先日おそらく日本最大のブログランキングで、「哲学」カテゴリーで不断の1位を維持しているブログを読んでいて考えたことです。
様々な作家や評論家が、現代を憂いていることに対して、彼とその取り巻きは、
「昔はよかったという手垢のついたテンプレ」
「赤とんぼが飛んでいた原っぱと高層ビルの乱立を比べて世を嘆くという鉄板のテンプレ」
「スマホで遊ぶ子供よりも虫を追いかけていた子供がより自然だったという繰り言」
「彼らはみな年寄りだ。そして現状を批判し過去を懐かしむことがまるで高尚なことのように考えている。何故彼ら年寄りは『現状を肯定する哲学』というものをいつまでも持てないでいるのだろう?彼らの子供のころは川で遊んだり虫を追いかけていたかもしれない。しかし、スマホで遊ぶ子供たちを憂い顔で眺める傲慢さ。今の子供たちにとっては、高層ビル群とスマホこそが生れた時からそこにある「自然」なのだ。」
と年寄りの批評家、作家たちを一刀両断にしていましたが、
「過去を美化することほど簡単なことはない。それはありふれたテンプレであり、考えることをしない者の言葉だ。「現在を肯定」しなければならない。今の子供たちのために」
「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」
と書いていました。
みなさんはどう考えますか?
A 回答 (100件中81~90件)
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No.81
- 回答日時:
ふたたび失礼します。
つまるところ「過去を美化する」のはシーザー(ユリアス カエサル)の格言にある通り「人は自ら信じたいと望むような事を、自ら望んで信じる」(「人は自分が見たいように見る」)人間の本性によるものだと思いますよ。No.82
- 回答日時:
こんにちは、Blueさん。
縁を切られたようですが、もう一度回答させてください。
今日たまたま読んでゐた五木寛之氏の本の中に、参考になりそうな文章がありましたので、一部抜粋します。
___________
現代社会では「思い出」というものを、非常に後ろ向きなものと考える気配があります。
『おもいで酒』という歌謡曲があるように、どこか現実逃避して、むかしを殴家死んでいるイメージがつきまとう。
一般に「思い出」とは、バーのカウンターの片隅で水割りかなにかを傾けながら、「ああ、むかしはよかったなあ」と考えている、そんな情けない感じがあるのですが、本当にそうでしょうか。
人間をつなぐ絆のなかには、明日にむけての「夢」というものがあります。計画も希望もある。現実をいっしょに闘い抜いていかなければならないという、連帯の精神もある。
それと同時に、過去の日々をともに生きてきたという「思い出」というものが、人間をつなぐ絆としてとても大きなものであるということを、あらためて思い返さずにはいられません。
古い骨董品を磨いていると、下から模様がでてきたりして、びっくりすることがあります。それと同じく、漠然と記憶に残っている思い出のシーンをひとつひとつ丹念に思い返してみているうちに、そのときは気がつかなかった思いがけない発見というものが、呪文のように浮かびあがってくることもあるのです。
そしてさらに、その思い出をくり返し磨いていくと、ディテールがはっきりと浮かび上がってくる。これは非常に不思議で、感動的なことです。
「八十歳になったらインドネシアかフィリピンに移住しようか。」
などという、前向きなことをお考えのご夫婦もいらっしゃるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。しかしおそらく、移住先で新しい生活をはじめられても、ふたりでベンチに腰掛けてふっと話す会話というのは、「若いころ、日本でこういうことがあったね」などというものではないでしょうか。
頭のなかにたくさんある思い出の引き出しに、全然手をつけず引っ張りださないでいると、思い出の引き出しが錆びてしまいます。そして、何かを引きだそうとしても動かなくなってしまうでしょう。
そうではなく、常に思い出の引き出しをあけて、思い出をくり返しくり返し咀嚼し、思い出を磨く。そういうなかで思い出がより一層クリアに、くっきりと細部まで蘇ってくるようになるのです。
思い出を語るということは決して後ろ向きの行為ではなく、人間が生きていく上で大事なことです。思い出は個人の歴史であり、人間の歴史でもあるのだと、最近つくづくそう思うようになりました。
五木寛之『人間の関係』より
___________
Blueさんは彼の意見に同意しますか。
わたしの場合、やはりしょっちゅう思い出を引き出しているわけではありません。同窓会の席では思い出の引き出しを全開にしていますが、それは1年か3年か5年に一度の贅沢な時間です。毎日贅沢、というわけにはいかないのです。
PS.
