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小説家の宮沢賢治は晩年、砕石の職人として働いていたって本当ですか?

小説家で売れなくてお金がなくなって単純労働者になったの?

晩年って何歳から炭鉱みたいな重労働して、小説はもう書いてなかったのでしょうか?

宮沢賢治ってお金持ちじゃなかったの?

A 回答 (3件)

宮沢賢治の年譜


http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/50 …

昭和6年(1931年)35歳
2月:東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受け持つ。

重労働をしてたわけでもなく、その後も小説を書いています。
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1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる。


5月、東磐井郡の陸中松川駅前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。
鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する。
1931年(昭和6年)2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。
父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった。
しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り・販売などで東奔西走する。
農閑期、石灰は売れなくなる。
そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。
翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く。
27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。
政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻って、すぐ病臥生活となる。
11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2 …


9月21日

朝の往診の医師に母が容態を尋ねると、医師は「どうも昨日のようでない」と答えた。
それは危険な状態である ということである。
母は実家の父に電話して熊の胆を届けるように頼んだ。
賢治には祖父にあたる善治が自分で持参して孫に飲ませた。
様子が 落ち着いているようなので祖父は帰った。
午前十一時過ぎに、二階の賢治の病室からりんりんとバリトンで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と唱題の声が 聞こえてきた。
階下の家族は、びっくりして階段を駆け上がった。
賢治は蒲団の上に端座して合掌し、お題目を唱えていた。
これを見て 家族も最悪の場合を思った。
父政次郎は、賢治に声をかけた。
「賢治、今になって、何の迷いもながべな」賢治は、「もう決まっております」 と答えた。
父は、「何か、言い残したいことはないか、書くから、すずり箱を持ってくるように」と云った。
母は、それは賢治に死の宣告をするようなものだと思い「いま急いでそんなことをしなくてもー」と夫を非難するような口調 で呟いた。
父は、はっきりと「いいや、そんなものではない」とはっきり答えた。
巻紙と筆を持った父に、賢治はゆっくりと 静かに花巻弁で語り始めた。
「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。
本の表紙は赤に―。『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。
あなたが仏さまの心に ふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい。」
父は「法華経は自我偈だけかまたは全品か」と聞いた。
賢治は「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えた。
また あとがきは「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意に觸れて、あなたが無上道 に入られんことをお願ひする外ありません。
昭和八年九月二十一日 臨終の日に於いて 宮澤賢治」とし、父は賢治に読み聞かせ 「これでいいか?」と問うた。
賢治は「それで結構です。」と答えた。
「あとはもうないか」と重ねて父が問うた。
そばで聞いて いた母は「あとは、今でなくてもいいでしょう。」と賢治に代わって答えた。
賢治は「あとは、またおきて書きます。」と 答えたが再び起きて書くことは無かった。

息子の臨終に際して、この父の毅然たる態度には、驚嘆せざるを得ない。
確固たる信念が無ければ、こういう行動は取れない と思う。
この父にして、この子ありの感を深くするのである。
続いて父は「たくさん書いてある原稿はどうするつもりか?」と聞いた。
賢治はそれに「あれは、みんな、迷いのあと ですから、よいように処分してください」と答えた。
父は賢治に「おまえのことは、いままで、一遍もほめたことがなかった。 今度だけはほめよう。りっぱだ。」
賢治は生まれて始めて死の直前に父から褒められ、心から嬉しそうに弟清六に「お父さんに、 とうとう、ほめられたもや。」と語った。

父は階下に降り、家族も昼食のため下に降り、傍には母だけが残った。
賢治は母に便器を入れてもらって排尿した。母に礼を 言った。
母は「そんなことはない、それよりも早く良くなっておくれ」と告げた。
賢治は「お母さん、また、すまないども水コ」と言った。
母は吸口にいっぱい入った水を渡した。賢治は、おいしそうに コクコクとのどを鳴らしてそれを呑んだ。
「ああ。いい気持ちだ」と言った。
それから枕元のオキシフルを浸した脱脂綿で手、首、体を拭き、又「ああ、いいきもちだ」と繰返した。
母は病状が落着いた と思い蒲団をなおしながら、
「ゆっくり休んでじゃい」と言って、そっと立って部屋を出ようとして、ふり返って賢治を見ると、 賢治の様子が変わり、すうっと眠りに入るような賢治の呼吸が潮のひくように弱くなり、手にした脱脂綿が手からポロリと落ちた。
母は「憲さん、賢さん」と強く叫びましたが、もう答えは無かった。
その時一時半であった。
従容たる賢治の死は、さながら高僧の死のように、嬉々として、御仏の元に帰っていったようであった。

それにしても、賢治は最後まで、法華経の行者であった。
残された者に「国訳法華経」を届けて、無上道に入ることを 願ったのである。
そして父には全作品を、適当に処分してほしいと述べたことは、賢治の全作品も、法華経と引き替えてもよい ということであろう。
これ程まで法華経に帰依した生涯であったということである。
遺言は実行された。
印刷所は盛岡市の山口活版所、発行者は宮沢清六、昭和9年6月5日の発行で、通し番号を付けられ、 友人知己に配られた。
筆者は、以前から、賢治の散文作品は、法華経の長行(じょうごう)にあたり、詩等は偈(げ)にあたる のではないか、と考えていた。
賢治が原稿について母に言った言葉にもそれは示されている。
賢治は妙法蓮華経の精神を伝える ために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。

(第四章「雨ニモマケズ手帳」から臨終まで)より
『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』田口昭典著(でくのぼう出版 2006年9月) 

http://james.3zoku.com/kojintekina.com/monthly/m …
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この回答へのお礼

みんなありがとう

お礼日時:2018/08/23 17:16

賢治は「いいところの子」ですよ。


私は「炭鉱みたいな重労働した」って話は初耳ですが、賢治は裕福な家庭だったことは知ってるので、その情報が間違いであることはなんとなくわかります。

彼は若い頃から、ヨーロッパ音楽のレコード(今で言うクラシック)や最新のヨーロッパ文学やロシア文学を多く買い、その精神が彼の作品にも強く影響を与えていました。
岩手の片田舎。所謂「いいところの子」じゃないとそういう文化的なことはしようとも思わないでしょうし、金銭的にもかなり裕福じゃないと出来ないでしょう。

賢治は短命だったこともあり、晩年まで創作活動はしていました。
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