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先日おそらく日本最大のブログランキングで、「哲学」カテゴリーで不断の1位を維持しているブログを読んでいて考えたことです。

様々な作家や評論家が、現代を憂いていることに対して、彼とその取り巻きは、

「昔はよかったという手垢のついたテンプレ」

「赤とんぼが飛んでいた原っぱと高層ビルの乱立を比べて世を嘆くという鉄板のテンプレ」

「スマホで遊ぶ子供よりも虫を追いかけていた子供がより自然だったという繰り言」

「彼らはみな年寄りだ。そして現状を批判し過去を懐かしむことがまるで高尚なことのように考えている。何故彼ら年寄りは『現状を肯定する哲学』というものをいつまでも持てないでいるのだろう?彼らの子供のころは川で遊んだり虫を追いかけていたかもしれない。しかし、スマホで遊ぶ子供たちを憂い顔で眺める傲慢さ。今の子供たちにとっては、高層ビル群とスマホこそが生れた時からそこにある「自然」なのだ。」

と年寄りの批評家、作家たちを一刀両断にしていましたが、

「過去を美化することほど簡単なことはない。それはありふれたテンプレであり、考えることをしない者の言葉だ。「現在を肯定」しなければならない。今の子供たちのために」

「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」

と書いていました。

みなさんはどう考えますか?

質問者からの補足コメント

  • 訂正

    「「哲学」カテゴリーで不断の1位」×
    「「哲学」カテゴリーで不動の1位」○

    そのブログを読んで、「彼」が言いたいのは、
    「今の子供たちを可哀想だなどと言うな。昔の子供たちの方が貧しくともこころが豊かだったなどというありきたりなテンプレを使うな。スマホやオンラインゲームが今の子供たちの赤とんぼでありカブトムシなのだから」ということかなと感じました。そもそも比較できないものを比較する愚かな老人たち、と。


    ところで「テンプレ」って何でしょうか?この言葉を使って批判するのはずいぶん楽そうだなぁと感じました。

      補足日時:2019/01/31 04:20
  • すみません。質問の仕方を変えます。

    以下の質問にお答えください。

    1、彼の主張に賛成する

    2、まあ大体賛成する

    3、そうは思わない

    それぞれ理由を添えてお答えください。

      補足日時:2019/01/31 05:29
  • 取り急ぎ。

    1、お礼返信が遅れて申し訳ありません。PCの頻繁なフリーズにより、満足な書き込みができません。遅れても必ずお礼お返事をするつもりですので、ご容赦ください。

    2、この質問で参照したブログの筆者はこの投稿を見ています。その質は問わず、彼は巨大ブログランキングサイトで、圧倒的なPVを誇っています。つまり私の回答は、場合によっては彼のブログ上で、数百数千の目に晒されることが考えられます。
    しかしそれ以上に、そもそも「彼ら」(彼と取り巻き)と私の世界観は対極にあります。私は彼らにとっては道理の通じない「泣く子」であり彼らは私にとっては泣く子も黙る哲学ブログの横綱です。

    この質問の意図は、反対者と対立することではなく、やはり彼の主張は1位の名に恥じず、多くの人に支持されるものなのか、逆に私の主張=反進歩・反成長は、古びた異端に過ぎないのかという確認のためでもあるのです。

      補足日時:2019/02/02 06:19
  • やっと一部の方にお礼ができました。ゆっくり行きます。

    私はここで、件のブログの「間違い」乃至「過ち」を糾弾しようなどという気持ちは持ち合わせていません。へんな言い方ですが、「彼の主張の正しさ」は最初からわかっています。私は異端邪説を好みます。彼が哲学ブログの横綱であるのは、それだけ多くの支持者がいるからです。しかし異端邪説を志向するものは、むしろ多数派の支持を、そして自らが多数派であることを嫌います。

    私は正しくなくていいのです。というよりも、正しいことを言う必要も感じていないのです。
    私は「正しくあること」はできません。私は私であることしかできないし、それ以外を望みません。

