

先日おそらく日本最大のブログランキングで、「哲学」カテゴリーで不断の1位を維持しているブログを読んでいて考えたことです。
様々な作家や評論家が、現代を憂いていることに対して、彼とその取り巻きは、
「昔はよかったという手垢のついたテンプレ」
「赤とんぼが飛んでいた原っぱと高層ビルの乱立を比べて世を嘆くという鉄板のテンプレ」
「スマホで遊ぶ子供よりも虫を追いかけていた子供がより自然だったという繰り言」
「彼らはみな年寄りだ。そして現状を批判し過去を懐かしむことがまるで高尚なことのように考えている。何故彼ら年寄りは『現状を肯定する哲学』というものをいつまでも持てないでいるのだろう?彼らの子供のころは川で遊んだり虫を追いかけていたかもしれない。しかし、スマホで遊ぶ子供たちを憂い顔で眺める傲慢さ。今の子供たちにとっては、高層ビル群とスマホこそが生れた時からそこにある「自然」なのだ。」
と年寄りの批評家、作家たちを一刀両断にしていましたが、
「過去を美化することほど簡単なことはない。それはありふれたテンプレであり、考えることをしない者の言葉だ。「現在を肯定」しなければならない。今の子供たちのために」
「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」
と書いていました。
みなさんはどう考えますか?
A 回答 (100件中81~90件)
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No.20
- 回答日時:
No.19
- 回答日時:
ciaopolpo2さん、こんにちは。
作者の思うところを述べさせていただきます。
作者はこんな文脈で「テンプレ」という言葉を使いました。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1814 …
「昔はよかった」、
その変奏が、「今どきの若者は」、「今どきの子供は」で、
そして、「言葉の乱れ」も、有史以来、繰り返されてきた、
同じ根っこを持つフレーズだと思うのです。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1813 …
作者は、「鉄板で作られたテンプレ」なんて書いています。
「鉄板の」なんて言葉も、スラングです。
言葉が作られる、あるいは、それに違う意味を持たせる、
それは、新しく世界を切り取ることであり、切り分け直すことであり、
今後も繰り返されていくことでしょう。
No.17
- 回答日時:
私の心を今でも締め付ける本は、折口信夫の”死者の書”です。
古代の価値に惹かれます。ですから、お年寄りたち(私もそのうちの一人です)の過去礼賛が、いかなる心持からくるものか、十分わかるつもりです。私たちは、どんどんと発展する科学技術と、それを取り巻く新しい価値観に取り残されつつあります。しかし,それにあらがおうとする過去礼賛は、センチメントであり、それは、自分の家のクロゼットに入れて、絶対に外に出さないほうがいいんじゃないか、と私は考えます。そのほうがお洒落です。
(つい、愚痴ってしまう気持ちも、判っていて、言わないほうが素敵だと、思っているのです。)
2000年以降に生まれてきた人たちの、一年の流れは、たぶん、私の前半生に匹敵するほどの急流でしょう。SNSの影響もあります、グローバル化の影響もあります。停滞して、ゆらゆらと、日向ぼっこをしていると、取り残されてしまうのです。
私たち夫婦は、時代に取り残されまいという努力を、必死にではなく、ごく自然に、子供たちの助けも得て、続けているように感じます。準・ベジタリアンになり、夫は、マラソン選手になって、走れる場所を探し回っています。私も、チャリティ(日本でいうNPO)活動に時間をとっています。そして、全ての差別をなくすよう、募金にも励んでいます。そうしてゆくことで、社会とよりよくつながることができるからでしょう。
ですから、回答は、2.気持ちはわかるけれど、過去よりも、未来に焦点を合わせて、自分の視点を変えていったほうが、幸せになる可能性が高い。です。
蛇足ですが、テンプレットは、ビジネスの世界では、手紙の原型で、招待状や請求書など、大量に同じ内容の手紙を出す時、いちいち最初からタイプしなくても良いように、名宛人・住所・値段・顧客番号などを空欄にして、保管してある、型です。どうして、テンプレとして、”典型的・古典的・陳腐な例”として使われているのか、こういうのは、本当に、誰が始めたのか、きっちり責任の所在を明らかにしてほしいと思います。
こんばんは。お礼が遅れました。