わたしもyy8さんと同じく毎日あなたのブログを覗き、何か書き込まれてゐないかと首を長くして待ってゐました。そろそろペンと便箋と封筒と切手を使ってあなたに手紙を書こうと思ってゐたところでした。もう友だちではないと云はれたことを残念に思ひます。
No.83
- 回答日時:
「やたらと人に弱みをさらけ出す人間のことを私は躊躇なく無礼者と呼びます。
」(三島由紀夫)こんなことをしなくても、あなたは生きてゆけるはずです。
>「人生は最も愚かしいものに賭けるだけの価値がある」-上野英信(ルポライター)
「こんなこと」ってなんですか?
今回のこの質問は、2年前のGrass_Rootsで初めてここを訪れた時から最大の収穫でした。
私は「同じ人物」としてひとところにとどまれる人間ではない。
けれども今回、外部から超大物を連れてきた結果、(わたしが連れてきたわけではないが)これまで霞に包まれていた以前からの常連たちの素顔がハッキリと見えた。そしてそちらにも、私の素顔がハッキリと見えたはずだ。
例えばneutralingさんは、引きこもりを「罪」であり「罰」であると主張する青梗菜の味方であることが分かった。「おいおいそういう子供っぽい言い草はやめてくれよ・・・」そう。わたしは一昨年も、「幼児のまま年老いた憐れな男」と発達障害の当事者&家族のサイトでおそらく「彼」と同世代の女性に指摘された。
それは事実だ。
そして、厳密な事実として、青梗菜を批判するものは一人もいないどころか、猪突氏までが彼のファンになる。
「青梗菜さんに教えられました」と。
ところであなたは何故そう青梗菜を庇う?彼が不当に苛められているから?
まあどうでもいいや・・・
No.85
- 回答日時:
ねこりんさんへ。
登校時間がかぶりましたね。
>「やたらと人に弱みをさらけ出す人間のことを私は躊躇なく無礼者と呼びます。」
:子どもの頃から両親にさう云はれて育ちました。結果わたしは子どものころから長年、今でも人に弱みをさらけ出すのが上手では無く、非常に残念に思つてゐます。
わたしは精神障害者1級ですので、多くの温かい手に支えてもらつて何とか生きてゐます。そのためには蛇口を捻ったやうに、どこにでも、誰に対しても、弱みをさらけ出す必要があります。そうでないと、わたしがわたしとして生きるために必要な援助が受けられないからです。もちろん援助を受けつ放しと云ふわけではなく、援助してもらつた分、こちらもできることを精一杯してゐます。同僚の苦手分野では倍働くやうにしてゐます。この文が書かれた、前後の文脈が分からないのですが、わたしは自分を「無礼者」だとは思はないし、弱さをこそ誇る人を無礼者と思ふこともありません。
まづ、己の弱さを分かり、明らかにし、自分以外の人と共有しておいた方が、自分も相手も無駄に疲れることが無く、人間関係がスムーズに進む上、生産的だと思ふのですが、如何お考へになりますか。
No.86
- 回答日時:
neutralingさんは、現在に無関心にならず、
自分の人生を生きます、って言ってるんだよ。
それがなんで蛆虫の取り巻きになって、
縁を切るとか言っちゃうの?
