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仏教における四苦について質問です。
四苦は確か「生老病死」だったとおもうのですが、なぜ「死」は苦しみに入るのでしょうか?

もともと仏教はバラモン教が元になっていて、バラモン教の考え方は輪廻から解脱しよう、といったものだったと記憶しています。そして仏陀はその解脱するために四苦八苦を受け入れなければならない、と説いているはずです。
しかし、縁起の法を理解し四苦八苦を受け入れ中道を選んでいくと解脱できることになり、それはつまり「死=苦しみ」でなくなる、ということではないでしょうか?

長くわかりにくい文章で申し訳ないのですが、回答いただけるとありがたいです。

A 回答 (7件)

四苦八苦の渦の中にいる者にとっては死は生きた証の財産を喪失し、家族との別れでありこの世からの消滅でありそこにこの世への執着が発現するから「苦」であると定義付けられるのではないでしょうか。

それと、回答からずれて失礼しますが、四苦八苦を受け入れ中道を生きただけで解脱に至ることはない、というより如何なる意識過程を経て人間は解脱するか等私も含め現人類の知り得ない世界だと思います。まあその手の本は書店に行けば山積みで陳列してますけど。
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「生老病死」は、全て生きる事や生きている事に対しての不安を具体的に書き連ねたものと思います。

今の精神療法の症状に例えるなら、死に対する恐怖は『死に対する恐怖症』と云う事になりますがnjougin さんは『死に対する恐怖症』を理解出来無いようですので、少し恐怖症の説明をしたいと思います。

恐怖症は神経症、或はノイローゼの一種です。ノイローゼになってしまう事に付いての理解をするために,ノイローゼになる事の心の裏側を説明したいと思います。

ノイローゼは、一口で言うなら『心の矛盾を症状として感じてしまう』現象の事です。自分の心が自分の心と矛盾や対立や分裂する事です。

この説明をする場合、脳の科学を持ち出すと分かり易いと思いますので、ウイキペデアから人間の脳が動物とは違うという証明を載せておきます。

人間に心(意識=人格)が二つ在る事を証明している文献です。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

この二つの意識が人間がノイローゼになったり、悩みを抱える事になる原因です。動物はノイローゼになったり、悩みを抱える事は事はないと思います。

又赤ん坊や、幼子もノイローゼになったり、悩みを抱える事がありません。この事を聖書では『天国に一番近い存在は幼子』としています。

そうして人間に知恵が付いて『天国から追放される』と言う下りは、脳の機能分化の完成を言っています。つまり思春期頃、『人間の脳の機能は二つになって、お互いに相争い始める』と言う意味になります。

二つになった意識は『お互いに機能の違いから』別々の行動をし始めると言う意味です。此処で動物の脳と同じものを人間も備えている事を説明する必要があります。或は植物にも存在している事も書いておきます。

全ての生きとし生きるものには、『命の働きが在ります』命の働きもその命を働かせている者の存在があるためです。この命を働かせている者を『仏性』とお釈迦様は名前を付けた訳です。

キリスト教では『神』という名前で呼んでいるものです。

全ての生命は生じた瞬間から、命を働かせている者が命を働かせています。その者は桜ならその色や形や、咲く時期なども、或は葉の形でも遺伝子として組み込まれているとしたにしても、すべてその種としての働きを働いている事を意味します。

昆虫でも、動物でもそれぞれの種によってそれぞれの働きを、それぞれ脳内に刷り込まれて生まれています。キリンとして働くライオンが居ない様に、ライオンは学ぶ事が無くともライオンの働きを働いています。

人間も同じです、細胞分裂をする事も、生れ落ちてから泣く事も笑う事も不安と云う事も、恐怖と云う事も『どの人も、誰から習わなくとも』全ての心や身体の働きを脳内に刷り込まれて生まれています。

この命を働かせている働きを司っている者が『仏性』です。是は右脳に存在する意識です。生命活動の全てを取り仕切っている者です。

思春期頃までの人間を働かせている意識ですが、脳の機能分化が完成する頃には、この意識は『無意識の意識』として『心の奥底へ沈み込んで』恰も封印されたかのようになって働き出します。この意識を『普通の場合なら』知る事は出来ませんが、もしこの意識と出会うならそれが『見性』と云う事になります。