別にチャオポルポさんの美意識にケチをつけるつもりはありませんが、私は、それが、つまり「黙っている」ということが、「現状肯定」「現実容認(承認)」に直結する、あるいは「既にそれを意味している」という可能性を考えるのです。
じゃあいったい現実の、現在の、今この時の何がいけないのだ?と言われたら。
わたしのブログの読者がメールに書いてきてくれたことをここに彼に無断で引用します。
『彼らは「現状を肯定する哲学」が必要だといいますが、「哲学」が無くなることで、確実に「現状」は肯定され続けていきます。なぜなら、「その現状」が「いかなる現状」であるかが問われなくなるからです。』
わたしは「哲学」とは「目の前の現実に対する批判的思惟である」と学んできた気がします。
現実を、今目の前にあるこの「壁」を、「これは壁であるぞ!」とする哲学とはいったいなんでしょう。
>テンプレとして、”典型的・古典的・陳腐な例”として使われているのか、こういうのは、本当に、誰が始めたのか、きっちり責任の所在を明らかにしてほしいと思います。
少なくとも使っている人は、上記のような意味合いで現在(本来の意味以上に)流通しているという理由と、「陳腐なテンプレ」とレッテルを張ってしまえば言説を矮小化し、それを批判しやすいとの考えからではないでしょうか?
ご回答をありがとうございます。

No.16
- 回答日時:
ブログを読んでみると、「かなり」印象は違いました。
子供は常に大人の作った鋳型に嵌められるものです。
犠牲者であると言えるのは、想像力を豊かに持った人間だけでしょう。
ま、運命ですね。嫌なら抵抗するしかなくて、感傷に浸っていても埒は明かない。
私は抵抗しまくったので、それだけでも結構満足です。
そんなことを思いました。
こんばんは。お礼が遅れました。
実際のブログをご覧になられたようで、その方がこちらも話が通じやすくなります。
>子供は常に大人の作った鋳型に嵌められるものです。
そのように関単に一般化はできないと思いますよ。
少なくない親たちが、子供が、子供のうちから、「彼 / 彼女」という一個の人格であるということを重視しているのだと思います。
欧米の多くの国では、子供のころから、「哲学」を学ばせています。
そこでは「いちばんだいじなのは、あなたが、あなたであること」とまず教えるそうです。
一方日本の「道徳」では「いちばんだいじなのは、皆が守っているルールをあなたも守ること」だと。
どちらが正しいというのではありません。
自分が親なら、どのような教育を受けさせたいか、ということを考えます。
ご回答をありがとうございました。

No.14
- 回答日時:
水車さん、少しこの場をお借りしてお話しすることをおゆるし下さいませ^^
no.12猪突さん
>ところが、完成した公園にはそんな危険な場所が一切ない、全てが安全な場所ばかりだったそうです。年寄りがせっかく提案しても、受け入れられなかった例です。
確かにそれは残念ですね。むしろ子供たちと言うのは、少々の危険は好むものなのに。危険な場所には発見もあります。必要な指導員やガイドになる人材をあてがう事がめんどくさかったのかもしれません。むしろ大人同伴であれば、子ども達だけでは行けないような危険な場所に積極的に連れて行くくらいで丁度良いですね。
私が、訳ありの子供たちを田舎のNPO法人のフリースクールで預かる指導員のボランティアをしていたころ、磯辺のタイドプールで子供たちに遊んでもらったことがあります。タイドプールと言っても200畳くらいの広い水溜まりで、水深も2~3mあったと思います。子どもたちを見守りつつ一緒に遊ぶのですが、自分のこと以上に気をつけましたね。ごつごつとした岩肌、時折大きな波が外から入ってきていたし、海には毒を持つ生き物もいるからです。子ども達が危険に接することは、気をつけることを学ぶ上でも非常に大事です。リスクの規模や質、それに対する自分の力との兼ね合いを測ることも覚えます。本能的なセンスに磨きがかかると思います。成長の途中でその本能を磨く機会を逸すると、後につまらない事で命を落とす可能性がむしろ高くなる。自然や、里山にあるような準自然が子供の成長に良いのは、(赤とんぼ、夕焼けががきれーだなーという事ももちろんあるでしょうが、)自然が無造作に成り立っているのではなく、しかも意外性も備えている、人の言うことを聞かない存在であるという点にあるのかなと思っています。
私も子どもの頃、山(住んでいる街の裏手が山だった)だったり建設現場だったりで、親が見ればぞっとするような遊び方もしていました。もちろん、命がけの遊びをすることが良いことだとは言いません。しかし、そのおかげか知りませんが、無用の恐れは抱かないようになりました。
