餃子を食べるとき、何をつけますか?

思考に言語を使うことのデメリットを挙げて下さい

質問者からの補足コメント

  • 以前のQAに関して。
    英語に対する日本語の優位性を説いて下さいましたが、ちょとつさんのおっしゃる意味についてもう少し考えが進みました。なので、同意する方向に考えが進みました。
    どうかなと思う部分もあります。
    solidな特性を持つエイゴにはある意味日本語より貧しい一面がある。
    向こうから見れば

    ・・・・すみません実はこれは書きかけであり、結論はもしかしたら正反対になるかもしれませんが、
    とにかく満足な返信をするには資源が足りず、コメントせずお蔵入りになるのもどうかと思い、中途でpostします

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/10/11 13:57

A 回答 (8件)

我々が世界を認識しそれに合理的、あるいは論理的に意味づけをする方法には2種類あります。

一つは時系列的論理であり、もう一つは空間的論理です。多くの方が論理的だと考えているのは時系列的な論理です。その典型が言語で表される論理です。すなわち、言葉は時系列として時間の経過とともに順番に出てくる。数学もそうです。AはBを導き、BはCを導き、、、という具合に。そして、そのような時系列で把握されたものだけが思考だと思っている。

ところが、私たちは(動物たちも)もう一つの世界の認識方で世界を捉え、それに従ってそれなりに合理的に思索し合理的に振舞っています。それが空間的論理です。この場合、自分の置かれた環境や状況や事象を瞬時に全体として捉え、物事が収まるべきところに収まっているかどうかで、その全体の整合性を認識します。事実、絵画にも立派な論理があり、思索が表現されているのですが、それは決して、山が木立や東屋を導き、その木立が月を導き、、、というようには把握されず、そてぞれの各点が収まるよころに収まっているかどうかでその合理性の深みを理解しようとします。また、人間も多くの動物も言語以外に、ボディー・ラングエッジでも意思疎通をしていますが、これはどちらかというと空間的論理の把握と言えるでしょう。

その点、音楽にある合理性は時系列としての合理性であり、言語による合理性の把握に親和性があります。ただし、音楽や言語やその一種である数学が時系列的であるとは言っても、決してその流れは一方的だけではありません。我々は、現在目の前にある音や単語ばかりでなく、その音や単語より以前に出た音や単語との関連、すなわち時間相関を思い描きながらその作品を観賞し、また、この先の未来に出てくるであろう音や単語を、過去の時間相関を参考にしながら予測して、ある意味時間を超えた同時発生的な把握でその作品を観賞しています。そしてこの時系列的な相関の距離が長いほど、我々は思考が深まったと考えているようです。

もちろん空間的論理の把握にも、空間における各点をバラバラに捉えているのではなくて、各点の間の空間的相関を認識し、その空間相関の距離が長いほど、その空間的論理の合理性に深みがあると考えているようです。

この時系列的思索と空間的思索の存在は古代から認識されており、例えばそれが仏教における顕教と密教の違いとして認識されております。すなわち、顕教の本質は、この世の真理なるものを文章に顕に書き下すことができる。すなわち、時系列的な論理だけで表現が可能であるという立場です。だから、先人たちの名著をとことん読んで咀嚼すれば、この世の真理が解るようになるという主張です。ところが、密教では、この世の真理なるものには言葉という時系列的な論理では表現しきれないものもある。そして、それを掌握するためには、それを掌握した師の唾を浴び、迫力やオーラを浴びなくてはならないという立場です。さらに密教では曼荼羅を重視しますが、これもこの世界を掌握するには時系列的な言語だけでは不完全で、絵画的空間的論理による認識も必要であるという主張です。私は物理学者ですが、自分の師と巡り会うまでは、物理学も顕教の世界だと思っておりました。しかし、その師の唾を浴びているうちに、物理学の多大な部分が密教の世界であることに気づかされました。