つまり悟りが開いた事を意味します。この話は此処までにしておいて、無意識の底に沈み込んだ意識『右脳の意識』をもう少し書いてみます。

『右脳の意識』=『無意識の意識』=『仏性』は、ご承知のように『生まれた訳では在りません』従って滅する事はありません、命として生じた瞬間からもう既に永遠の存在です。

人間の行動も生命活動(身体の生命維持活動)も精神活動も全て『自我意識』と『無意識』の交替制から成り立っています。最近の科学の研究から言うなら人間が『自我意識の状態の場合は一日の内10パーセントまでいっていない』という報告も在ります。

人間の苦しみとは『心の矛盾』を苦しんでいるという意味は、自我意識は『右脳の意識』からの言葉によらない情報を『解読して』言葉に翻訳をして感情として感じているシステムを『異常として感じている』という意味です。

この右脳からの情報を異常な事として、精神科医が処方する薬は脳梁を通じて送られる情報を『感じ難くしたり、感じないようにする』効能で出来ています。

悩みや苦しみという感情は、右脳からの情報を『読み間違えた事を意味します。その証拠は『一切皆苦』の中に在ります。一切皆苦と云う言葉には『意識地獄』と言う響きがあります。つまりノイローゼ、或は精神疾患を意味するからです。

健常者なら『苦が在れば楽がある』或は『明けない夜はない』と考えますが『一切皆苦』には、マイナス思考で堂々めぐりをしていて、何処にも出口がないという考え方に満ちています。

それは現代では、精神疾患や神経症や自律神経失調症の『心的態度』と重なっています。『漠然とした不安や恐怖におののいている』という意味です。その不安の中に閉じ込められて『抜け出せなくなった状態』を意識地獄、或は不のスパイラルから抜け出せない様を『一切皆苦』と表現しています。

この死の恐怖症からの解消方法、或は、他の言い方をするなら『心の矛盾の解消方法』をお釈迦様が発見した下ことになります。

右脳の意識は『言葉を使う事が出来ません』是はスペリー博士の研究成果です。禅問答が言葉の意味をなしていない事に通じています。禅問答が一つでも徹底して解けた時、右脳の意識に出会う事になります。

人間は意識の根底でどちらの意識の出番かを相談して決めています。この交替制が崩れた場合『心に矛盾を抱く事になります』そうして出番を間違う場合『人間の苦しみが始まります』

有限に関しては自我意識の機能で解決します。自我意識は有限しか理解出来ないからです。人間が言葉を持った事によるかも知れません?

そうして自我意識が『永遠に関する事柄を理解しようとしたところで』無理があります、理解する機能が備わっていないからです。

人間の障害とは、人生においての問題を、どちらの脳で処理するのかの判断を誤ってしまう事を言っています。自我意識は左脳の意識ですが、生命活動に関しては『非力です』この非力な事が分かる事を『悟る』と表現しています。

その場合『自我意識にはその機能が無かった事』が分かる事を悟ると表現しています。自分には出来なかった事を認めた場合です。その姿が『我を捨てた状態』です。自分には出来なかった事を認めて、もう一つの意識の傘下で生きるという意味です。

キリスト教では神と和解して、神の僕となって生きることを意味します。

仏教では『自分を苦しめていたものの正体(心に感情が湧き上がるシステム)が分かる事によって、もう二度と自我意識がその者の前になって、自己主張しなくなる』ことを意味します。

いわゆる『生死の問題が解決した』という意味になります。もう少し具体的な書き方をするなら、『死にたくないと苦しんでいた自我意識は、永遠の存在との出会いによって、もう既に自分自身が(肉体は滅びようとも)永遠で出来ている事を知る事になります。

心的な表現方法を取るなら、『意識の根底で(交替制を取っている心の奥で)」交替する刹那の時において、瞬間的であるにも拘らず、二つの意識が出会う瞬間を経験する事を意味します。

この瞬間に思う事は、暗闇で妻だったか、親父だったかに会う、或は見知らぬ他国で妻だったか、親父だったかに会う、と古人は書いています。『今更お前は誰かと聞く必要が無かった』この意味は『本当は誰でもが、毎日何百回も出会っている』ことを意味します。

宗教の根本は「心の矛盾の解消です。」魂の救済とは「自分の頭の中の戦いを終結させるという意味になります」

(身体の
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しかし、縁起の法を理解し四苦八苦を受け入れ中道を選んでいくと解脱できることになり、それはつまり「死=苦しみ」でなくなる、ということではないでしょうか?