現代の都市部の子供たちが人工物に取り囲まれていても、その人工物は自然に取り囲まれているのだというところまで子どもたちには知ってもらいたいですね。現代の子供たちは、昔の子供たちよりたくさんの事を学ばなければならないのに、大人が敢て危険を隠すなどして学びの機会を奪うのは、彼らの発達のためには良くないでしょう。むしろ危険のある事を教えなければならないのですから。
きさらぎさん、猪突さん。写真家の藤原新也さんが、数年前の新聞のインタビューに答えてこんなことを言っています。
「デジタルというのは、0と1の組み合わせだから、拡大していくと、その中間の揺らぎみたいなものがすっこ抜けてるのね。CDは耳に聞こえない超音波がカットされる、明瞭だけど、実はその聞こえない音が人間に癒しなど様々な効果を与えている。
自然にはそういう音とか、視覚効果が常にあるわけ。今から僕らは、デジタル世界に入らざるを得ないんだが、それをいかにアナログに変換してゆくかが、僕のモラリティーみたいなとこがある。揺らぎの中には嫌なものもたくさんあるわけで、それをうっとうしがる感性が増えてくる可能性があるから。」
【自然に「報酬系」と「罰系」の二つのシステムが併存する不思議を考える。】
「子供のころ、秋の山に行くと、美味しい柿もあれば渋柿もあり、おいしいキノコがあれば毒キノコもある。
栗を拾うとトゲに刺される。遊ぶ中で、脳がそういうことを自ずから学習している。それがただ快楽をむさぼるだけじゃなく、抑止力として働くんじゃないか。それもひとつの揺らぎだと思うんだな。」
【が、都市社会は「罰系」のシステムを排除していく。】
「快楽原則を優先させる都市社会で育った子は、その意味で非常にバランスが崩れている可能性がある。
「罰システム」を人工的に作る英知がまだないとすれば、自然の持っている構造、モラリティーは、まだ捨てるわけにはいかない。人間そのものだって、頭と体の両方を持つこと自体、大きな揺らぎを抱えてるんだからね」
以上、いわんとすることにはほぼ同感ですが、「罰系」システムを人工的に作り出す、という発想には到底なじめません。
酸(す)いと甘いを包摂した自然のなかにあってこそ、薔薇という、「茨」と「美しい花」の一体化した「造化の妙」が存在し得るのだと思います。薔薇のトゲを刺して血を流すのは「罰」ではないはずです。
スティーブン・キングはある小説の中で、予知能力を持つ男性に対して、医者にこう言わせています。
「君の持つ超能力は極度に進化した人間の持つものではない。それは、古代人が当たり前に持っていたものだ」
と。
みなさんとの対話はどうぞご自由になさって下さい。
No.13
- 回答日時:
「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」
と書いていました。
って、んなこと書いてねえよ♪
cyototuさん、ごもっともです。
こちらと同じ趣旨でしょうか。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1813 …
No.12
- 回答日時:
キサラギXさん
>で本題で私が思うのは、昔は里山の身近な自然に親しむ事がかけがえのない子供の遊びだった、今の子供たちにもそう言う体験をさせてあげよう!と言って行動するお年寄りはどれ位いるだろうか?と言うことです。
こんな例があるんですよ。もう10年ほど前に、何十年ぶりかで高校のクラブの先輩にあったときの話です。その方は既に引退なさっており、東京の西部の山間にある市の相談役をやっていました。その市では、渓流を整備して家族が行楽で遊べる公園を作る計画があった。そこで、彼は子供達に存分遊べるように作るのはもちろん賛成だが、その一角に深い淵と速瀬も作っておいて、渓流は楽しいばかりでなく、危険な場所もあるのだと言うことを教えてあげられるような場所も必要だと提案した。ところが、完成した公園にはそんな危険な場所が一切ない、全てが安全な場所ばかりだったそうです。年寄りがせっかく提案しても、受け入れられなかった例です。
ま、これなどは質問の趣旨から離れて、役人の事なかれ主義の典型的な例なんでしょうが、年寄りの知恵を提案しても相手にされなかった例として印象に残ったので紹介しました。
こんばんは、猪突さん。
ご指摘の事実のように、行政が後押しするとこういうことになるという典型的な例のようです。
その先輩たちの世代は、木に登ったりしたのでしょう、細い枝もあれば折れかかっている枝もある、梢まで登れば、落ちる確率も高くなる。それでもその「スリル」をたのしむのが「子供の遊び」じゃないでしょうか?