青梗菜と気が合ったからとか、やめてくれよ、
子供みたいなことを言うなよ。
世の中は蛆虫だらけで外に出られない、って水車の認知があるとして、それは、
例えば、引きこもりの人、なんて括りで一般化できるような認知ではないぞ。
水車は一生、部屋でネットをしていればいいと思うよ。
下賤な蛆虫の対蹠点に、高貴な水車を対置するのは、水車の勝手だわ。
でも、引きこもりの人がみんなそうしていればいいとは思わない。
それにしたって、青梗菜がそう思わないだけで、
水車がどう思うのも自由なんだけど、一般化するのはやめてくれ。
他人の感情を煽る文章ばかりを書いているとね、
上手になるのは他人の感情を煽る技術で、
論理的な構築は下手になる。
なにより、水車は引きこもりの代表ではないぞ。
蛆虫は、蛆虫なりに、恋をして、仕事をして、
家を買って、車を乗り継ぎ、家族が増えて、ってさ、
そんなくだらない話は水車にはどうでもいいだろ?
蛆虫の営為は、水車には関係ないだろ?
同じことだよ。
水車の話は、蛆虫にはくだらないの。
なんであれ、青梗菜が引き受けるような問題でもないし、
どうでもいいの。
関係ないの。
青梗菜は、蛆虫の世界で、蛆虫を生きてきて、
これからもそうするつもりだから、
水車と青梗菜の接点は、1点だけだ。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1812 …
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1813 …
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1814 …
青梗菜が書いた文章に対して、
水車は、直ちに、
質問内容で引用した青梗菜が書いたとされる記述は、
青梗菜の名を騙った自らの主張であり、
青梗菜とは何ら関係がない、
と認めてくれ。
青梗菜は、終始、それだけ。
「昔はよかった」のか、「今のほうがよい」のか、
そんなことを言い合っているのが多数派で、
赤とんぼが飛んでいた原っぱの「自然」と、と高層ビルの乱立する「人工」を、
二項対立させるのが多数派だ。
水車は、多数派であることを嫌い、自らを少数派だと思っているらしいが、
何が多数派で、何が少数派か、そんな時点から、そもそも青梗菜とはかみ合っていない。
「昔はよかった」のか、「今のほうがよい」のか、その比較自体がテンプレの多数派だ。
「自然」か、「人工」か、その比較自体が思考停止のトレースだ。
対立のないところに、対立を作って、対立を愛でているけれど、
遅れて来た子供は、もちろん、そんなことはお構いなしだよ。
大人は、わざわざメタに出なきゃならないのにね。
認めるものは認めて、締め切って、
次は蛆虫に見つからないように、
思う存分、悪口を書けばいいぢゃん!
でもさぁ、そんなのは人生に対する罪であり、
同時に、刑期を一日一日、延ばすんだ。
何を言ってるのか、分からないだろ?
一生、分からなくてもいいよ。
水車は、まだ30年しか引きこもっていない。
人生はまだ続くよ。
No.88
- 回答日時:
公の場で大声を出して詰り合う。
それを良しとする文化があるそうですが、それって日本人の持っている美意識ではないですよね。日本人だったら、黙って斬り捨てる、これが日本の美だ。大塩平八郎の陽明学と言い、石田梅岩の石門心学と言い、言葉でなくて行動による具体的な果実に価値観を置いてきた。事実、日本では職人が大事にされてきた。商人だって、足を使って良い職人を探す努力をしてきた。日本の役人も本来は武士がなり、勉学だけでなく武芸の鍛錬を日夜絶え間なくやって身体で覚え込まされてきた。軍人も武人も理系でかつ体育系の人間です。しかし、今では役人は文系がやるようになってしまった。理系の人間は自分の作り上げてきたことに誇りを持ちますが、文系は何々大学出だとか、何々家の出身だとかに誇りを持っている。文系の武器は可哀想に言葉だけです。詰り合うことしかできないって、物作りもできず、身体を使う訓練もしたことがなく、言葉だけで生きてきた人間の悲哀なのかな。教育って、体育、知育、徳育が揃ってはじめて意味があるんだけれども、きっと、知育だけで人生を送ってきて歪んでしまった人たちの苦しみの叫びなのかしら。