    すでに軍配は彼に上がっています。それは彼にも承知しておいてもらいたい。そしてそのことを踏まえたうえで、私は繰言をいい、皆さんの考えを聞かせてもらっています。

      補足日時:2019/02/03 06:18
  • お礼より続きます。

    >歴史を引継ぎ今後も生きる人がそれをするのは、自分や自分の先祖や自分の子孫に対して「責任放棄」をして「逃げた人(勝手に自死した人)」という印象を持ちます。

    歴史を引き継ぐ?ふむ。ではその引き継ぐべき「歴史」って、わかりやすくいうとどういうことですか?
    多くの「くたばりぞこない」たちが嘆いているのは、後世に伝えるべき歴史も、文化も、また景観も、更に目で見ることのできない情緒情感、美意識が、また端的な歴史的な事実が、ものすごい勢いで埋め立てられ更地にされてしまっていることではないのかと私は思うのです。
    「くたばりぞこない」の私たちが正味にくたばったとき、歴史ってじゃあどこに残されていると思いますか?


    追伸

    PCの具合が悪く、15分の作業を1時間かけてやっています。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/04 04:16
  • 捕捉1

    今回の質問で、得るところは大きかったと思っています。失ったものは、わたしと、回答者の時間だけ。

    第一に、ブログランキング「哲学」カテゴリー不動のNo.1は「伊達ではなかった」ということ。即ち支持されるに足る資質を備えているということが判明したこと。
    同時に、「長く精神科医やってるけど、あなたのような患者は診たことがない」と言った現在(おそらく24人目)の主治医が、「あなた(=Takeo)と話が合うのは千人に一人」と断言し、私は、「甘いな」と感じたことが、実証されたこと。


    第二に、過去十二年間、ネット上ではあったが、「友だち」であった人との縁がスッパリと切れたこと。つまり「お互いの本性」が判ったという点。


    第三に、日ごろの主張のように、神でさえ、わたしを愛することはできないということ。仮に神がヨセフ・メンゲレに対し「赦し」を与え得たとしても。

      補足日時:2019/02/12 04:10
  • 捕捉2

    第四、青梗菜なるものが「引きこもり」を「罪人」と呼び、

    外に出ることができないことを、何らかの「罰」であると明言したこと。

    喧嘩で負けそうになったとき、あるいは支持者に囲まれて、「自分はどこへ行っても愛される」と何やらうっとりと自己陶酔して居る時、人は迂闊にも最後の言葉を口にする。

    「へ。とっとと逃げろ。お前は障害者だ。引きこもりだ!それは罪であり天罰だ!」と。

    無論天下無敵の彼を咎める者はおろか眉を顰める者もいないことは端からわかっている。

    ただ、「私に対して」この言葉を引き出せたことは大きな収穫であったと思っている。

      補足日時:2019/02/12 04:23
  • まあどこまでも思いあがった自己陶酔男にこれ以上何を言っても無駄だろう。

    いずれにしても、ほぼ(?)全員が青梗菜支持・・・とはいわぬまでも、批判者はただの一人も現れなかったということ。つまりここは最早私の居場所ではないということ。

    切るべき人間は切ったし。

    そして一番の収穫は。

    『青梗菜は、10年たっても、同じ感想を言うと思うよ。

    40年も引きこもっている、というのは、
    人生に対する罪であり、
    同時に、終身刑という罰だね。』

    という差別発言を青梗菜なるナルシストから引き出せたことだ。

    これだけで十分。

    さようなら。

      補足日時:2019/02/13 02:33

A 回答 (100件中91~100件)

http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1814 …

Takeoさんの解釈よりも、
批判にさらされているブログを読みに行ったほうが早いよね♪
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この回答へのお礼

ご尤も。

ついでに

http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1812 …  (2019年01月28日 )



https://pobohpeculi.blogspot.com/2019/01/blog-po … (2019年1月26日)

これもね。

お礼日時:2019/02/03 04:54

ブロガーっつたって、ユーチュバーと同じで、金を稼ぐためにやっている人も多いでしょう。


月100万以上稼ぐ人がいるらしい。

稼ぐためには、「受けのいい話題」が良いわけです。

ちょっと申し訳ないけれど、レベルが…

言いたいことはたくさんあるけど、これでやめときます。
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この回答へのお礼