○四苦の苦しみ絶ち難く。ですが「「死=苦しみ」でなくなる、ということではないでしょうか?」
「死を恐れなくなる。」が「縁起の法を理解し四苦八苦を受け入れ中道を選んでいくと解脱できる」というのであれれば、四苦の一つである「生まれる苦しみ。」はどう説明されますか。生まれるのも苦しみなのですね。これは「生きる苦しみ」ではないのですね。
釈尊は天才的哲学者ですから、自身で理解できるようにレベルを落として考えると間違ってしまうのですね。
釈尊のおっしゃる、四苦とは、「生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみ。」といっているのですね。この苦しみは80年の全ての人生は苦であるといっていることなのです。
この苦しみを理解するには、別の世界から人の人生を鳥瞰してみる必要があるのですね。
客観的に人の人生をみたとき、「ああ、大変なところに生まれたね、苦労して家庭を持ち、年老いて、病になり死の恐怖に怯えてるね。」というのが四苦の意味ですね。四苦は構成要素の一つ一つに意味があるのではなく4文字に意味があるのですよ。つまり肉体人生そのものをしめしているのです。
このように書けば、質問者さんには釈尊のおっしゃる「解脱」の意味がわかるかもしれませんね。
人の本質は不死なのですね。不死であるからこそ解脱があるのですよ。
参考までに
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>四苦は確か「生老病死」だったとおもうのですが、なぜ「死」は苦しみに入るのでしょうか?



法華経以外では、“死”が苦しみだからです。



>縁起の法を理解し四苦八苦を受け入れ中道を選んでいくと解脱できることになり、それはつまり「死=苦しみ」でなくなる、ということではないでしょうか?

仰る通りです。


■良く質問の文面を読み返し、頭の中を整理したら
良いと思います。もう貴方は、質問の中でしっかりと
した答えを自ら出しているではないですか。
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釈迦の説く「苦」は、現代語の「苦」とは別物であることに注意が必要である。


具体的には、肉体的な苦痛と、精神的な苦痛とがあるが、仏教で説く「苦」とは「思うようにならない苦しみ」という程の意である。

生老病死は思うようにならない、、、。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A6_(%E4%BB%8 …
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仏教に限らず 心理の学問って なんで こんなにその分類面がいい加減なのだろう?と 私は思ってしまう人間です。



マズローの欲求段階説にそしても その階層の分類は なんとも単純すぎます。

でも この仏教での 「生老病死」を 苦とする分類は その典型としか言いようがないと思います。

まるで 卓上の学者が 言葉を遊んでいるかのように思えてしまうのです。

生の中に 深い健康も 喜びも 悲しみもあるわけです。 病気という苦しみもです。 老いも 体は衰えるわけです。  死は病気無にも近づいてくるわけです。

が例えば 老いても 健康な人はいますし、心も生き生きし続けている人もいますし、体が衰えてきてすら老い自体は 味わい深い命にしてゆくことができる人もいます。 そのどこが苦なのでしょう。

病気が 時としてどんなに苦しいものか 。 まるで  無視去れてしまっているかのようにすら思えます。

病気の無い社会を目指す人間性が むしろ何か「ごまかされ」煙にまかれてしまっているかのような分類ではないですか?

「死」にしても まずいろいろです。  ほとんど苦しまずに意識を失ったり 病気でないのに 一気に苦しくてなんだか解らないうちに気を失って気が付いたら気が付かなくなっていた^^とかいう「死」もあるのかもしれません。

しかし 私の子供の頃なんども 重い肺炎で死の床をはいずった体験での 死の世界は 肺胞がほとんどつぶれるという苦しい肺炎の時にすら その苦にまさるともおとらない極限の孤独の苦しみとその恐怖がありました。

もし 解っていたら 一律に 「生老病死」と 図式みたいに言葉を並べることなんてとても出来ないと思います。

四苦八苦を受け入れると 解脱できる?   具体的には何が言いたいのでしょう?


