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日常生活の会話における過大解釈、拡大解釈の例で何か思いつきますか?

A 回答 (3件)

実際に 受け手が過大解釈しているか、拡大解釈しているかは、結構疑問です。



通常は、表現法、修辞表現として受け手は理解しているのだと思います。
「こんなすてきな贈り物をいただいて最高に幸せ」「本当にお前はバカだなぁ」「勉強なんて大嫌い。学校なんてなくなればイイ」「可愛いお嬢さんですね」「○○はスポーツ万能だな」「現在まれな好青年」「信仰心の篤い人でした」「こんな暑い日はないね」「無法地帯」「極悪非道」「善人」「お人好し」「弱虫」「猛者」「惜しい人をなくしました」
日常会話ではないですが、独り言「嗚呼 極楽」「もう死んでしまいたい」「こんな恥辱はない」、誓いのことば「幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ります」も、それを修辞的表現、誇大表現、感情表現ととらえれば、拡大解釈はされません。

当人が自身について次のように表現したり思ったりしていても、それは事実を表してはいないので、これも拡大解釈とか過大解釈と言うよりは、修辞的表現、誇大表現、感情表現とも言うべきものもたくさんあります。
「ネガティブな気持ちばかりになっていて」「酒が止められないの」「ケーキならいくらでも食べられる」「恥ずかしがりだから」「こんな人生って生きていても意味ないわ」「私なんて生きてない方が良いんだ」「俺って天才かな」「信仰に生きています」「健康第一に考えてます」「お金がなくなったらおしまいだから」「○○だったら誰にも負けない」「永久保証の私だから」

宗教関連のカテゴリーで日常会話となると、
例えば、宗祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物を「○○聖人」と呼びます。この聖人(しょうにん)を、「徳の高い僧、知恵が広く慈悲心の深い人」と思いこんでしまうようだと、過大解釈や拡大解釈になってしまいます。ただの慣例的尊称表現と理解しないとなりません。 多くの人、多くの信者さんも慣例的尊称表現あるいは尊重、帰依の気持ちの表現として使っていると思います。
カトリックで、尊者・福者・聖人という場合でも、多くの人は尊称として理解していますが、中には、字から想起して過大解釈や拡大解釈する人がいないわけではないでしょう。

大統領が……するなんて、首相が……するなんて、弁護士が……するなんて、お隣さんが……するなんて、夫が……するなんて、娘が……するなんて、○○が負けるなんて、××が初戦で敗退するなんて、などの、驚き/あきれ/反発を表す副詞「なんて」をつける表現をしている場合には、《主題に取り上げている範囲では主体は◇◇である》という極端な過大解釈や拡大解釈を普段心の中に仕込んでいるので、事実報道などを得て、自分の確信がもしかしたら過大解釈/拡大解釈だったのかもという気分に襲われたことの現れとも考えられます。

心の理論などで「"誤"信念」と言われるのは、それが事実に即さないことなので"誤"とされるのですけれども、人は信念を認識のベースに据えているので、自分の抱く信念には有効限定があるということに思いを馳せることがない状態だと、結果として、誰でも、過大解釈/拡大解/普遍化/恒常化/公理化して扱います。
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あ、書き落としましたが、会話の中い「じゃないですか」とわざわざ否定形の言葉を挟むのも、自分の発言の自信のなさを露骨に表現して、その解釈を相手に丸投げるする、拡大解釈の典型的な例ではないでしょうか。



最近では、コンビニやレストランの注文などでは「よろしかったでしょうか」って、ことさら仮定法過去で相手に責任をなすりつける表現も、拡大解釈の典型的な例ではないでしょうか。
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会話の中に、「本当に」「みたいな」「感じ」言う言葉を挟むのは、すべて拡大解釈です。

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