No.90
- 回答日時:
ブラジュローヌさん。
質問者「水車」です。どうしてもログインできませんので、この場限りの新たなアカウントを作らざるを得なくなりました。(締め切りのことなどは運営に相談中です)けれども正に、まさに、ここがハッキリしない限りは退会もできませんし、締め切りもできません。
>○ 青梗菜氏が Takeo 氏のブログから その文章を無断引用した。
☆ ――というところが みんなにははっきりしないままではないだ
ろうか。
Takeoブログより 投稿1月26日。
『わたしが引きこもる理由 〔種村季弘の見た東京〕』
松山巖の書評集『本を読む。』(2018年)に、故・種村季弘の『江戸東京≪奇想≫徘徊記』(2004年)を評した文章がある。
どうもいけない。つい小さいものへ、小さいものへと目が行きがちになる。
種村季弘さんが亡くなってちょうど一年になる。とてつもない物知りで、博覧強記という言葉がぴったりの人だったが、興味の好みは明確で、不思議なもの、いかがわしいもの、弱いもの、そして「小さいもの」であった。
亡くなる半年ほど前に、 『江戸東京≪奇想≫徘徊記』を著した。気の向くまま東京のあちこちを歩きながら、江戸随筆を渉猟し、記憶も重ねて、それぞれの土地に伝わる不思議な物語を解読してゆく。池袋に生まれ、東京だけでも十回は引っ越した種村さんならではの著作だった。ところがかつて住んでいた土地を訪ねはじめると、記述に慨嘆が多くなる。なにしろ記憶にある風景は消え、高層ビル群に変わってしまった場所ばかりだからだ。
だからこそ両国界隈で、覚えていた駄菓子屋がまだ健在で、子供たちが近くで遊んでいると大いに喜ぶ。そして以来、種村さんは「小さいものへと目が行きがちになる」のだ。しかし結局小さなものはなかなか見当たらず「もう成長はいい加減たくさん」と嘆くのである。
さて、現在の状況はさらに凄い。八月の日曜日、私は都市計画を学ぶ若い友人たちと都心を三時間ほど歩き、超高層ビルと巨大ビルの乱立状態を見て回った。これらはなじみの風景を消しただけではない。巨大投資の産物だから百年二百年は醜くとも残る。未来をも喰っているのだ。種村さん、見ないでよかったよ。
『江戸東京≪奇想≫徘徊記』が著されてから、そして種村季弘没して、既に15年の歳月が過ぎた。
「種村さん、見ないでよかったよ」という嘆息は更に重みを増している。
嘗て辺見庸は、1970年代に亡くなった詩人、石原吉郎について、
「彼はスマートフォンも知らず、ひとつのパスワードも持たずに済んだ。それだけでも幸せだった」と述懐した。
「見ないでよかった」「知らずにすんで幸せだった」
残った者が、先に退場したものををうらやむ街(時代)にわたしは住んでる。
石原吉郎の本を捲っていたらこんな言葉を見つけた。
「末世、生者が死者に弔われる。それが末世というものである。」「1972年のメモ」
翻って、死者の側から見てみれば、われわれは、「弔われる」者ではないにせよ、
彼らー死者たちに憐れまれる存在であることは疑いようのないことのようだ ── いや、確かに、弔われるべきは、そして「彼ら」の「弔辞」を聞くべきなのは、「逝きし世」即ち「現代」の「穢土」に生きるわたしたちの方なのかもしれない・・・』
https://pobohpeculi.blogspot.com/2019/01/blog-po …
青梗菜ブログより。 投稿1月28日。
『遅れて来た者たち 1/x』
種村季弘さんが亡くなってちょうど一年になる。
とてつもない物知りで、博覧強記という言葉がぴったりの人だったが、興味の好みは明確で、不思議なもの、いかがわしいもの、弱いもの、そして「小さいもの」であった。
亡くなる半年ほど前に、『江戸東京≪奇想≫徘徊記』を著した。