人生を生き抜くためにも 精神的に成長するためにも バランスって 本当に大切です。

そのバランスの ために一つの力となりえるのが「中道」と言う考え方と言うのならわかりますが^^。

こうした文脈に「中道」と言う言葉を入れると それ自体が 卓上での言葉遊びに思えてきてしまいます。


これは 仏教批判ではないです。   仏陀のニルバーナ(涅槃)の世界は おそらく 私たちがどこまで謙虚になってもなりすぎることのないような深い精神世界だと思います。

でもだからこそ その周りに明らかに 当時の道徳の権威化の必要に利用された宗教思想の中の あきらかに人を馬鹿にしたような言葉遊びの部分は見抜いていく必要があると私は思うのです。

》なぜ「死」は苦しみに入るのでしょうか?《

この疑問も 私たち文明人にとっては 大きいはずです。

もし 生が 素朴な子どもたちや 森の中の素朴な人たちのように 毎日が新鮮で楽しい生ではなかったとしたら、  死なない命なんて 逆に苦しみどころか やがれ地獄になります。


病気だっていろいろですが、 ほんとうに苦しい長い病気や さまざまな生活苦の中でも むしろ死は もし それがその苦を開かない死であれば そのほうが楽です。

当たり前の話ですけどね。

どうでしょうか。

この情報化社会に生まれた私たちは もう一度 人類の思想を 最初から点検すべく もっと当たり前の相身たがいの精神を 私たちの健康への当たり前の闘いの中から勝ち取ってみませんか。

仏教もキリスト教も もともとは もっと自然で無心な えらいとかかいいとかではない真心を説いていたはずです。

それが いつしか 巨大な権力組織の学問へとすりかえられてしまいました。

そのへんを どうでしょう、 今 疑問を持たれたのを機会に  お互い 検討していき  今度こそほんとうに 私たちの未来を切り開く思想を もう一度まとめあげていきませんか。

もしかしたら そちらの質問意図とは かなりずれた回答となってしまったかもしれませんが、

私の方からは こんな回答となってしまいます。

せいいっぱい 心をこめて回答しましたが  もし ズレすぎていたら ごめんなさい。


追伸 

イスラム教もバラモン教もよく知りませんが イスラム教の教えに「揺り籠から墓場まで私たち人間の命は勉強」という とても謙虚な教えがあると聞いてます。  単純であたりまえですけど  マホメッドにしても おそらくとても謙虚な人だったのだと思うのです。

キリストにしても 「善いことをする時には右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように」と 善をすすめるキリストでありつつ そこまで無心であることをも求めています。

そんなキリストやモハメッドが そのことの理解やその深さへの謙虚さではなく 自分を信じて 他と争うなんてことを たったの一ナノすら求めたとは とても思えないではないですか?


何かがおかしいですよ。 絶対。   仏教にしても もともとが こんな卓上の言葉のお遊びなんかではないはずだと思えてしまうのです。

もし なにか お心をがいすようなことを書いてしまったとしたら 申し訳ありませんが 、 これはむしろもともとの宗教のすばらしさを信頼し 愛するがゆえの情熱なのです。  どうかご理解いただければと存じます。
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仏陀の理想をどう解釈するのかによると思います。


真理を悟るという解脱なのか、苦しみからの解脱なのか、というものです。
仏陀の理想は明らかに、苦しみからの解脱だったと思われます。
悟りを得ても直ちに涅槃に入らなかったのは、衆生の苦しみを自らのものとして、その解決を図ろうとした事によるものです。

また、悟りを得るためには、諸々の苦を受け入れる、というものではなかったと思います。
諸々の苦を悟ったが故に、その解決としての真理を求めたのだと思います。
その辺の経緯は仏伝に説かれている通りでしょう。

死は苦なり、とは四聖諦の中の苦諦の一つですが
この苦しみをもたらす最大の原因は所有欲です。
死によって、肉体も心も財産も名誉も愛も、全てが失われるという怖れが苦しみをもたらします。
悟りの段階において、諸法無我を学んでも、所有欲や死の苦しみを完全に滅ぼすことは出来ないと思います。
そう易々とは、死への怖れや苦しみは無くなるものではないと思われます。

理智的な成仏や解脱の境地では、死の苦しみの解決には至らないとすれば、どのような解決があるべきかという事になりますが
諸法無我を学んだ先にある、諸法無我の体験にあるものと思われます。
雪山偈の
「生滅の尽き果てて、しじまを楽しみとなす」
という生死を超えた境地を体験して通過すべきものでしょう。
個人的な死の苦しみの解決は、この段階で済むものと思われます。
参考になさってください。
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