お礼が前後しますが。。。

いえ、それほど単純な話でもないのです。
彼は少なくとも、自己主張と、銭儲けを混同してはいません。

>「受けのいい話題」が良いわけです。

彼らはいいます。「今を批判することは楽だし、受けるからね。安倍ノミクスが悪いといってりゃ、そりゃ受けるから・・・」と。

お礼が遅くなりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 04:51

こんにちは、Blueさん。



とり急ぎこの曲を贈ります。





___________



>「昔はよかった」は、所詮年寄りの繰り言か?
:いえ、それはむしろ15歳や18歳や22歳の若者たちが云う言葉なのではないかと思ひます。責任が増え、社会の流れに自分をフィットさせ続ける必要がありそうだ、ということを覚えなくてはならないことに困惑する年代です。

>過去を美化することほど簡単なことはない。
:はい、同意します。確かに過去は美しいけれど、それだけではお腹が空きますから。

>「現在を肯定」しなければならない。今の子供たちのために
:少なくとも現在に「興味」「関心」「好奇心」は持ってゐたほうが良いのでせうね。わたしの為にも、わたしの子どものためにもわたしの孫の為にも。

>今この時を生きるすべての人間への侮辱である
:侮辱されたとは思ひませんが、歴史を引継ぎ今後も生きる人がそれをするのは、自分や自分の先祖や自分の子孫に対して「責任放棄」をして「逃げた人(勝手に自死した人)」という印象を持ちます。


___________


回答。

>1、彼の主張に賛成する
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

お礼が大変遅れました。

「昔はよかった」は必ずしも年寄り連の専売特許ではないということですね。
では「現代の若者たち」は、もしも可能なら、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」の時代に、ゲームも、スマホも、インターネットすらない時代に戻りたいと思うでしょうか?(私は戻れるなら戻りたいですけどね)
スマホもLINEも手放せないけど、今の時代のきつさは何とかしてほしい・・・では、スマホもLINEも高速通信もポイントカードもアマゾンも、現代の「生き辛さ」とはまったく無関係だと彼らは考えているのでしょうか?

時代の光は必ずまた時代の影を投じます。「昔はよかった」イコール「昔はいやなことなんてなかった」の意味ではないと思っています。ただ、それぞれの時代の陰翳のあり方、光の差し方、影の落ち方が異なるということです。
今の私は、井戸や薪の時代に戻ってもいいと思っています。

>過去を美化することほど簡単なことはない。
:はい、同意します。確かに過去は美しいけれど、それだけではお腹が空きますから。

彼らは「今・現在」を美化していませんか?だとしたら、それは同じ穴の狢ではありませんか?
それとも、「美化などしていないし、する必要もない。ただ目の前の「現実」に寄り添うことがまっとうなことである」と言っているのでしょうか?

>:少なくとも現在に「興味」「関心」「好奇心」は持ってゐたほうが良いのでせうね。わたしの為にも、わたしの子どものためにもわたしの孫の為にも。

なぜでしょうか?

彼らのロジックで私が読み取ったのは、「来るもの・在る物は拒まず」というスタンスであるということです。「無関心」では何か都合が悪いですか?

補足に続きます。

お礼日時:2019/02/04 04:01

私の聞く限りでは、少なくとも先の戦争の経験者が、「昔は悲惨だった、今は何してても楽しい」と言うのをよく耳にします。


おそらく、今挙げられている年寄りと言うのは、戦後生まれであり、時代の流れで見れば若い時代の人々という事になるのではないでしょうか。
時代というのは一様ではありません。戦乱の時代もあれば、文明の異様に発達する急速な進歩の時代、或いは巨大文明が衰退する黄昏の時代などあると思います。
その時代の別によって、世代間の認識の違いと言うのもまた種類が生じるのではないでしょうか。

或いはその時代時代において、昨今の若者は・・・などと言った感慨を漏らすのは、どの様な社会的立場に立つ人々であろうかと考えると、そこには一定の分布がある様に見えます。エジプトの路地だったか便所だったかの壁に、近頃の若者は・・・と言うボヤキが残されていると言うのは有名な話です。

で本題で私が思うのは、昔は里山の身近な自然に親しむ事がかけがえのない子供の遊びだった、今の子供たちにもそう言う体験をさせてあげよう!と言って行動するお年寄りはどれ位いるだろうか?と言うことです。

また、これから、人造物がまるで初めからそこにあった自然物かの様に振る舞う時代は一層加速して、人々はその環境に適応する事が求められます。任天堂スイッチやスマホ、通信、漫画、アニメ、+昔からあった様なその他子供じみた遊び(ままごとや鬼ごっこ、ボール遊びなど)で遊ぶ現代の子供達は、その練習をしている。という事になるとも思っています。