さらに、テレビドラマでもわかるように日本人の数倍もおしゃべりなアメリカ人の意思疎通の内の90%ほどが、言葉でなく、先ほど触れたボディー・ラングエッジによっている、という研究結果が出ているそうです。考えてみればそれは驚くことではありません。実際、人間が言葉を使い出す前の数百万年もの間、人間はボディー・ラングエッジだけで意思疎通をしてきたのですから。例えば、馬も集団生活をしており、馬の間のボディー・ラングエッジが高度に発達しています。私の住むテキサスで小さな牧場を持っているある日本女性がこの馬のボディー・ラングエッジの重要性に気づき、それを人間の母子間に取り入れて、頭でっかちでない自然な子育てに使う運動を起こし、そこで訓練を受けた多くの母親が育っています。

このように、我々が世界を認識するとき時系列的でなく、空間的な掌握法が圧倒的に巨大な領域を占めているのです。ところが、言葉だけで論じられている哲学を学んでいる連中では、時系列的な論理だけが合理的な論理であると誤解して、世界の圧倒的な部分を認識できなくなっているようです。これが思考に言語を使うことの最大の欠点でしょう。この連中はこの巨大な世界を認識できないので、ある意味可哀想な連中です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

さて、すばらしく美味しい料理を食べた後、それにどう返しを入れるか。
時間の縛り。
これは取り急ぎのお礼です。

お礼日時:2018/10/11 09:54

自分にだけしか知らない「隠語や造語」になる。


デメリットとは逆に、自分のメリットになる場合も有る。
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この回答へのお礼

>自分にだけしか知らない「隠語や造語」になる

これには気付かされました
ありがとうございます

お礼日時:2018/10/11 06:12

複雑、抽象的な思考は、言語でないと


無理ですね。

それはともかく、言語で思考する、という
ことは言語の限界に制約される、という
ことです。

この世の総てを言語で表現出来るわけでは
ありません。

また、言語は人間が作ったもので、まだ
不完全です。

そうした制約がある言語で思考するのですから、
思考にも不完全性や限界があることになります。
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この回答へのお礼

自然言語ではなく数学(本来の哲学としての)的に考えても、すでに何かの制約に嵌っているかもしれないのにね。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/10/11 06:11

言葉の範囲に制限される事


たとえば、
AさんとBさんの関係は
友達だけど、親友と言う程の中でも無い、さらに言うと恋人では無いが
Hはする仲、ただセフレでは無い
まぁ信頼はある

この関係を的確に表現出来る
言葉は無い
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この回答へのお礼

そもそも言葉で考える時点で、いろいろ終わってるなーと感じます。(かつての自分)

お礼日時:2018/10/11 06:10

現状では、言語を使わずに思考できる人類を想像できません。



あ、例外がありますね。

言語をあまり使用してる形跡がない未開の地に住む原住民。南米やアフリカの奥地に住む方々ですかね。

そのような方々の思考を想像すると、極めてシンプルな思考回路なのではないかと思われます。

ということは、逆に考えると、「思考に言語を使うことのデメリット」とは、シンプルな思考ができないということでしょうか。あまり、実感は伴いませんが。
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この回答へのお礼

すんごく違うと感じます

お礼日時:2018/10/11 05:39

カラスが首を傾げているのは“思考”しているように見えますけど。


人間でなくても道具を使う生き物はいるし。

言葉に振り回されてしまったら、それはデメリットと云えるでしょう。
こんな状態は、哲学庭の落とし穴に落ちている、と云いたいですね。
言葉に思考が誘導される、なんてこともあるかも知れないし。

また、No.1の非言語知能って、思考のうちには入らないのでしょうか?
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この回答へのお礼

>また、No.1の非言語知能って、思考のうちには入らないのでしょうか?

棋士の先読みとか、スポーツ選手の思考とかは非言語ですよね? きっと

お礼日時:2018/10/11 05:35

思考を全て言語で表す事には限界がある。

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この回答へのお礼

本当にそうですか!?

お礼日時:2018/10/09 12:05

メリットというか、思考は言語でしかできません。



知能の種類に非言語知能(たとえば動作知能)は存在しますが、思考は言語を介さなければ無理です。
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この回答へのお礼

あなたの回答は非常に興味深い!!

お礼日時:2018/10/09 12:03

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