何もかもが監視され、安全を保証されている遊びのなにがおもしろいのでしょうか?
昔の子供たちが、月見団子を盗むのも、お賽銭を盗むのも、見つかってこっぴどく怒られるのと紙一重のところでの高揚です。
今の子供たちは「背徳の歓び」を知っているのでしょうか?
ご回答をありがとういございます。
No.11
- 回答日時:
インドの人は歴史を残さなかった。
どうせ転生するので。インドのお年寄りはたぶんむかしはよかったなーと言わないだろう。古いほうがいいのは、おさけ、楽器、建築。新しいほうがいいのは、情報、下着(例外あり)、おさしみ。もともと良くて後で良いんだなーってことになる古典。これから良くなるのはotter hangout『戯れ言』こんばんは。お礼が遅れました。
>古いほうがいいのは、おさけ、楽器、建築。・・・同感です。
>新しいほうがいいのは、情報、下着(例外あり)、おさしみ。
情報が「ニュース」と同じ意味でつかわれているのなら、わたしはTVも視ないし、新聞も読まない、ネットでニュースを見ることもないので、そもそも古くても新しくても変わらない、という感じでしょうか。
以下の2つはこれも同感(笑)
ご回答をありがとうございました。
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訂正
「「哲学」カテゴリーで不断の1位」×
「「哲学」カテゴリーで不動の1位」○
そのブログを読んで、「彼」が言いたいのは、
「今の子供たちを可哀想だなどと言うな。昔の子供たちの方が貧しくともこころが豊かだったなどというありきたりなテンプレを使うな。スマホやオンラインゲームが今の子供たちの赤とんぼでありカブトムシなのだから」ということかなと感じました。そもそも比較できないものを比較する愚かな老人たち、と。
ところで「テンプレ」って何でしょうか?この言葉を使って批判するのはずいぶん楽そうだなぁと感じました。
すみません。質問の仕方を変えます。
以下の質問にお答えください。
1、彼の主張に賛成する
2、まあ大体賛成する
3、そうは思わない
それぞれ理由を添えてお答えください。
取り急ぎ。
1、お礼返信が遅れて申し訳ありません。PCの頻繁なフリーズにより、満足な書き込みができません。遅れても必ずお礼お返事をするつもりですので、ご容赦ください。
2、この質問で参照したブログの筆者はこの投稿を見ています。その質は問わず、彼は巨大ブログランキングサイトで、圧倒的なPVを誇っています。つまり私の回答は、場合によっては彼のブログ上で、数百数千の目に晒されることが考えられます。
しかしそれ以上に、そもそも「彼ら」(彼と取り巻き)と私の世界観は対極にあります。私は彼らにとっては道理の通じない「泣く子」であり彼らは私にとっては泣く子も黙る哲学ブログの横綱です。
この質問の意図は、反対者と対立することではなく、やはり彼の主張は1位の名に恥じず、多くの人に支持されるものなのか、逆に私の主張=反進歩・反成長は、古びた異端に過ぎないのかという確認のためでもあるのです。
やっと一部の方にお礼ができました。ゆっくり行きます。
私はここで、件のブログの「間違い」乃至「過ち」を糾弾しようなどという気持ちは持ち合わせていません。へんな言い方ですが、「彼の主張の正しさ」は最初からわかっています。私は異端邪説を好みます。彼が哲学ブログの横綱であるのは、それだけ多くの支持者がいるからです。しかし異端邪説を志向するものは、むしろ多数派の支持を、そして自らが多数派であることを嫌います。