そして私の親父などは、お前らはいい時代に育ったとよく言います。飢えも知らず、娯楽に事欠かない。勉強も好きなだけでき労働に駆り出される事なく、病気も少ない。今は昔よりいい時代だと。これはそうなのだろうと思いますが、昔を経験していない私がこの言葉を実感することは出来ません。

現代、文明の急速に進歩する時代には、様々なギャップが生じると思います。生産労働のスピードは益々上がり、都市は日夜に活動し、人々はその急がしい社会に巻き込まれて、旧来人間が持っていたリズムで生活する事は難しくなっている。その現代人が郷愁に駆られ、昔は良かった、と言うのは無理のない事だとも思います。
私も、グレートジャーニーの頃に憧れたりしています^_^

人間らしい、と言うところの定義の変わる時代にあって、昔の定義(自然との協調関係)から、現代生まれつつある定義(世界の創造者)へと移行するのに、そのギャップを埋める考えや生き方を、今の若者は無意識に創造して行くであろうと言うのが、私の見るところです。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。

注意しなければならないことは、私の発言であれ、キサラギXさんの発言であれ、「・・・とはそういうもの」と、一般化してしまうことです。

>私の聞く限りでは、少なくとも先の戦争の経験者が、「昔は悲惨だった、今は何してても楽しい」と言うのをよく耳にします。

>1944年生まれの辺見庸の父は、戦争から帰ってきてからはまるで廃人のようだったと書いています。

同じく敗戦の一月前に生まれた松山巌も、口をそろえて、私たちが望んだのは、私たちが見たかったのはこんな日本じゃなかった。と。

じゃあ、「こんな日本」にしてしまったのは、辺見や松山でしょうか?

誰でしょうか?


>昔は里山の身近な自然に親しむ事がかけがえのない子供の遊びだった、今の子供たちにもそう言う体験をさせてあげよう!と言って行動するお年寄りはどれ位いるだろうか?と言うことです。

なるほど、それはいいですね。しかしそれは現実には一個人のよくできることではなく、また行政のお仕着せは却って見当違いの方向へいく場合が多いので、地域の住人たちが子供たちを自然に親しませる
ような活動を積極的に行ってもらいたいですね。

>また、これから、人造物がまるで初めからそこにあった自然物かの様に振る舞う時代は一層加速して、人々はその環境に適応する事が求められます。

つまり、これはいかようにも動かしようのない『現実』『リアル』であって、それゆえ如何なる科学文明批評批判とやらも、所詮は「空論」すなわち「虚論」でしかありえない。そしてそれは、もはや戯言の領域なのだ。ということでしょうか。

>人間らしい、と言うところの定義の変わる時代にあって

これは彼らと同意見でしょうか?

時代は変わる、否応なく変化する、そして「ニンゲンはそれに合わせて」変わらなければならない。
と彼(の取り巻き)は言います。

「ニンゲンらしい」という概念が時代の移り変わりに伴って変化するものなら、それはとりもなおさず「ニンゲン」の概念が変わるということ。

>そのギャップを埋める考えや生き方を、今の若者は無意識に創造して行くであろうと言うのが、私の見るところです。

う~ん。今の若者にそのような変革のエネルギーがあると思われているのですね。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 05:27

孫引きして、彼の考えに賛成ですか、反対ですか、などと「中立を装う左翼メディア」みたいなアンケートするんじゃなくて、孫引きするのは致し方ないとしても、彼の意見に対する自分の考えを堂々と述べて、それに対する批判を仰ぐ方が哲学のカテの質問としてよっぽど立派だと思うのでござる。

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この回答へのお礼

お礼が遅れました。

白状しますが、そもそもここで私が問うた契機は、「彼が」私が自分のブログに投稿した現代社会批判を、正に孫引きしたことかに端を発しています。

>松山巖の書評集『本を読む。』(2018年)に、故・種村季弘の『江戸東京≪奇想≫徘徊記』(2004年)を評した文章がある。

これが私の1月26日のブログの冒頭です。

私は、種村ー松山の言葉を受けて、彼らの意見に同調する旨を記しました。

彼は、その投稿から、松山巌の言葉のみを取り出し、私と正反対の主張を展開しました。
それが上記です。

私は、他人の記事を参照し、それに批判を加えて自己の考えを述べるのはいいが、そういう場合、
参照もとの記事のリンクを貼るのが礼儀ではないかと。
彼は、申し訳ないが、私は水車さんの言葉を、びた一文使ってはいない。
私が批判しているのは、松山巌の書いたことについてだ。と。

