道信者は1,1億です。

だから、日本人がキリスト教徒になっても、根は
神道に影響されていますので、神道的になってしまう
のです。

キリスト教徒でありながら、お正月には松飾りにしめ縄、
神社にお参り、753を祝う、墓の前で手を合わせる
等々。

ちなみに、西洋哲学を本当に理解できるためには
キリスト教信者でなければ不可能だと主張する
哲学者もおります。

日本の哲学者に、神との相克に悩み、
発狂する、なんて人はおりません。




ナショナリズムの問題ですよね。
   ↑
ナショナリズムとは、
国家または民族の統一・独立・発展を推し進める
ことを強調する主義・運動を意味します。
だから違うと思います。

神道は自然発生的な宗教で、日本人の
宗教的感情といったモノです。
これに対し、
キリスト教は教祖がいる人工的な宗教です。
そうした違いから発生する現象です。
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キリスト教徒がほとんどの国のキリスト教徒さんよりも、自分に厳しい戒律をつけての熱狂的信者さんが多いです。

私もカトリック信者ですが、とてもじゃないが日本のカトリック信者さんにはついていけません。
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仏教、神道、文化、風習の影響。

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