私は正しくなくていいのです。というよりも、正しいことを言う必要も感じていないのです。
私は「正しくあること」はできません。私は私であることしかできないし、それ以外を望みません。
すでに軍配は彼に上がっています。それは彼にも承知しておいてもらいたい。そしてそのことを踏まえたうえで、私は繰言をいい、皆さんの考えを聞かせてもらっています。
お礼より続きます。
>歴史を引継ぎ今後も生きる人がそれをするのは、自分や自分の先祖や自分の子孫に対して「責任放棄」をして「逃げた人(勝手に自死した人)」という印象を持ちます。
歴史を引き継ぐ?ふむ。ではその引き継ぐべき「歴史」って、わかりやすくいうとどういうことですか?
多くの「くたばりぞこない」たちが嘆いているのは、後世に伝えるべき歴史も、文化も、また景観も、更に目で見ることのできない情緒情感、美意識が、また端的な歴史的な事実が、ものすごい勢いで埋め立てられ更地にされてしまっていることではないのかと私は思うのです。
「くたばりぞこない」の私たちが正味にくたばったとき、歴史ってじゃあどこに残されていると思いますか?
追伸
PCの具合が悪く、15分の作業を1時間かけてやっています。
捕捉1
今回の質問で、得るところは大きかったと思っています。失ったものは、わたしと、回答者の時間だけ。
第一に、ブログランキング「哲学」カテゴリー不動のNo.1は「伊達ではなかった」ということ。即ち支持されるに足る資質を備えているということが判明したこと。
同時に、「長く精神科医やってるけど、あなたのような患者は診たことがない」と言った現在(おそらく24人目)の主治医が、「あなた(=Takeo)と話が合うのは千人に一人」と断言し、私は、「甘いな」と感じたことが、実証されたこと。
第二に、過去十二年間、ネット上ではあったが、「友だち」であった人との縁がスッパリと切れたこと。つまり「お互いの本性」が判ったという点。
第三に、日ごろの主張のように、神でさえ、わたしを愛することはできないということ。仮に神がヨセフ・メンゲレに対し「赦し」を与え得たとしても。
捕捉2
第四、青梗菜なるものが「引きこもり」を「罪人」と呼び、
外に出ることができないことを、何らかの「罰」であると明言したこと。
喧嘩で負けそうになったとき、あるいは支持者に囲まれて、「自分はどこへ行っても愛される」と何やらうっとりと自己陶酔して居る時、人は迂闊にも最後の言葉を口にする。
「へ。とっとと逃げろ。お前は障害者だ。引きこもりだ!それは罪であり天罰だ!」と。
無論天下無敵の彼を咎める者はおろか眉を顰める者もいないことは端からわかっている。
ただ、「私に対して」この言葉を引き出せたことは大きな収穫であったと思っている。
まあどこまでも思いあがった自己陶酔男にこれ以上何を言っても無駄だろう。
いずれにしても、ほぼ(?)全員が青梗菜支持・・・とはいわぬまでも、批判者はただの一人も現れなかったということ。つまりここは最早私の居場所ではないということ。
切るべき人間は切ったし。
そして一番の収穫は。
『青梗菜は、10年たっても、同じ感想を言うと思うよ。
40年も引きこもっている、というのは、
人生に対する罪であり、
同時に、終身刑という罰だね。』
という差別発言を青梗菜なるナルシストから引き出せたことだ。
これだけで十分。
さようなら。