意識と認識という言葉の意味には、違いがあると思うのですが、そしてその意味にあった使い分けもされていると思うのですが、これに付いて皆様はどのように考えていますか?
私の場合を云っておきます。
認識とは、すべての生命体に備わる精神の働きの一つ? であると思っています。
微生物が“モノ”に出くわした時に起きる反応、或いは起こす行動がそれです。
意識とは、自身の行動や精神活動が分かるという働きです。もう一人の自分が自分を見る、知る、と云ったような心理のことです。
思索するなんて言葉を使うような頭ではないので、こんな大まかな受け止め方しかしていませんが、いつも気になっているので確認してみたいのです。
知者の皆様のご意見を聞かせて下さい。
宜しくお願い致します。
A 回答 (16件中11~16件)
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No.6
- 回答日時:
認識は 世界を知るということです。
(そうしようという《意志》がはたらいていますし 知るときには
《記憶》という倉庫から情報を取り出して来て いま知ろうとする
対象と照らし合わせます。
認識は 《知解》と言うと思います。
心ないし精神は 記憶と知解と意志との三つのハタラキに分かれま
す)。
意識は すべてのものごとについて心を向けてまづそのモノ・コト
を確認する行為です。
早い話が いまこのように書いているのは 認識し知っていること
を表現することです。
もしその認識の内容や表現やあるいは入力して書いていることやに
心のありかを重ねたなら それは それぞれを意識することになり
ます。
意識は 何についてでも あり得ます。現実の意識であり 現実の
個々のモノ・コトの意識です。
意識を認識するか? あまり そうは言いません。意識するモノ・
コトについてはすでに認識が かかわっているからです。
意識を意識するか? あり得ますが 同じ内容の意識だとなります
から 言いません。
No.4
- 回答日時:
意識するとは、何らかの思考の対象になることではないでしょうか。
自分を意識することあるし、他者や物、観念や思考そのものを意識することもあります。認識とは、そうして意識したものを認める、つまり自覚することが認識ではないでしょうか。
意識のないものに認識はなく、微生物が何かに遭遇してそれを感覚器を通して知覚することはできても、認識はしていないはずです。
知覚してから、意識を通して行動に移るなら認識していると言えますが、意識していないならただ反応しているだけです。
電子機器の場合は、意識の部分を電子的な処理に置き換えて表現しているのでしょう。
センサーが反応しているだけなら、認識しているとは言わないでしょうから。
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頂いた回答を見ながら考えています。
どうやら認識と云う言葉には、単純な触覚的なものから複雑で知的なものまで、範囲?が広いようですね。
人間は、微生物や昆虫、そして動植物などの感覚的で単純な認識に加えて、知的と云えるような事柄を認識するようで、その事は回答から感じます。
また、「認識とは?」と云った最近の質問に寄せられた、キサラギさんの回答にもその事を強く感じます。
こうした意見を見ていると認識と云う言葉は、理解すると云うことと同義のようにも思えてきました。
再考です。
“ナイフ”の方は自分のやっている事が分かっている、理解している、と云う事ですね。
このような言い換えが可能のようです。
主観的とも云えますね。
“殺そう”の方は意志のある事を「知る」と云う事ですね。
そう思えば、表現としては意識がある、と云うのではなくて意志のある事を意識している、としたほうが正確ではないかと思いました。
こちらは客観的ですね。
かわごえさんの回答を通して思いついた「ボケ老人に意識はあるか?」という事に付いて考える事は結構重要なのでは、と今思っています。
もしかするとボケてしまうと、認識さえ怪しくなっているのかもしれません。
今は、意識という心の働きに付いて考えると、生命が危うい時に“意識”のある事を確認するような、肉体的ともいいたくなる意識から、哲学的ともいえるような精神的な意識までと、幅があるようにも思えてきました。
ブラジュロンヌさんの回答も、いつもの事ですが分かりにくいですね。
時間のある時にジックリと“吟味”しようと思います。
そんな訳で、今は埒が明かない気分故に、分厚い哲学辞典を引っ張り出して、これらの項目を引いてみましたが、これがまた、これぞ哲学と云った解説で“辟易”するしかありませんでした。私の頭のせいでしょうが。
もっと、もっと、単純に意識と認識の違いを端的に云う回答が欲しかったのですが、知者の方々でも答えを持っている人はいないようですね。
なぜ、アメーバーレベルでの“物”への反応の事を「認識」と云えないのでしょうか。
なぜ、自身の心を見つめることを「意識」と云えないのでしょうか。
「識」て、なに?
やっぱり、仏教ですか?
さて、最後の感想です。
認識と意識。
認識は直接的であり、意識は間接的であると。
物を直接的に捉える認識に、感覚的認識と理性的認識がある。
間接的な意識と云うのは、認識したものを捉えるから、である。
そのようにして心は、物事を意識することによって、理性と感性を働きだすのだ。
その内訳は、理性は判断を司どり、感性は好悪を受け持つ。
まあ、こんな感じです。
今回はキサラギさんとブラジュロンヌさんが私にとってはベストアンサーでした。
有り難うございました。