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日本とイタリアの関係について教えてください!

今、社会で日本と関わりのある国調べをしていて、
私は「イタリア」にしました。

関係について、いくつか教えてくれるとありがたいです。

A 回答 (3件)

第二次世界大戦で、日独伊が枢軸国だった。


イタリアはヨーロッパの大国なのに、スペイン・ポルトガル・英国・オランダと違い日本とほとんど関わり無いよね。
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この回答へのお礼

そうですか!参考になりました
ありがとうございます

お礼日時:2018/02/06 07:34

1:1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として4名の少年を中心とした天正遣欧少年使節が派遣され、ローマ教皇と市民から大歓迎を受けた。


(ローマ市民権を贈られ、その時の肖像画が今でも残っている)
2:1940年(昭和15年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された日独伊三国間条約に基づく日独伊三国の同盟関係。
  第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後複数の枢軸側に与した国や友好国も加盟した。
3:2016年(平成28年)は日本とイタリアが1866年に日伊修好通商条約を締結してから150年目にあたる記念の年。

主な関わりを時系列に書きました。wikiからの転載も含んでいます。いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
わかりやすいです!

お礼日時:2018/02/05 19:20

日本とイタリア人の接触が最初に行われたのは戦国時代であり、主にキリスト教の宣教師を通じてのことであった。

日本で活躍したイタリア人宣教師はイエズス会のグネッキ・ソルディ・オルガンティノやアレッサンドロ・ヴァリニャーノが知られる。1582年(天正10年)には九州の戦国大名が4人の少年使節をローマ教皇の元に派遣した天正遣欧少年使節)。
その後、日本は禁教令を敷いて鎖国にはいるが、1643年(寛永20年)にジュゼッペ・キアラ、1708年(宝永5年)にはジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティといったイタリア人宣教師が密入国し、捕らえられている。
日本が開国し、イタリア統一運動によってイタリア王国が成立すると、日本とイタリアの外交関係は本格的に開始された。1866年8月に日伊修好条約が締結され、1867年3月31日に最初の公使ヴィットリオ・サリエール・デ・ラ・トゥールが着任した。この時期、日本の輸出品の主力の一つが蚕紙であり、総輸出量の4分の3がイタリアに売却されていた。1872年に岩倉使節団がローマを訪問し、国王に拝謁している。その後大きな問題は起こらず、1900年の義和団の乱、1914年の第一次世界大戦をともに戦ったが、相互に重なる利害関係は薄く、関係は濃厚であるとは言えなかった。
ベニート・ムッソリーニのファシスト政権が成立して以降もその傾向は変わらなかった。一方で日本におけるムッソリーニに対する関心は高まり、児童文学・演劇などでムッソリーニを扱うものが多数現れた。しかし1931年の満州事変に際して、イタリアが日本の行動を非難する国際連盟のリットン報告に賛成した後、イタリアは中国大陸に関心を持つようになる。イタリアは中華民国政府に軍事援助を開始し、日本政府の不興を買った。また1940年のオリンピックには東京とともにローマも候補に挙がっていた。ムッソリーニは一時東京に譲歩する意図を発表したが、ローマは再度立候補した。これは日本国内で「イタリーの寝返り」と不評であった。
1935年の第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国がファシスタ・イタリアに敗北し、イタリア東アフリカ帝国が建設された2年後の1937年11月に、ナチス・ドイツと共に締結された日独伊防共協定を記念する日本の絵葉書。日独伊は「仲よし三國」と書かれている。
1934年のワルワル事件によってイタリアによるエチオピア侵略の意図が明らかになると、両国関係は新たな局面を見せ始めた。日本はエチオピア帝国にとって重要な貿易相手であり、イタリア国内にはエチオピアへの日本進出を警戒する動きもあった。1935年7月15日、杉村陽太郎駐伊大使が「日本はエチオピアに政治的関心を持たない」と声明した。日本外務省はこのような指示を出したことはないと釈明したが、この事は日伊間での外交懸案となった。日本国内では頭山満が代表を務め衆議院・貴族院議員も参加した「エチオピア問題懇談会」がイタリア軍撤退を要求するなど、エチオピアに同情する世論が高まった。またイタリア側でも日本の介入を警戒する反日世論が高まった。しかし日本政府は中立・不介入の立場を取り、またイタリアも侵攻(第二次エチオピア戦争)後のイギリス・フランスとの関係悪化により、日本と接近する動きを見せ始めた。
1937年11月、イタリアが日独防共協定に参加(日独伊防共協定)し、後の枢軸国の元となる三国関係が成立した。1938年には白鳥敏夫がイタリア大使になり、日独伊三国の連携を目指して強力に働きかけた。1940年には日独伊三国同盟が成立し、その後第二次世界大戦を戦った。しかし1943年にイタリア王国でムッソリーニが失脚、連合国と休戦すると日本はイタリア王国とは断交し、ムッソリーニのイタリア社会共和国を正統な政権として扱った。イタリア王国は1945年7月14日、日本に対して正式に宣戦布告した。
1951年に交わされた「日本国とイタリアとの間の外交関係の回復に関する交換公文」により、日本国との平和条約の発効日(1952年4月28日)に戦争状態を終結させ、外交関係を再開することが合意された。これに基づいて11月15日には在ローマ在外事務所が開設され、条約発効とともに大使館に昇格した。以降、両国は西側諸国・主要国首脳会議のメンバーとして良好な関係を築いている。
1930年4月から5月にかけてはローマで大規模な日本美術展が開催され、ローマ展として知られている。その後も美術館やヴェネツィア・ビエンナーレなどを通じ、日伊双方の美術・芸術作品の交流は続けられている。
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この回答へのお礼

たくさんありがとうございます!
役に立ちましたー

お礼日時:2018/02/05 19:20

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