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 04:42

「今を否定し過去を美化することは単に子供たちのみならず、今この時を生きるすべての人間への侮辱である」


この主張に賛成します。

なぜなら「過去を賛美しても、今のあなたは進化したいろいろなものを甘受している」からです。

過去を振り返る人の最大の問題点は「良かったことは思い出として懐かしむけど、その当時の良くなかったいろいろなことは忘れている」ということです。

野山で駆け回った少年時代を持つ人たちは、同時に「蚊帳をつらないと寝られないほどのやぶ蚊」とか「燃料に使う薪を野山で拾う肉体労働」というようなことをすっかり忘れているのです。

個人の思い出として「懐かしむ」のは否定しませんが、その価値観のまま現在の様々なものを否定するのは「侮辱」と言っていいでしょう。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。

>なぜなら「過去を賛美しても、今のあなたは進化したいろいろなものを甘受している」

そうでしょうか?

私は彼と対立するほどの人間です。50代ですが心は老人です。
私は携帯電話を持ちません。私はTVを持ちません。もちろん一切の携帯端末を嫌う者です。

昨年、クリニックに間に合いそうにない。そこで「すみませんが5分ほど遅れそうなんです」ということを伝えようとして、結局公衆電話を見つけるまで15分近くかかりました。

非常に不便です。

>「蚊帳をつらないと寝られないほどのやぶ蚊」とか「燃料に使う薪を野山で拾う肉体労働」

確か蚊帳は夏の季語ですね。

「寝ていても うちわの動く 母心」

「朝顔に 釣瓶とられて もらい水」

「斧入れて 香に驚くや 冬木立」


『失われて初めて気づくことがある。東京から失われたものの本質は情緒だと気が付き、自分はその失われた情緒に憧れるのだ。』

これは1月27日付け東京新聞の「私の東京物語」という連載コラムの冒頭にその週の執筆者であった細野晴臣が綴った一節です。

>今のあなたは進化したいろいろなものを甘受している

今の私たちが、いろいろなものを失った、という視点はやはり年寄りの戯言でしょうか?

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 04:28

私は、若者たちに40歳前にヘロドトスの『歴史』を読め、と言っています。

そこには今の若者たちの考え付くようなことが2500年前にみんな書いてあるからだ。ところが昔と今がほとんど何も変わっていないなんて、まともな人なら40歳になると、他人から教わらなくても誰でも自然に気がつくものだ。ところが不思議なことに、40歳になる前後になるまでは、そのことにほとんどの人は気がつかない。したがって、この本は40歳前も読まなくちゃ、その真髄のところが楽しめない。だから、40前の連中には、昔と今はほとんど何も変わっていないってことを教えてあげなくちゃね。

ここで紹介された、年寄りが「昔はよかった」なんて言い出すこと自体が昔から変わっていないことを今更言いつのるこの哲学者って、今まで何を考えてきたんでしょうか。そんなことを年寄りが言い出すなんて昔からよく知られていることですから。だから何なんだって言うんでしょうか。人間てそんなもんだと分かるようになるのが、哲学をやることの重要な意味の一つなんじゃないかな。

一方、私は年寄りには、上と反対に、「今は昔と比べてどんどん変わって進歩してるんだよ」と言っています。40を超えた人は皆一様に、昔も今も本質的にな何も変わっていないって言い出すんですよね。だから、40を越えると見えなくなってしまうものがある。それって、自分の人生を豊かにする機会を逃してしまいかねませんね。だから、年寄りには、今は昔と比べてどんどん変わっていることを教えてあげなくちゃね。

教育の役割って、放っておけば誰でも気がつくことを教えることじゃないんですよ。教えてあげないと一生気がつかないようなことを教えてあげるのが教育なんですよ。

あと、テンプレなどと言う、そのうち誰も使わなくなってしまう流行り言葉を使うとことに、「今だけに生き、今が大切」と言うような、どんな下等な動物にでもやっているようなことを言いつのり、人間がどこからきてどこに行くのかを見据える長時的視点の欠如した底の浅さを感じてしまうのは、私だけでしょうか。時間的にも空間的にも長距離相関を認識できる、これは、人間だけができる能力なんですけど。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。