気の向くまま東京のあちこちを歩きながら、江戸随筆を渉猟し、記憶も重ねて、それぞれの土地に伝わる不思議な物語を解読してゆく。
池袋に生まれ、東京だけでも十回は引っ越した種村さんならではの著作だった。
ところがかつて住んでいた土地を訪ねはじめると、記述に慨嘆が多くなる。
なにしろ記憶にある風景は消え、高層ビル群に変わってしまった場所ばかりだからだ。
だからこそ両国界隈で、覚えていた駄菓子屋がまだ健在で、子供たちが近くで遊んでいると大いに喜ぶ。
そして以来、種村さんは「小さいものへと目が行きがちになる」のだ。
しかし結局小さなものはなかなか見当たらず「もう成長はいい加減たくさん」と嘆くのである。
さて、現在の状況はさらに凄い。
八月の日曜日、私は都市計画を学ぶ若い友人たちと都心を三時間ほど歩き、超高層ビルと巨大ビルの乱立状態を見て回った。
これらはなじみの風景を消しただけではない。
巨大投資の産物だから百年二百年は醜くとも残る。
未来をも喰っているのだ。
種村さん、見ないでよかったよ。
―― 本を読む。―― 松山巖書評集
―― 松山巖 著、2018、西田書店
なるほど、種村さんは、
不思議なもの、いかがわしいもの、
弱いもの、そして小さいものが好きだった。
だからといって、当然に、
公明正大なものが嫌い、
なんて措定はできないけれど、
種村さんは、明瞭なもの、健全なもの、
強いもの、そして大きいものが嫌いだった、
と短絡しておこう。
しかし、とてつもない物知りで、
博覧強記という言葉がぴったりなら、
大きいものだって嫌わないと思う。
>種村さん、見ないでよかったよ。
見ないでよかった、と思うのは松山巖であるが、
種村さんも、きっと、そう思うに違いない。
乱立状態、醜くとも残る、未来を喰う、
松山巖によって選ばれた言葉は、
きっと、種村さんの気持ちにも添うのだろう。
種村さんには、駄菓子屋に限らず、
例えば、ビルの1階に入ったコンビニの近くでも、
子供が遊んでいるだけで喜んでほしかった。
コンビニの近くでも、子供たちは、
小さいものを見つけるんだ。
大人が探しても見つからないものを。
いつの時代でも、子供は、
不思議で、いかがわしくて、
弱くて、そして小さいから。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1812 …
何かこの人物には妙な全能感があるようだ。
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訂正
「「哲学」カテゴリーで不断の1位」×
「「哲学」カテゴリーで不動の1位」○
そのブログを読んで、「彼」が言いたいのは、
「今の子供たちを可哀想だなどと言うな。昔の子供たちの方が貧しくともこころが豊かだったなどというありきたりなテンプレを使うな。スマホやオンラインゲームが今の子供たちの赤とんぼでありカブトムシなのだから」ということかなと感じました。そもそも比較できないものを比較する愚かな老人たち、と。
ところで「テンプレ」って何でしょうか?この言葉を使って批判するのはずいぶん楽そうだなぁと感じました。
すみません。質問の仕方を変えます。
以下の質問にお答えください。
1、彼の主張に賛成する
2、まあ大体賛成する
3、そうは思わない
それぞれ理由を添えてお答えください。
取り急ぎ。
1、お礼返信が遅れて申し訳ありません。PCの頻繁なフリーズにより、満足な書き込みができません。遅れても必ずお礼お返事をするつもりですので、ご容赦ください。
2、この質問で参照したブログの筆者はこの投稿を見ています。その質は問わず、彼は巨大ブログランキングサイトで、圧倒的なPVを誇っています。つまり私の回答は、場合によっては彼のブログ上で、数百数千の目に晒されることが考えられます。
しかしそれ以上に、そもそも「彼ら」(彼と取り巻き)と私の世界観は対極にあります。私は彼らにとっては道理の通じない「泣く子」であり彼らは私にとっては泣く子も黙る哲学ブログの横綱です。
この質問の意図は、反対者と対立することではなく、やはり彼の主張は1位の名に恥じず、多くの人に支持されるものなのか、逆に私の主張=反進歩・反成長は、古びた異端に過ぎないのかという確認のためでもあるのです。
やっと一部の方にお礼ができました。ゆっくり行きます。
私はここで、件のブログの「間違い」乃至「過ち」を糾弾しようなどという気持ちは持ち合わせていません。へんな言い方ですが、「彼の主張の正しさ」は最初からわかっています。私は異端邪説を好みます。彼が哲学ブログの横綱であるのは、それだけ多くの支持者がいるからです。しかし異端邪説を志向するものは、むしろ多数派の支持を、そして自らが多数派であることを嫌います。
私は正しくなくていいのです。というよりも、正しいことを言う必要も感じていないのです。
私は「正しくあること」はできません。私は私であることしかできないし、それ以外を望みません。
すでに軍配は彼に上がっています。それは彼にも承知しておいてもらいたい。そしてそのことを踏まえたうえで、私は繰言をいい、皆さんの考えを聞かせてもらっています。
お礼より続きます。
>歴史を引継ぎ今後も生きる人がそれをするのは、自分や自分の先祖や自分の子孫に対して「責任放棄」をして「逃げた人(勝手に自死した人)」という印象を持ちます。
歴史を引き継ぐ?ふむ。ではその引き継ぐべき「歴史」って、わかりやすくいうとどういうことですか?
多くの「くたばりぞこない」たちが嘆いているのは、後世に伝えるべき歴史も、文化も、また景観も、更に目で見ることのできない情緒情感、美意識が、また端的な歴史的な事実が、ものすごい勢いで埋め立てられ更地にされてしまっていることではないのかと私は思うのです。
「くたばりぞこない」の私たちが正味にくたばったとき、歴史ってじゃあどこに残されていると思いますか?
追伸
PCの具合が悪く、15分の作業を1時間かけてやっています。
捕捉1
今回の質問で、得るところは大きかったと思っています。失ったものは、わたしと、回答者の時間だけ。
第一に、ブログランキング「哲学」カテゴリー不動のNo.1は「伊達ではなかった」ということ。即ち支持されるに足る資質を備えているということが判明したこと。
同時に、「長く精神科医やってるけど、あなたのような患者は診たことがない」と言った現在(おそらく24人目)の主治医が、「あなた(=Takeo)と話が合うのは千人に一人」と断言し、私は、「甘いな」と感じたことが、実証されたこと。
第二に、過去十二年間、ネット上ではあったが、「友だち」であった人との縁がスッパリと切れたこと。つまり「お互いの本性」が判ったという点。
第三に、日ごろの主張のように、神でさえ、わたしを愛することはできないということ。仮に神がヨセフ・メンゲレに対し「赦し」を与え得たとしても。
捕捉2
第四、青梗菜なるものが「引きこもり」を「罪人」と呼び、
外に出ることができないことを、何らかの「罰」であると明言したこと。
喧嘩で負けそうになったとき、あるいは支持者に囲まれて、「自分はどこへ行っても愛される」と何やらうっとりと自己陶酔して居る時、人は迂闊にも最後の言葉を口にする。
「へ。とっとと逃げろ。お前は障害者だ。引きこもりだ!それは罪であり天罰だ!」と。
無論天下無敵の彼を咎める者はおろか眉を顰める者もいないことは端からわかっている。
ただ、「私に対して」この言葉を引き出せたことは大きな収穫であったと思っている。
まあどこまでも思いあがった自己陶酔男にこれ以上何を言っても無駄だろう。
いずれにしても、ほぼ(?)全員が青梗菜支持・・・とはいわぬまでも、批判者はただの一人も現れなかったということ。つまりここは最早私の居場所ではないということ。
切るべき人間は切ったし。
そして一番の収穫は。
『青梗菜は、10年たっても、同じ感想を言うと思うよ。
40年も引きこもっている、というのは、
人生に対する罪であり、
同時に、終身刑という罰だね。』
という差別発言を青梗菜なるナルシストから引き出せたことだ。
これだけで十分。
さようなら。