私は、何を読んだとか、誰に教わったということなく、昔からニンゲンて変わらないと思っています。
もし「ニンゲンの本質」が、時代や、社会の形態によって、まったく違うものに変わってしまうなら、
きょうび誰も、400年前に書かれたシェイクスピアに心を動かされたり、さらに遡って、ラファエロやレンブラントの絵画の前に釘付けになることはないでしょう。セネカや、マルクス.アウレリウスの言葉だって今に息づいています。

しかしcyototuさんのご回答を読んでいると、なにかこのブログの著者と、相通じるものを感じてしまうのはなぜでしょう?

>「今は昔と比べてどんどん変わって進歩してるんだよ」

これこそが正に、「彼ら」が言いたいことではなかったでしょうか?
今は今、昔じゃないんだから。だから、進歩を、変化を肯定しよう。いや。時代の変化を認めるしかないんだ。
種村季弘とか言う老人みたいに「もうこれ以上の成長はたくさん。。。」なんていってちゃ駄目なんだ!と。
だって今はIT機器と高層ビルの時代なんだから、その「現実」から目を背けて、現在、今この時この時代を否定するのは単なる懐古趣味。年寄りの郷愁に過ぎないんだよ。と。

いかがですか。

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 04:10

ピントがずれているように感じました。



要は、今の子供たちは自然と親しんでいない、
人工的環境の中に隔離されている、という
ことではないですか。

それが果たして子供たちにとって良いこと
なのか、ひいては社会、日本にとってどうなのか。

こういうことが重要であって、テンプレがどうの
とか、年寄りの、なんてのは関係ない
んじゃないですか。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりです。

けれども質問文中で皆さんに問うたように、「彼ら」は、(これは質問者の勝手な推測ですとお断りしておきますが)
木に登ってカブトムシをとったり、川で魚をフナを釣ったりすることが、なぜ、スマホのオンラインゲームより豊かだったといえるのか、それこそが、自分の体験してきたことこそが「人間らしさ」という「根拠のない繰言」、すなわち「昔はよかったというテンプレ」につながってゆくのではないでしょうか?

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 03:47

ざっくりと。


年寄り意外に昔はないということが一つ。
昔より、今の方がいいという意見もよく聞かれますが、スルーされているのが一つ。
現状に満足できない人間が将来に希望を持てない場合、心の逃げ場は過去にしかないのでというのが一つ。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。

>年寄り意外に昔はないということが一つ。

確かに現実の体験としての「過去」は、お年寄りしか持ちません。
けれども、文学作品や映画、写真、その他で、「知識」として、昔の生活、昔の人々の感情、心のあり方(機微)を知り、その上で、今と昔を比較することは不可能ではないはずです。

「へえ、今に比べて、小津の映画に出てくる日本風のインテリアって随分洒落てるな」
とか、
「谷内六郎の絵のようなあったかい生活が現実にあったんだなあ。。。」とか。

>昔より、今の方がいいという意見もよく聞かれますが、スルーされているのが一つ。

そう思われますか?つまり実際は現在派と過去派は拮抗していると?

ただ人口の比率として、年寄りが多いので、現在を肯定する若者の声がかき消されているのだと。

なるほど。

ご意見をどうもありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 03:37

>みなさんはどう考えますか?


いつの世でも出てくる言葉に思えますね

>私の知ってるテンプレはテンプレートを短くした言葉ののように思います
定形的な図を書くときに使います 例:IT関連では、HDDの絵とか印刷物の絵の素がプラスチックに絵のパターンとして形作られて、書くときは描く型を鉛筆でなぞれば絵が描ける代物です
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。パソコンの調子が悪く、少しづつのお返事になります。

>いつの世でも出てくる言葉に思えますね

「昔はよかった」ですね。

「昔はよかった」は本当に「年寄りの専売特許」なのでしょうか?

逆に言えば、若者は「今っていいなあ」と日々。。。とはいわずとも折りに触れて感じて生きているのでしょうか?

テンプレートの説明をありがとうございます。

ただこの質問文中に使われているテンプレなる言葉は、お答えのような技術用語として使われているわけではないようですね。

どういう文脈で使われる言葉なのかを知りたかったのです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/02/03 03:23
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